被写体は、きみひとり



 階段を降りて、キッチンへ向かう。なんとなく、いつもと違う空気を感じていた。翠の様子が、どこか変だ。そう思って、見つめると、すぐに目を逸らされる。


 そして、手が、微かに震えているのが見えた。


「……どうしたんだろう」


 不安を胸に、グラスを二つ手に取る。麦茶を注いで部屋へ戻ると、翠は机に向かったまま、ノートをじっと見つめていた。


 でも、その視線は字を追っていなくて、ただ紙の上で止まっているだけだった。そっと机にグラスを置くと、翠の肩がぴくりと揺れた。その反応が、あまりに過敏で、思わず息を呑む。


「翠……?」


 声をかけると、少し間をおいて顔が上がった。でもまたすぐに目を逸らして、翠が小さく答えた。


「……なに」


(怒ってる? いや……違う。なんか、疲れてる……? いや、それも違う……)


 言いようのない違和感に、ぐるぐる思考が回る。様子を窺うように、翠の顔を覗き込んだ。


 ーーその瞬間、目が合った。


 その瞳は、どこか熱を帯びていて。普段の翠とは違った。深くて、鋭くて、獣みたいな、そんな瞳だった。


(……なんか、ドキッとした)


 理由なんて分からない。でも、気になって仕方がなくて。ちょっとだけ、冗談のつもりで、翠の肩にそっと手を添えた。


「ねえ、ちゃんとこっち見てよ~~」
「ちょっーー!」


 ぐらりと、翠の身体が揺れる。バランスを崩した拍子に、俺たちは、音もなく床に倒れ込んだ。重なる視線。ふわっとした衝撃。静まり返った部屋の中、数秒が永遠みたいに感じた。


(……やば、近……っていうか……重っ……あったか……!)


 頬に触れる翠の髪、そして、シャツ越しに感じる体温と重さに、意識が一気に引き寄せられる。俺の真上で、翠が驚いたように目を見開いていた。


「あ……っ」
「っ、玲央、大丈ーー」


 翠の膝が、俺の脚の間に軽く入り込んでいて。変に意識してしまう体勢に、心臓が跳ねた。鼻先は今にも触れそうで、翠の吐息が、微かに唇をなぞる。


 視線を逸らせばいいのに、できなかった。だって、見上げたその瞳が、まっすぐに、俺を捉えていたから。


(……な、なにこれ……っ)


 息を呑む音が、重なる鼓動の中に混ざって跳ねる。翠の睫毛が、こんなに長かったことも、肌が、こんなに綺麗だったこともーー今の、この距離で、初めて気づいた。


(……近すぎて、見えすぎて、もう無理!!)


「っ、ご、ごめん!!!」
「……あ、ご、ごめんっ!」


 翠が慌てて体を起こす。その反動で、シャツの裾が俺の指先にふわっとかかった。ほんの一瞬、肌に触れた気がして、心臓がまた跳ねる。


「っ……ち、違うんだ、今のは! わざとじゃなくて……バランスが……!!」


 顔を真っ赤にして、言い訳みたいに喋る翠の姿が、あまり見たことがなくて。でもそれ以上に、たぶん、今の俺の顔の方が、もっと赤かった。


(……やば。なんか、本当に変な感じ)


 翠は、少し荒い呼吸のまま、視線を合わせてくれなかった。耳の先まで真っ赤で、顔を伏せたまま固まっている。その姿が、どうしようもなく可愛く見えて、胸がぎゅっとなる。


「え、ちょ……大丈夫? 翠、マジで熱あるとかじゃ……」


 心配になって、そっと体を起こそうとした、その時、翠が慌てて手を伸ばし、俺の動きを制するように言った。


「な、ない! ないからっ! 玲央、ちょっと動かないで!」
「なんで? だって、俺、脚開いたままだし、その、変な感ーー」
「っ、え?! な、何言ってんの?! い、今それ言う?! ちょ、ちょっと待って!! すぐ、離れるから!!」


 パニックで声が裏返りそうになってる翠が、可愛くてたまらない。笑いそうになるのをなんとか堪える。


 でも、胸の奥はぜんぜん落ち着かなくて。さっきからずっと、心臓の音が煩いくらいに響いていた。


(……翠って、あんな顔するんだ)


 焦って、照れて、恥ずかしがって。見慣れていたはずのその顔が、ほんの少し、知らない表情をしていて。


 ーー気づいたら、翠に見惚れていた。


 不意に目が合う。睨まれるかと思ったのに、その瞳はどこか、戸惑うように揺れていた。


(もしかして……今のって……俺だけじゃなくて、翠もーー)


 そんなことを考えてしまった自分が、なんかもう恥ずかしくて。俺はそっと顔を逸らした。そして、息を整えるように、一度、大きく深呼吸する。


「……よし、じゃあ休憩しよっか」
「……うん……」


 ちょっとぎこちない返事が返ってくる。でも、それだけでまた心臓が高鳴った。


 今日の勉強、たぶん、内容なんてひとつも覚えていない。だけど、この一瞬だけは、きっと忘れられない気がしたーー。