被写体は、きみひとり



 ーー翌朝


 朝練を終えて昇降口に向かうと、いつものように玲央が無邪気に声をかけてきた。


「おはよう! 翠~~!」
「……おはよう……」


 昨日の記憶が、何の前触れもなく胸に蘇った。濡れたシャツ、肌に張りついた素肌、あの笑顔ーーそして、近すぎる距離。


 思い出しただけで、心臓が大きく跳ねた。なんとか言葉を返すので精一杯で、俯いたまま、顔を上げられなかった。


「ん? 翠、大丈夫? 寝不足? 顔赤くない??」
「さ、さっきまで運動してたから……早く行こう。遅れる」
「あ、そっか! 朝練してたもんね!」


 無邪気に笑う玲央の声が、いつも通りで救われる。こんなとき、玲央が天然でいてくれるのは、本当にありがたい。


 気持ちを誤魔化すように、鞄のベルトをぎゅっと握る。隣を歩く玲央は、何も知らない顔でいつものペースで歩いていて。その姿が、少しだけ羨ましかった。


 ーー今日一日、無事に終われる気がしないのは何故だろう。


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 放課後、帰りのHRが終わると、玲央がまっすぐ僕の席まで来た。


「今日、勉強するんだよね?」
「うん」
「俺の家でもいいかな?」
「いいよ」
「ありがとう」


 自分の家は親が厳しくて、都合が悪かっただけに、良かった。教室を出て、言葉少なに並んで歩く。


 玲央の家へ向かう途中、何を話していいか分からなかった。僕はただ、心の整理に必死で……顔を、うまく見られなかった。


 玲央の家は、ごく普通の一軒家だった。鍵を差し込み、玄関を開けると、小さな女の子が廊下を駆けてきた。
 

「おにいちゃん!! おかえり!!」
莉愛(りあ)、ただいま。お母さんは?」
「……『おかいもの』だよ」
「……そう。何時に帰るって?」
「じゅうじ!」


 玲央の眉がわずかに動いた。その一瞬で察する。『買い物』なんて言葉では包みきれない、家庭の空気があった。だけど玲央は、何事もないように笑って、口を開いた。


「上がって」


 ーーそう、僕がそんなことを気にする間も与えずに。


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 二階の玲央の部屋に案内されると、そこには写真やカメラ、小物が所々に飾られていて。そのすべてが、玲央を形づくっていた。


 壁に貼られたスナップ写真。机の上に丁寧に置かれた、黒いカメラ。目を奪われたまま見つめていると、玲央が僕の視線に気づいて、笑った。


「それ、父さんのお古。……成瀬リトって、知ってる?」
「世界辺境カメラマンの……?」
「そう! 俺、息子! 離婚して、塞ぎ込んでた俺へのプレゼント」


 机の上のカメラを、玲央がそっと手に取り、胸元に抱える。その仕草は、まるで宝物を守るようで。触れるものすべてに傷がついてしまいそうなほど、静かで、大事そうだった。


 この部屋に並ぶ写真、置かれた小物、その一つひとつに、玲央がどんな思いで『日常』を築いてきたのか、ほんの少しだけ、垣間見えた気がした。


 だからこそ、次の瞬間、玲央がぱっと顔を上げて、何でもないふうに笑ったその顔に、胸の奥がきゅっとなった。


 ーー玲央は、こうやっていつも全部、飲み込んで、笑う。


 それを『強さ』だと呼ぶには、あまりにも優しすぎて。僕は思わず、視線を逸らしてしまった。


「はい! しんみりはおしまい!! 翠先生による中間テスト対策講座、開幕~~~!!」


 わざとらしく明るく言う声に、つい、くすっと笑ってしまう。玲央は、空気の切り替え方も、僕の気持ちの引き戻し方も、本当にそういうところが上手で。


 もしかしたら、無意識なのかもしれないけど、それでも僕の心にはちゃんと届いた。床に玲央と座り込み、ローテーブルに勉強道具を広げる。


「翠~~、ここって……合ってる、かな……?」


 玲央がさっきよりずっと真剣な表情で、ノートを差し出す。でもどこか頼ってくる感じが嬉しかった。


「うん、ここまでは合ってる。でもこの公式……違うやつかも」


 ペン先で紙をなぞりながら、自然と距離が近づく。その時ふと視界に入ったのはーー玲央のシャツの胸元だった。


 少しだけ開いたその隙間から、鎖骨の線が覗いている。肌の白さが妙に生々しくて、思わず息を呑んだ。


(だめ、見るな……見たら、気になるに決まってる)


 なのに、視線は吸い寄せられるようにそっちへ向いてしまう。体温がじんわりと上がっていくのが分かった。


「……翠?」


 不思議そうに覗き込まれて、思わず体を引いた。でも、もう既に遅くて。心臓が、爆発しそうだった。


「……顔、赤くない?」


 玲央が、そっと僕の額に手を当てた。その指先の温度に、頭の中が真っ白になる。


「熱じゃない? あついよ?」


 ーーちがう、熱じゃない。


 身体の奥が、じわじわと熱を持ち始めていた。二人きりの静かな空間が、それをさらに煽る。


「……ごめん、玲央」
「え、なに? どした?」
「今日は、もう無理かも」
「……俺に勉強教えるの、難しかった?」
「……勉強の問題じゃ、ない」


 掠れた声でそう言って、そっと目を逸らす。手が震えているのが、自分でもわかった。なのに玲央は、まるで何も気づかないように笑った。


「そっか~、じゃあ、ちょっと休憩する?」


 玲央にとっては、きっとこれも『いつも通り』のことで。でも、僕にとっては違っていて。


 自分の中で、玲央に対する『何か』が変わってしまったこと。それを悟られるのが、どうしようもなく怖かった。


 それでも、触れたくて。
 ただ、君の隣にいたくて。


 そんな気持ちを、知らないまま笑う君が、やさしくて。玲央が僕に気を遣うように立ち上がって、ふと振り向く。


 ーーその笑顔が、ずるいくらい優しかった。