被写体は、きみひとり



 ーー放課後


 昇降口の前に先生が立っていた。腕の中にはあの犬がいて、さっきより少し落ち着いた表情で、しっぽをふわふわと揺らしている。


「このあと、施設の人が迎えに来るって。きちんと預かって、里親探ししてくれるらしい」


 そう言って、先生は俺たちに視線を向けた。


「ふたりとも、今日はよく頑張ったな。ちゃんと保護してくれて、ありがとう」


 素直に褒められて、思わず背筋が伸びる。どんなに頑張っても、家で褒められることなんてないから、嬉しさが胸の中で膨らんだ。


「……うん。よかったな、わんこ」


 犬の頭をそっと撫でると、小さく「くぅん」と鳴いた。前足で制服の裾を掴んで離さない。あれだけ洗って構ったから、懐いてくれているのだろう。


「……ばいばい。またどこかで会えたら、写真、撮らせてな」


 言葉にしがたい名残惜しさが、空気にじんわりと滲んでいた。横で翠が静かに見つめていて。言葉はなくても、その表情はどこか優しかった。


 先生が犬を抱えて歩き出す。その小さな背中が、昇降口の夕陽へ溶けていく。しばらく、誰も口を開かなかった。その静けさの中で、不意に息を吸い込んだ。


「……あーあ! 今日は撮れなかったけど、でもまあ、ちょっと、いい日だった!」
「……うん。悪くなかった」
「なあ翠、あれだな! 写真ってさ、『一瞬』が撮れなくても、『記憶』には残る的な!! そういうアレだよな!!」
「アレって何」
「知らんけど!!」


 声をあげて笑うと、翠の口元がふっと緩んだ。靴を履き替え、鞄を持って並んで歩く。夕方の風が、俺たちの間をそっと吹き抜けていった。


「……あ、そうだ。そういえばさ、玲央」
「ん?」
「来週、中間テストだね」
「……え?」


 足がぴたりと止まる。


「えっ……? ちゅうかん……なんだって? なんだそれは……?」


 言葉の端が震えて、表情が徐々に引きつっていく。


「……えっ……? 俺、ノート……ノートって何?」
「……ノート取ってないの?」
「撮ってはいる」
「それは写真でしょ」
「数学と英語の小テスト何点だった?」
「……えっ? いや……えっとぉ……12点……? 20点……?」


 白く濁った目で翠が俺を見つめる。いや、50点満点だし。半分には届きそうな気もするし。


「翠は何点だったの?」
「それ僕に聞くの? 48点と50点だよ」
「…………???」


 宇宙の点数過ぎて、肩がふるふると震える。思考が止まり、口を開けたまま、ぼーっとしていると、翠が真顔で言った。


「……勉強しよっか」
「いやぁああぁあぁああぁあ!!!!」


 夕焼け空に、俺の絶望的な叫び声が響き渡った。


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 *


 部屋の明かりを落とすと、スマホの画面だけがぼんやりと光った。通知は来ていない。それでも、意味もなく玲央とのトーク画面を開いてしまう。


 ーーあの笑顔。
 ーー濡れた髪。透けたシャツ。
 ーー額に手を伸ばしてしまった、自分の指先。


 枕に顔をうずめ、ゆっくりと息を吐いた。思い出すたび、胸の奥が熱くなる。恥ずかしさ、嬉しさ、苦しさ。感情がごちゃ混ぜになって、どうしようもない。


(……なんで、あんなに近くまで行ったんだろう)


 自分でも、わからなかった。でも、気がつけば足が動いていて、手が伸びていた。それは、理屈じゃなかった。


「……触れたいって、思ったんだ」


 そんなこと、今まで誰に対しても思ったことがなかった。静かな夜の中、布団に包まれたまま、手だけが宙に浮く。


 まるで、心に残った輪郭をなぞるように。


 でも、そこにあるはずの温度はない。ただ、心臓の音だけがうるさくて、ずっと耳の奥で響いている。


 寝返りを打っても、布団にくるまっても、瞼を閉じても、玲央の顔が浮かんで離れない。


「……ずるいよ」


 あんな顔、見せるなんて。そんなに笑ったら……好きになっちゃうよ。いや、僕はもう……。


 目をぎゅっと閉じた。明日になれば落ち着くかもしれない。でも、この気持ちはきっと消えないまま、また玲央に会う。


 そう思うと、眠れない夜が、少しだけ甘く感じた。