廊下に出ると、風が思いのほか涼しかった。授業を抜け出すなんて初めてのはずなのに、罪悪感より先に、足は勝手に玲央のもとへ向かっていた。
日差しの中で、玲央はまだ犬を抱えてしゃがみ込んでいて。びしょ濡れの髪、頬を伝う水滴、腕まくりされた袖。そして、なによりも、その真っ直ぐな眼差し。
玲央の全てに胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
ーー触れたい。
そんな思いが、唐突に湧いた。だけど、それだけはどうしてもできなくて。少しだけ離れた場所から見つめていると、玲央が犬の頭を撫でながら、ぽつりと呟いた。
「……ごめんな、変な顔にして」
その声が、思ったよりも弱くて。でも僕は、最初から怒る気なんて、どこにもなかった。気がつけば、また足が勝手に動いていて。コンクリートを踏む足音に、玲央が小さく肩を跳ねさせた。
「……えっ、翠?! 授業中じゃ……」
驚いた顔に、思わず視線を送る。
ーーやめておけばよかった。
濡れたシャツに透けた素肌、鎖骨のくぼみ、貼りついた布の向こうの、玲央の体の線。そのどれもがいやらしく見えて、体に熱が帯びる。
(……そういう目で見るな……落ち着け……!)
内心で自分を叱る。けれど口から出たのは、いつものような意地悪な一言だった。
「……馬鹿じゃないの」
「……どうせバカだよ。だから、写真撮らせて」
玲央が僕からタオルを受け取り、犬の顔を拭く。その手が、ほんの少しだけ震えて見えた。拭き終わった犬をそっと僕の腕に預けながら、玲央はスマホを取り出し、カメラを構えた。
「……眉毛なくなってる」
「えへへ、頑張って洗ったもん」
そう笑う顔が、ずるいほど綺麗だった。僕は今、写真を撮られることよりもーーそのスマホを持って笑う君を、撮りたくなった。
ずっと、残しておきたくなった。
誰よりも真っ直ぐで、濡れたまま笑う君が、ずっとずっと、眩しかった。玲央はそんな僕の顔を見上げて、少し困ったように笑いながら言った。
「……ごめん。授業、抜けさせちゃった?」
「いや、別に。玲央が教室にいないと集中できなかっただけ」
「中々落ちなくて、追いかけられなかった!」
「……そこじゃないでしょ」
ぼそりと呟いて、視線を逸らす。玲央の顔を、まともに見られなかった。濡れたシャツ越しの肌が、視界の端でちらついて、鼓動が煩い。
そんなつもりじゃなかったはずなのに。玲央の肩と背中に張りついた、白いシャツの向こう側にある体を、男として意識してしまっている。
それが、恥ずかしくて、どうしようもなかった。前髪から雫が滴るのを見ながら、自然に口が動いた。
「……シャツ、透けてる」
玲央がぴたりと固まり、すぐに顔が真っ赤に染まった。耳の先まで赤くなって。その、わかりやすすぎる様子が可愛いと思ってしまった。
(なんで赤くなるの……玲央)
そう思いながら、ポケットからハンカチを取り出す。玲央の額に手を伸ばし、そっと濡れた肌を拭った。
「……そういうとこ、無防備すぎ」
「翠だって、無防備だろ。突然来るし、こうやってすぐ俺に触るし……」
「……僕が無防備?」
その言葉に、手が止まった。先週の遠足の時、玲央の足に触れたのも、額を預けたのも、無防備どころか、全部、わざとだった。
「……天然か」
「へ?」
玲央が目を丸くして、僕を見る。その顔があまりにも可愛くて。たまらなくなって、つい、頬に触れてしまった。
ーーこの距離なら、キスもできる。
そんな欲望が、喉の奥で疼いた。でもそれを叶えるには、あまりに覚悟が足りなかった。
「翠……?」
たった一秒、ただそれだけなのに、心が揺れる。目を逸らして、軽く咳払いをして、逃げるように言葉を吐き出した。
「……油性ペン貸して」
「えっ……やだ」
「早く」
「え~~!! 絶対俺に眉描くでしょ?!」
「描かない描かない」
疑いながらも、玲央がポケットから油性ペンを取り出して、僕の手に乗せる。キャップを外し、鼻の頭に黒い丸、左右の頬に三本ずつの線を描く。
「ほら!! 描いた!! 翠の嘘つき!!!」
「眉は描いてない」
「屁理屈!!」
「可愛いよ、玲央。にゃ~~んって言ってごらん」
「誰が言うか!!」
校庭の隅に腰を下ろして、犬を抱いて、くだらない会話を交わす。いつも通りのようで、でも確実に、どこかが変わってしまっていて。
それでも、こんな時間が、どうしようもなく愛しかった。
