被写体は、きみひとり

 

 ーー昼休み


 昼食を終えると同時に、俺は勢いよく教室を飛び出した。職員室に寄って犬を回収し、そのまま真っ直ぐ校庭の隅へ向かう。


 目指すのは、体育用具の裏にある古い蛇口と、壁際にぐるぐる巻かれたホースだ。


「……よし。バケツ、ホース、水、完璧っ!!」


 周囲に人影がないのを確認してから、ホースの先をひねる。しばらくして、濁り混じりの水が噴き出した。冷たい水に思わず身を引きつつも、袖を捲り、バケツに水を張っていく。


 その隣に座らせた小さな柴犬を、そっと抱き上げて、額に視線を落とした。


「……ごめんな。俺が描いた眉毛、消させてくれ」


 くぅん、と小さく鳴く声が、胸に刺さる。眉毛のせいで、なんだか困り顔みたいに見えて、それがまた申し訳ない。


 手のひらで水を掬い、やさしく額を濡らしていく。指でそっと眉をなぞれば、油性ペンがじわりと滲んだ。


「うわっ、全然落ちねぇ!!」


 慌てて擦ってみるものの、落ちるどころか滲んで広がるばかりで。もはや『眉毛』ではなく『墨絵』である。


「ま、待って、待って、落ち着け俺……!! 俺は写真部!! 光と水に強いんだ!!」


 根拠のない自信を胸に、蛇口をひねってホースを構える。


「いっけぇえぇえ!! ウォーターショーット!!」


 ばしゃあっ、と水が犬を直撃する。ぶるぶるっと身体を震わせる柴犬の姿に、思わず苦笑いが溢れる。


 眉毛は、少しだけ薄くなった。だが、完全には落ちていない。


「……しぶといな、油性眉毛!! 一体、誰が描いたんだ!!」


 頭を抱えていると、不意に背後から声がした。
 

「……なにしてるの、玲央」
「ひゃっ?!」


 振り向くと、翠が立っていた。教室の影がちょうど彼の肩先を照らし、表情が少し見えづらい。でも、声色には、明らかに呆れが滲んでいた。


「……授業、始まるよ」
「いやいやいや、眉毛消さないと、俺、死刑宣告受けたままだから!!」
「その子、すっかり変な顔になってるけど」
「ご、ごめんて……! でもさ、ちょっとだけ、可愛くない? この困り顔」


 言い訳めいた笑みを浮かべると、翠は無言で歩み寄り、そっとタオルで犬の顔を拭いた。


「え、あ、ありがと……」
「…………」
「うっ……その……ごめん……」
「……いいよ、別に」
「……それ、絶対思ってないでしょ」


 眉毛の痕跡が、ようやくタオルに吸い取られていく。柴犬は、ぺたんと地面に座り込み、舌をぺろっと出した。どこか間の抜けたその仕草に、思わず頬が緩む。


「……でも、玲央、楽しそうだった」
「えっ?」
「水でびしょびしょになりながら、眉毛落としてて。すごく……楽しそうだった」


 翠の言葉に、胸が跳ねた。ふと伸びてきた指先が、俺の髪に微かに触れる。どくんと、さっきのホースよりも勢いのある鼓動が、胸に響いた。


「……教室、戻るよ」
「う、うん。あとで、追いかける」
「……本当に?」
「…………眉毛が、落ちきったら」


 翠がほんの少しだけ笑って、犬の頭を撫でる。許されたわけじゃない。けれど、その瞬間ごと、シャッターを切りたくなるのは、俺だけに見せたこの一瞬を、誰にも渡したくないからーー。


 ーーーーーーーーーーーー
 ーーーーーーーー
 ーーーー
 *


 窓の外に、校庭が見えて。いつのまにか、視線はずっと、そっちばかりを追っていた。授業中なのに、先生の声が頭に入ってこないのは、そこに君がいるからで。


 ーー玲央が、ひとりで、ホースを握っている。


 洗い場のコンクリートの上で、犬を抱えて、水をかけて、手で擦って。額に滲んだインクを、必死に落とそうとしている。


(……まだ、やってる……)


 どうせ『俺がつけた眉毛は、俺が落とす』とか、そんなくだらない信念なんだろう。分かってる。分かってるのに、視線を外せない。


 校舎から遠く離れたその背中が、思っていたよりも、少しだけ遠く感じた。気づけば、僕はペンを握りしめていて。文字を写すふりをして、ノートの端に一言、書き殴る。


 『バカ』


 それ以上の言葉が出てこない。


(……勝手にすればいい)


 そう思って、前を向く。でも、どうしても気になって、また目だけが窓を向いてしまう。


 スラックスの裾は濡れ、シャツが肌に貼りつき、玲央の体の線が透けて見える。いやらしいと思った自分に驚いて、慌てて顔を手のひらで覆う。


(……僕は、何を考えてるんだ)


 頭が熱い。顔も熱い。だけど、心の中心はもっと落ち着かなかった。プリントを睨んでみても、もはや限界だった。


「……先生、お手洗い行ってきます」


 思わず口をついて言葉が出る。先生の返事を待つ前に、僕はタオルを掴んで立ち上がっていた。