放課後の部室には、傾いた陽が斜めに差し込んでいた。空気が白く霞んで見えるのは、光のせいか、それとも春の終わりの匂いのせいか。
窓を開けると、ふわりと桜の香りが舞い込んだ。風に揺れるカーテンが、床に淡い影を落とす。
俺は窓枠に手をかけ、そっと身を乗り出した。校庭の桜が、風にほどけるように花びらを散らし、その一枚一枚が、空に溶けるみたいに流れていく。
ーーいま、この瞬間しかない。
思わずカメラを構えた。シャッター音が、静かな空間を微かに裂く。けれど、その音でさえ、春の匂いにやさしく包まれていった。
「また撮ってるの? 成瀬くん」
声をかけられて、振り返る。後輩の女子部員がにこにこしながら、三脚を畳んでいた。
「うん! 写真撮るの好きだから!」
カメラをそっと下ろし、椅子に腰かける。モニターに浮かび上がるのは、ついさっき撮ったばかりの光景で。夕陽に透ける桜の花びら、遠くでぼやけた校舎の輪郭、空に滲んでいく春の色。
画面の中の世界は、現実よりも少しだけ静かで、優しい。
うまく笑えない日も、誰とも話したくない日も。シャッターを切るたびに、俺は世界と繋がっていられる気がした。
「……悪くないかも」
独りごとのように呟いたその時、部室のドアがガチャリと開き、顧問の先生が、上機嫌で入ってきた。
「みんな、いい知らせだ! 今年の文化祭で、写真部の作品が展示されることになったぞ!」
「えっ?! ほんとに?」
今まで、そんな話は一度も聞いたことがなかった。
写真部なんて、男子三人と女子二人だけの、小さな部活動だ。校内掲示どころか、認知すら怪しいほど地味だし、存在感なんて、ほとんど空気に近い。
それでも、シャッターを切る音だけは、確かにここに響いていた。
「今回は人物の写真を撮ってもらいたい。風景ではなく、『心の動き』を切り取ってほしい」
「人物……?」
「そう。感情の動きは、表情に出る。笑顔でも、泣き顔でもいい。君たちが引き出して、カメラでそれを残してほしい」
その言葉が、胸にふっと落ちた。
ーー『心の動き』。
笑っているようで笑っていない顔とか、悲しそうで、でも泣けないままの目とか。カメラを構えるたび、そういう表情を見つけてきた気がする。
なのに俺は、それをちゃんと『撮ろう』としたことがあっただろうか?
「……期限は?」
気づけば、声を出していた。先生は少しだけ驚いたようにこちらを見てから、にっこりと頷いた。
「文化祭は十月四日。だから、九月末までに準備しておくように。じゃ、期待しているよ」
顧問はそれだけ言って、すぐに出ていった。残された空気が、ぽつんと沈黙する。椅子から立ち上がり、俺はもう一度、窓の外を見た。
グラウンドの向こうで一人の男子生徒がボールを蹴っていた。制服のまま、イヤホンを耳にかけ、淡々とリフティングを繰り返す。
他の誰とも話さず、視線すら合わせない。でも、動きには妙な美しさがあって、目が離せなかった。
「……篠原……なんだっけ……」
同じクラス。整った顔立ちに、艶のある黒髪。切れ長の黒い瞳は、いつもどこを見ているか分からない。通称、笑わないイケメン。笑った顔を見たことがなければ、話したことも、ろくにない。
『無口で、クールで、ちょっと近寄りがたいやつ』
多分、クラスの誰もがそう思っている。でも、それって本当だろうか?
ーー笑わない人なんて、いないはず。
そう思った瞬間、カメラをぎゅっと握りしめ、彼の方へ駆け出していた。
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「あの!!」
下駄箱前で、帰り支度をしていた篠原が、ゆっくりと顔を上げた。
「……なに?」
声は低く、感情が読めない。けれど、その一言で、なぜだか喉が詰まりそうになった。
「えっと……その、篠原の写真が撮りたいんだけど」
一瞬、篠原が驚いたように目を見開いて、それから、小さく首を傾げた。
「……新手のナンパ?」
「ち、ちがうっ! モデルになって欲しいの!!」
「やだって言ったら?」
「本人の許可がなくても勝手に撮るから大丈夫!!」
「……そういうの、困るんだけど」
篠原は小さく息を吐き、俺に背を向け、そのまま片手をひらひらと振り、歩き出した。
「……まあ、気が向いたらね」
篠原の声が、夕暮れの空に溶けていく。その瞬間、カメラを構えた。
この光も、風も、空気もーーきっと、今日だけしかない。シャッターを切る音が、夕陽の中に吸い込まれる。
撮った瞬間は、ただ「綺麗だ」と思っただけだった。けれど、振り返ればこの一枚が、すべての始まりで。
気づけば、俺のカメラの中は、いつの間にか篠原だけで埋め尽くされ、その笑わない横顔に、あんなにも綺麗な笑顔が隠されていたなんて、このときは、まだ思いもしなかったーー。
