「……ふふ、その顔は疑っているね 」
お見通し、と言わんばかりにニヤリと笑った藤原は、証拠を見せようと笑いながら……――
――……拳を口に入れた。
あまりの光景に唖然とする佐野。全力で目を逸らす楠見。ギョッとしたように二度見する通行人。
場の空気はカオスである。笑顔なのは、どこか得意気な藤原のみ。
さすがに麗しい女性が、大口を開けて拳を入れる様子を事細かく記すのはいくらなんでも後ろめたいし、申し訳ない。なにせちょっと人様にお見せするにはアレな絵面なのだ。ご理解頂けると大変ありがたい。
かくして信じるしかなくなった佐野は、エリア4と6の中間にある下町じみた場所に建った診療所兼自宅に案内された。
古めかしい三階建てで、赤いポストが印象的な和洋折衷のような雰囲気の建物だった。手入れはされているらしいが、花を植えるなどという細やかさはまるでない。
がっしりとした佇まいからは、時代を切り取ったような空気を感じて、周囲がどこか乱雑でごちゃごちゃとした町並みなのも相まって、なんだかアンバランスで面白かった。
楠見は慣れたように黒く重いドアを開け、「ただいま戻りました 」と声をかけながら、"診察室"と書かれたプレートのついた部屋へ向かっていく。扉の奥に消えた小さい背中を見送り、藤原はいまだ入口を跨がない佐野を振り返った。
「左之助……じゃない、涼太。遠慮なく上がって。診療所だけど町に根ざした場所だからさ、半分くらいは溜まり場だし 」
「左之助でいいですって。俺も近藤さんって呼ぶんで 」
ふふっ、と嬉しそうな顔で笑う藤原に、佐野は少し声を低くして、ずっと聞きたかったことを尋ねることにした。
「……楠見は、なにも覚えてない……っすよね 」
「……まあ、彼は覚えてない方がいいだろう。あの子には、辛い記憶だろうしな 」
過去は過去、今は今と、藤原は考えているらしい。前世のことの真偽がどうであれ、今を生きている楠見は楠見として扱っているらしい。
機械的だが、どこかあどけない顔で、楠見悠生です、と自己紹介をした彼に、佐野はどんな顔をしていたかわからない。
安堵とも、落胆とも言えない、なんとも言えない感情に、無性に泣きたくなった。笑顔を浮かべてやることもできず、佐野も簡潔に自己紹介をするしかなかった。他になにも言えなかったから。
「俺は、あいつにどうしてやればいいんでしょう 」
「……それは、お前たち二人の問題だ。仲介はしてやれるが、それ以上はな。まっ、新しくやり直すっていうのも一つの手じゃないか?せっかく新たな生を得たんだから 」
そう言ってバシッと背中を叩く手は、150年の時を経ても変わらない心強さで、安堵の息が漏れ出る。頼もしい大きな背中は随分と華奢になってしまったが、それでも本人の優しさは変わらない。それがたまらなく嬉しかった。
藤原に続くように診察室に入ると、そこは病室というより、広々とした書斎のような部屋だった。
全体的に黒っぽくシックに統一されているが、うず高く積まれた本や壁のボードに乱雑に貼られた紙、古い本の匂いとインクの匂い、そしてコーヒーと微かな煙草の匂いが混ざった独特な匂いが充満しているその部屋は、とても診療所の診察室とは思えなかった。
診察室の奥、本が積まれた年季の入った書斎机のようなデスクには、一人の男性が座っていた。
「やあ、初めまして。楠見くんから話は聞いたよ 」
穏やかに笑うその人物は立ち上がり、部屋の中央に置かれた一人用ソファを指して、座るように促した。大人しく席に着くと、目の前に置かれたもうひとつのソファに腰掛け、人の良さそうな笑みを浮かべた。
黒いシャツに黒い眼鏡、整えられた柔らかそうなくせっ毛の黒髪と全身黒ずくめ。そのせいか、白衣のような上着が目立って見えた。
医者というよりは、作家か芸術家のような、それにしては身綺麗で洒落ているような、そんな印象を受けた。
「私は城戸小太郎。ここで……あー……精神科医の真似事をしている 」
「真似事……闇医者、ってやつですか? 」
「うん、すまない。言葉選びが悪かったね。資格はちゃんと持っているから闇医者ではないよ。ただ、まあ、なんだ……医師というよりは、研究者のような事をしている時間が長いからね。あまり大腕を降って医者を名乗りたくないだけだ。私の勝手な考えさ 」
「そう、なんですか 」
相槌を打ちながら、部屋を改めてくるりと見渡す。精神科医の診察室、と言われたら首を傾げるが、研究者の研究室も兼ねた場所、と言われると、確かに納得はできた。
壁一面を覆う大きな本棚には、ずらりと本が並べられている。詳しく見た訳ではないが、パッと見ただけでも専門的な医学書から雑誌まで、幅広いジャンルの本が詰められているように感じる。
部屋には観葉植物やプランターがいくつか置かれ、ガラス戸のついた棚には試験管のようなものが見える。……その隣に隠されるようにお菓子の袋があるのが大変気になるが、見なかったことにした。
「先生、お茶持ってきた 」
「あぁ、ありがとう。棚にお菓子があるから食べてもかまわないよ 」
「やった……!」
城戸のどこか胡散臭い雰囲気や物言いが微かに和らぐ。楠見もさっきまでの無機質さが、かなり薄らいでいるように見えた。そんな二人のやり取りは、どこか親子のようにも感じられて微笑ましい。
「仲良いんですね 」
ガラス戸とはまた違う、背の低い棚からクッキーを取りだし、出窓に腰掛けた楠見を目で追いかけながら、ぽつりと呟く。城戸の前での楠見は、どこか年相応の子供らしい振る舞いをしている。
機嫌がいいと普段静かな足音が、どこか楽しそうにぱたぱたと跳ねるのは、前世から変わっていないらしい。
「うん?あぁ、楠見くんかい?彼とは少し色々あってね。うちで面倒を見ているんだ 」
微笑みを浮かべて答えながら、佐野にお茶の入った湯呑みを差し出してくる。湯呑みの中からは暖かい湯気と、優しい匂いが立ち込めている。
緑茶の優しい口当たりと程よい渋みが、無意識に込められていた力を抜いてくれた。どうやら少し警戒してしまっていたらしい。
「そう言えば……研究って具体的には、なんの 」
緊張も多少緩み、好奇心が疼き発せられた佐野の言葉に、城戸はにこりと笑う。
その瞬間、ゾクッと背中に悪寒が走る。目の前の男の目が、その奥が、どこか冷たく、冷ややかなものに変わった気がして、嫌な汗が首筋にうっすらと浮かぶ。喉の奥から、僅かな吐き気が込み上げてきた。
本能的な恐怖を、今日一日で何度感じなければならないんだろう。
「……それで、君は新撰組の原田左之助の記憶を持っている、ということでいいかい?」
うっそりとした城戸の言葉に、頷く。震える手を膝の上で握り締め、なるべく正面から、男を見つめる。
「私はね、前世の記憶を持っている人間の研究をしているのだよ 」
その言葉を聞いた瞬間、佐野は思わず息を止めた。と同時に、さっき感じた恐怖の正体にも思い至る。
この男は、目の前の医者を名乗るこいつは……――
――……自分を研究用マウスとして見ている。
実に興味深そうに、どこか楽しそうに、城戸は佐野の輪郭をなぞるように視線を動かす。
「藤原くんに対しても思ったが……面白いね。君の年齢がいくつかはわからないが、外見年齢とは明らかにそぐわないのだよ。言動どれを取っても、ね? 」
怖い。
本能的な恐怖に頭からつま先まで漬けられ、体温が一気に下がった気がした。指先が震え、身動きが取れない。
目の前の得体のしれない男の視線から逃れたいのに、叶うなら今すぐここから逃げ出したいのに、息を吸うことすら困難になった気がする。心臓に氷を詰められたような感覚さえする。
気を失いそうな程の恐怖に押しつぶされそうになった時、佐野を守るように、楠見が間に割って入った。華奢な背中が城戸の姿を遮断する。
「先生……」
「ふふ。あぁ、すまない。記憶のある人と会えるなんて滅多にないだろう?嬉しくてついね 」
怖がらせてすまなかったと謝られる。
嬉しくてつい、だなんて可愛らしいものではなかったが、あの視線から開放されるなら、もはやなんでも良かった。
楠見は出窓には戻らず、佐野の隣にスツールを持ってきて腰を下ろした。どうやらそばに居てくれるらしい。
さっきまでの冷たい視線も無くなり、ようやくゆっくり息を吐く。肩から力が抜けると、お茶のどこか甘く優しい匂いが鼻先を柔らかくくすぐった。
「なに、研究と言っても、ほとんどカウンセリングみたいなものだ。話を聞くだけさ 」
「本当ですか……それ…… 」
「それは、本当。保証する 」
城戸の代わりに、楠見がそう答える。解剖したり、よくわからない薬を飲まされたり、なんてことは無いと、楠見は言う。
信じるも信じないも、好きにしていいと。
「もちろんただじゃない。報酬は払うよ 」
「……報酬 」
「お金だよ。わかりやすいだろう?」
そう笑う城戸が提示した金額は、中々のものだった。不景気で少し生活苦な今の自分には、かなり魅力的な額で、危うく頷きそうになる。
「…………一度考えさせてください 」
「そうしてくれ。慎重なことはいいことだ 」
優しい顔で頷いた城戸から連絡先を受け取り、その日は藤原の車で自宅まで送って貰った。
帰り際に楠見から「またね 」と声をかけられ、佐野は少し悩んでから「またな 」と返す。それが今の精一杯だった。
「それにしても珍しいね、あの子があんなにすぐ人に懐くなんて 」
前にどこかで会ったの?と首を傾げた城戸に、曖昧に頷くことしか出来なかった。
後日、佐野は城戸に連絡を入れた。
『研究の話、協力します 』
短い一文。社会人としてはまるでだめだめなメールに、ありがとうと返事が来たのは、佐野と楠見が出会って一週間が経った頃だった。
お見通し、と言わんばかりにニヤリと笑った藤原は、証拠を見せようと笑いながら……――
――……拳を口に入れた。
あまりの光景に唖然とする佐野。全力で目を逸らす楠見。ギョッとしたように二度見する通行人。
場の空気はカオスである。笑顔なのは、どこか得意気な藤原のみ。
さすがに麗しい女性が、大口を開けて拳を入れる様子を事細かく記すのはいくらなんでも後ろめたいし、申し訳ない。なにせちょっと人様にお見せするにはアレな絵面なのだ。ご理解頂けると大変ありがたい。
かくして信じるしかなくなった佐野は、エリア4と6の中間にある下町じみた場所に建った診療所兼自宅に案内された。
古めかしい三階建てで、赤いポストが印象的な和洋折衷のような雰囲気の建物だった。手入れはされているらしいが、花を植えるなどという細やかさはまるでない。
がっしりとした佇まいからは、時代を切り取ったような空気を感じて、周囲がどこか乱雑でごちゃごちゃとした町並みなのも相まって、なんだかアンバランスで面白かった。
楠見は慣れたように黒く重いドアを開け、「ただいま戻りました 」と声をかけながら、"診察室"と書かれたプレートのついた部屋へ向かっていく。扉の奥に消えた小さい背中を見送り、藤原はいまだ入口を跨がない佐野を振り返った。
「左之助……じゃない、涼太。遠慮なく上がって。診療所だけど町に根ざした場所だからさ、半分くらいは溜まり場だし 」
「左之助でいいですって。俺も近藤さんって呼ぶんで 」
ふふっ、と嬉しそうな顔で笑う藤原に、佐野は少し声を低くして、ずっと聞きたかったことを尋ねることにした。
「……楠見は、なにも覚えてない……っすよね 」
「……まあ、彼は覚えてない方がいいだろう。あの子には、辛い記憶だろうしな 」
過去は過去、今は今と、藤原は考えているらしい。前世のことの真偽がどうであれ、今を生きている楠見は楠見として扱っているらしい。
機械的だが、どこかあどけない顔で、楠見悠生です、と自己紹介をした彼に、佐野はどんな顔をしていたかわからない。
安堵とも、落胆とも言えない、なんとも言えない感情に、無性に泣きたくなった。笑顔を浮かべてやることもできず、佐野も簡潔に自己紹介をするしかなかった。他になにも言えなかったから。
「俺は、あいつにどうしてやればいいんでしょう 」
「……それは、お前たち二人の問題だ。仲介はしてやれるが、それ以上はな。まっ、新しくやり直すっていうのも一つの手じゃないか?せっかく新たな生を得たんだから 」
そう言ってバシッと背中を叩く手は、150年の時を経ても変わらない心強さで、安堵の息が漏れ出る。頼もしい大きな背中は随分と華奢になってしまったが、それでも本人の優しさは変わらない。それがたまらなく嬉しかった。
藤原に続くように診察室に入ると、そこは病室というより、広々とした書斎のような部屋だった。
全体的に黒っぽくシックに統一されているが、うず高く積まれた本や壁のボードに乱雑に貼られた紙、古い本の匂いとインクの匂い、そしてコーヒーと微かな煙草の匂いが混ざった独特な匂いが充満しているその部屋は、とても診療所の診察室とは思えなかった。
診察室の奥、本が積まれた年季の入った書斎机のようなデスクには、一人の男性が座っていた。
「やあ、初めまして。楠見くんから話は聞いたよ 」
穏やかに笑うその人物は立ち上がり、部屋の中央に置かれた一人用ソファを指して、座るように促した。大人しく席に着くと、目の前に置かれたもうひとつのソファに腰掛け、人の良さそうな笑みを浮かべた。
黒いシャツに黒い眼鏡、整えられた柔らかそうなくせっ毛の黒髪と全身黒ずくめ。そのせいか、白衣のような上着が目立って見えた。
医者というよりは、作家か芸術家のような、それにしては身綺麗で洒落ているような、そんな印象を受けた。
「私は城戸小太郎。ここで……あー……精神科医の真似事をしている 」
「真似事……闇医者、ってやつですか? 」
「うん、すまない。言葉選びが悪かったね。資格はちゃんと持っているから闇医者ではないよ。ただ、まあ、なんだ……医師というよりは、研究者のような事をしている時間が長いからね。あまり大腕を降って医者を名乗りたくないだけだ。私の勝手な考えさ 」
「そう、なんですか 」
相槌を打ちながら、部屋を改めてくるりと見渡す。精神科医の診察室、と言われたら首を傾げるが、研究者の研究室も兼ねた場所、と言われると、確かに納得はできた。
壁一面を覆う大きな本棚には、ずらりと本が並べられている。詳しく見た訳ではないが、パッと見ただけでも専門的な医学書から雑誌まで、幅広いジャンルの本が詰められているように感じる。
部屋には観葉植物やプランターがいくつか置かれ、ガラス戸のついた棚には試験管のようなものが見える。……その隣に隠されるようにお菓子の袋があるのが大変気になるが、見なかったことにした。
「先生、お茶持ってきた 」
「あぁ、ありがとう。棚にお菓子があるから食べてもかまわないよ 」
「やった……!」
城戸のどこか胡散臭い雰囲気や物言いが微かに和らぐ。楠見もさっきまでの無機質さが、かなり薄らいでいるように見えた。そんな二人のやり取りは、どこか親子のようにも感じられて微笑ましい。
「仲良いんですね 」
ガラス戸とはまた違う、背の低い棚からクッキーを取りだし、出窓に腰掛けた楠見を目で追いかけながら、ぽつりと呟く。城戸の前での楠見は、どこか年相応の子供らしい振る舞いをしている。
機嫌がいいと普段静かな足音が、どこか楽しそうにぱたぱたと跳ねるのは、前世から変わっていないらしい。
「うん?あぁ、楠見くんかい?彼とは少し色々あってね。うちで面倒を見ているんだ 」
微笑みを浮かべて答えながら、佐野にお茶の入った湯呑みを差し出してくる。湯呑みの中からは暖かい湯気と、優しい匂いが立ち込めている。
緑茶の優しい口当たりと程よい渋みが、無意識に込められていた力を抜いてくれた。どうやら少し警戒してしまっていたらしい。
「そう言えば……研究って具体的には、なんの 」
緊張も多少緩み、好奇心が疼き発せられた佐野の言葉に、城戸はにこりと笑う。
その瞬間、ゾクッと背中に悪寒が走る。目の前の男の目が、その奥が、どこか冷たく、冷ややかなものに変わった気がして、嫌な汗が首筋にうっすらと浮かぶ。喉の奥から、僅かな吐き気が込み上げてきた。
本能的な恐怖を、今日一日で何度感じなければならないんだろう。
「……それで、君は新撰組の原田左之助の記憶を持っている、ということでいいかい?」
うっそりとした城戸の言葉に、頷く。震える手を膝の上で握り締め、なるべく正面から、男を見つめる。
「私はね、前世の記憶を持っている人間の研究をしているのだよ 」
その言葉を聞いた瞬間、佐野は思わず息を止めた。と同時に、さっき感じた恐怖の正体にも思い至る。
この男は、目の前の医者を名乗るこいつは……――
――……自分を研究用マウスとして見ている。
実に興味深そうに、どこか楽しそうに、城戸は佐野の輪郭をなぞるように視線を動かす。
「藤原くんに対しても思ったが……面白いね。君の年齢がいくつかはわからないが、外見年齢とは明らかにそぐわないのだよ。言動どれを取っても、ね? 」
怖い。
本能的な恐怖に頭からつま先まで漬けられ、体温が一気に下がった気がした。指先が震え、身動きが取れない。
目の前の得体のしれない男の視線から逃れたいのに、叶うなら今すぐここから逃げ出したいのに、息を吸うことすら困難になった気がする。心臓に氷を詰められたような感覚さえする。
気を失いそうな程の恐怖に押しつぶされそうになった時、佐野を守るように、楠見が間に割って入った。華奢な背中が城戸の姿を遮断する。
「先生……」
「ふふ。あぁ、すまない。記憶のある人と会えるなんて滅多にないだろう?嬉しくてついね 」
怖がらせてすまなかったと謝られる。
嬉しくてつい、だなんて可愛らしいものではなかったが、あの視線から開放されるなら、もはやなんでも良かった。
楠見は出窓には戻らず、佐野の隣にスツールを持ってきて腰を下ろした。どうやらそばに居てくれるらしい。
さっきまでの冷たい視線も無くなり、ようやくゆっくり息を吐く。肩から力が抜けると、お茶のどこか甘く優しい匂いが鼻先を柔らかくくすぐった。
「なに、研究と言っても、ほとんどカウンセリングみたいなものだ。話を聞くだけさ 」
「本当ですか……それ…… 」
「それは、本当。保証する 」
城戸の代わりに、楠見がそう答える。解剖したり、よくわからない薬を飲まされたり、なんてことは無いと、楠見は言う。
信じるも信じないも、好きにしていいと。
「もちろんただじゃない。報酬は払うよ 」
「……報酬 」
「お金だよ。わかりやすいだろう?」
そう笑う城戸が提示した金額は、中々のものだった。不景気で少し生活苦な今の自分には、かなり魅力的な額で、危うく頷きそうになる。
「…………一度考えさせてください 」
「そうしてくれ。慎重なことはいいことだ 」
優しい顔で頷いた城戸から連絡先を受け取り、その日は藤原の車で自宅まで送って貰った。
帰り際に楠見から「またね 」と声をかけられ、佐野は少し悩んでから「またな 」と返す。それが今の精一杯だった。
「それにしても珍しいね、あの子があんなにすぐ人に懐くなんて 」
前にどこかで会ったの?と首を傾げた城戸に、曖昧に頷くことしか出来なかった。
後日、佐野は城戸に連絡を入れた。
『研究の話、協力します 』
短い一文。社会人としてはまるでだめだめなメールに、ありがとうと返事が来たのは、佐野と楠見が出会って一週間が経った頃だった。

