水族館であいましょう


 部屋に薄らと茜色の光が差し込む。
 どのくらいぼんやりとしていたのか定かじゃないが、未だ自分の手は少しも動いてはくれなかった。

 
 あれから診療所を後にし、楠見は佐野の家に戻っていた。
 睡眠薬が効いているのか、ベッドの上で穏やかに眠る佐野を眺め、手の中にある小瓶を握りしめる。中には、検体を処分するための薬が2錠。
 
 飲めば終わる。
 
 痛みがあるかどうかはわからないが、少なくとも、一度飲み込めば二度と吐き出すことも不可能だと言うことはわかる。

 佐野に残酷な決断を下させる前に、自分の手で終わりにする。

 診療所からの帰り道、楠見はそう決めた。
 決めたはずだった。なにも知らないまま、なにもわからないまま、穏やかに微睡んだままの佐野涼太を終わりにする。

 大丈夫、自分には人を殺す才能がある。師匠からのお墨付きだ。
 だから、だからすぐだ。一瞬だ。
 飲ませれば終わる。刀で斬りかかるより、よっぽど簡単だ。

 それなのに手が動かない。
 身動ぎすらせず、ただじっとしていた。

「……ん 」

「っ、…… 」

 睡眠が浅くなってきたのか、身動ぎをする佐野に、焦りが募る。早くしないと起きてしまう。
 錠剤を手に取り、口元にまで運ぶ。あとは飲ませるだけ。
 なのに、なのにどうしてもそれが出来ない。
 寝ている相手に錠剤を飲ませることくらいは難なくできる。その自信がある。
 なのに、どうしたらいいのかわからなくなる。
 心臓が嫌な音と速さで波打っている。息が少しづつ浅く、薄くなっていく。

 数十秒、あるいは数分悩み、とうとう楠見は観念したように、錠剤を瓶に戻した。

 無理だ。殺せない。
 この人を、殺せない……。

 どうしようも無い無力感に、楠見は目を伏せる。
 殺すと誓った。
 残酷な決断をさせる前に、なるべく安らかに逝けるようにと。その全てが自分の我儘で、どうしようも無い酷いエゴだったとしても。
 なのに、殺せない。
 頭ではわかるのに。簡単にこの人は死ぬと、理解しているのに。手こずらないと思っていたのに……。

 ポケットに瓶を入れ、音を立てないようにそっとベッドから距離を置く。
 どうするべきかわからず、深く深く息を吐いた。

「……殺さねぇのか?」

 心臓の音が、一瞬止まった気がした。
 恐る恐る顔を上げると、ベッドからこちらを寝ぼけた目で見つめる佐野がいた。

「……起きていたん、ですか 」

「今な。お前なんか盛ったろ 」

「睡眠薬を、少しだけ 」

「はは、そんで失敗すんなよ 」

 寝起き特有の掠れた声で、佐野は笑う。
 こっち来い、と手を伸ばされ、大人しく従う。逆らう気なんてなかった。
 殴られるなら、それを甘んじて受け入れるべきだろう。罵られるなら、そうされるべきだろう。
 楠見はやってくるであろう衝撃に備えて、息を止める。

 が、佐野は楠見を優しく抱きしめた。

「馬鹿だな、お前は。殺したって怒るかよ 」

「……そこ、は、怒ってくださいよ 」

「俺だってお前を殺してる 」

「それは……っ 」

「原田左之助の記憶が偽物でも、もう俺の一部なんだよ。俺自身がなんであれ、真偽がなんであれ、な。
 だからいいんだ。俺がお前を殺した。それが俺の中では現実だから 」

 だからもう泣くな。
 そう言って、優し優しく背中を撫でる。

 華奢な背中だった。
 ひとりでなにかを背負うのには、あまりにも頼りない。少し力を入れれば折れてしまいそうだった。

「……ぼく、は、涼太さんが……原田先生が、苦しむのが嫌で……」

 消え入りそうな声でそう白状する楠見に、佐野はなにも言わない。腕に込める力を強くし、それを相槌とした。

「なのに、失敗して……師匠に、殺しの才能があるって、言われてたのに、一回も上手くできなくて……」

「……そーだな。お前は、臆病で、人を傷つけるつもりも無さそうで。なのに沖田と同じで、強かったからな 」

 何度か稽古をつけたことがある。
 筋はいい。感もいい。動きも悪くない。
 あと数年……いや一年もあれば、沖田総司と並ぶ実力になっていただろう。
 なのに、楠小十郎はいつもいつも、傷つけないように、細心の注意を払っていた。
 相手が誰であろうと、傷つけないようにと、真剣だった。

 少なくとも、佐野の記録の中ではそうなっている。

「師匠との、約束で……人を殺めない努力をしろって……それが、力ある、者の責務、だからって 」

 それを最後に、楠見は泣き出した。
 小さな小さな泣き声に、佐野はなにも言わなかった。腕に抱きとめたまま、ベッドに寝そべった。

 悲しい声だった。
 今まで一度も、心の底から大泣きしたことがないような、そんな声だった。