水族館であいましょう


 天気:晴れ/風速:5m/s
 場所:キョートフ.エリア4.佐野涼太、自宅

 :佐野涼太
――
 
 微かな物音に目を覚ました。
 しばらく自分がどこにいるのかわからなかった。そのくらい深く深く眠っていたらしい。

 暖かい陽の光がカーテンを揺らす。
 キッチンからはバターを塗ったトースターとカリカリとしたベーコンと目玉焼き、珈琲の匂いが漂ってきた。
 やがて平皿をふたつ手にした楠見が六畳間の部屋に姿を見せた。少し大きめのゆったりとしたシャツの腕を巻くっている出で立ちは、年相応に幼く見えた。

「おはようございます、涼太さん 」

 酷く生気のある顔で微笑む楠見に少し混乱するも、すぐに記憶が蘇り、同じように微笑み返す。
 
「……うん、おはよう、悠生 」

 △▼

 時は二日ほど遡る。

 あの後、最下層で気を失うように眠っていた佐野が目を覚ました時、目の前には楠見がいた。
 じっと佐野を見つめていた黒曜石が、いつもとなんだか違う気がして、そこにいるのが本当に自分の知っている楠見悠生なのか、わからなかった。

「……お前、悠生か? 」

「はい、悠生です 」

 その一言を聞いた瞬間、佐野は目の前の少年から素早く距離を取った。
 その声はいつもの無機質なものとは違う。愛してやまなかった優しい声で、あの時と……記憶の楠小十郎と同じ声だった。

「……涼太さん?」

「誰だ、お前 」

 佐野の言葉に首を傾げる姿も、いつもよりも人間味があって、常に纏っていた無機質な空気がほとんどない。
 カルテの内容も相まって、目の前の楠見が酷く気味悪く映った。

「……僕は、楠見悠生です。あなたとずっと、ここを探索していた、悠生ですよ…… 」

「あいつが、そんな、ハキハキ話すわけないだろ……
いつも、途切れ途切れで……それに、あいつは……あいつ、は…… 」

 そこでまた目頭がじわりと熱くなる。
 残酷な事実が頭を殴りつけてくるようで、吐き気がした。

「あいつは…… 」

 上手く言葉が出てこない。
 先を話せるほど、今の佐野は強くあれなかった。
 溢れた大粒の感情が輪郭をなぞり、冷たい床に弾けて冷えていく。

「……僕は、確かにロボトミー手術を受けた、前の実験場の、被検体、です 」

「っ、なら……!」

「でも、また元に戻れたんです。自発的に動いたから。ドクター達の指示から外れたことを始めたから、また被検体に戻ったんです 」

 言葉を紡ぐ少年と、あの日、首を落とされる前の楠の姿が重なって見えた。
 縋るような、震えた声。それなのにそらされることのない、信頼の籠った眼差しに、喉の奥がキリキリと痛んだ。

「……どう、信じろってんだよ 」

 ぐらりと揺れる心に、佐野は思わずその場にしゃがみこんだ。膝に額を預け、身を守るように目を伏せる。
 頭が痛い。パンクしそうで、怖い。

「涼太さん、ゆっくり息をしてください。大丈夫、大丈夫……」

 微かに震えた声は優しくて、少年の真心が少しずつ佐野に染み込んでいく。が、一度生まれた疑心は簡単には崩れたりはしない。
 そっと背中をさする手が、初めてこの世界で再開したあの日と重なった。

「えっと……あ、そうだ。涼太さん、この怪我のあとなら、信じられますか?」

 そう言って、左腕の裾をたくし上げる。斜めに入った大きめの切り傷の後が、白い肌に刻まれていた。
 水族館を探索している時、転んで落ちていたガラス片でザックリと切った時にできたものだ。他の誰でもない、佐野が手当をしたのだから、間違えるはずがない。
 その傷跡を見て、ほんの少しだけ、目の前の人間が楠見悠生だと信じられるような気がした。
 楠見の細い体を、確かめるように抱きしめた。低い体温が手のひら越しに伝わってくる。が、その温度は生きている命の熱が感じられた。

「……本当に悠生、なんだな?」

「信じれないのも、無理はないです。いくらカルテに書いてあるからって、それを全て信じろというほうが難しいですから 」

「……え?」

「え?」

 数秒の沈黙のあと、すぐにカルテを広げて改めて内容を読み上げたところ、一番下の欄に「自発的に行動を開始したため検体へ。ロボトミー手術の解除処置済み 」と書かれていた。

「最後まで読んでなかったんですね 」

「るっさ…… 」

 カルテから目を離し、可哀想なくらい真っ赤になった佐野に声ちっさいです、と笑う。そんな軽やかな声に、佐野は別の意味で頭を抱えることになった。
 いくらなんでも恥ずかしすぎる。気が動転して最後まできちんと資料を読み込んでいませんでしたなんて。

「あ゙ぁ…… 」

「あは、僕のこと心配してくれたんですね 」

「当たり前だろ……んなの…… 」

 心配するに決まってる。突然行方知れずになった好いた相手を心配しない奴なんていない。
 ましてや、残酷すぎる事実を知った後に……。

「好きなやつを心配して、なにが悪い 」

 顔を背けながら、思わずぽそりと一人言をこぼす。楠見からの返事はない。当然だと思っていた。が、そろっと視線だけを向けると、楠見も佐野に負けず劣らずの赤面っぷりだった。
 はくはくと口を動かし、言葉を紡ごうとして失敗して……を繰り返していた。

「……ぇ、ぁ……その、僕、は……」

「なんだよ、あんなに熱烈にキスしておいて今更 」

「そっ!?あ、いや……あの時は……その……」

 忘れてください、と弱々しくへにゃへにゃの声で眉を下げる。あの時はどうかしてて……と言い訳する楠見に、ようやく顔をあげる。

「……あはは、じゃあ、両想いですね 」

 そう愛らしく笑う姿に、ようやく目の前の少年が、自分のよく知る楠見悠生だと確信することができたのだった。

 それからしばらくお互い無言で状況を咀嚼し、飲み込んでいた。如何せん情報量が多く、唐突な出来事が立て続けに起こったせいで、頭が混乱していたのだ。
 が、不意に上で藤原を待たせていることを思い出し、楠見を急き立てていくつかのファイルや資料をカバンに押し込み、急いで出口へと向かった。
 外に出ると日とっくに昇っており、車の中で寝落ちてしまっていた藤原に平謝りをすることになった。当の本人は二人が無事に戻ってきたことにまず喜び、楠見の変化にも我が事のように喜んでくれた。

「そうか……悠生になにがあったか、今は聞かないが、無事でよかった 」

「ご心配をおかけしました 」

「全くだ!本当に心配したんだからな!」

 真剣に怒るも、すぐにまた表情が柔らかくなった藤原に、楠見も強ばっていた顔を綻ばせていた。
 そのまま診療所に戻り、楠見とは一度そこで別れた。診察もあるし、なにより自分に起こったことを説明しないといけない。

「またね、涼太さん 」

「うん、またな 」

 小さく微笑みながら小さく手を振る楠見に、佐野も小さく手を振り返す。最初に会った時とは大違いだなぁと笑う藤原に、いつ詳細を話そうか頭を悩ませることになった。

 △▼

 二人は少し遅めの朝食を取り終わり、再度資料の内容をまとめていた。
 大量の資料と楠見の話から、この世界の事でわかったことは、大きく3つ。

 ① この世界は実験場であり、被検体である佐野達を除いた人間は皆、ロボトミー手術を受け自我を剥奪された、アンドロイドのような状態である

 ② そもそもこの実験場を作ったのは人間では無い

 ③ なんの実験かは定かではないが、恐らく『感情』に関することの可能性が高い

 
「人間じゃねぇのは納得だな。人間がこんな場所作れるわけがないしな 」

「実験やこの世界に関しては、理解する方が無理だと思います。正直、ロボトミー手術とは書いてありますけど、それもあまり信用できません 」

「…………? あぁ、ここを作ったやつがどう解釈してるかわかんねぇからか?」

「はい。この世界で見聞きした情報の正確性なんて、あってないようなものでしょうし 」

 となると、この世界やドクターと名乗る存在の目的などを考え、悩むのは無駄と言っても過言では無い。
 人間の理解をとおに超えている。頭がパンクしかけたのも致し方がない。ある程度のところで思考を止めなければ発狂しそうだ。

「……俺らに出来ることは何もないってことか 」

「そう、ですね。事実を突き止めることは不可能だと思います。あれが生きている生命体だなんて思いませんし……」

 ドクターの姿を見たことがあるらしい楠見の顔は青白い。本人曰く、ドクターの見た目は水族館にいたどの生物よりも気味が悪く、見たあとの記憶が酷く曖昧らしい。
 喉の酷い痛みで、初めて自分が叫んでいると自覚した、とまで言っていた。

「正気でいられる気がしません。自分が自分じゃなくなります、あんなの……」

 青ざめた顔を顰めて、そう呟く声は震えていた。

 この状況を変えることはできない。佐野と楠見にできるのは、この世界を受け入れるか、拒絶するかのどちらかのみ。
 資料を読み込めば読み込むほど、それをまざまざと突きつけられた。

「……お前は、どうしたい?」

「僕は……まだ、わからないです。涼太さんとは、一緒にいたいですけど 」

「言っとくが、俺はお前のことにまで責任は持てねぇからな 」

「わかってます。自分のことは自分で、責任を持ちます 」

 冷たく突き放すようだが、それが佐野なりの優しさだと理解している。自分で決めていいと、誰かに従うことはないと、佐野はそう言いたいのだ。
 相も変わらずわかりにくい人だと、楠見はちょっと笑いそうになる。不器用がすぎる。

 ぼすりとベッドに横になり、佐野は天井を見つめる。己の無力さや未熟さは理解しているつもりだったが、心のどこかでこの問題や謎を、多少なりとも解決するだけの力があると思い込んでいたのだと自覚する。

「涼太さん?」

「頭回んねぇ 」

 不服そうな顔をする佐野の顔を覗き込むように身を屈める楠見を見上げながら、指先で自分とは違うさらさらとした髪を遊ばせる。
 そのまま滑らかな頬を指先で撫でた。

「……煽ってます?」

「んー……」

 考え込んでいるのか、気の抜けた返事しかしない佐野に、楠見はため息を着く。この人、ちょっと危機感なさすぎじゃないか?

 ふと、ちょっとした悪戯心が顔をのぞかせ、ぼんやりとした顔の佐野にそっと距離を詰める。
 顔が寄り、気がついた時には楠見と佐野の影が重なった。
 ビクリと体を跳ねさせ、素早く手を伸ばして肩を押す。体を起こすことはできたが、楠見は佐野から体を離す気がまるでない。
 
 柔軟剤であろう甘い匂い。口に感じる熱と、重ねられ、柔く握られる指先。
 ぱちりと目が合い、抵抗する気が散っていく。
 が、なんとか理性の端を掴む。

「まっ、ば、か……!やめ、んんっぅ……、っ 」

 佐野の抵抗を無視するように、体を寄せられる。じりじりと壁に追い詰められ、気がついた時には身動きが取れなくなっていた。門前の楠見、後門の壁。悪足掻きで首を振って抵抗するも、上手くいかない。
 
 佐野に自覚はなかったが、この男、楠見悠生にゲロ甘な上、キスに弱い。なので特別キスが上手い訳ではない楠見でも、佐野を大人しくさせるのにさほど困ることはなかった。

 ずるずると体が壁をつたい、下に下に下がっていく。バランスを取ろうと、覆い被さるようにキスをしてくる楠見の背中に腕を回す。
 ゆったりとしたシャツを掴み、体に力を入れるも、すぐに背中からシーツに沈んでしまう。ただ添えているだけになってしまった手が、パタリとベッドに落ちた頃、楠見はようやく佐野から体を離した。

 トロンっとした目で見上げてくる佐野に、思わずほぅ、と柔く息を吐く。真っ赤な顔、浅い息、潤んだ目からは今にも涙が零れそうで、優越感にも似たなんとも言えないものが、コンコンと溢れてくる。
 
「……ねぇ、もっと、してもいいですか?」

「……ぇ、ぁ……っはぁ?!なん、駄目に決まってんだろあほんだら!!おま……、お前は、まだ…… 」

「だめ?」

 切なげな顔を浮かべて、愛らしく首を傾げながら、佐野の頬を撫でる。冷たい指先が、酷く火照っている皮膚から熱を取り上げていく。
 
 くそっ、こいつ自分の顔がいいことを理解してやがる……!!
 
 あの無機質だった頃の方がまだ可愛げがあったのに、すっかり変なところで強かでちゃっかりしている性格に戻っている。喜ぶべきなんだろうが、今の自分の状況を考えると嘆きたくなる。
 苛立たしげに楠見の口を掌で塞ぐも、白い指先がいとも容易く剥がしてしまう。

「どうしても……?」

 佐野の指先を舌先で柔くなぞり、ゴツゴツとした骨ばった指にゆるりと歯を立てる。それだけで背筋にゾワゾワとしたものが駆け抜けていく。
 
 顔が熱い。耳が熱い。喉が熱い。手が熱い。
 身体のあちこちから火がでそうなほど、熱くて熱くて堪らない。

「ゆーき……やだ、やめろ……」

 とうとう懇願するように、弱々しく佐野はいやいやと首を振る。

「じゃあ、なんで突き飛ばすなりしないんですか?出来ますよね、あなたなら 」

 沈黙が落ちる。
 そう指摘されてはなにも言えない。だってそれは事実で、今のようにへにょへにょになりつつある佐野でも、楠見程度ならどかすことは容易かった。

 それなのに好きにさせている。ろくな抵抗の意思がないことは、もはや筒抜けだった。

「…………いや、な訳じゃねぇよ。ただ、社会的に死ぬのは……困んだろ、色々 」

「なんだ、なら大丈夫ですよ。ここには僕しかいませんし。なにより、被検体以外の人達はアンドロイドのようなものなんでしょう?なら、僕らが家の中にいて、彼らの目に入ってないうちは大丈夫です 」

「でも、今もずっと……ドクターって奴に観察されて……んっ 」

 その先は言葉にならず、楠見はまた佐野にキスを落とす。深く深く沈んでいくようなそれに、もう抵抗する意思も言い訳も霧散してしまう。
 小さな舌先で甘く柔く翻弄されて、酸欠で頭も上手く回らなくて、ふわふわと心地のいい浮遊感がうっすらと全身を包んでいく。
 砂粒の理性が悲鳴をあげるが、それは楠見の手のひらに塞がれたせいで、佐野の耳には届かなかった。代わりに絶えることなく水音が響いて、頭がどうにかなりそうだった。

「大丈夫、今はキスだけですから、ね?」

 最後に口角を軽く吸い上げ、涙でぐしゃぐしゃになった佐野の頬を指でく拭い取りならがら、楠見はお手本のように綺麗に笑う。
 くらりとしてしまいそうな甘い笑顔を最後に、佐野の意識は静かに夢の中へと落ちていった。