足元がガラガラと音を立てて崩れ落ちて行く気がした。
上手く息をすることができない。
完全に理解の範疇を超えている。佐野の器から溢れ出た感情が混ざり、渦になり、ごーごーと音を立てる荒波のように綯い交ぜになっていく。
あたまがいたい。
訳も分からない涙が溢れて、流れて、喉の奥からヒューヒューっと嫌な音がする。
「涼太さん、涼太さんっ……!」
遠くから焦ったような楠見の声がするのに、答えることが出来ない。やがて酷い耳鳴りに、その声もかき消されていった。
苦しくて苦しくて、吐きそうで……目眩がして、胸が痛くて、胃がひっくり返ったような苦痛と気持ち悪さに、体を丸める。
偽物。
この世界は作り物で、自分自身すらプログラムされたなにかで、今まで信じてきたものは……。
なら、この瞬間はなんなんだ?この瞬間すらも、あの罪悪感や自己嫌悪も、悠生への愛おしさも暖かさも楽しさも全部誰かがそうなるように設定したから?自分で決めたと思っていたことは、結局は紛い物なら、それなら……――
そこで思考が止まった。
口に触れる柔らかな感触と、ふわりと柔らかい匂い、頬に触れる暖かい手のひら。
柔らかく湿った感覚がして、
悠生にキスをされている、と気が着いた時には、酷い過呼吸は止まっていた。
ゆっくりと口が離れ、温度が離れた僅かな心細さを残して、楠見は体を戻してしまった。
「………………は?」
「涼太さん、しっかり」
「いや、おま……え?……は?なに?な、なんで口…………きす、なんで……?」
さっきとは違う意味でパニックになりかけている佐野に、楠見はんー?と首を傾げる。
「読んだから 」
「なにで……?」
「漫画 」
脱力した。
ぺたりと地面に手をついて、そのまま倒れ込む。
冷たい床が、火照った顔を冷やしてくれて気持ちが良かった。
漫画のコマの端にでも書いておいてほしい。過呼吸を起こした相手にキスをするのはフィクションだと。
「…………悠生 」
「うん 」
「……それは、フィクション 」
「でも上手くいった 」
どこが満足気な、やり遂げたと言わんばかりの顔に、佐野は頭を抱える。変な成功体験を与えてしまった……。
「不安、マシ?」
「ましに、みえるか……?」
小さく首を横に振る楠見に、佐野は力なく笑いかける。とどめなく溢れる涙を拭うこともせず、体を起こすこともせず、リノリウムの床に力なく横たわったままだ。
楠見も隣にうつ伏せになり、じっと佐野の目を見つめる。不安も恐怖もない静かな目が、今は少し羨ましかった。
「ゆう…… 」
き、と最後まで言い終わらないうちに、楠見は再び佐野の口角にキスを落とした。
何度も何度も柔らかく、優しく、慰めるように。何度も、何度も。
「涼太さん、泣かないで 」
「……泣いてねぇ 」
泣いてる、と言いながら、指先で涙をぬぐう。
泣いてない。仮に泣いているのなら、それは自分の意志で泣いているわけではない。だって、今の自分は、誰かにプログラムされた存在なんだから。偽物なんだから。
「偽物が、泣いたりするかよ 」
力なく放った一言に、楠見は目に見えて不機嫌になる。佐野もバカではないから、なぜ不機嫌になったかは分かっている。それでも口に出さずにはいられなかった。
「わざと言ってる?」
「だったら、黙らせてくれるか?」
肩に手をかけ、自分を床に押し付ける楠見の頬に手を伸ばす。
今は何も考えたくなかった。倫理観も、善も悪も、なにもかも。
……なんて考えていた二時間前の自分を全力で殺しに行きたい。
ばーーかがよ!!あほんだらがッ!!!
相手は未成年だっつてんだよふざけんな俺!!!どれだけ不安定だったとしても、未成年になにしでかしてんだよしっかりしてくれ二時間前の俺!!!!
ベッドに突っ伏し、己のしでかしてしまった事の重大さに、頭を抱える。
楠見悠生とキスをした。それだけ。
いやそれだけではない。相手は未成年で、自分は成人済みの社会人で、いくら楠見が佐野に一方的にだったとはいえ、それを容認して受け入れたのは佐野の方。
挙句、目を閉じればその時の様子をまざまざと思い出せてしまう。
啄むように触れた薄い唇も、柔らかく小さな舌先も、その感覚も、繋がれた手の温度も全部。
……殺してくれ。切実に、誰か。
『涼太さん 』
あどけなく笑う顔は幼くて、子供の戯のようで、なのに感覚だけが妙に艶めかしくて……――
「ッ、あ゛ぁ……!!」
吐き気がするほどに心臓が騒ぎ立てる。顔が痛むほどに熱い。
「相手は……ガキだろ…… 」
もはや言い聞かせるように、佐野は言葉を吐き出した。


