天気:雨/風速:11m/s
場所:キョートフ.エリア6.水族館
:佐野涼太
――
服が動く微かな布の音を立てることすら躊躇いそうな不気味な静けさが、施設内を満たしていた。
最下層へは、複数のエレベーターで可能な限り下層へ降り、くだんのエスカレーターを使わないと辿りつくことができない。焦る気持ちを押さえつけながら、佐野は最下層へ向かう。
不気味な静けさの中、水槽の中の生き物達は、息を殺し、観察するように佐野に目を向けている。
まるで彼らの目が、監視カメラの役割でも果たしているかのように、ギョロリと施設内を駆け抜ける佐野を追いかけている。
が、当然そんなことに気が付ける余裕は、今の佐野にはない。
下へ下へ、楠見がいるであろう最下層へ。
向かえば向かうほど、あたりは暗く、寒く、冷たく、静けさを増していく。
深淵へと自らの意思で向かっているような感覚に、時折目眩がするが、構わずに足を進めた。
本当は今すぐ踵を返して帰りたい。
足が竦む。奥歯がカチカチと小さく音を立てている。膝がフラフラと覚束無い。
それでも、言葉にできない衝動に身を任せて、ひたすら下へ、下へ。
ただ、楠見を見つけることだけに集中して、歯茎から血が滲むほどに歯を食いしばりながら、恐怖を抑えつけて、ただ前へ。
もしかしたら、原田左之助もそうだったのかもしれない。
ただ、誰かのために、自分のために、溢れて溺れてしまいそうな程の恐怖に打ち勝っていたのかもしれない。
最下層へ伸びるエスカレーターを駆け下りながら、佐野はふとそんなことを思った。
自分の元になった人物の気持ちなんて、今やわかるわけもない。偽物である自分には検討もつかない。
それでも、藤原の言う通り、この気持ち全てが嘘偽りではないというのなら、佐野は楠見の元へ向かうべきだ。共に選択を選びとるべきだ。
それが彼を利用した自分への、せめてもの責任の取り方だと、佐野本人は自分自身にそう言い聞かせているし、本心から思ってもいる。
が、本当は少し違う。
佐野涼太はもう、楠見悠生のいない生活がわからなかった。楠見悠生を失いたくない。ただそれだけの理由で走っているのだが、このことを佐野が自覚したのは、もう少し先の未来の話だ。
最下層の白い光の中へ飛び込み、佐野は思わず固まった。一瞬、呼吸も思考も停止する。
空っぽだった部屋には、大量の資料が置かれ、壁にも床にも文字や図が書かれた紙が散らばっていた。菓子パンやおにぎりの袋が、コンビニの袋から零れ落ちている。
楠見はずっとここで調べ物をしていたのだ。カセットテープの内容が本物なのか、自分の記憶の抜け落ちたものがなんなのかを知るために。佐野に相談もせず、たった一人で。
床のファイルのひとつを拾い上げ、文字をなぞる。内容は二年前の実験場で起こった事故のことについての報告書だった。かなり大規模な事故だったらしい。
『町が壊れた、ことは覚えてる 』
賑やかなファーストフードの店内で、シェイクを飲みながらポツリと呟いた楠見の言葉が、鼓膜の奥で蘇る。
「…………町が壊れる事故 」
楠見がいたのは、もしかしたらここなのかもしれない。楠見の記憶が欠落しているのも、事故に巻き込まれたショックだと思えば納得がいく。
ぱらりと次のページへ目を向け、手が止まる。
――被検体にロボトミー手術を実行し、次の実験場へ輸送すること――
その一文に、佐野の頭には疑問が浮かぶ。
スマートフォンので"ロボトミー手術"と検索しようとするも、電波が届いていないらしく、圏外と表示されている。使い物にならないとポケットにねじ込み、あたりの資料から医療関係と思わしき物に、片っ端から目を通す。
ようやく見つけたのは、楠見が書いたと思わしきメモ。そこに書かれた文を読み上げた途端、喉の奥でヒュッと歪な音がした。
――ロボトミーは、精神病の治療法の一つであり、脳の前頭前野の神経線維の切断を伴う。
ロボトミー後は自発性、外界への反応性、自己認識、自律性が損なわれた。21世紀では患者の権利を守る観点から、人道的な治療法として認められていない。
震える手で口元を抑え、その場に座り込む。
もし、もし楠見がこの事故に巻き込まれていたとして、この手術を受けていたとしたら。最初に会った時にプラスチックのような印象を受けたのはそのせいだったとしたら。
そこまで考え、佐野は首を振る。
楠見は自発的に水族館を調べ、これだけ資料を集めている。最悪の想像を振り払うように、深く深く息を吸った。
(大丈夫、大丈夫だ。悠生が空っぽなわけねぇだろ )
言い聞かせるように何度も何度も考え、別のファイルに手を伸ばし、内容を見る。そこには、大勢の人間のカルテが収められていた。
パラパラと捲り、一枚のカルテが目に入った途端、今度こそ手から資料が滑り落ちる。地面にぶつかる硬い音が、静かな部屋に響いた。
震える手でファイルを持ち上げ、祈るような気持ちでカルテに視線を向ける。が、あまりにも残酷な現実は、変わることなくそこにあった。
「楠見悠生」
見覚えのある名前が記されていた。貼られている写真をどれだけ見つめても、佐野のよく知る楠見の容姿そのままだ。
心のなにかにヒビが入ったような気がする。心臓に鋭い刃物が突き刺さったように痛い。
ぽたぽたとカルテにシミが広がる。どうしようもない絶望が重くのしかかってくる。
楠見はいったい、今どのくらい楠見悠生としての自我が残っているんだろう。あの子の言っていたことは、どこで…………どこまで本心から話していたんだろう。
体がこわばり、息がうまくできない。
指の隙間から押さえつけられなかった嗚咽が、静かな部屋に吸い込まれていった。
瞼の裏には、楠見との半年間が走馬灯のように、色鮮やかに蘇っては消えていく。
図書館で資料を調べたついでに、絵本を手に取っていた背中。
ファーストフード店でポテトを黙々と口に運び入れる細い指先。
ぱたぱたと軽やかに歩くシルエット、透き通った綺麗な目線、柔らかく広がる髪、時折見せる無垢な笑顔……――
佐野にキスを落とした薄く、少し冷たい唇。
髪の隙間から覗いた、染まった耳朶。
「悠生……っ、ゆうき……!」
認めるしかない。
自覚するしかない。
いつからなんてわからない。
どうしてかなんてわからない。
楠見悠生が好きだ。
どうしようもない程に、あの子が大切だ。
悠生ともっと話がしたい。
偽物の世界でも構わないから、悠生と一緒に生きてみたい。
なのに、それなのにこんなの……――
どれだけの時間が経っただろう。
部屋響いていた嗚咽が止む。
冷たい地面に倒れ込み、佐野は気を失うように眠り込んでしまった。涙が頬を伝い、床に小さな水溜まりを作っていた。

