アスカブルー

朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。
目覚ましのアラームが鳴る前に、俺は自然と目を開けた。五十五歳にもなると、身体が勝手に起きるようになるらしい。
「……さて」
布団から起き上がり、顔を洗い、髭を剃り、スーツに袖を通す。ネクタイを締める手つきは、もう何十年も変わらない。

玄関を出ると、冬の空気が頬を刺した。車に乗り込み、いつもの道を走る。会社に着き、タイムカードを押し、デスクに座る。
図面を確認し、メールを返し、客先に電話をかける。
昼になれば社員食堂で焼き魚定食を食べ、午後は進捗の打ち合わせ。納期が間に合いそうもなくて喧々諤々。やばいぞこれは。
気づけば夕方になり、仕事を終える。帰ろうかと思ったら急にSlackで同僚からピンチのメッセージが。工場に顔を出してみたが、大したことではなくて安堵。

「ちょっと寄ってくか」
会社の近くのいつもの居酒屋「やんぐ」に入り、ひげを生やしてダンディーな雰囲気をまとって相変わらず男前な大将にビールを一杯注文。
焼き鳥をつまみながら、今日の疲れをゆっくりと溶かしていく。ビール、おかわり。

家に帰ると、冷蔵庫から麒麟淡麗〈生〉と桃屋の花らっきょうを取り出し、パソコンを開いた。
AGのファンクラブサイトにアクセスする。シャキっとらっきょうを噛む。
rockyがスレッドを立てていた。

| おおおおっはようございまーーーす💦✨アセキラキラ
| MILLIさんとのコラボのMVの招き猫姫絵を描いていたら、3日も経っていました😆✨お久しぶりですrockyです_( _´ω`)_ペショ✨✨
| 改め改め改めまして、姫、24歳のお誕生日おめでとうございます🎂✨
| ということで、今日も一日、姫の笑顔にパワーを貰って、頑張っていきましょう✨✨

かさんどらもすぐに返信している。

| 今日は岩下食品株式会社が制定した「らっきょうの日」です( ゚∀゚)ピャー
| 久しぶりにrockyさんのスレ見た気が( ゚∀゚)・∵ブハッ!!

俺は笑いながらキーボードを叩いた。
| 久しぶりすぎて忘れるところだったぜ😆
| そんなことより、俺今桃屋の花らっきょう食べてて偶然に驚愕!

すぐ通知が来た。俺のコメントに誰かがイイネを付けたようだ。見ると、ビャングビャングがコメントしている。

| 花らっきょう、皮ごと、ですよね?皮むいて食べてやしませんよね?

当たり前だ。そんな何気ないやり取りが、俺の日常だった。

休日にはガンダムの最新作「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女」を観に行き、帰りに模型店に寄って新作キットを眺める。けど買わなかった。なぜなら帰宅したらお金のかかることが待ち構えているからだ。
そう、それは、AGのライブのファンクラブ先行抽選に申し込むことだ。
「当たれよ……」
祈るような気持ちで申し込んだ数日後、メールが届いた。
《【当選】新しい学校のリーダーズ全国ツアー奈良公演》
「よし!」
思わず声が出た。実は既に会場近くの東横INNは予約済みだ。

 * * *

そして当日。俺は北陸自動車道を南へ走らせ、奈良へ向かった。
会場のなら100年会館に着くと、ファンクラブ仲間が手を振っていた。
「スーツアーマーさん!」
「遠征お疲れさまです」
「今日もコスプレばっちりですね!」
開演前のロビーは、期待と熱気で満ちていた。もう汗がしっとりと(にじ)む。
そのとき、ふと視界の端にポスターが入った。

 奈良国立博物館
 特別展「高松塚古墳壁画」
 西壁女子群像

胸がざわついた。
「……なんだ、これ」
ポスターの中央に大きく載っている四人の女性。
その立ち姿、目線の流れ、衣のひだの描き方。
どこかで見たような“癖”。
気づけば、俺は仲間に一言だけ告げていた。
「……ちょっと行ってくる」
「えっえっ?!スツマーさん、開演あと2時間後ですよ!」かさんどらの声が追いかけてきた。
車に飛び乗り、ナビをセットする。距離は1.9km。なんだ近いじゃないか。到着予想時間、8分。近い!
アクセルを踏む足が震えていた。

奈良国立博物館に着くと、吸い寄せられるように展示室へ向かった。
人の声も、足音も、何も耳に入らなかった。

そして──

西壁女子群像の前に立った。



その瞬間、背筋に冷たいものが走った。

立ち姿。
目線の流れ。
衣のひだ。
線の癖。

「……これ」
喉が震えた。
「……俺の線だ」

指先が震えた。
ありえないはずの既視感。
だが、確かにそこに“自分の描いたもの”があった。

踊る四人の笑顔。
清麻呂の声。
学館の工房に挿し込む夕日。
漆喰で塗られた白い壁。
筆を握る自分の手。
和尚、村人、子どもたち。

すべてが、一気に蘇った。
声にならない声が漏れた。

俺は奈良国立博物館を出て車に乗り込んだ。なら100年会館へ。
アップグレードも当選した。なんと最前列のセンターの座席だ。
もうすぐ開演。
千三百年ぶりに楽しむ。千三百年からの青春。また、会える。

《完》