「くそったれ!!」
トラヴィスは腹の底に溜まったありったけの罵声を、清掃されたばかりのトイレの床にまき散らした。
「よーし、今日も朝から順調だ」
その隣で、洗面台の鏡の前に立ち、携帯用ブラシで丁寧に髪を整えているのはヒースである。
「お前がくそったれと言い、俺が髪を綺麗にセットする。完璧な一日の始まりだ」
鏡に映る自分を眺めながら、ヒースは栗毛の髪を撫でるようにブラシで梳いている。肩まである髪は洗い立てのように艶々と輝いていて、ブラシの櫛で後ろへ撫でつけると、流れるようなラインで整ってゆく。
トラヴィスはそれを横から苛々と眺めながら、自分の髪を無造作にかいた。普段からあまり髪を梳かすという行為に情熱をもたないトラヴィスだが、いくら身だしなみに煩い同僚とはいえ、今から女性とデートするわけでもないのに、ジョン・F・ケネディ空港の男子用トイレでなぜわざわざ髪を梳かさなければならないのか理解できない。
「よし、今日の俺も最高だ。どんな女性でも、素敵な出会いを与えられるぞ」
鏡に映る自分の姿を左右から確認して、ようやく納得したヒースは、ブラシについた髪の毛を取り、スーツの胸ポケットにおさめた。肩辺りを手で払い、両手でトレンチコートの襟を丁寧に引っ張って、最後に鏡に映っている自分へウィンクする。
「お前はいい男だ、ヒース・ハリド」
「ああ、本当にいい男だ。お前が全米一のまぬけなハンサム野郎だって分かったなら、さっさとここを出ようぜ」
「全米一のくそったれ野郎が嫉妬しているな」
ヒースは涼しい顔で、腕時計を見た。
「ちょうど五分だ」
トラヴィスはようやく馬鹿げた拷問から解放されたというよう、豪快にトイレのドアを開けて外へ出た。
すぐそばのロビーで待っていたトーマスは、腕時計を眺めていた。
「OK、ぴったり五分だね」
トイレから五分で出てくるよう命令した司令官は、そのとおりに行動した二人に、満足そうな笑顔を見せた。
「さあ、身も心もトイレですっきりしたら、僕らも仕事に行こうか」
トーマスとヒースは連れだって歩き始める。
だが、トラヴィスはズボンのポケットに両手を突っ込むと、その場に突っ立ったまま嫌そうにそっぽを向いた。
「俺は行かない」
ヒースは足を止めて、呆れたように振り返った。
「いい加減にしろ。俺がどうしてお前をトイレに誘ったと思うんだ? 個室でキスして抱き合うためじゃないんだぞ。お前の口が疲れて動かなくなるまで、くそったれって罵らせてやるためだ。そうすれば、今日一日余計なことを言わなくてすむ」
「やかましい」
トラヴィスはテコでも動かないぞと言わんばかりに睨みつける。
「俺は必要ない。トーマスとヒースが行けば、十分だ」
「それが十分じゃないんだよ、トラヴィス。いい子だから、僕たちの後ろから口をへの字に曲げてついてきておくれ」
今日の派遣について、散々トラヴィスから文句を言われたトーマスは、最後の悪あがきにもどこ吹く風で聞き流した。
「さあ、駄々っ子になっていないで、頑張って足を動かすんだ、トラヴィス・ヴェレッタ捜査官」
その言いように、トラヴィスはカチンときたが、まだ口をへの字には曲げなかった。
「だいたい、おかしいだろうが。脅迫文なんて、日常茶飯事で送られてくるものなのか? そんなに暇な奴がいるのか?」
「前にいただろう。鼻歌しながら、脅迫文をポストに出した奴が。たまたま暇だったんだ、きっと」
「だから、おかしいだろう」
「おかしいのは、お前だ。俺たちは本部の命令で行くんだぞ。これは我々の管轄なんだ。お前がいくらくそったれと罵っても、この現実は変わらない。わかったな? 以上だ」
ヒースは強引に話をまとめて終わらせた。
「時間が迫っている。早く行かないと」
トーマスは腕時計にちらっと目を落とした。だが、すぐに顔をあげて、人でごった返すターミナルの方を見る。
ジョン・F・ケネディ空港はニューヨーク市クイーンズ区にあり、アメリカを代表する国際空港の一つである。一日に何百もの飛行機が離着陸し、毎日大勢の人々で混雑している。現在使用されているターミナルは六つあり、三人がいるのはターミナル8だ。
「どうした、トーマス」
各国の観光客やらビジネスマンたちやらで乱雑に混み合う中、トーマスは遠くの一点を見つめている。
「テロリストでも発見したか?」
「……いや、そうではないよ。たぶん、お迎えだね。うん、やはりまっすぐに僕たちへ向かってくる」
「お迎え?」
ヒースはトーマスへ顔を寄せて、小声で指摘した方向へ目をやる。
「……あの女性か?」
「たぶんね」
二人の後ろにいるトラヴィスは、まだ頑として立っていたが、身を寄せあっている二人の背中から首を伸ばして覗き見た。様々な出で立ちの人々で賑わうターミナルが見える。その人ごみの中から、黒いスーツ姿の女性が一人、人とすれ違いながら、ひときわ目立つ足取りでこちらへ向かってくる。豊かな金髪を腰の辺りまで垂らした女性は、スーツとお揃いの黒いハイヒールできびきびと近づいてくると、迷うことなく三人の前で立ち止まった。
「FBIの方々ですね?」
それは確認の口調だった。
「わたくし、フィオナ・アップルゲートと申します。ミュラー市長の秘書をしております。皆さまをお迎えに参りました」
トーマスが笑顔で手を差し出した。
「トーマス・アンダーソンです。よく我々のことがわかりましたね?」
「ええ、市長から特徴を聞きましたから」
何気なく探りを入れたトーマスに、フィオナはその手を柔らかく握り返した。
「三人の男性で、プラチナブロンド、ブルネット、そしてブラック」
三人を見渡しながら、よく通る声で話す。ヒースがここぞとばかりにウィンクした。
「二人の男性はスーツ姿、あとの一人の男性はとてもミステリアスな格好。そう市長から聞きました」
トーマスとヒースの背後に隠れている三人目の捜査官にも目をやる。ネクタイにワイシャツのボタンをきちんと締めたスーツに、トレンチコートを着ているいかにもFBI捜査官らしい二人と違って、相変わらずのフリーダムな格好したトラヴィスだったが、秘書は賢明にも表情を崩さなかった。
「寝坊したんだ」
トラヴィスは以前に言われた言葉で皮肉った。
「大丈夫です」
フィオナは冷静に応じた。
「ターミナル8を通るよう、市長から要請があったはずです。だからわたくし、皆さまを見つけることができました。これからご案内致します。プライベートジェット機のエンジンはすでにかかっておりまして、あとは皆さまを乗せるだけです。市長もお待ちになっております」
「プライベートジェット機は、いつ点検されたんですか?」
「今朝です。ニューヨーク支局からFBIの方々がいらっしゃって、隅々まで点検されていきました」
トーマスとフィオナは会話をしながら歩き始める。ヒースも美しい秘書に釘付けになりながら続いた。
取り残されたトラヴィスは、三人の後ろ姿を面白くなさそうに眺めた。だが、髪を荒々しくかくと、唸るように呟いた。
「……くそったれめ」
ほどなく、後を追った。
トラヴィスは腹の底に溜まったありったけの罵声を、清掃されたばかりのトイレの床にまき散らした。
「よーし、今日も朝から順調だ」
その隣で、洗面台の鏡の前に立ち、携帯用ブラシで丁寧に髪を整えているのはヒースである。
「お前がくそったれと言い、俺が髪を綺麗にセットする。完璧な一日の始まりだ」
鏡に映る自分を眺めながら、ヒースは栗毛の髪を撫でるようにブラシで梳いている。肩まである髪は洗い立てのように艶々と輝いていて、ブラシの櫛で後ろへ撫でつけると、流れるようなラインで整ってゆく。
トラヴィスはそれを横から苛々と眺めながら、自分の髪を無造作にかいた。普段からあまり髪を梳かすという行為に情熱をもたないトラヴィスだが、いくら身だしなみに煩い同僚とはいえ、今から女性とデートするわけでもないのに、ジョン・F・ケネディ空港の男子用トイレでなぜわざわざ髪を梳かさなければならないのか理解できない。
「よし、今日の俺も最高だ。どんな女性でも、素敵な出会いを与えられるぞ」
鏡に映る自分の姿を左右から確認して、ようやく納得したヒースは、ブラシについた髪の毛を取り、スーツの胸ポケットにおさめた。肩辺りを手で払い、両手でトレンチコートの襟を丁寧に引っ張って、最後に鏡に映っている自分へウィンクする。
「お前はいい男だ、ヒース・ハリド」
「ああ、本当にいい男だ。お前が全米一のまぬけなハンサム野郎だって分かったなら、さっさとここを出ようぜ」
「全米一のくそったれ野郎が嫉妬しているな」
ヒースは涼しい顔で、腕時計を見た。
「ちょうど五分だ」
トラヴィスはようやく馬鹿げた拷問から解放されたというよう、豪快にトイレのドアを開けて外へ出た。
すぐそばのロビーで待っていたトーマスは、腕時計を眺めていた。
「OK、ぴったり五分だね」
トイレから五分で出てくるよう命令した司令官は、そのとおりに行動した二人に、満足そうな笑顔を見せた。
「さあ、身も心もトイレですっきりしたら、僕らも仕事に行こうか」
トーマスとヒースは連れだって歩き始める。
だが、トラヴィスはズボンのポケットに両手を突っ込むと、その場に突っ立ったまま嫌そうにそっぽを向いた。
「俺は行かない」
ヒースは足を止めて、呆れたように振り返った。
「いい加減にしろ。俺がどうしてお前をトイレに誘ったと思うんだ? 個室でキスして抱き合うためじゃないんだぞ。お前の口が疲れて動かなくなるまで、くそったれって罵らせてやるためだ。そうすれば、今日一日余計なことを言わなくてすむ」
「やかましい」
トラヴィスはテコでも動かないぞと言わんばかりに睨みつける。
「俺は必要ない。トーマスとヒースが行けば、十分だ」
「それが十分じゃないんだよ、トラヴィス。いい子だから、僕たちの後ろから口をへの字に曲げてついてきておくれ」
今日の派遣について、散々トラヴィスから文句を言われたトーマスは、最後の悪あがきにもどこ吹く風で聞き流した。
「さあ、駄々っ子になっていないで、頑張って足を動かすんだ、トラヴィス・ヴェレッタ捜査官」
その言いように、トラヴィスはカチンときたが、まだ口をへの字には曲げなかった。
「だいたい、おかしいだろうが。脅迫文なんて、日常茶飯事で送られてくるものなのか? そんなに暇な奴がいるのか?」
「前にいただろう。鼻歌しながら、脅迫文をポストに出した奴が。たまたま暇だったんだ、きっと」
「だから、おかしいだろう」
「おかしいのは、お前だ。俺たちは本部の命令で行くんだぞ。これは我々の管轄なんだ。お前がいくらくそったれと罵っても、この現実は変わらない。わかったな? 以上だ」
ヒースは強引に話をまとめて終わらせた。
「時間が迫っている。早く行かないと」
トーマスは腕時計にちらっと目を落とした。だが、すぐに顔をあげて、人でごった返すターミナルの方を見る。
ジョン・F・ケネディ空港はニューヨーク市クイーンズ区にあり、アメリカを代表する国際空港の一つである。一日に何百もの飛行機が離着陸し、毎日大勢の人々で混雑している。現在使用されているターミナルは六つあり、三人がいるのはターミナル8だ。
「どうした、トーマス」
各国の観光客やらビジネスマンたちやらで乱雑に混み合う中、トーマスは遠くの一点を見つめている。
「テロリストでも発見したか?」
「……いや、そうではないよ。たぶん、お迎えだね。うん、やはりまっすぐに僕たちへ向かってくる」
「お迎え?」
ヒースはトーマスへ顔を寄せて、小声で指摘した方向へ目をやる。
「……あの女性か?」
「たぶんね」
二人の後ろにいるトラヴィスは、まだ頑として立っていたが、身を寄せあっている二人の背中から首を伸ばして覗き見た。様々な出で立ちの人々で賑わうターミナルが見える。その人ごみの中から、黒いスーツ姿の女性が一人、人とすれ違いながら、ひときわ目立つ足取りでこちらへ向かってくる。豊かな金髪を腰の辺りまで垂らした女性は、スーツとお揃いの黒いハイヒールできびきびと近づいてくると、迷うことなく三人の前で立ち止まった。
「FBIの方々ですね?」
それは確認の口調だった。
「わたくし、フィオナ・アップルゲートと申します。ミュラー市長の秘書をしております。皆さまをお迎えに参りました」
トーマスが笑顔で手を差し出した。
「トーマス・アンダーソンです。よく我々のことがわかりましたね?」
「ええ、市長から特徴を聞きましたから」
何気なく探りを入れたトーマスに、フィオナはその手を柔らかく握り返した。
「三人の男性で、プラチナブロンド、ブルネット、そしてブラック」
三人を見渡しながら、よく通る声で話す。ヒースがここぞとばかりにウィンクした。
「二人の男性はスーツ姿、あとの一人の男性はとてもミステリアスな格好。そう市長から聞きました」
トーマスとヒースの背後に隠れている三人目の捜査官にも目をやる。ネクタイにワイシャツのボタンをきちんと締めたスーツに、トレンチコートを着ているいかにもFBI捜査官らしい二人と違って、相変わらずのフリーダムな格好したトラヴィスだったが、秘書は賢明にも表情を崩さなかった。
「寝坊したんだ」
トラヴィスは以前に言われた言葉で皮肉った。
「大丈夫です」
フィオナは冷静に応じた。
「ターミナル8を通るよう、市長から要請があったはずです。だからわたくし、皆さまを見つけることができました。これからご案内致します。プライベートジェット機のエンジンはすでにかかっておりまして、あとは皆さまを乗せるだけです。市長もお待ちになっております」
「プライベートジェット機は、いつ点検されたんですか?」
「今朝です。ニューヨーク支局からFBIの方々がいらっしゃって、隅々まで点検されていきました」
トーマスとフィオナは会話をしながら歩き始める。ヒースも美しい秘書に釘付けになりながら続いた。
取り残されたトラヴィスは、三人の後ろ姿を面白くなさそうに眺めた。だが、髪を荒々しくかくと、唸るように呟いた。
「……くそったれめ」
ほどなく、後を追った。



