母が他界したのは私が26歳の時分だ。もう母の顔すら思い出せない。あれから二十年が経った。火葬する際に父とともにボタンを押したのを覚えている。私は絶対に正気を保てないと思ったので酒を煽ってから家を出ていた。その時のボタンの感触も母の遺骨を骨壺に収めた記憶もほどんどない。実母の死に向き合うには私には早すぎたのだと思う。いまとなっては仏壇に線香すらあげず、墓掃除もしない親不孝者になってしまった。母は特別な癌で病院は検体を申し出た。父は細胞だけを病院に託した。当時、私は大学院生だった。父も妹も仕事で忙しくて終日暇な私が母を見守った。癌が全身に転移するといよいよ医療麻薬の量が増して寝ている時間が増えた。夜分に目を覚ますとひどく怖がるので私は昼に寝て夜間は起きているという生活を病室で繰り返していた。昼は寝ていて夜間になると叫び出す。あげくには私が殺そうとしていると絶叫する。さすがに耐えられなかった。私はかねてよりデヴィッド・ボウイに興味を持っていた。ボウイにはじまり、ピンクフロイドも聴いた。だいたいUSロックは聴いたが、日本人が絶賛するビートルズは好きになれなかった。私は病室でただボウイだけを聴き、解説書などを読み漁っていた。
あるボウイ特集の雑誌が『ロウ』に最高評価を出していた。インストゥルメンタルばかりで退屈だった。それより、『ジギースターダスト』や『ヤングアメリカン』『レッツダンス』のほうがよかった。が、だんだん『ロウ』をはじめとするベルリン三部作のほうを聴くようになった。歌詞というか言語が邪魔だった。ボウイを聴きまくっているうちに『チェンジズ』に出会った。これが私の人生の転轍機だったかもしれない。ボウイが容姿や音楽性を変えていったように私も変わらねばならないと思った。母が他界して一年が経ち、私は博士後期課程を修了しようとしていた。単位は取得したが博士論文が書ける見通しはまったくなかった。すぐに退学して社会に出た。その際、いつもは厳しい先生方も「いくらバカでも27歳で諦めるには早すぎる。大学に残れ」「僕が韓国に留学したのが27歳だよ? 働くのは早い」などと引き留められた。が、私は退学した。自分の限界ぐらい知っている。その後、私は金城町下来原の水道屋でかなり痛い目にあったが、いまとなっては良い経験をしたと思っている。
あるボウイ特集の雑誌が『ロウ』に最高評価を出していた。インストゥルメンタルばかりで退屈だった。それより、『ジギースターダスト』や『ヤングアメリカン』『レッツダンス』のほうがよかった。が、だんだん『ロウ』をはじめとするベルリン三部作のほうを聴くようになった。歌詞というか言語が邪魔だった。ボウイを聴きまくっているうちに『チェンジズ』に出会った。これが私の人生の転轍機だったかもしれない。ボウイが容姿や音楽性を変えていったように私も変わらねばならないと思った。母が他界して一年が経ち、私は博士後期課程を修了しようとしていた。単位は取得したが博士論文が書ける見通しはまったくなかった。すぐに退学して社会に出た。その際、いつもは厳しい先生方も「いくらバカでも27歳で諦めるには早すぎる。大学に残れ」「僕が韓国に留学したのが27歳だよ? 働くのは早い」などと引き留められた。が、私は退学した。自分の限界ぐらい知っている。その後、私は金城町下来原の水道屋でかなり痛い目にあったが、いまとなっては良い経験をしたと思っている。



