コスプレ男のコと、氷の王子様

 
 ちくちくと、肌を刺すような寒さに、俺は目を覚ました。

 ぶるりと身体を震わせて、どうしてこんなに寒いのか、原因を探ろうと起き上がりかけて、そのまま固まった。

 隣で健やかな寝息を立てて寝ている人物が目に入ったからだ。

 その人物──殿崎翔太(とのさきしょうた)の寝顔をしばし眺める。

 まつ毛、長いな。

 肌も白くてつるつるで肌荒れの欠片もない。

 静かなら、こんなに無害で子どもみたいなのに。

 やっぱり童顔だよな。

 髪の毛、伸びたんだな。

──い、いやいや待て、俺はなにを殿崎に見惚れてるんだ。

 赤面してる場合じゃないだろ。

 今はそんなことより……。

 俺はようやく、はっと我に返ると、がさがさで肌触りの悪い毛布に包まれた自分の身体に、恐る恐る視線を落としていく。

 そっと毛布をめくっていくと、あられもない己の姿が目に入り、ごくりと息を呑んだ。

──毛布の下は裸だった。

 いや、最後まで抵抗するように、パンツだけは穿いていた。

 俺の頭の中は、現在置かれている状況についていけず、混乱状態に陥った。

 1枚の薄汚い毛布を殿崎とシェアして、身を寄せ合うようにして硬い床のうえで、俺たちは眠っていたのだ。

──な、なにかあったのか、なかったのか?!

 どうして裸なんだ、ここはどこなんだ、どうしてこうなった、なんで俺は殿崎なんかと身体を密着させて寝ていたんだ?

 この状況に至るまでの記憶が、もやがかかったようにぼんやりしていて思い出せない。

 一体なにがあったんだ、俺たちはなんでこんなことに……。

──いや、そんなことより、寒い、寒くて(たま)らない。

 かちかちと歯を鳴らしながら、なにか防寒できるものはないかと、勢いよく起き上がったため、毛布を引っ張られた格好の殿崎が小さく唸りながら目を覚ました。

「うーん、もう朝ぁ?」

 いかにも眠たそうに目を擦りながら殿崎が上半身を起こす。

 と、毛布を取り払おうとして、自分の身体に目をやった殿崎が凍りつく。

「えっ、なんで僕服着ていないの?」

 眠気が一気に失せたのか、殿崎が毛布を放り出し、ごろりと横に転がると俺と距離を取った。

 臨戦態勢である。

「ひ、ひづくんも、裸……」

 パンツ1枚の情けない姿の殿崎が同じく情けない格好の俺を見て、唇を戦慄(わなな)かせる。

「きゃー!ひづくん、僕になにしたの!?
 えっち、破廉恥な!」

 殿崎は両腕で自分の身体を抱きしめると、涙目になりながら俺を非難した。

「はあ!?
 なにもするわけないだろ!」

 反射的に否定するも、なにもなかったと断言できるだけの材料が残念ながらない。

──なにも、なかったよな……?

 内心で狼狽(うろた)えつつも、自分が殿崎なんかに手を出すわけがないと己に言い聞かす。

 それでは、この状況は一体……。

 俺はぐるりと今いる室内を見回す。

 ログハウス、いや、そんなお洒落な名前が似合わない、ぼろぼろの山小屋だった。

 さほど広くない。

 ひとけはなく、朽ち果てて錆びたり埃を被ったロープや壊れたストーブらしきもの、スノボやスキー板などがあちこちに放置され無造作に積まれているところからみて、かつては山小屋として機能していたのだろうとわかる。

 木造の扉から隙間風がびゅうびゅうと音を立てながら侵入してきて、服を着ていない俺たちの素肌に突き刺さるように冷たい風が吹きつけていた。

 俺の目がある一点を捉えて、唐突に覚醒をはじめる。

──スキー板?

 そして木材が剥き出しのささくれ立った床に落ちている衣服にようやく気づいて、ああ、とすべてを思い出した。

「ひづくん、僕にいやらしいことしたの!?
 いくら僕が可愛いからって……!」

 なおもなにかを勘違いしている様子の殿崎に呆れながらも俺は叫んだ。

「アホか!
 お前が川が凍ってるっていうから乗ってみたら氷が割れてびしょ濡れになったんだろうが!
 それからひづくんて呼ぶな!」

「……え、川に……?」

 殿崎が顎に手を当ててなにごとかを考えはじめる。

 今や俺はこの状況に至るまでの記憶を完全に取り戻していたので、もどかしい思いをしながら、やつが思い出すのを待った。

「あ、そっか!」

 殿崎が床に転がるスキーウェアを見て、ぽんと手を叩いた。

「スキーにきてたんだ、僕たち」

「そうだ」

 俺は腕を組んでうなずく。

「天候が悪化して、吹雪になって、友達とはぐれて取り残された僕たちはさまよっているうちに川に辿り着いて……」 

「ああ」

 腕を組んだままうなずく。

「川が凍ってると思って、面白そうだから乗ってみようって、悪ふざけしたら薄い氷が割れて、ふたりして落ちて……」

「無理やり俺を氷に乗せたのはお前だからな。
 お前が悪い」

 そこは譲らない。

 すべて悪いのはこいつだ。
  
「で、びしょびしょになって、寒くて死にそうになって、遭難しながらなんとか山小屋を見つけて入って……で、1枚の毛布にふたりでくるまって、夜通しあんなことやこんなことを……」

「するわけないだろ、アホかお前は!
 スキーウェアが濡れて体温が奪われるから、仕方なく脱いで乾かしてたんだろ!
 毛布も1枚しかないからお互いの体温でしか暖をとれなくて、やむなくくっついて寝るしかなかったんだろうが」

「でもさあ、ほぼ裸でぴったり寄り添って一夜を明かすって、ほぼ『なにかあった』ってことだよね?」

「ないわ!
 疲労困憊になって横になった途端ふたりとも気絶したように眠っただろ」

「でも、密室に年頃の高校生がふたりきりだよ?
 なにもないことのほうが不自然じゃない?」

 俺は溜め息をついて、がりがりと頭を掻いて言った。

「ない!
 俺はお前にそんなふしだらな気持ちを抱いたことはただの一度もない!」

「えー、ひどいなあ、そこまで言う?
 僕はこんなにひづくんのことが好きなのに。
 まったく、いつ気づいてくれるんだろうねぇ」

「気づく?なににだ」

「ひづくんが、僕を好きってこと」

 俺は目を剥きながら絶叫した。

「俺は、お前のことなんか好きじゃない!」

 俺の断言に、殿崎は特段傷ついた素振りも見せずに、ふうん、とだけ答えた。

 それはそうだろう。

 殿崎から告白されたのは、一度や二度ではない。

 言ってみれば、殿崎は『振られ慣れ』をしているのだ。

 ただ、今回は今までと違った。 

 寒いはずなのに、素肌に残った殿崎の体温がやけに鮮明に感じられて、身体が火照っている。

 心臓が早鐘を打って、恥ずかしさのあまりまともに殿崎を直視できない。

──おかしい、こんなのはじめてだ。

 はじめて見る殿崎の身体。

 はじめて見られてしまった自分の身体。

「いやあ、それにしても、ひづくん鍛えてるね、腹筋バキバキじゃん」

 じろじろと無遠慮に俺の全身を舐めるように見つめながら殿崎が場違い(はなは)だしい発言をする。

「お前は身体が薄いな」

 華奢、というべきか。

 お互いの身体を眺めるうちに、なんだかいけない秘密を共有したような、妙な背徳感がこみ上げてきてしまったので、俺は殿崎から慌てて目を逸らす。

 特殊な環境のせいだ。

 非日常に、ちょっと興奮している、そんなとこだろう。

 俺は強引にそう結論づけ、納得しようとした。

──決して殿崎に特別な感情を抱いたとか、そういうことでは断じてない。

 俺が悶々とする心をなだめていると、脱ぎ散らかされたスキーウェアを掴んだ殿崎が言った。

「さて、どうする?
 まだ服は乾いていないみたいだし。
 外はまだ吹雪だし」

 殿崎が古びてくすんだ窓ガラスから外を眺めて、やけに冷静に告げる。

 俺もつられるようにして曇った窓ガラスから外を眺めた。

 確かに、昨日よりはおさまっているものの、依然として大粒の雪が降っている。
 
 冷え切った窓ガラスに手を置いて、俺もしばし考え込んだ。

 周囲を再び見回す。

 室内は荒れ果てていて、食料の(たぐい)は見当たらない。

 すると、俺と殿崎の腹が、同時に、ぐうと鳴った。

 俺と殿崎は無言で顔を見合わせる。

 スキーウェアは生乾きといったところ。

 食べるものはない。

 ここがどこかもわからない。

 俺はスキーウェアのポケットを漁ってスマホを引っ張り出した。

 水没したスマホの電源を、祈るようにして入れてみるが、うんともすんともいわなかった。
 
 俺は絶望して天を仰ぐ。

 隣で殿崎も自分のスマホを探し出して起動させているが、溜め息をついたので結果は芳しくなかったのだろう。

 どうするか。

 はぐれた友達が無事下山して、警察なりなんなりに通報してくれれば捜索してくれるだろうが、水も食料もない山小屋で、それまでどう凌ぐか。

 待つべきか、自力で下山を目指すか──。

 どちらにせよ賭けであることに違いはない。

「降りよう」

 俺は窓の外を睨むと、スキーウェアを拾いながらそう言った。

「……大丈夫なの?
 降りられるのかな?」

 殿崎がこぼれ落ちそうな大きな瞳で、柄にもなく不安を滲ませて俺を見る。

「山小屋があるんだ、人が立ち入らない危険な場所だという可能性は低いだろう。
 昨夜さまよったような場所なら発見されるのも難しいかもしれないが、この山小屋に辿り着けたのは運が良いといっていいと思う。
 このまま降りていけばスキー場に戻れる可能性はたぶん、ある」

 断言はできないが、と付け足す。

 吹雪の冬山をさまよった経験なんて俺にだってない。

 どの選択が正しいかなんて、正直まったくわからない。

 それでも、直感を信じてきっぱりと言った。

「行こう、なんとかなるはずだ」

 俺が言うと、殿崎が緊張感の欠片もない、にやにやとした笑みを浮かべたので、俺は自分の失態に思い至って渋面を作った。

──いくら非常事態とはいえ、殿崎相手に喋りすぎた。

「さっすが僕のひづくん。
 頭良いなあ、格好いい」

 この非常時に、こんな顔ができるこいつは、本当に可怪(おか)しい、理解できない。

 でも、これが殿崎だ、殿崎翔太という男だった。
 
 たとえ命の危機に瀕しても、こいつは死ぬ直前までこんな馬鹿みたいな顔をして、ふざけたことを口走りながら死んでいくんだろう。

 それはいい。

 だが、それに俺は巻き込まれたくはない。

 くたばるなら勝手にくたばってくれ。

 万が一にも、俺の名前を呟きながら死んだりしないでほしい、気色悪いから。

 俺が脱ぎ捨てた服に袖を通そうとしていると、「ねえねえ、ひづくん」と殿崎が近づいてきた。

 面倒なので無視していると、俺の顔を覗き込みながら、殿崎がにやりと笑いながら言った。

「ねえ、ひづくん、おはようのチューしてよ」

「……」

「はじめてふたりきりで過ごした夜って、特別だよね。
 記念日にして毎年お祝いしようよ」

「……」

「ねえ、ひづくんってば。
 冷たいなあ。
 まあ、そんなところも好きなんだけどね。
 あ、まだ今日の『好き』を伝えてなかったよね、大好きだよ、ひづくん」

 がばっと後ろから殿崎に抱きしめられるが、俺は微動だにしない。

 俺より頭ひとつぶん背が低い殿崎を強引に振り払い、まだ乾いていないスキーウェアに身を包む。

 ひやりとした感触に腕に鳥肌が立った。

 あとは体温で暖めて乾かすしかない。

 一足先に準備を整えた俺は、「行くぞ」と扉に手をかける。

「あー、ちょっと待って、ひづくん!
 僕まだ支度してないよ!
 置いてかないで!」

 溜め息をつきつつ、しばらく待つと、スキーウェアで着膨れした殿崎と一緒に山小屋を出る。

 途端に大粒の雪が吹きつけてきた。

 すぐに身体が冷えていく。

 俺たちは並んで、ざくざくと雪をかき分けながら灰色の世界を歩きはじめた。

「ねえ、ひづくん、寒いからぴったりくっつこう?」

 甘えた口調で言いながら殿崎が俺の腕に自分の腕を絡める。

「うざい、やめろ」

 言葉ではそう言うが、特に振り解こうとはしない。

 殿崎にそんなことをしても無駄だと痛いほど承知しているからだ。

「無事に下山できたらさあ、みんなに自慢して回ろうよ。
 僕とひづくんが、どんなふうにして一夜を過ごしたか、詳細に事細かに……」

「今、何時なんだろうな、曇ってるけど、朝、だよな、たぶん」

 殿崎の台詞には取り合わず、俺は独りごちた。

 一面の銀世界に方向感覚を狂わされないよう細心の注意を払って進む。
 
「なんで僕がこんなにひづくんのことが好きか、一晩中考えたことがあるんだけどね。
 やっぱり僕はひづくんのなにもかもが好きなんだって、結論に達したわけだよ」

「一晩中考えんな、ストーカー」

「僕にとってのヒーロー、大切な恋人……。
 ひづくんを笑わせたいって、常に考えてる僕がいるんだ」

「まずは認識を改めろ。
 俺はお前の恋人ではない」

「でもさあ、ひづくんて全然笑わなかったじゃん?
 でも、最近変わってきたよね。
 雰囲気が柔らかくなったというか、気軽に声がかけられるようになったというか……。
 そのきっかけが僕なら嬉しいなあって思うんだけど」

「……」

 反論してやろうと思って口を開きかけたが、やめた。

 確かに、自分に変化が起きている自覚はある。

 それに殿崎が影響していることも、否定はできない、というかもうほとんど肯定するほかない。

 俺は殿崎と出会って、少し変わった。

 でも、それを恋人だの恋愛感情だのに繋げられては迷惑この上ない。

「なんか、この世界にふたりきり、みたいだね。
 僕さ、例え無事に帰れなかったとしても、ひづくんと一緒なら本望だよ。
 あ、いや、別に死にたいわけじゃなくて、でも、人って必ず死ぬじゃん?
 最期の瞬間ひづくんが隣にいて、手を繋いで天国へ行けたら僕はそれも幸せかなって思うんだ」

「お前、まだそんなこと言ってるのか。
 俺はまだ死ぬつもりはない。
 お前と心中なんてまっぴらだ」

 はぐれないように密着しつつ、俺たちはそんな馬鹿みたいな会話をしながら雪の中をひたすら歩き続けた。

 とにかく寒いので密着するのは仕方がない。

 しかし、遭難の危機にあるというのに、殿崎はよく喋る。

 こういうところも、俺がこいつを苦手にしている一因だ。

 飢えた腹を抱えて歩くこと、体感で数時間──。

 雪が小止みになり、空のてっぺんから陽射しが差し込みはじめた。

「ねえ、見て見て、ひづくん!
 空が綺麗だよ!
 光りのカーテンみたいだねえ」

 殿崎が無邪気に俺の袖を引っ張る。

 太陽が灰色の雲の隙間から顔を覗かせ、神様でも降臨しそうなほど神々しく輝いている。 

 光りの帯が、地上まで届き、俺たちを仄かに暖めてくれた。

「ああっ、こんなに綺麗なのに、写真が撮れない!」

 死んだスマホをポケットから引っ張り出しながら憎々しげに殿崎が呟く。

「目に焼き付けて覚えてろよ」

 俺がそう言うと、殿崎が声を上げて笑った。

「なんか、ひづくん、おじさんみたいなこと言うんだねえ」

「ほっとけ」

 くすくすと笑われ、俺は恥ずかしさからそっと顔を逸らす。

「疲れたねえ、ひづくん、一番最初になに食べたい?
 僕は、すきやきかなあ。
 あと、うちに帰ったらゆっくり温かいお風呂に入りたいよ。
 自分のベッドでも寝たいな。
 一晩硬い床の上で寝たから身体のあちこちが痛いんだよ」

 殿崎のあまりの(うるさ)さに辟易(へきえき)しつつも、降り積もった雪をかき分けながら苦労して足を進める。

 歩くうちに、じんわりと汗が滲んできたので、殿崎の腕を振り払った。

 むう、と殿崎が不満そうに頬を膨らませる。

「ひづくんて本当、いつも仏頂面だよね。
 でも、だから氷の王子様がぴったりだったんだもんね。
 知らなかった?
 高校に入ってわりとすぐから、クラスメイトとか同級生とかに『氷のように冷たいけど美しい美貌の王子様』って認識されてたんだよ、ひづくん。
 だから、あんなに早くあだ名が『王子』になったんだよ」

「……マジか、それ……」

「本当だよ。
 ひづくんてアイドルっていっても通用するビジュアルなのに、全然自覚ないよね、もったいない。
 でも、いいんだ、それで。
 ひづくんは僕だけのひづくんであってほしいから、自分がモテモテなんて気づかなくて全然いいよ」

 俺は大きく溜め息を落とす。

「どこまでが本気なんだか……。
 体力を消耗するからいい加減喋るのやめろ」

「僕の心配してくれてるの、嬉しい!」

「俺の体力がストレスによって消耗するから黙れといっている」

「冷たい冷たい!
 さすが氷の王子様!」

「それやめろ、ひづくんとも呼ぶな。
 置いていくぞ」

「待って待って、氷弦(ひづる)くん!
 ひ・づ・るくん!」

 俺が歩くスピードを速めると、殿崎が慌てて小走りになって着いてくる。

「小動物か、お前は」

「しょうがないじゃん、背だって歩幅だって違うんだしさ。
 結構コンプレックスなんだよ、背が低いの」

 それを聞いて、俺は少し意外に思った。

「お前の『趣味』には有利なんじゃないのか」

「確かに、有利に働くときもあるよ?
 でも、逆に制限されちゃうときもあるから……」

 一概には言えないんだよね、とか殿崎がぶつぶつ呟く。

 自分から話を振ったのに、俺はその呟きを無視でかわす。

 そんなこと、殿崎は気づかないだろうし、また気にもしないだろう。

「ひづくん、ひづくん。
 家に帰ったら、またアレやろうね」

 殿崎が潤んだ大きな瞳で、にこにこと俺を見上げてくる。

「猫か」

「にゃー!」

 俺が言うと、殿崎が爪を立てて俺の服をがりがりと引っ掻く。

「俺で爪研ぐな!」

 もう本気でこいつを山に捨てて行こう、そう決心が固まりそうになったその瞬間だった。

 俺の視界に動くものがあった。

 はっとして目を凝らす。

 雪山に現れた動物か……。

 身構えたまま視線の先を凝視していると、動く物体が手を挙げこちらに向けて振るのが確認できた。

 まだ俺の服で爪を研いでいる殿崎の手を掴んでぶんぶんと振る。

「おい、見ろ、人だ」

「……え?」

 殿崎が俺の視線を追って、やがて歓喜の表情で飛び跳ねる。

「ほんとだ!
 おーい!
 こっちだよ!」

 殿崎が大きく手を振ると、人影がひとり、ふたりと増えた。

 重装備をした人物が慣れた調子で雪をかき分け走り寄ってくる。

永瀬氷弦(ながせひづる)さんと、殿崎翔太さんですか?」

「は、はい、そうです」

「おふたりを捜索していました、無事でなによりです。
 体調は大丈夫ですか?」

 いかにも山岳救助隊といったいかつい中年男性が柔らかい口調で労ってくれる。

 安堵のあまり腰が抜けそうになった。

「だ、大丈夫です」

「そちらの方は?」

「僕も大丈夫……です……う、うう……」

 ぎょっとして振り向くと、殿崎は人目もはばからず号泣していた。

「助けてくれて、ありがとうございます……本当に……。
 僕、心細くて……」

「もう大丈夫ですよ、安心してください」

 しおらしい殿崎に救助隊の中年男性が肩にそっと手を置いて励ましている。

──あ、ほだされたな。

 俺は呆れながら殿崎を冷めた目で眺める。

 こいつの涙は最大の武器だ。

 この顔に泣きながら感謝なんてされようものなら百発百中で『落ちる』。

 恐ろしいのが老若男女問わないところである。

 女だろうが男だろうが、犯罪者だろうが神だろうが関係ない。

「天候が回復してきたので捜索に出られたのが幸いでしたね。
 ふもとまでお送りします。
 殿崎さん、歩けますか、手を貸しましょうか」

──そうやって周りが甘やかすから、こいつはどこまでも調子に乗るんだ。

「大丈夫です、自力で歩けますから」

 俺がそう言うと、ぷくう、と殿崎が頬を膨らませる。

 他のやつが見たら「可愛い〜!」なんて騒ぐんだろうが、しかし、例外がある。

──俺には通用しない。

 俺は殿崎を手放しで可愛いとは思わないし、こいつが他人をたらしこむ術は把握済みなのでそれに釣られることはない。

 そう、思っていた。

──今日までは。

 下山するころには、雪はすっかり止み、晴れ間が覗いた。

 ずいぶんと大掛かりな捜索だったらしく、ふもとには大勢の大人たちが待ち構えていて、少し驚いた。

「永瀬、翔太、大丈夫だったか!」

 一緒にスキーにきていたクラスメイトたちが、わっと俺たちを取り囲む。

 遭難して一日ほどしか経っていないはずだが、クラスメイトたちの顔がやけに懐かしく感じたから不思議だ。

「大丈夫、みんなが通報してくれたんだよね、ありがとう」

 殿崎がにこっと微笑めば、クラスメイトたちはだらしなく頬を緩める。

「無事で本当によかったよ、翔太」

「お前になにかあったら、俺たちどうしようかって、気が気じゃなくてさ」

 わいわいと殿崎を取り囲む友人たちから離れた位置でその喧騒を眺めていると、戸部(とべ)が俺に話しかけてきた。

「永瀬、お前も無事でよかったよ」

「お前『も』かよ。
 殿崎んとこ行けよ、お前が話したいのは殿崎だろうが」

「なんだよ、心配してやってんのに。
 今さら翔太に嫉妬してるわけじゃないよな」

「当たり前だろ。
 あんなやつ羨ましいともなんとも思わない」

「お前らしいな。
 じゃ、遠慮なく」

 戸部はひらひらと手を振ると、殿崎を囲む群衆に紛れた。
 
 俺はひとり空を見上げる。

 空はすっかり青空だ。

──腹減ったな、なにか食べたい。

 思い出したように腹の虫が鳴る。

──母さんのおにぎりが食いたい。

 マザコンだと思われるから、こんなこと殿崎には言えない。

 ようやく心に余裕が出てきたのか、俺は深呼吸をひとつしてひっそりと微笑んだ。

「でね、ひづくんと僕が、一晩どうやって過ごしたかっていうとね……」

 気を抜いたのも束の間、俺は殿崎の口を封じるべく人波をかき分けていた。

 こうして、俺の運命を左右したといっても過言ではない波乱の冬の出来事が幕を降ろした。  



 俺、永瀬氷弦と殿崎翔太が出会ったのは、高校に入学した今年の春のことだった。

 同じクラスだった殿崎翔太は、すぐにクラスの人気者になった。

 背が低く、まだまだ中学生で通用する超のつく童顔で、顔立ちはほとんど女子そのもの。

 いわゆる美少年といって差し支えない美貌を誇っていた。

 男子校で『可愛い』のかたまりのような殿崎がちやほやされないわけがなかった。

 対する俺は愛想が悪い。

 それは自覚がある。

 誰かの顔色をうかがうのは嫌いだし、媚びてまで他人に好かれようとも思わない。

 ひとりだって構わない。

 むしろ、その方が好都合でさえある。

 自由で、行動が制限されず後腐れがない。

 そんなだから、俺は殿崎みたいなタイプを苦手としていた。

 無邪気で誰とも馴染み、明るく他人を笑顔にする天性のひとたらしの殿崎と、一日中誰とも喋らずに過ごせる俺に接点はなく、特にお互い意識もしないまま春は過ぎていった。

「殿崎って可愛いよなあ」

 熱に浮かされた調子でそう言った戸部を、俺は二度見した。

 戸部翼(とべつばさ)は、同じ中学の出身でクラスメイトだったこともあり、高校で唯一話をする間柄だった。

 帰宅部の俺と違い、アメフト部の戸部は強面で、体格もごつくて、きりりとした太い眉が印象的な男だ。

 そんな男が、まるで恋する乙女のように顔を赤らめて、そう告白してきたのだから驚きだ。

 確か、初恋はまだだったと思う。

 見た目から敬遠されがちな戸部は中学時代女子とは無縁で、これも見た目からは想像もつかないほど奥手なやつだった。

 そんなやつが恋に落ちた。

 これは一大事だ。

 同時に困ったことになったな、とも感じた。

 殿崎はとにかく人気だ。

 先輩からも人気が高いと聞く。

 果たしてこの奥手な戸部を、殿崎が相手にするだろうか。

 きっかけだけでも作れればいいが……と柄にもなく他人のことを本気で考えていた俺に、戸部がスマホを掲げてみせた。

「今日の撮影会、参加しようかな」

「ああ……撮影会」
 
 話には聞いたことがある。

 だが、俺は参加したことがない。

『撮影会』。

 放課後、教室で繰り広げられるというイベント。

「永瀬、一緒に撮影会に参加してくれないか?」

「……は?
 なんで俺が」

「頼むよ、俺ひとりだったら緊張して殿崎と喋れないかもしれない。
 お前、緊張なんてしないだろ。
 冷静にフォローしてくれそうだし、なあ、頼む」

 拝まれて断れるほど俺は鬼ではない。

 友達のひとりもいない俺を、気遣って声をかけてくれる奇特な存在である戸部に恩がないわけでもなかったので、渋々引き受けることにした。

 迎えた放課後。

 教師の目がない教室に、20、30人の生徒が集まっていた。

 うちのクラスの生徒だけではなく、他のクラスや先輩までスマホやら本格的なカメラを手に鼻息荒く『そいつ』の登場を待っている。

 がらりと教室前方のドアが開いたかと思うと、待ち構えていた男たちが、おおーっとざわめく。

 そして、シャッターを切る音が連続して響き渡った。

 一斉にフラッシュが弾ける。

 まるで芸能人の謝罪会見みたいな光景だ。

 現れたのは、オレンジの髪をツインテールにしたウィッグを被り、どこかの漫画かアニメに出てくるのだろうリボンやらレースやらがふんだんにあしらわれた女子用の制服に身を包んだ殿崎翔太だった。

 キャラに寄せたメイク、超のつくミニスカートに胸元を強調した殿崎は、もはや女子そのものにしか見えない。

「翔ちゃん、可愛い〜!」

「尊い!」

「アスカちゃーん、こっち向いて!」

 どうやらこのキャラはアスカとかいうらしい。

 レンズを向けられた殿崎は、慣れた調子でつぎつぎとポーズを決めていく。

 そのたびに飢えた男子たちから感嘆が漏れる。

 そう、放課後に行われている大人気イベントは、殿崎によるコスプレ撮影会だった。

 漫画やアニメ、ゲームの主に女の子キャラを殿崎がコスプレする。

 その再現度はハイクオリティらしく、サブカルチャーを愛する男子たちにはとにかく受けがいい。

 普段でも女子にしか見えない殿崎がコスプレすると、それはもうその辺の女子を遥かに凌駕する美少女っぷりだ。

 初めてコスプレを見る俺ですら、ほう、と溜め息をつきたくなるほどだった。

 とにかく似合っている。

「今日もきてくれてありがとうー。
 今日はアスカコスでーす。
 気合入れてコスチューム作ってきましたー!
 みんなー、似合う?」

「似合うー!」

「今日のアスカ、可愛いー?」

「可愛いー!」

「もっと撮って、拡散させてねー!」

「任せとけー!」

 まるでライブのコール&レスポンスのように繰り広げられるやりとり、その熱にあてられ、俺は早くも引いていた。

──なんだ、これ。

 隣を見れば、戸部が殿崎に見惚れて、スマホで撮影することすら、いや、呼吸することすら忘れて魅入っている。

 殿崎はそれぞれのカメラにピースしたり指さしたりとファンサに忙しい。
 
 そのたびに野太い歓声が上がる。

 まるでアイドルのライブ会場のような異様な熱気が教室に満ちていた。

 小柄で華奢な殿崎が女子になりきってスカートをひらひらと翻しながらぴょんぴょんと飛び跳ねる様は、愛らしさのかたまりでしかない。

 殿崎がウインクするたび、にこっと微笑むたび、男たちのハートが撃ち抜かれていくのがわかる。

「今日はね、みんなにお知らせがありまーす!
 今夜、生配信やりまーす!
 イベントに向けて作った新しいコスチュームをお披露目する予定だから、ぜひ観てね!」

「おー!」

 男たちが拳を突き上げながら叫ぶと、「じゃあ、先生きちゃうから、またね!」と言いながら殿崎が足取りも軽やかに教室を出ていく。

「翔ちゃん、愛してるー!」

「世界一可愛い、俺の推し!」

「今夜、必ず観るからなー!」

 最後にひらひらと手を振ると、殿崎の姿が見えなくなった。

 熱狂の余韻に浸りながらも、残された生徒たちが一斉にスマホを引っ張り出す。 

 撮影した画像は、それぞれSNSに投稿するのが定番らしく、スマホの画面を男たちの指が忙しなく撫でていく。
 
 戸部も例外ではなく、戦利品の殿崎の写真をSNSに投稿しているようだ。

 全員、頬が緩みきっている。

 とにかく幸せそうだった。

 ほくほく顔で撮ったばかりの殿崎──アスカをためつすがめつ飽きもせずに見つめている。

──俺がいる必要なかったな。

 頬を(しゅ)に染めながら食い入るようにスマホの画面を見て気持ち悪くにやにやしている戸部を見ながら、俺は冷めた感想を呟いた。

「なあ、永瀬、すごかったな、お前も撮ればよかったのに」

 興奮のあまり戸部がカタコトで話しかけてくる。

「俺は別に、興味ないし」

「えー、マジかよ、あんな可愛いのに、興味ないとか有り得るか?」

「有り得る。
 用がないなら俺はもう帰るぞ」

「待てって、俺は何時間でも殿崎の可愛さについて話したい気分なんだ、ファミレス行かね?」

「……お前、部活休んでんだろ?
 見つかったらまずいんじゃないのか?」

「大丈夫だって、ほら、行くぞ、早く!」

 慌ててかばんを掴むと、俺は戸部に連行されて帰り道にあるファミレスに連れ込まれた。

 そして、すっかり恋する乙女と化した戸部から、とっぷり日が暮れるまで、殿崎がいかに可愛いか、どんなところが好きか、どのコスプレが好きかを熱弁され、殿崎に話しかけるにはどうすればいいか相談され、付き合えたら死んでもいいとか物騒なことを言い出したやつにドン引きし、とにかく殿崎にまつわる『恋バナ』を一方的に浴び、やっと解放された俺は疲労困憊で帰宅を果たした。

 自宅アパートには誰もいなかった。

 俺はいつからか暗い部屋に帰ることを、寂しいと思う歳ではなくなっていた。

 かばんをリビングのソファに放り出し、疲れた身体に鞭打ってシャワーを浴び、濡れた髪を拭きながら冷蔵庫を開ける。

 キッチンの照明が切れかかっていて薄暗い。
 
 ちかちかと、目障りに点滅していた。

 これは近いうちに蛍光灯を取り替えてくれと母さんに言われるな、と面倒くさく思った。

 冷蔵庫には、ラップがかけられた皿がいくつか入れられていた。

 それをありがたく取り出し、レンジで温めたあと、テーブルに並べる。

「いただきます」

 無音の世界にぽつりと呟き、ひとりきりで夕食を()った。
 
 母さんは料理好きで、作り置きしてくれている料理はすべて美味(うま)い。

 母子家庭で、看護師として忙しく働いているのに、食事を作ることに、俺が幼いころから変わらず手を抜かない人だった。

 親父は、俺が5歳のときに死んだ。

 交通事故に巻き込まれたのだ。

 それから、母一人子一人、俺と母さんは狭いアパートの一室で慎ましく暮らしてきた。

 高校生になったらアルバイトで家計を助けようと思っていたが、バイトより高校生活を楽しみなさいと告げられ断念した。

 俺が学校で楽しい思いをしていないことには薄々気づいているだろうが、母さんからそのことについてなにか言われたことはない。

 俺が友達も作らずに青春を無駄遣いしていることに寂しさを感じているふうでもあり、そこは申し訳ないとも思っている。
 
 ただ、もうこの性格を変えるのは不可能な歳になったとも言える。

 未だに友達を作りたいという欲は湧かないし、恋人を作るなんて想像すらできない。

 戸部を奥手と言ったが、俺だって初恋はまだだ。

 ぼっちが寂しいと思わないのだから致命的だ。

 夕食が一段落すると、何の気なしにスマホを取り出し操作した。

 指は自然と動画投稿サイトを探していた。

 殿崎がライブ配信すると言っていたサイトだ。

 何の気なしに眺めていると、8時半にライブ配信がはじまった。

『こんばんは〜、翔です!
 いつも観てくれてるそこのあなた!
 ありがとうねー!
 さて、今日は新しいコスチュームを公開する!と宣言していたので、早速お見せしたいと思いまーす!』
 
 ピンクの髪をお団子にしたウィッグを被り、メイクも目の周りを黒く囲んで、頬をチークで髪と同じピンクにし、唇には鮮やかな真紅が塗られている。

 ぷっくりとした唇は、それだけで色気を感じさせた。

 カメラが殿崎の顔から全身を映す。

 身体の線が強調されたチャイナドレスに似たワンピースに、リボンや花で細かく装飾したウェディングドレスのようなボリュームのある衣装だった。

 言わずもがな超ミニスカートで、棒のように細い脚が覗いている。

 その脚を包み込むのは純白のレースだ。

『みんな大好きなゲーム『ヘブンズ』のシャオランです!
 チャイナドレスとウェディングドレスを融合したようなデザイン、可愛いですよね。
 メイクもシャオラン仕様です。
 ウィッグはさすがに買ったんだけど、コスチュームは全部手作りです。
 苦労したんだよねー、これ。
 リアリティを追求して細かい刺繍までこだわってるんだー。
 見えるかな、レースの編み込みとか、本当骨が折れて』

 画面いっぱいに繊細な花柄の刺繍が施されたレースが映る。

『今度のイベントでは、また新しいコスチュームで参加します!
 日本最大級のコスプレイベント、楽しみだなあ〜。
 他のレイヤーさんたちと会えるのも楽しみ!
 実は色々企画を用意したりしてるので、ぜひ会場に遊びにきてください!
 いつも画面の向こうで見てるレイヤーさんと実際に会うと感動しますよ〜。
 ぜひ、会いにきてください、待ってます!
 えーと、では、今日は、シャオランのコスチュームができるまでの奮闘ぶりをまとめたVTRをみんなで見ながら大変だったところなどを解説していこうと思います!
 感想よろしくです!
 それでは……』

 そこで俺はスマホの電源を落としテーブルに置いた。

 はあ、と溜め息をつく。

 この配信を、学校中の殿崎推しが観ているんだろうな、戸部も食いついて観ているに違いないと思うと、昼間の冷めた感覚を思い出し、改めて引いてしまった。

 このノリについていくことは、俺には無理だ。

 戸部の初恋を応援したいのはやまやまだが、殿崎翔太とあまり関わり合いにはなりたくないと思った。

 殿崎の明るさとテンションの高さは俺には眩しすぎる。

 殿崎に近づけば近づくほど、俺に覆い被さる影は濃く深くなるだろう。

 光りと影。

 それが俺と殿崎を言い表す適当な言葉の気がした。

 相容(あいい)れない存在。

 遠くから殿崎を取り巻く熱狂を眺める、それだけできっと俺にできる精一杯だろう。
 
 コップに注いだ麦茶を飲み干すと、シンクで食器を洗って、キッチンの照明を消して自室に引き上げた。

 明日、学校の帰りに量販店に寄って蛍光灯を買わなきゃな、ベッドに寝転がりながら、ぼんやりとそんなことを考えた。


 翌日、登校するとやはりと言うべきか、興奮状態の戸部が、昨日の配信について熱弁を振るってきた。

 可愛いだのコスチュームが似合うだの裁縫ができて手先が器用だのと絶賛を繰り返し、とにかく暑苦しい。

 ただ、そこまで他人に夢中になれる戸部の素直さに、少しばかり羨ましさを感じたことも、否定はできなかった。

 始業時間ぎりぎりに現れた殿崎に、わっとクラスメイトが群がる。

「殿崎、昨日も可愛かったよ!」

「シャオランのコスプレさせたら殿崎の右に出るものはいないな」

「次の撮影会いつ?」

 殿崎が混じり気のない極上の笑みを浮かべる。

「ありがとう、みんな観てくれたんだね。
 頑張った甲斐があるよ。
 つぎの撮影会はシャオランコスでやるよ。
 本当はイベントでお披露目しようかと思ってたんだけど、また別のアイデアが降りてきちゃってさ。
 そっちの製作に取りかかるんだ。
 楽しみにしていてよ」

 おおーっと歓声が上がる。

──まるでアイドルだな。

 俺は頬杖をつきながら教室前方で巻き起こっている喧騒を見るともなしに眺めていた。

 そのとき、一瞬だけ殿崎と目が合った気がした。

 ほんの数秒、俺の目と殿崎の瞳が互いを映した。

 そんな、気がした。

──まあ、気のせいだろう。

 始業のチャイムが鳴り、群衆から解放され自分の席へつく殿崎を目で追いながら、俺はそう結論づけた。
 
 殿崎の丸まった背中を見て、なんだか寂しそうだな、と不意に考えてしまった。


 昼休み、購買に向かうため、俺はひとり階段を降りようとしていた。

 すると、階段を上ってきた人物とすれ違った。

 ズボンのポケットに手を突っ込み、俺はすれ違う人物をやり過ごした。

「わっ!」

 その途端、短い悲鳴が聞こえて俺はとっさに振り返った。

 今まさに、階段を上っていた人物が、落ちてこようとするところだった。

「危ない!」

 反射的に、俺は落ちてくる人物を抱き留めた。

 自分も足を踏み外さないよう両足に力を込める。

 支えがない状況では危険な行動だった。

 ふたりして、もろとも階段を転がり落ちる可能性だってあった。

 だが、抱き留めた人物が華奢だったおかけで、俺の力だけで落下を免れることができた。

「……こわっ……。
 落ちるところだった……」

 俺に抱き留められたまま、その人物──殿崎翔太は呟いた。

 殿崎の足がしっかり床についていることを確認した俺は、殿崎から手を離した。

「いや〜、危ない危ない。
 えっと、永瀬くん、だよね。
 本当にありがとう。
 危うく怪我するところだったよ。
 怪我なんかしたらコスプレできなくなっちゃう。
 永瀬くんは僕の命の恩人だね」

「……大げさだな」

「大げさなんかじゃないよ!
 永瀬くんがいなかったら僕、踊り場まで真っ逆さまだったよ、感謝感謝、ありがとうね」

「ああ、じゃあな」

 俺が再び階段を降りようとすると、なぜか殿崎がついてきた。

「……まだなんか用か?」

「ううん。
 そういうわけじゃないんだけど……」

 殿崎が歯切れ悪く言い淀む。

 そして、俺の顔を覗き込んだ。

「今朝なんだけどさ、僕と永瀬くん、目が合わなかった?」

 俺はぴくりと肩を揺らして立ち止まる。

 やっぱりあれは見間違いではなかったのか。

「昨日の撮影会、永瀬くん、はじめて参加してくれたよね?
 楽しかった?」

 俺は言葉に(きゅう)する。

 戸部の付き合いでいただけで、別に楽しくなんてなかった。

 だが、本人を前にして、さすがに直接そう言う勇気は俺にはなかった。

「あ……まあ、な」

「そっか、楽しかったならよかった!
 また是非参加してね!
 で、昨日の僕、可愛かった?
 アスカコス、似合ってた?
 写真、SNSにアップしてくれた?
 配信は……さすがにないか。
 あ、これもなにかの縁だから、連絡先交換しようよ」

 殿崎がポケットからスマホを取り出す。

 殿崎の畳み掛けるような迫力と押しの強さに俺は後ずさる。

 断ろうとしたそのとき、俺は妙なことに気づいた。

「なんか、顔色悪くないか?」

 気づけばそう口にしていた。

 殿崎が罰の悪い表情になる。

「あ……そんなに目立つ?
 実はコスチュームを作るために徹夜続きなんだよね。
 昨日は配信もあったし、忙しくて……。
 でも、すごいなあ、永瀬くん、僕に興味ないのかなって思ってたけど、小さな僕の変化に気づいてくれるなんて……。
 感動だよ、もしかして、永瀬くんって、僕のこと好きだったりする?」

「……はあ?」

 俺は苦虫を噛み潰したような表情を作ってしまっていた。

 つい漏らした声も棘が含まれたものになった。

「みんながお前のこと好きだって、勘違いするな。
 俺はお前のことなんか好きではない、図に乗るなよ」

 衝動のままにそう言ってしまってから、俺は我に返った。

──失敗した、言わなくてもいいことを言ってしまった。

 殿崎の表情をうかがうと、ぽかんと口を開け、放心していた。

「……初めてだよ、僕のこと、嫌いだっていう人に会うの」

 その言葉に、再び俺はイラッとしてまたも余計なことを口走っていた。

「お前、何様のつもりなんだ、アイドル気取りもいい加減にしろ。
 言っておくが、俺はお前のことなんか、絶対好きにならないからな」

 俺から辛辣な言葉を浴びせられ、顔色を失っていた殿崎は、しばし呆けていたが、やがてくすくすと笑いはじめた。

 その気味の悪さに、俺はさらに後ずさる。

「……ふふふ、そっか、そんなに僕のことが嫌いか……。
 永瀬くんの気持ちはよくわかったよ」

「そうか。
 それじゃこの話は終わりだな」

 俺が踵を返そうとすると、殿崎に腕を掴まれた。

「……なんだよ」

「人間てさ、不思議だよね。
 絶対に手に入らないものほど、なぜか欲しくてたまらなくなる」 

「はあ?
 なに言って……」

 困惑顔の俺の手を離すと、びしい、と人差し指で俺の顔を指す。

「決めた、僕、永瀬くんを手に入れてみせる。
 僕のこと、大好きで堪らなくしてみせるよ。
 困難な敵ほど攻略したくなる、落とせない男を落として僕に夢中にさせてやる!
 なんか燃えてきた!
 僕の本気を見るがいい!」

 殿崎は不敵に笑うと背を向け、階段を駆け上がっていった。

「……なんだ、あいつ」

 今度は俺が呆然とする番だった。



「おはよう、氷弦くん!」

 教室に響いた声に、誰もが唖然とした。
  
 もちろん、俺が一番唖然とした。
 
 これまで、俺と殿崎が教室で話したことはない。

 殿崎に限らず、俺は戸部以外は誰ともほとんど話をしていなかった。

 接点の見えない俺に、殿崎が声をかけたことで、クラスメイトはざわついた。

 なんで殿崎が永瀬なんかに──そうクラスメイトの声なき声を身体でひしひしと感じて、居心地の悪いことこの上ない。

 しかも、「氷弦くん」呼びだ。

 いつの間にそんなに親しくなったんだ、そんな空気が漂い、好奇の視線が俺と殿崎に向けられる。

──違う、俺と殿崎はなんの関係もない。

 そう弁解しようとしたが、一体誰にそれを訴えればいいのかさえわからない。

 普段誰とも喋らない弊害が、こんなところで現れた。

「氷弦くん、お・は・よ!
 今日も僕、可愛い?」 
 
 ぐいっと顔を近づけて、殿崎が笑う。

 右頬にだけできるえくぼ。

 朝の太陽光を反射して、きらきら輝く瞳。

 殿崎の期待に満ちた眼差し。
  
 その後ろに控える、殺気に満ちたクラスメイトの眼差し。

 それらを一心に浴びて、俺は冷や汗が止まらない。

 ここでこいつを(ののし)ったら、きっとクラスメイトに殺される。

 冗談抜きで。

「か……か、わ、いい」

 周囲からの視線に俺は屈した。

 にこっと殿崎が満足そうに笑う。

「よかった、氷弦くんも格好いいよ。
 クールですらっとしててスタイルよくて、ビジュだって、なんか王子様みたいだよね。
 気高くて孤高で。
 ね、みんなもそう思わない?」

 殿崎がそう問うと、クラスメイトはやや戸惑いながら、「あ、ああ、そうだな」と渋々ながら同意した。

「でも確かに、永瀬ってよく見るとイケメンなんだな」

 誰かの気色悪い感想が聞こえる。

「ね、よかったね、氷弦くん。
 みんな、氷弦くんがイケメンだってわかってくれたみたいだよ」

──だからなんだよ。

 決して口には出さない。

「ねえ、ひづくんも一緒にコスプレしない?
 ひづくんならクール系キャラのコスプレ似合うと思うんだけどなあ」

──冗談じゃない、いや、それより『ひづくん』ってなんだ。

 頬を引きつらせる俺の腕に殿崎が自分の腕を絡める。

「ひづくん、また撮影会にきてよ。
 とっておきのコスチューム用意するから」

 クラス中から羨望の眼差しが向けられていることに気づく。

「あのふたり、どんな関係なんだ?」

「接点なかったはずだけど」

「まさか、付き合ってるとか?」

「ないない、いや、あったら困るって!
 殿崎は俺たちみんなのアイドルなんだから、独り占めは許さないぞ」

 ひそひそ声が俺の耳まで届いてくる。

──勝手に話を進めないでくれ。

 我慢できずに俺が口を開こうとすると、それを制して殿崎が言い放った。

「ひづくんは、僕の命の恩人なんだ。
 だから、みんな、ひづくんと仲良くしてよね」

 クラス中にまたもやさざめきが波打った。

「命の恩人……?」

「どういうことだ?」

 そんな疑問の声に応えて殿崎が薄い胸を張る。

「ひづくんがいなければ、今の僕はこうして立っていられなかったってこと」

「階段落ちそうになったの拾っただけだろうが」

 ついに俺が反撃すると、おおーっとクラスが活気づく。

「階段を!
 それは英雄だ、よくやった、永瀬!」

「俺たちのアイドルに傷がつくのは困るもんな、ありがとう、永瀬!」

「やるなあ、永瀬!
 なんか暗くて苦手だったけど、いいやつじゃん、お前!」

 俺と言葉すら交わしたことのないやつまでが、馴れ馴れしく肩を組んでくる。

 クラスの中心になるなんて、生まれてこの方経験がない俺は、あまりの居心地の悪さに肩にかけられた誰かの手を乱暴に振り払ってしまう。

 しかし、振り払われた当人は、気にも留めない様子で、「今度の撮影会の最前列で撮影する権利、お前にやるよ」といりもしないご褒美を進呈してくれる。

 クラスには、そうだそうだと賛同する声が嵐となり渦巻き、「い、いや、俺はそんなものに興味は……」と訴える俺の声はかき消された。

 男どもがやんややんやと俺を持ち上げる台詞を連発して盛り上がっている。

「友達作るのも悪くないよ、ひづくん」

 喧騒から離れたところに立つ俺の耳元で、殿崎がやけに達観したようなささやきを漏らした。

 俺は不意を衝かれ、隣に立つ殿崎を見下ろす。

 見下ろした殿崎は真顔で、教室ではない、どこか遠くを眺める目つきだった。

 底冷えすら感じさせるその表情に、俺は思わず喉を鳴らす。

 しかし、一瞬後には、殿崎はいつもの太陽のような笑顔に戻っていた。

 幻でも見た気分になって、狐につままれたようだと思った。

「絶対僕の(とりこ)にしてみせるからね、覚悟して、ひづくん!」

「お前なあ……」

 俺は呆れて文句のひとつでも言ってやろうと思ったが、そんなに意固地になる必要もないかと思い直して、黙ることにした。

 別に、俺は人が嫌いだとか、誰も好きにならない、なんていう信念を持っているわけではない。

 ただ、チャンスを逃した、それだけだ。


 生まれてすぐ、俺の心臓には問題が見つかった。

 手術を何度か経験し、入退院を繰り返した。

 病院で過ごした時間の方が圧倒的に長く、幼稚園には通えなかった。

 難病の類ではなかったため、小学校に上がるころには病気は完治した。

 しかし、入学式にも参加できず、新学期がはじまってからもしばらく登校できずにいた。

 その時間が致命的だった。

 やっとのことで念願の学校へ通えるようになったころには、教室内で仲良しグループが形成されたあとだった。

 同年代の子どもとも関わった経験がなかった俺は、友達の作り方もわからず、初っ端からつまずいた。

 気がつけば友達がひとりもいない学校生活を送っていた。

 心が折れなかったのは、友達がいないことを、寂しいと思わなかったからだ。

 友達なんて、いれば楽しいだろうが、いなくても別に生きていく上で支障はない。

 だから、俺は積極的にクラスに馴染もうとはしてこなかった。

 いつしか、友達がいない方が気が楽だとさえ思いはじめていた。

 だから、今に至るまで俺は友達らしい友達もいないし、当然恋愛なんてもってのほかだ。

 いつも不機嫌そうな表情が染み付き、誰にもにこにこ愛想を振りまかない大層可愛くない子どものまま、高校生にまでなってしまったのだった。

「ひづくん?」

 殿崎に顔を覗き込まれ、俺は過去の回顧から意識を引き戻した。

「この次の撮影会も、きてね!」

 ウインクをよこすと、殿崎は自分の席につき、隣の席のやつと雑談をはじめた。

 殿崎の周りには、いつの間に人だかりができる。

 それは、見た目もさることながら、殿崎の人柄がもたらすものでもあるのだろう。

 俺には逆立ちしたって手に入らない天真爛漫さ、天性の人心掌握術の持ち主。

 楽しげに笑う殿崎を眺めながら、俺にもあんなふうに笑い合える友達がいたのなら、学校生活も、もう少し張りが出るのかもしれないな、と柄にもないことを考えた。

 

 その夜、俺のスマホに殿崎のコスプレ画像が送られてきた。

 そのあと、戸部から詫びを入れるLINEが届いた。

 殿崎に俺の連絡先を教えてくれと泣き落とされ、つい教えてしまったという。

 文字では詫びているが、殿崎の泣き顔を思い出して、気持ち悪くにやにやしている戸部の姿が容易に想像できて、俺は肺の空気をすべて押し出す勢いで溜め息をついた。

 画像にはアスカコスでピースサインをする殿崎が収まっている。

『僕、可愛いでしょ?』

 そんなコメントつきで。

 俺は即座に消去した。

 同時に、戸部への苦情も送りつけてやった。

 戸部からは、なぜそんなに殿崎に連絡先を教えることが嫌なのか、殿崎とやり取りできるのは選ばれた人間にのみ許された特権なのに……と目を剥くような内容のメッセージが送られてきた。

 そして、『永瀬のおかげで俺も殿崎と連絡先交換したんだ、ありがとう』というまったく悪びれない文面に腹を立てた俺は、そのメッセージも消してやった。

 スマホを枕元に放り出し、ベッドに寝転ぶ。

 まったく、殿崎なんかに鼻の下伸ばしやがって。

 初恋を応援してやろうと思ったが、止めた。

 これ以上日常を殿崎に侵食されたくない。

 自力で殿崎を振り向かせればいい。

 むかむかとしながら目を閉じたそのとき、またスマホが着信を告げた。

 俺のスマホは滅多に鳴らない。

 どうせ殿崎か戸部だろう。

 俺はスマホを確認することすらせず、部屋の照明を落とした。

 寝返りを打とうとしたそのとき、またスマホが鳴った。

 令和の学生では有り得ない行為だろうが、俺は時代を逆行してスマホを無視し、夢の世界へと逃避した。


 翌朝、登校しながら確認したスマホには、呆れるほどの殿崎からのコスプレ画像が送りつけられていた。

 嫌がらせならぬ、もはやテロの領域だった。

 学校まで歩きながら、片っ端から削除していく。

 それだけで指が疲れ、徒歩15分の学校に着くころ、ようやくすべての画像の削除作業を終えた。

 教室に入ると、昨日までと世界が変わっていた。

「永瀬、おはよう!」

「おーすっ、永瀬、今日もイケメンだな」

 これまで俺を空気のように扱っていたクラスメイトから、次々と声をかけられたのだ。

「え、あ、ああ、おはよう」

 俺はやや狼狽(うろた)えながら、なんとか声を絞り出した。

 こんなふうに、朝の挨拶をするのは、何年ぶりだろう。

 小学校以来かもしれない。

 じっとりと滲んだ汗を拭いながら自分の席に向かうと、そこにはすでに殿崎が座っていた。

「おはよう、ひづくん。
 今日もいい日だね。
 梅雨だっていうのに暑いねえ。
 あ、昨日送ったコス見てくれた?」

「全部消した。
 俺の席だ、どけ」

「ええー?
 消しちゃったの、渾身のコス画像を!?
 ひどーい、ひづくんの人でなし!」

「声がデカい!」

 周りに聞かれることを恐れて、俺は殿崎の口を手で塞いだ。

 むぐむぐと、殿崎が頬を膨らませて抵抗する。

 子リスみたいだ。

 しばしの攻防のあと、俺の手から解放された殿崎は、大げさに息をついて俺を見上げた。

「まったくひづくんはわかってないな。
 あの画像、みんなが垂涎もののレア写真なんだよ」

「自分で言うな。
 とにかく、もう画像を送りつけてくるのをやめろ。
 連絡もしてくるな」

「ふうん?
 そんなこと言っていいの?
 僕から連絡がなくなったら、ひづくん、寂しくなると思うよ?
 どうせ、ひづくんに連絡してくる人なんていないんでしょ?」

 図星を突かれて俺は押し黙る。

 いや、寂しい云々ではない、俺のスマホが滅多に鳴らないという指摘が図星だったというだけだ。

 これに関しては、少し屈辱的だった。

 俺は、それがコンプレックスを刺激されたのだと遅まきながら気づいた。

──俺は友達がほしいのか?

 俺の席で、にやにやと頬杖をつきながら見上げてくる殿崎の視線にイライラする。

「ほら、どけ。
 授業がはじまる」

「はいはーい、わかりましたよ。
 ねえ、ひづくん、お昼一緒に食べようよ」

「お前にはいつも一緒に食ってるやつがいるだろうが」

「だから、その中に加えてあげるって言ってるの。
 写真も撮ってあげるよ?」

「なんでそんなに偉そうなんだよ。
 上から言うな」

「僕とお昼食べたいっていう人、いっぱいいるんだよ?
 友達作るチャンスじゃない」

「もう、いいからどけ!
 昼めしもひとりで食う、俺に構うな!」

 殿崎は唇を尖らせると、渋々立ち上がった。

「なんでそんなに怒るの?
 ひとりって、そんなに楽しい?」

「お前にはわからない。
 わかってほしいとも思わない」

「僕はただ、ひづくんと仲良くなりたいだけなのに。
 クラスの子だって、ひづくんに興味がありそうな人いっぱいいるよ?」

「そこにお前がついてくるなら友達なんかいらない」

 しっし、と殿崎を追い払うと、朝だというのにどっと疲れて、俺は椅子にもたれかかった。

「殿崎に気に入られてるってのに、贅沢だよなあ、お前」

 そう恨みがましい声をかけてきたのは戸部だった。

「贅沢?
 なんのことだ」

 そう訊くと、嫉妬に燃える瞳で、戸部が俺を睨んだ。

「殿崎、LINEでお前のことばかり話題にするんだ。
 中学時代の永瀬はどうだったかとか、普段永瀬となんの話題で盛り上がるかとか、殿崎が聞きたがるのはお前のことばかりだ。
 お前、本当殿崎に気に入られてんだな。
 ……恨みがましい」

「ちょ、待て、戸部。
 俺はあいつのことをなんとも思ってない。
 お前から取り上げるつもりはない、だから安心しろ」

「安心しろ?
 ずいぶん余裕なんだな。
 なんだよ、お前は俺に協力してくれると思ってたのに、裏切ったな」

「だから違うって!
 俺の話ちゃんと聞いてるか?
 なんで、そういう話になるんだよ、誤解すんな!」

「本当か?
 本当にお前、あの殿崎に言い寄られて、落ちない自信があるか?」

「自信しかないわ!
 俺は殿崎には落ちない!」

「じゃあ、俺に協力してくれるな?
 誓うか?」

「も、もちろん」

「約束だからな」

「お、おう」

 始業のチャイムが鳴り、目を三角にした鬼気迫る形相の戸部が自分の席へ戻っていく。

 恋愛って、人を鬼にするんだな。

 俺には一生縁のない話なのかもしれない。

 だって、俺は、あんなふうに他人に執着できそうにない。

──落ちない自信なら、ある。

 暗闇を飼う俺は、眩しい光りには、近づけないのだ。

 きっととろけて、跡形もなくなってしまうだろう。 

 自分の暗さを浮き彫りにする光りになんて、誰だって近づきたくないだろう、惨めだから。

 だから、俺と殿崎は決して交わらない。

 住む世界が違うんだ。


「ひづくん、ちゃんと撮ってる?」

「……撮ってるよ」

 俺はおざなりにスマホのシャッターを切った。

 放課後の教室。

 俺と殿崎しかいない。

 ついさっきまで、教室はコスプレした殿崎の撮影会で大盛況だった。

 今は、その熱も引き、静寂が満ちている。
 
 本格的に夏を迎え、夏休みも間近に迫ったところだった。

 撮影会に参加するのも、もう慣れた。

 戸部に付き合って、参加しているうちに、クラス以外の生徒と喋る機会も増えた。
 
 みんな殿崎の熱心なファンで、なんというか、ピュアだ。

 殿崎を心から愛し()でている。

 特に殿崎に興味は湧かなかったが、撮影会常連と仲良くなった俺は、撮影会に参加することが苦ではなくなった。

 今では、連絡先を交換したやつらから、推しの殿崎の画像が頻繁に送られてくるようになった。

 俺には必要のないものだったが、さすがにいらないとは言えなかったので、仕方なく保存してある。  

 そして、なぜコスプレした殿崎と俺がふたりきりで撮影会をしているのかというと、カメラマン役を頼まれたからだ。

 なんでも殿崎は、コスプレイベントで販売する写真集を自費で制作する予定なのだという。

 いわゆる同人誌の類というわけだ。

 その写真集に使う写真を撮ってほしいと殿崎たっての希望であった。

 当然俺は渋ったが、撮影会で知り合ったやつらからも、殿崎からの指名なら是非撮ってほしいと懇願されたので、断ることもできず、引き受けることになってしまった。

 信頼するカメラマンでないと、見せられない表情があるとかなんとか、まるで自分がプロのモデルだと勘違いしたような殿崎の発言に、かちんとこないこともないが、これはもう仕方ない。

 なんといっても、殿崎推しから俺は信用されているらしい。

 殿崎のお気に入りだが、抜け駆けして殿崎を独り占めするような人間ではない、それが周りの俺の評価だった。

 その信頼に応えるべく、俺は殿崎の撮影を続けていた。

 ネタバレ禁止ということで、教室周辺は人払いされていた。


「撮れた?」

 美少女に変身した殿崎が、俺の手元から、自分のスマホを抜き取る。

 うーん、と唸りながら真剣な顔で写真を吟味する。

「……うん、いいかも。
 じゃあ、着替えてくるね」

 俺にスマホを押しつけると、なんでもないことのように殿崎が言った。

「はあ!?
 ちょっと待て、まだやるのか!?」

「素材は多いほどいいんだ。
 たくさんの中から絞り込んで、納得する一冊を作る。
 妥協はしたくない」

「……」

 俺は溜め息をついた。

「じゃあ、さっさと着替えてこいよ」

「うん!
 待っててね、カメラマン!」

「なにがカメラマンだ」

 俺は椅子にもたれかかりながら眉間を揉む。

 やっぱり、あのテンションにはついていけないな、と改めて思う。

 疲れた、はやく帰りたい。

 窓の外を何の気なしに見つめる。

 夕方だというのに、まだまだ明るい。

 夏がやってくる。

 いつまで殿崎に振り回されるんだかな。

 腕を組んで目を閉じる。

 考えてみれば、殿崎と話さない日はこのところ1日だってなかったな、と余計なことを考える。

 こんなに特定の誰かとつるむなんて初めてだ。
 
 いや、つるむっていうのは、お互いが友達だと認識している場合に使用される言葉か。
 
 殿崎から一方的に絡まれているだけなので、この言葉はふさわしくない。

 じゃあ、どんな言葉が、関係が、俺たちを表すのに一番的確だろうと思考したが、答えが出る前に、「お待たせ〜」と言いながら殿崎が戻ってきた。

 目を開けると、清楚なセーラー服姿で、長い黒髪のウィッグを被った殿崎が微笑んでいる。

 ナチュラルメイクで、露出も少ない。

──こんなおしとやかなコスプレもするんだな。

「えへへ、実はこれ、まだお披露目してない力作なんだよね。
 写真集の目玉にしようかなって。
 今までの僕が挑んでこなかったタイプだから。
 どう、似合うかな?」

「ああ、似合うよ」

 ごく自然に、滑り出るように俺はそんな言葉を発していた。

 俺は、はっと口を覆う。

──なにを口走ってるんだ、俺は。

「本当!?
 嬉しいなあ、頑張った甲斐があるよ!
 ひづくんに褒められるって、こんなに嬉しいことなんだね!」

「い、いや、今のは……」

 慌てて訂正しようとしたが、遅かった。

 殿崎は顔を朱に染めて、なぜかもじもじしながらはにかんで俺を見上げてくる。

「ひづくん、ありがとうね」

 俺は、もうなにも言えなかった。




 夏休み直前、殿崎に呼び出された。

 ひとけがない、校舎裏だった。

「待たせちゃって、ごめんね。
 心の準備が必要でさ」

 そんな謎の台詞とともに殿崎が現れた。

 もちろん、コスプレ姿ではなく、学校の制服姿だ。

 ただ、普段の殿崎と雰囲気が違うことに気づき、俺は、おや、と目を細めた。

 なんだか、殿崎がもじもじしている。

 顔も赤いしうつむきがちに地面を眺め、ときどき、ちらっと潤んだ瞳で俺を見上げる。

──なんだ、熱でもあるのか?

 いつもは感心するほどよく回る口が、今はもどかしいくらい言葉を発さない。

「ねえ、ひづくん、僕がひづくんを好きだって言ったら、どう思う?」

「はあ?
 どう思うって、べつにどうも思わねえよ」

 年中告白されているようなものだし、今さらなにを言われたって、驚くようなことではない。

「僕、言ったでしょ、ひづくんに、僕を好きにさせてみせるって」

 そんなこともあった。

「言ってたな」

 殿崎が、さらに顔を赤らめどんどんうつむいていく。

 そのまま身体ごと地面に沈んで消えるんじゃないかと俺は妙なことを考えてしまった。 

「あの、ね。
 僕、僕のほうが本気になっちゃったんだ」

「本気?」

「つまり、もう、恥ずかしいな、最後まで僕に言わせるつもり?」

 そう言われたって、殿崎がなにを察してほしいのか、俺にはわからない。

「恥ずかしいなら、言わなきゃいいだろ」

「もう!
 ひづくんは、本当に鈍感だよね!
 だから!
 僕は本気でひづくんに恋しちゃって、その、恋人になりたいの!
 付き合いたいんだよ!」
 
 殿崎が耳まで真っ赤にして、ぎゅっと目を閉じて一息に叫んだ。

 はあはあと呼吸を弾ませる殿崎を、俺はただ呆然と眺めることしかできなかった。

 思いの丈を叫んだ殿崎が、俺の顔色をうかがう。

「……どう?
 わかった?
 僕は、本気でひづくんが好きなんだよ。
 こんな気持ち、はじめてなんだ。
 これまでも好意を抱いた人はいるよ。
 でも、こんなに強く誰かに惹かれるなんてひづくんがはじめてなんだよ」
 
 捨てられた仔犬よろしく、くんくんと鳴きながら見上げてくる殿崎を俺は困惑顔で見返した。

──こいつ、本気だ。

 心の中は、初めて直面する場面に戸惑いの嵐が吹き荒れていたが、それをうまく言葉にすることができない。

 真摯に応えなくてはいけないと思いつつも、どう答えるべきか、さっぱりわからなかった。

「わ、悪い……。
 殿崎が言いたいことはわかるんだけど、俺は、その、恋したことがなくて……」

 言葉が続かず言い淀む俺を、殿崎が真っ直ぐに見据える。

「……ひづくん、これだけは確認させて。
 頭ごなしに拒否しないってことは、僕のこと、嫌いってわけじゃないんだね?」 

 俺はさらにしどろもどろになりながらなんとかうなずいた。

「そっか、嫌われてないならよかった!
 今まで通り、仲良くしてね!
 僕、ひづくんに好きになってもらえるように頑張るから!」

 殿崎はそう宣言すると、やる気に満ちた眼差しで、びしい、と人さし指で俺を指さしてくる。

──え、俺、なんで今、無意識にうなずいちゃったんだろう?

 俺、殿崎のこと苦手じゃなかったっけ?

 なんだかんだ絡まれているうちに、すっかり殿崎のペースに巻き込まれている気がする。

 これは、きっぱりと拒否しなければいけない場面だったんじゃないか?

 このままでは、これから先ずっと殿崎につきまとわれる可能性が高くなってしまう。

 これはまずい──俺が慌てて口を開こうとすると、殿崎が俺の両手を掴み、ぶんぶんと上下左右に振り回した。

「僕、諦めないからね!
 覚悟してよ?」

「あ……ああ」

 まずい、なんか言え!

 頭ではわかっているのに、どうしても言葉が詰まってしまう。

 殿崎は満足げに、にっこりと笑うと、俺の頬にキスした。

「!」

 あまりのことに硬直した俺は絶句していた。

「じゃあ、また明日ね、ひづくん」

 はにかんだ笑みを浮かべると、意気揚々と殿崎は棒のように立ち尽くす俺を校舎裏に残して、ひらひらと手を振りながらライブを終えたアイドルのように去っていった。

「……あいつ、なんで俺なんかがいいんだかな」

 頬に手を当てて俺は独りごちる。

 キスされた頬に、柔らかい感触が残りいつまで経っても熱を持っている気がした。

 
 夏休みに突入し、リビングのソファでごろごろしながらスマホを見ていた俺に、母親がなにやら深刻そうな表情で「氷弦」と話しかけてきた。

「んん?」

 スマホから目を離すことなく応じる。

「あのね、大事な話があるの」

「……なんだよ、改まって」

 俺はスマホの電源を落として身を起こす。

 対面に座る母親は、俺の顔を見つめ、意を決したように口を開いた。

「お母さんね、再婚しようと思ってるの」

「……はあ?」

 予想外の展開に、俺は心からの「はあ?」を繰り出した。

 父親が事故死して以来、看護師をしている母親はひとりで俺を育ててくれた。

 働き詰めの母親には感謝しかないし、なるべく母親には迷惑をかけないようにしてきたつもりだ。

 俺は母親と向き合い、思考を巡らせた。

「……いいんじゃないか?
 母さんだって、将来のことを考えたら、パートナーがいたほうが安心だろ」

 母親がほっとしたようにぎこちない笑みを見せる。

「本当?
 てっきり反対されるかと思ったからよかったわ」

 改めて見ると、母親も目尻のしわが増え、白髪も目立つようになってきた。

 俺ももう高校生だ、母親が恋愛することを認めないなんてわがままを言う歳ではない。

「で、再婚相手は誰なんだ?」

 スマホをローテーブルに置き、クッションを抱えながら探りを入れる。

「同じ病院に勤めるお医者様でね。
 外科医の先生なの。
 あ、心配しないで、氷弦の姓は変わらないから。
 それでね、明日、殿崎先生と会うことになっていて、氷弦も……」

 俺は聞き捨てならない言葉に身を乗り出した。

「待て、殿崎……?
 まさか、俺と同い年の連れ子なんて、いないよな?」

 母親が驚愕に目を見開く。

「あら、どうしてわかるの?
 殿崎先生のこと、知っているの?」

「……い、いや、医者のことは知らないけど。
 子どものことは、知らないわけでもないというか……」

 俺の煮え切らない台詞に、母親が不思議そうに首を傾げる。

「殿崎先生には、翔太くんという氷弦と同い年の息子さんがいるわ。
 殿崎先生は数年前に離婚されていてね、翔太くんとふたり暮らしなんだそうよ。
 夏休みのうちに、殿崎先生のお宅に引っ越すことになっていて……」

 俺はまたしても母親のほうへ身を乗り出した。

「いや、待ってくれ、それは、つまり……。
 俺と殿崎が、同居するということか?」

「そうよ?
 当たり前じゃない」

 母親がこともなげに言う。

 俺は、その『当たり前』の事実がなにより恐ろしかったのだとはさすがに言えなかった。

 殿崎と同居する。

 家族になる──。

 これ以上気まずいことが、世の中にあるだろうか。

 しかし、再婚を認めてしまった以上、意見をひっくり返すわけにもいかない。

 俺は母親に悟られないくらい静かに葛藤した。

 葛藤して葛藤して、葛藤し尽くしたのちに、殿崎との同居を受け入れるしかないという現状を飲み(くだ)すことができた。

 夏休み前に告白されてからも、殿崎との関係は変わっていない。

 相変わらず、コスプレの撮影に付き合わされ、暇さえあれば愛の言葉をささやかれている。

 最近は、まるで洗脳するかのように告白されていた。

 そのたびに、俺は反撃して殿崎を振っている。

 そんな殿崎と一緒に住む──。

 ある意味地獄に連行されるより過酷な日々がはじまる予感に、真夏だというのに俺は身震いする。

「引っ越しの準備、進めておいてね」

 俺と殿崎の事情をなにも知らない母親は、立ち上がると鼻歌混じりにキッチンへと消えていった。



 殿崎の家は、やたらとデカかった。

 2階建てで、西洋建築の豪邸といっていいだろう。

──医者って、儲かるんだな。

 俺の心に(よこしま)な考えが浮かぶ。

 玄関先に顔を出した殿崎の父親は、さすが殿崎翔太の親というべきか、歳の割に若く見え、整った風貌をしていた。

「ようこそ、氷弦くん。
 殿崎誠(とのさきまこと)です。
 これから、よろしくね」

「……よろしく」

 いつも通りの無愛想な俺を、母親が隣から心配そうな顔でちらちらとうかがってくる。

 これが俺の通常運転なのだが、殿崎父が機嫌を損ねないか不安なのだろう。

 だが、殿崎父は顔色ひとつ変えず、「どうぞ、入って」と俺と母親を促した。

 1階ロビーは吹き抜けで、天井から差す日差しで視界が真っ白になるほど明るかった。

 2階に続く階段を中心に左右対称に部屋が並んでいる。

 1階はリビングやキッチン、バス・トイレがあり、2階は寝室や物置などがあると殿崎父は説明してくれた。

 俺も、2階にひとり部屋を与えてもらえるらしい。

 ダイニングに向かうと、テーブルには先客がいた。

「ひづくん!
 いらっしゃい」

 殿崎息子が満面の笑みで俺の名前を呼んだので、母親が驚いたように俺と殿崎を交互に眺めている。

「昨夜息子から聞いたんです、どうやら翔太と氷弦くんはクラスメイトらしいと」

「まあ、本当に!?
 すごい偶然じゃない。
 氷弦、どうして言ってくれなかったの?」

「……」

 別に、わざわざ馬鹿正直に報告する必要もないだろう。

 ただクラスが同じだけ、それだけの関係なんだから、俺と殿崎は。

 殿崎父は料理が趣味ということで、キッチンのテーブルの上には豪勢なおもてなし料理が並んでいた。

 まるでホテルの朝食のような光景だ。

 俺は仕方なく殿崎の向かいに腰を下ろす。

 新しく家族となる4人の食事がはじまった。

「殿崎先生、噂通り料理がお上手で」

 母親がそう褒めると、殿崎父は、いやあ、と謙遜しながらも気分がよさそうだった。

 どうやら殿崎父は親しみやすい人柄のようだ。

 穏やかに顔合わせの食事が進むなか、恐れていたことが現実になった。

「翔太はね、好きなものに対する情熱がすごいんですよ。
 今は趣味に打ち込んでいてね、私も驚くような集中力を発揮するんですよ」

 殿崎のことに話題が及ぶと、殿崎父が上機嫌に息子のことを親馬鹿丸出しで語りだした。

「趣味ですか?
 翔太くんはどんな趣味が?」

 やめればいいのに母親がその話題に食いつく。

「コスプレです。
 漫画やアニメ、ゲームなんかのキャラクターのコスプレをするのが僕の趣味なんです」

 引くかと思っていた母親は、そう説明しながら差し出された殿崎のスマホの画面をしげしげと眺め、感心したように吐息をついた。

「へえ、すごいのねえ。
 メイクもばっちりじゃない。
 まるで女の子ねえ、可愛いわ、よく似合ってる。
 本当、漫画の中から飛び出してきたみたい。
 こういう服は売ってるの?」

「手作りなんです、コスチュームは全部」

「手作り!
 裁縫が得意なのね。
 すごいわ、もっとよく見せてちょうだい。
 ……細かい刺繍までこだわってるわねえ。
 趣味の域を超えてるわ、まるでプロの仕事みたい」

 引くどころか母親は、ぐいぐいと殿崎に食いついていく。

 褒められた殿崎は、わざわざ自室に戻り、自慢のコスチュームを持ってきて母親に見せた。

「男の子がひとりで作ったとは思えないわ。
 私、針仕事って苦手なのよね。
 氷弦が小学生のころ、雑巾を作ってきてくださいって言われたとき、絶望したのを覚えてる。
 私にはできないわ、すごいのね、翔太くん」

 どうやら母親は自分にはできないことをやってのける殿崎に憧憬の眼差しを向けているようだった。

 殿崎にコンプレックスを刺激され、さらにそれが憧れに変わったようだ。

 これは厄介なことになりそうだ。

 俺はひとしきり盛り上がる3人を眺めながら静かに頭を抱えた。

「氷弦くんは、コスプレした僕をカメラマンとして撮ってくれているんです。
 でも、本当は僕、氷弦くんと一緒にコスプレしたいなって思ってるんですけど」

 殿崎は笑顔から憂いを帯びた表情に変え、なぜか溜め息混じりに母親に訴えた。

「あら、誘われてるなら、やればいいのに!
 氷弦、あなた翔太くんと一緒にコスプレやったら?
 氷弦、無愛想だし人付き合い苦手だし、殻を破るいい機会かもよ?
 知らない自分を発見できるかもしれないわ。
 自分じゃないものになってみるって、面白そうじゃない。
 お母さん、氷弦のコスプレ姿見てみたいわ」

「……」

 俺に破りたい殻なんかない。

 無愛想でも友達を作らなくても俺の自由だ。

 反撃しようとしたが、殿崎のつぎの言葉で口を開くタイミングを失ってしまった。

「ひづくんには、とあるアニメの『氷の王子様』っていうキャラのコスプレが似合うと思うんです。
 ほら、これ」

 殿崎がスマホを操作してアニメのキャラクターを表示させる。

 中世ヨーロッパにでもいそうな、煌びやかな衣装に身を包んだ銀髪のイケメンだった。

 俺の背中が鳥肌を立てる。

──冗談だろ、こんな格好、絶対なりたくない。

 ひとり青ざめる俺を置いて、話はどんどん転がっていく。

「いいじゃない、イケメン!
 氷弦、似合いそうねえ」

 母親が手を叩いて喜んでいる。

 なんだか楽しそうだ。

 ここへきて殿崎父に感化されたのか、母親までも親馬鹿を発揮しはじめた。

「……おい」

 誰も俺の声なんか聞いていない。

「じゃあ、ひづくん、あとで採寸させて。
 『氷の王子様』の衣装、腕によりをかけて作るよ!」

 きらきらと期待を込めた目で母親に見つめられ、俺は意見することを諦めた。



 夏真っ盛りのなか、俺は極秘に殿崎家に引っ越した。

 殿崎には、同居することをクラスメイトには決して口外しないよう念を押しまくった。

 その結果、「じゃあ、誰にも言わない代わりに一緒にコスプレしてよ」と悪魔のような笑顔で交換条件を提示された。 

 俺はそれを突っぱねたが、それを知った母親が殿崎の味方になり、こんこんと説教された。
 
 (いわ)く、友達がこんなに優しくしてくれているのに、コスプレひとつ付き合わないなんて、社会人になったらどうするのか、社会に出れば人付き合いは必須のスキルなのだから、勉強だと思って翔太くんに付き合いなさい、というのが母親の教えだった。

 俺は母親に弱い。

 マザコンではないが、俺を育ててくれた母親に反抗的な態度を取ることが、どうしてもできないのだ。

──これもひとつの親孝行か。

 俺が殿崎と母親に洗脳されて()ちるまで、そう時間はかからなかった。

 夏休み終盤、俺はリビングのソファに寝転びながら、対面に座って、せっせとコスチューム作りに励む殿崎を眺めていた。

 その殿崎が作っているのは、言わずもがな俺に着せるためのあのごてごての王子様コスチュームだ。

 ある程度ミシンで作ったら、あとは手縫いで細かい装飾をつけていく。

 時間も金もかかる作業だ。

 こうして常に顔を合わせるようになってから、俺は殿崎のことを少しずつ知るようになった。

 なんでも、殿崎は父親と同じ医者になるために医学部を目指しているのだという。

 そういえば殿崎は成績がよかったな、と頭のどこかで考え、将来のことをきちんと思い描いている殿崎を意外に感じた。

 コスプレは勉強の息抜き、のつもりだったが、好きが高じて真剣になってしまったんだとか。

 もともと凝り性なところがあって、裁縫は性分に合っていたらしい。

 しかし、だからといって、目の前で俺が着せられる衣装を創作されるのを見るのはあまりいい気分ではなかった。

 自分が着るのでなければ、もう少し素直にその腕前を評価できたかもしれないが、この衣装を着るのは俺なのだ。

「もうすぐ完成だよ、ひづくんにきっと似合うよ!
 だって、ひづくんのことが大好きな僕が作った衣装なんだから!」

 その理屈はわからない。

 俺は重たい溜め息をつくことしかできなかった。




「今日、ライブ配信やるよ!
 サプライズゲストを呼んでるから、みんな観てね!」

 夏休み明け、教室で殿崎はそう宣言した。

 おおっと男たちがどよめく。

「サプライズゲスト?
 誰だ、それ?」

「まさか、殿崎の……恋人!?」

「いやいや、それはないだろう。
 そんなことあっては困る。
 え、本当にないよな?
 困る、困るぞ、恋人なんて。
 なあ、ないよな?」

 早くも涙目になった戸部が俺ににじり寄ってくる。

 面白いくらいの狼狽えようだ、非常にうざい。

 そのサプライズゲストたる俺は、暗澹たる気分であった。

 クラスメイトに殿崎と俺が一緒にコスプレするところを、いよいよ今夜お披露目しなくてはいけないのだ。

 正直、クラスメイトがどんな反応をするかわからず、本当に怖かった。

 俺は期待と不安を()い交ぜにしたクラスメイトのざわめきを冷や汗を垂らしながら聞くしかなかった。



「よし、時間だね。
 ひづくん、配信はじめるよ」

 場所は殿崎の部屋。

 時刻は夜の8時ちょうど。

『こんばんは〜、翔です!
 いつも観てくれてるそこのあなた!
 ありがとうねー!』

 いつも通りライブ配信がはじまった。

『今日はスペシャルサプライズシークレットゲストをお呼びしています!』

 やめろ、変に長ったらしい説明を加えるな、期待を煽るだろうが。 

 それで出てきたのが俺じゃあ、期待からの失望の落差がありすぎる。

 俺は悪くないのに、なんだか責められるのは俺のような未来がすんなりと思い描けてしまう。

『では、登場してもらいましょう、コスプレイヤーのひづくんです!』

 殿崎は自分で歓声を送り拍手をして場を盛り上げる。

 カメラに収まるように、俺は殿崎の隣に立った。

『ひづくんが着ているのはアニメ『楽園追放』に出てくる『氷の王子様』の衣装です!
 どうですかー、アニメの冷酷無比な王子様にそっくりでしょ?
 身長も高いし、スタイルも抜群、なにより銀髪が似合いますよねえー!
 これでメイクは最小限なんだから、ひづくんってばイケメンなんだから!
 お、早速コメントついてますねー。
『まるで王子様そのもの!』
『すごい再現度!』
『かっこよすぎる、この人誰?』
 嬉しい反応ばかりですよ、どうです、ひづくん!』

『……』

 どうと言われても、正直嬉しい。

 さっき鏡で自分の姿を見たときは絶望そのものだったけど、絶賛してくれるコメントばかりで、なんだか悪くない気がしてきた。

『ひづくんは無口なんですねー。
 そこもまたひづくんの魅力のひとつです!
 どうですか、僕は今日、『氷の王子様』の婚約者、ミナミのコスプレです。
 でも、今日の主役はひづくんですから、どしどしひづくんへのコメント、待ってまーす!』

 それから、衣装制作の苦労話、『コスプレイヤーひづくん』を絶賛する話、現在進行している写真集の話、参加予定のイベントへの意気込みなどを語って配信は終了した。


「ふー、終わったね。
 久々に喋りすぎて、さすがに疲れたよ。
 ひづくんも、ご苦労様。
 やっぱりひづくんは美形だなあ。
 好き。
 あ、ごめん、心の声漏れた、ははっ」

 漏れた心の声をスルーし、機材を片づけている殿崎の横で、俺はスマホを眺めていた。

 早速配信についての書き込みをチェックすると、ものすごい反響に、俺は目が飛び出るかと思った。

 しかも、すべて『ひづくん』への絶賛である。

 あれは正真正銘の王子様だの、付き合いたいだの、こんなイケメン見たことがないだの、とにかく俺を肯定する意見に溢れている。

 俺は唇の端が自然と持ち上がっていることを自覚して、はっと我に返った。

──なんでコスプレを楽しんでいるんだ、俺?

 でも、なんだか、興奮している。

 すると、スマホの着信音がバグったかと思うくらい連続で鳴り響いた。

 メッセージが、つぎつぎと送られてくる。

 なにごとかと怪訝に思いながらメッセージアプリを開くと、知らない名前を含め、クラスメイトや数少ない学校の知り合いからのメッセージが、いつかの殿崎が画像を送ってきた、あのテロレベルでメッセージが届いている。

 そのなかに、戸部の名前を見つけ、まずはそこを開いた。

『悪い、永瀬。
 お前の連絡先知りたいってみんながいうから、教えちゃった』

「……」

 ウインクしながら片手で謝りつつ、ぺろりと舌を出す戸部の顔が簡単に思い浮かんでしまい、無性に腹が立った俺は、戸部のメッセージを黙殺した。

 しかし、たった一度コスプレを披露しただけで、学校中の生徒から接触されるなんて、思いもしなかった。

 メッセージを流し読みしていくと、配信のとき投稿されたコメントと似た文言がつぎつぎ表示される。

 殿崎の影響力の絶大さを身に染みて感じた。

 殿崎の部屋にある姿見で、自分の姿をもう一度見返す。

 なるほど、氷の王子様、か。

 殿崎渾身のごてごてした装飾の衣装に銀髪のウィッグをつけただけで、まるで俺じゃないみたいだ。

──なんか、悪くないかも。

 すぐに脱いでしまうのがもったいない気がして、俺は姿見の前で何度かターンしてみる。

 照明を受けてスパンコールがきらきらと輝き、裾がひらりと翻る。

 うん、結構様になってるんじゃないか?

 俺が悦に入っていると、部屋のドアがノックされた。

 片づけの手を止めて殿崎がドアを開けると、なにやらスマホを構えた母親が廊下に立っていた。

紀子(のりこ)さん、どうしたの?」

 紀子、は母親の名前だ。

「配信観てたの。
 ごめんね、我慢できなくて。
 氷弦、写真撮っていい?
 職場のみんなに見せたいの」

 俺はあからさまに渋い表情になった。

「断る、俺は見世物じゃ……」

 俺の言葉など聞こえていないのか、殿崎がスマホを受け取り、母親が俺の隣に並び、満面の笑顔でピースサインしている。

 かしゃっとシャッターが切られ、王子様の格好をしながら仏頂面の俺と母親が収まった写真が撮られてしまう。

 流れるような連携プレーだ。

「きゃあ、氷弦、かっこいい!
 これはみんなに自慢できるわ〜。
 スカウトとかされちゃったらどうしよう。
 うちの氷弦が世間に見つかっちゃったら、どうしましょう〜」

 頬に手を添え、母親が見せびらかす気満々のミーハーな顔で鼻歌なんか歌いながら撮ったばかりの写真を見返している。

 なんか、幸せそうだ。

 こんな表情の母親、見たことがない。

 仏頂面を解くと、全身の力が抜けていった。

──まあ、いいか。

 俺ひとりでは、母親をこんなに幸せな顔にはできなかった。

 これも、親孝行、と気持ちを切り替える。

 じゃあ、お休みなさい、と言って母親が弾む足取りで部屋を出ていく。

 ふたりきりになると、殿崎がにやついているのが目に入った。

「……なんだよ」

「ううん?
 なんだかんだ言って、ひづくんて優しいんだよね。
 そういうとこ、大好きだよ」

「そういうことは、もう少し恥ずかしそうに言えよ」

「愛の告白は照れたほうが負けなんだよ」

「なんだ、それ。
 聞いたことがないぞ」

「うん、今僕が思いついたばかりだからね」

「ふざけてんのか、お前」

 俺が気色ばむと、殿崎はますます笑みを深め、「まあまあ」とさらに神経を逆なでする。

「だって、ひづくんてめちゃめちゃお母さん思いじゃん?
 コスプレだって、紀子さんがやればって言ったからやってくれたんでしょ?
 そういうところが、僕、大好きなんだよね」

「だから、そういうことは照れながら言えって」

「じゃ、メイク落として寝る準備しようか。
 あ、コスチュームは慎重に脱いでね、繊細なデザインだから、洗濯は手洗いしないと」

 殿崎が手を差し出す。

「……なんだよ?」

「え、脱いだコスチュームを受け取る手、なんだけど」

「はあ?
 ここで脱げってのか?
 着るときはなにも言わなかっただろうが」

「ちっ、バレたか」

 殿崎が突然悪い顔になって舌打ちする。

「お前、今舌打ちしただろ」

「ふん?
 してないよ、ふふ。
 でも、気をつけてね、同じ家に住むってことは、僕の目が常にあるってことだからね」

「……お前、俺の着替え覗いたりするつもりじゃないだろうな」

「んー?
 どうかな?
 でも、僕たちは家族なんだよ。
 家族なら、別に着替えを見られたって問題ないよね?」

「あるわ!
 貞操の危機を感じるわ、おい、それ以上俺に近づくな!」

「えー、いいじゃん、僕たち、キスした仲でしょ?」

「あれは一方的にお前が頬にキスしただけだろうが!
 あれだって犯罪だぞ、わいせつだ、わいせつ。
 不同意だから、罪になる!」

「ねえ、キスしてよお、氷の王子様あ〜」

「やめろ、俺に近づくなって!」

 唇を突き出して迫ってくる殿崎の顔を抑えつけ、俺は逃げるように部屋から転がり出た。

 背後から「あはは!ひづくんは可愛いなあ!」と上機嫌に笑う殿崎の声が追いかけてきて、俺は自分の部屋に駆け込んだ。

 ドアを閉め、深呼吸して心臓の鼓動を抑えつける。

 この鼓動はなんだ?

 嫌悪?動揺?それとも……。

「興奮、してる……?」

 なににだ?

 まさか、殿崎に迫られて、興奮しているのか、俺は?

 慌ててぶんぶんと頭を激しく振る。

 誓って殿崎なんかに落ちない──戸部にした宣言を、俺は覆そうとしているのか?

──好きなんかじゃない、初めての経験に興奮しているだけだ。

 俺は自分にそう言い聞かせてコスチュームを脱ぎはじめた。 

 ぐっしょりと額に浮かんだ汗を決して衣装に付着させないように、細心の注意を払いながら。



 翌日。

 登校するや否や、俺は一躍大スターになっていた。

 登校中からあらゆる生徒に声をかけられ、写真を撮ってほしいと頼まれ、サインをねだられた。

 先輩に声をかけられると、さすがに断れないのでできる限りの愛想を浮かべて写真に収まりそれっぽくサインを記していった。

 人酔いしながら教室に入るころには、もうへろへろだった。

 しかし、本番はここからだった。

 教室に足を踏み入れた途端、クラスメイトが鋭い眼光で一斉に振り向き俺を見た。

 俺はあまりの勢いに押されて一歩後退する。

「きたな、永瀬!」

 そして、男たちが、どっと俺のもとに押し寄せる。

「観たぞ、昨日!
 美しかった、氷の王子様!」

「殿崎がかすむくらいすごかったな、氷の王子様!」

「なあ、うちの妹に頼まれてるんだ、一緒に写真撮ってくれよ!」

「なんで殿崎とコラボしたんだ?」

「つぎはいつどんなコスプレするんだ!?」

 襲いかかってくる群衆に、俺は混乱状態に陥り言葉を一言も発せないでいた。

「まあまあ、落ち着けよ。
 永瀬がびっくりしてるだろ」

 仲裁に入ってくれたのは戸部だった。

 このときだけは戸部が神様のように見え、後光が差しているようにすら見えた。

 ただ単に窓から朝日が差し込んでいるだけだったのだが、このときの俺はあまりのことに余裕を失っていた。

 戸部の一言で、群衆の恐ろしいくらいの剣幕がトーンダウンする。

 俺は安堵の息をついた。

「まず、みんなが聞きたいのは、なぜ殿崎と永瀬が一緒にコスプレ配信したか、だ」

 なぜか戸部がMCのような立ち位置で場を回しはじめる。

 さてはこいつ、俺の連絡先を勝手に拡散した罪悪感を晴らそうとしているな。

 深呼吸すると、俺は話しはじめた。

「殿崎に誘われたからだよ。
 コスプレ似合うって説得されて、まあ、その、なんだ、仕方なく……」

 嘘はついていない。

 昨日から、こうなることはある程度予測できていたので、殿崎と同居していることを隠しつつ、偽りでもないことを話すにはどんな言い方をすればいいか、寝ずに考えてきた。

 ただ、ここまでの反響があるとはさすがに昨日の俺は予想していなかったので、動転しているのは確かだ。

「殿崎直々にオファーがあったってことかあ。
 そういえば永瀬、殿崎の写真集のためにカメラマンやってるもんなあ、それで親しくなって、コスプレに誘った……なるほどなあ」

 うんうん、とクラスメイトたちがうなずいている。

 俺はほっとした。

 どうやら、俺の言い分を信じてくれているようだ。

「で」

 誰かのやたらデカい声が聞こえて、俺は「で?」とオウム返しする。

「お前の撮影会はいつやるんだ?」

「はあ?
 俺の、撮影会?」

「だって、そうだろ。
 コスプレするってことは、写真を撮られるのが目的だろ。
 永瀬がつぎにどんなコスプレするか、みんな期待してるんだよ」

 俺の背中に冷たい汗が流れる。

「いや、俺はもうコスプレするつもりは……」

「は!?
 コスプレするつもりはない!?
 お前、馬鹿か?
 あんな見目麗しい王子様になっておいて、コスプレはやりません?
 アホか!
 その絶世のビジュアルは、全世界で共有されるべきなんだよ!
 お前、自分が超絶美形だってことに、気づいてないのか?
 だったらその顔、俺によこせ!
 俺が正しく使ってやる!」

「そうだ、そうだ、美形の無駄遣いだ!」

 やんややんやと(はや)し立てる男たちに、めまいがしそうなほど呆れていたそのとき、「おはよー」と呑気な声で殿崎が教室に入ってきた。

 同居がバレないよう、時間差で登校する約束を取り付けてある。

「なあに、みんな、どうしたの?」

「殿崎!
 聞いてくれよ、永瀬が無駄遣いするんだ!」

 まったく要領を得ないクラスメイトの訴えに、殿崎が小首を傾げる。

 すると、やおら悪い笑顔になって、「ふうん」と俺とクラスメイトを交互に見つめる。

「ひづくん、大人気になったね。
 みんな、ひづくんの魅力に気づいちゃったかあ」

 かばんを机に置きながら、満足そうにこう言い放った。

「つぎの配信もひづくんとやるよ。
 僕は『氷の王子様』を狙う元婚約者の悪役令嬢のミレイをやるから、期待しててよ」

 おおーっと歓声があがる。

 俺は顔を強張らせる。

「お、おい、聞いてないぞ、また配信に俺を出す気か?」

「うん?
 そうだよ、昨日、配信のあとにつぎにひづくんにコスプレしてほしいキャラの候補が思い浮かんでさ。
 だったら、コスプレイベントに一緒に参加してもらおうと思って」

「イベントに俺が!?
 お前、か、勝手に決めるなよ」

「あれ?
 だって、昨日のコスプレが最初で最後、なんて話はしなかったよね?」

「……それは、お前がそんな話しなかったから……」

「うん、だから、断る理由、ないよね」

「……」

 殿崎にしてやられた。

 一度足を踏み入れてしまった時点で、俺はこいつに負けたんだ。

 コスプレをやる理由を、既成事実を作られてしまったんだ。

「でも、コスチューム作るのに時間かかるから、しばらくは氷の王子様を楽しんでよ。
 ね、ひづくん?」

「……」

 俺の心情など無視して、クラスメイトたちが、俺に似合うキャラはどれか、真剣に吟味しはじめる。

 人知れず、俺は天を仰いだ。

 無機質な蛍光灯が、そこにはあるだけだった。

「よう、氷の王子様」

 すれ違う生徒にそう声をかけられると、できる限りの愛想笑いを返しつつ、廊下を足早に進み、階段をのぼって重いドアを身体で押し開けてひとけのない屋上に出る。

 まだ夏の名残りがアスファルトに照り返して暑いが、見上げた空は抜けるように高く、秋の到来を感じさせた。

 錆の浮いた柵に手をかけて、ぼんやりと蒼天を眺める。

 今日1日、人の目から逃れることもできず、息苦しかったのだ。

 やっと一息つける。

 ひとりになると、深い深い溜め息が出る。

 たった1日で、たった1回のコスプレ披露で、俺の他人を寄せつけない人生は激変した。

 こんなに声をかけられることも、褒められることも無縁だった空虚な俺の人生。

 ひとりで過ごすことに、なんの違和感も持たなかった人生。

 昼休みの学校では、あちらこちらから生徒の笑い声が聞こえてくる。

 その喧騒の中に、入ろうと思ったことすらなかった。

 話題の中心になんて、なりたくなかった。

 目立たず埋もれて過ごしたかった。

──でも。

 誰かに求められることって、結構嬉しいことなんだな。

 自覚してなかっただけで俺も、人を好きになること、好かれること、認められることは嬉しかったんだ。 

 はあ、と息をついて大空に視線を逃がす。

 どうやら俺は、踏み込んではいけない領域に片足を突っ込んでしまったらしい。

 ただ、母親が望んだからやることにしたコスプレだったのだが、どうやらコスプレには、人を魅了する力があるらしい。

 それは俺のコスプレを見た人だけではなく、俺自身も巻き込んでいる。

 つまり、俺はコスプレで他人に認められる快感を一度味わってしまい、もう無視できなくなってしまったのだ。

──これはまずい。

 殿崎の思う壺だ。

 コスプレイベントなんて、出たくない。

 これ以上、沼に落ちたくない。

 今は一線を引いて冷静になることが重要だ。


 そんな誓いも虚しく、俺は殿崎の配信に駆り出されることになり、そのたびに閲覧数は飛躍的に伸び、『氷の王子様』こと俺は界隈では一目置かれる存在になっていった。

 母親のもとにも俺の評判が届いているらしく、職場の同僚から息子を褒められた母親は毎日楽しそうである。

 どうやら母親発信で布教しているようにもみえるが……。

 同時進行で、カメラマンとして殿崎の撮影も終え、あとはイベントに向けて写真集を自費で印刷するだけとなっていた。

 氷の王子様のコスチュームしかない俺のために、殿崎は寝る間も惜しんで製作に取りかかっている。

 つぎは『冷酷な魔王様』らしい。

 もうどうにでもなれ、俺はやぶれかぶれの心境に達していた。


 しかし、殿崎のコスプレに懸ける情熱は常軌を逸しているように見える。

 どうしてそこまで打ち込めるんだろう。

 医学部なんて目指してるくせに、勉強もそっちのけでイベントのために時間を使っていいものなのだろうか。

──いや、殿崎が時間をどう使おうと自由なのだが。