遅刻した理由を話すと二人は理解を示してくれた。もう一人の男は定岡といって七類で農家をしているらしい。くたびれた作業服に麦わら帽子を被っていた。顔は日焼けし、齢は七十だというが、背筋も真っ直ぐで立派な体躯だった。
七類は美保関町で最も人口密度が高く人の多い大字だ。藤江と一緒に定岡の車に揺られながら、住宅と港だけの地域に農業を営む場所があるだろうかと疑った。車は住宅密集地を抜けると暗い雑木林のなかを百メートルほど進んだ。陽光が射したと思ったら、目の前に広大な土地があった。どうやら偽りではなかったらしい。西に田畑とビニールハウス、東に大きな日本家屋があった。北に獣道が続いていたが、この奥に人がいるとは思えなかった。
横に座っていた藤江が私の肩に肘をぶつけ、雑木林も定岡の私有地だと耳打ちした。とんでもない大地主だ。定岡に降車を促されると改めて広大な土地を眺めた。私は定岡に自己紹介し互いに挨拶すると、
「これは海水農業ですか?」
と訊いた。
定岡は豪快に笑いながら遠くを一見すると、
「山から掃いて捨てるほど水が出るけえなあ。そがな最先端農業やっとったら、いまごろワシ破産しとるけえ」
と言って肩を大きく揺らし続けた。
ツッコミどころのある独特な言い回しと語尾から島根県西部出身者だと確信したものの、それ以上の詮索は控えた。初対面でほんの一回、言葉を交えたに過ぎないが、雰囲気も颯爽な感じで賢人として列席するに十分値すると判断した。そのうえで、「意味のない真剣な遊び」を有しているか、もしくはそのようなものに興じることができるか問うた。定岡は、年配者らしく人生は全部遊びみたいなものだと笑うと、
「今日から宇野さんも友達だけえなあ。こがなふうに毎日楽しくテロテロ生きとるだけで十分だけえ」
と真面目な眼をして話した。自分を自然の一部として認め、あるがままに生きる。かといって主体性まで自然に任せてばかりというわけではない。概ねそんなことを言っているように私は受け止めた。定岡と話していると、良い意味で枯れ具合が加速していきそうだった。藤江との接点を訊くと、本人と話したほうがいいかもしれないと促された。
「うちで夕飯食って帰りんさいや。ワシが作っとくけえ。準備できたら呼ぶけえ」
頂戴する旨を述べ、礼を言うと藤江を探した。こんな開けた場所で迷子になるわけがないので全方位に視線を飛ばした。獣道の入口横に簡易テントぐらいの大きさをした小屋らしきものを見つけた。扉はなく、なかを覗くと藤江が見たこともない巨大な生命体と添い寝していた。ヤモリのような尾を揺らしている。豚かカバか犬、もしくはそれらの雑種だと思われた。ポーションを歯茎に挟むと見なかったことにして、そっと後ずさりした。
「宇野さんも一緒にどうです?」
動悸が激しくなった。これは罠だと思った。私が横になったところで、この巨大生命体の餌食にするつもりなのだろう。藤江は社長令息だと聞いていたが、生物学者という裏の顔があるのかもしれない。
「このさんの学名はなんていうの?」
「アメリカン・ピット・ブル・テリア」
淡々と藤江は答えた。動転している脳を鎮静させるため、ポーションをもう片方の歯茎に挟んだ。まったく確信が持てないが、実世界ですでに存在している生物だろう。スマホで検索すると画像付きで表示された。犬らしいが、かなり攻撃的なようだ。
「おとなしいですから、なかへどうぞ」
「噛みついてきたら容赦しないからな」
私はゆっくり犬に近づくと臨戦態勢のまま腰を下ろした。背をなでるとザラザラしていた。ネットの情報通り、かなり体毛が短い。正面に移動して顔を見た。口を金魚のようにカプカプ動かしている。歯茎か唇か判別できなかったが、ひだ状になっていて歯と一緒に横に飛び出ていた。大きな舌を垂らしているのはみっともないが、優しい眼をしていて、いわゆるブサカワという感じだった。おとなしいのは間違いなく、頭をガシガシ撫でてもピクリとも動かなかった。
「宇野さんに懐いていますね」
藤江が起き上がって胡坐をかいた。
「うん。もう心の友だよ。お互いオスの象徴を使うことなく死んでいくからね」
彼の笑いのツボではなかったのか、黙ったまま犬を撫でていた。そのうち口を開き、
「私も七類に住んでるんですよ」
と呟いた。
あそう、と流していたら、散歩中に犬がへばってしまい困っていたところを定岡に声をかけられたと話した。私は犬に関して無知で、大型犬の寿命が十歳ぐらいだということを藤江の口から初めて聞いた。彼の犬の名は「チャブ」というらしく十二歳の老犬だそうだ。最近はずっとぐったりしていて、いざ危篤というときにすぐ駆け付けられないので、原則的に自分の土地から離れない定岡に様子を見てもらっているという。カプカプと口を開閉するのは敵意がないという意思表示らしく、知らない人間に遭遇した際にとる行動のようだ。チャブは疲弊しているのか暑いのか、さらに舌を垂らした。
「ディープキスもせずに終わるのは悲しいな」
中年になると場の雰囲気などおかまいなしに下ネタを言うようになると聞いていたが、私がまさしくそうで、悪気はないのだが、無自覚に口が滑る。今回の失言は舌の短い妻を念頭に入れた言葉だった。それも心中で妄想していただけだ。なぜ実際に発してしまったのだろうと猛省した。藤江は何も聞いていないという様子でチャブを撫でていた。
「定岡さんが夕食を作ってくれるってさ。チャブは何を食うの?」
藤江はうつろな眼を上げると、
「芋。焼いた豚肉。小さく切って冷やして」
と独り言のように話し、薄茶の体毛をまた撫で始めた。
どうも空気感が好転しないので、藤江が親バカぶりを発揮しだすのを待った。さすがにいつ死ぬかわからない愛犬について話すのは無理だろうと思い始めたとたん、堰を切ったように藤江が喋り出した。チャブは同犬のなかでも小柄で体重は三十五キロくらい、自分と久しぶりに会うと顔を上下左右に振り回して歌うように鳴く、利口で放屁するときはスーッと静かに音を発する。
私の脳は最後の条のみ記憶した。芋と肉ばかり食べていたら、さぞかし臭い屁に違いない。子犬のときから撮り溜めていたという写真を強引に見せられているうちに定岡の呼ぶ声が聞こえた。
そうめんは好きだが、他者が麺をすする音が耐えられない。それは麺類一般に該当する。つゆやスープが食卓に飛び散り、不快極まりない。唯一の例外がジャージャー麺でとくに何も感じない。食前に混ぜるという行為があると具合がよいのかもしれない。思えば冷やし中華も不快ではない。私の箸が進まないのを見かねたのか定岡は、
「宇野さんは、そうめん好かんのだろうか」
と自身に問いかけるように言った。
「いえ、二人の豪快な食べっぷりに圧倒されまして」
皮肉を交えたつもりだったが、定岡は気にする素振りもなくズズッと麺をすすった。そうめんに混ぜるものが浮かばず、私は対抗手段として椀に大量に麺を入れて二人の分量を減らすという措置を講じた。さらに、定岡を離席させようと、我が家では山葵とネギではなく、生姜とミョウガを薬味に加えると主張した。ミョウガは入れないが、生姜は本当だ。定岡はいっそう不快な音を発すると、あっこにあるけえ、と冷蔵庫を指さした。私は箸を置くと、ごちそうさまでした、と合掌した。二度目の完全敗北だ。この程度の窮地を抜け出せなくて何が賢人だ、と自分の力量不足に不甲斐ない思いを抱いた。
――ズズッズッ。
――ズズーズッ。
二人の不快なセッションは十五分ほど続いた。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが立派な作曲家で心底よかった。さらにはマイルス・デイヴィス、コルトレーンが立派なジャズメンで本当によかった。即興で麺をすする音を入れられたら私は卒倒していただろう。うまかったと光に満ちた眼を交わす二人を見ていたら、わずかに心が安らいだ。次に三人で会食する際は境港の飲食店か私の自宅に招待しようと心に誓った。
何度も見送りを断ったにも関わらず、定岡と藤江はついてきた。藤江は往時の逞しさを想像させるようなチャブの疾走に引きずられていた。藤江は私のトラックを一見したことがあるので黙っていたが、定岡は静かな港に響くほど哄笑した。
「農業やっとるワシですら軽トラよ? せめて小型にせにゃ通れるところも通れんで」
そんなことは百も承知だったが、私は「はたらく自動車」が好きなのでどうしようもない。国交省の黄色いトラックとダブルキャブの消防車が欲しくて欲しくてたまらないが、誰にも言えずにいる。笑いながら定岡は、
「宇野さんはどこに住んどんさる?」
と訊いた。
私の住まいは七類からトンネルを抜けるだけの宇井という大字だったので、明かすのがためらわれた。が、そうめんを食べるくらいなら住所を教えた方がマシだと考え直し伝えた。二人は手を振りながら、それぞれ、
「酒も掃いて捨てるほどあるけえ、いつでも遊びに来んさいよー」「気を付けてくださいね。イノシシやタヌキが出ますから」
と、別れの言葉を口にした。
発進後、ブレーキを五回踏むと一気に加速させた。二人の姿がサイドミラーから消えると藤江の忠告どおり、獣の飛び出しに注意して速度を落とした。前方にチョロチョロと蛇行しながら動くウリ坊を見つけた。ガードレールの外に出て行ったのを確認するとアクセルを踏んだ。ガコッという音がした。逃がしたのに何でこうなるんだと憤懣やるかたない気持ちでハザードランプを点け、車を停めた。
何度も経験した私的データに基づくと、ガコッという衝突音はイノシシと相場が決まっている。イノシシは白黄が認識できず視力が悪いので逃避行動をしない傾向がある。もしかしたら、さっきのウリ坊だろう。だが、ウリ坊なら荷台より低いはずだ。まさかキャビンかと周囲を確認したが、問題なかった。荷台の下方を入念に見ていたら、オイルタンクなどを横に覆うサイドガードがへこんでいた。オイルタンクは無事だった。死体はなかったので、親イノシシがぶつかって走り去ったのだろう。
島根県全域に該当することだが、人が減って獣が山から下りてきている。県東部はサル、イノシシ、タヌキ、県西部はクマの目撃情報が毎日のように寄せられている。こんなニュースは仕入れたくもないが、ネットをやっていると強制的に見せられる。自宅はすぐそこなのに帰る気が失せてしまったので、コンビニ駐車場のトラックゾーンに車を止めると、何を考えるでもなく、へこんだサイドガードをずっと見つめていた。
無為徒食の生活に復帰したら、八月になっていた。相変わらずエアコンの効いた部屋でネットサーフィンをしていた。カニやヤモリを実験という名の「真剣な遊び」に巻き込むこともしなくなった。滅殺すると家の生態系が狂いかねないと思ったからだ。フナムシはとっくの昔に飽きていた。虫の鳴き声や花火といった風物詩とは無縁で、暮らしぶりに季節感はない。一つ例外があるとすれば、数日後から始まる甲子園だ。私が推している高校の都道府県は、京都、大阪、愛媛、大分の四府県で中国地方は一県もない。
藤江と定岡との交流も絶えて随分になる。彼らは「意味のない真剣な遊び」を続けているのだろうか。考えても仕方ないので、藤江に岡山県の候補者二人との面会を急ぐようメッセージを送信した。「意味のない」「真剣な」「遊び」などという言葉は考えだしたら思索の深淵に落ちそうだった。こういう胸中なり事象なりを私は柄谷行人現象と呼んでいる。彼の著書『日本近代文学の起源』が「日本」「近代」「文学」「起源」と個別に読めるのと同じ原理だ。
心中穏健の徹底が肝要だと思い、勃起不全の知人がやっていた骨盤底筋を鍛えるトレーニングをすることにした。彼は高速道路の写真集を枕元に置き、それを見ながら女性の秘部に陰茎を挿入する要領で行っていた。大橋ジャンクションのページを開いていたらしい。写真集を使用する理由がわからなかった。目的の違いかもしれない。私は第一に体幹の安定だ。ずっと寝ていて通常歩行が怪しくなってきた。第二に尿漏れ防止。四十歳にもなれば小便の切れが悪くなると聞いていたが、私はどうも具合が悪く、煎餅ほどの大きさが下着に滲むようになった。
さっそく、布団の適当な場所を秘部と仮定して腰を振ってみた。六十回を超えたあたりから太腿がプルプルと震えてきつくなった。オーバーワークはよくないので、すぐに切り上げた。予想以上に疲れたので横になった。メッセージに既読が付いていないかチェックすると、私が送信した一分後には返信が来ていた。段取りはすべて整えてあるようだ。目的地は岡山県新見市。この街は数年前、避暑のために妻と三週間ほど滞在したことがある。市街地が南北に伸び、東西は短い過疎地だ。出発は明朝で宿の予約も手配済み。藤江は預言者かなにか、未来透視ができるのか。どこかの国の非常勤エージェントかもしれない。もう考えることすら疲れるので、軽く十回ほど腰を振ってさっさと眠ってしまった。
七類は美保関町で最も人口密度が高く人の多い大字だ。藤江と一緒に定岡の車に揺られながら、住宅と港だけの地域に農業を営む場所があるだろうかと疑った。車は住宅密集地を抜けると暗い雑木林のなかを百メートルほど進んだ。陽光が射したと思ったら、目の前に広大な土地があった。どうやら偽りではなかったらしい。西に田畑とビニールハウス、東に大きな日本家屋があった。北に獣道が続いていたが、この奥に人がいるとは思えなかった。
横に座っていた藤江が私の肩に肘をぶつけ、雑木林も定岡の私有地だと耳打ちした。とんでもない大地主だ。定岡に降車を促されると改めて広大な土地を眺めた。私は定岡に自己紹介し互いに挨拶すると、
「これは海水農業ですか?」
と訊いた。
定岡は豪快に笑いながら遠くを一見すると、
「山から掃いて捨てるほど水が出るけえなあ。そがな最先端農業やっとったら、いまごろワシ破産しとるけえ」
と言って肩を大きく揺らし続けた。
ツッコミどころのある独特な言い回しと語尾から島根県西部出身者だと確信したものの、それ以上の詮索は控えた。初対面でほんの一回、言葉を交えたに過ぎないが、雰囲気も颯爽な感じで賢人として列席するに十分値すると判断した。そのうえで、「意味のない真剣な遊び」を有しているか、もしくはそのようなものに興じることができるか問うた。定岡は、年配者らしく人生は全部遊びみたいなものだと笑うと、
「今日から宇野さんも友達だけえなあ。こがなふうに毎日楽しくテロテロ生きとるだけで十分だけえ」
と真面目な眼をして話した。自分を自然の一部として認め、あるがままに生きる。かといって主体性まで自然に任せてばかりというわけではない。概ねそんなことを言っているように私は受け止めた。定岡と話していると、良い意味で枯れ具合が加速していきそうだった。藤江との接点を訊くと、本人と話したほうがいいかもしれないと促された。
「うちで夕飯食って帰りんさいや。ワシが作っとくけえ。準備できたら呼ぶけえ」
頂戴する旨を述べ、礼を言うと藤江を探した。こんな開けた場所で迷子になるわけがないので全方位に視線を飛ばした。獣道の入口横に簡易テントぐらいの大きさをした小屋らしきものを見つけた。扉はなく、なかを覗くと藤江が見たこともない巨大な生命体と添い寝していた。ヤモリのような尾を揺らしている。豚かカバか犬、もしくはそれらの雑種だと思われた。ポーションを歯茎に挟むと見なかったことにして、そっと後ずさりした。
「宇野さんも一緒にどうです?」
動悸が激しくなった。これは罠だと思った。私が横になったところで、この巨大生命体の餌食にするつもりなのだろう。藤江は社長令息だと聞いていたが、生物学者という裏の顔があるのかもしれない。
「このさんの学名はなんていうの?」
「アメリカン・ピット・ブル・テリア」
淡々と藤江は答えた。動転している脳を鎮静させるため、ポーションをもう片方の歯茎に挟んだ。まったく確信が持てないが、実世界ですでに存在している生物だろう。スマホで検索すると画像付きで表示された。犬らしいが、かなり攻撃的なようだ。
「おとなしいですから、なかへどうぞ」
「噛みついてきたら容赦しないからな」
私はゆっくり犬に近づくと臨戦態勢のまま腰を下ろした。背をなでるとザラザラしていた。ネットの情報通り、かなり体毛が短い。正面に移動して顔を見た。口を金魚のようにカプカプ動かしている。歯茎か唇か判別できなかったが、ひだ状になっていて歯と一緒に横に飛び出ていた。大きな舌を垂らしているのはみっともないが、優しい眼をしていて、いわゆるブサカワという感じだった。おとなしいのは間違いなく、頭をガシガシ撫でてもピクリとも動かなかった。
「宇野さんに懐いていますね」
藤江が起き上がって胡坐をかいた。
「うん。もう心の友だよ。お互いオスの象徴を使うことなく死んでいくからね」
彼の笑いのツボではなかったのか、黙ったまま犬を撫でていた。そのうち口を開き、
「私も七類に住んでるんですよ」
と呟いた。
あそう、と流していたら、散歩中に犬がへばってしまい困っていたところを定岡に声をかけられたと話した。私は犬に関して無知で、大型犬の寿命が十歳ぐらいだということを藤江の口から初めて聞いた。彼の犬の名は「チャブ」というらしく十二歳の老犬だそうだ。最近はずっとぐったりしていて、いざ危篤というときにすぐ駆け付けられないので、原則的に自分の土地から離れない定岡に様子を見てもらっているという。カプカプと口を開閉するのは敵意がないという意思表示らしく、知らない人間に遭遇した際にとる行動のようだ。チャブは疲弊しているのか暑いのか、さらに舌を垂らした。
「ディープキスもせずに終わるのは悲しいな」
中年になると場の雰囲気などおかまいなしに下ネタを言うようになると聞いていたが、私がまさしくそうで、悪気はないのだが、無自覚に口が滑る。今回の失言は舌の短い妻を念頭に入れた言葉だった。それも心中で妄想していただけだ。なぜ実際に発してしまったのだろうと猛省した。藤江は何も聞いていないという様子でチャブを撫でていた。
「定岡さんが夕食を作ってくれるってさ。チャブは何を食うの?」
藤江はうつろな眼を上げると、
「芋。焼いた豚肉。小さく切って冷やして」
と独り言のように話し、薄茶の体毛をまた撫で始めた。
どうも空気感が好転しないので、藤江が親バカぶりを発揮しだすのを待った。さすがにいつ死ぬかわからない愛犬について話すのは無理だろうと思い始めたとたん、堰を切ったように藤江が喋り出した。チャブは同犬のなかでも小柄で体重は三十五キロくらい、自分と久しぶりに会うと顔を上下左右に振り回して歌うように鳴く、利口で放屁するときはスーッと静かに音を発する。
私の脳は最後の条のみ記憶した。芋と肉ばかり食べていたら、さぞかし臭い屁に違いない。子犬のときから撮り溜めていたという写真を強引に見せられているうちに定岡の呼ぶ声が聞こえた。
そうめんは好きだが、他者が麺をすする音が耐えられない。それは麺類一般に該当する。つゆやスープが食卓に飛び散り、不快極まりない。唯一の例外がジャージャー麺でとくに何も感じない。食前に混ぜるという行為があると具合がよいのかもしれない。思えば冷やし中華も不快ではない。私の箸が進まないのを見かねたのか定岡は、
「宇野さんは、そうめん好かんのだろうか」
と自身に問いかけるように言った。
「いえ、二人の豪快な食べっぷりに圧倒されまして」
皮肉を交えたつもりだったが、定岡は気にする素振りもなくズズッと麺をすすった。そうめんに混ぜるものが浮かばず、私は対抗手段として椀に大量に麺を入れて二人の分量を減らすという措置を講じた。さらに、定岡を離席させようと、我が家では山葵とネギではなく、生姜とミョウガを薬味に加えると主張した。ミョウガは入れないが、生姜は本当だ。定岡はいっそう不快な音を発すると、あっこにあるけえ、と冷蔵庫を指さした。私は箸を置くと、ごちそうさまでした、と合掌した。二度目の完全敗北だ。この程度の窮地を抜け出せなくて何が賢人だ、と自分の力量不足に不甲斐ない思いを抱いた。
――ズズッズッ。
――ズズーズッ。
二人の不快なセッションは十五分ほど続いた。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが立派な作曲家で心底よかった。さらにはマイルス・デイヴィス、コルトレーンが立派なジャズメンで本当によかった。即興で麺をすする音を入れられたら私は卒倒していただろう。うまかったと光に満ちた眼を交わす二人を見ていたら、わずかに心が安らいだ。次に三人で会食する際は境港の飲食店か私の自宅に招待しようと心に誓った。
何度も見送りを断ったにも関わらず、定岡と藤江はついてきた。藤江は往時の逞しさを想像させるようなチャブの疾走に引きずられていた。藤江は私のトラックを一見したことがあるので黙っていたが、定岡は静かな港に響くほど哄笑した。
「農業やっとるワシですら軽トラよ? せめて小型にせにゃ通れるところも通れんで」
そんなことは百も承知だったが、私は「はたらく自動車」が好きなのでどうしようもない。国交省の黄色いトラックとダブルキャブの消防車が欲しくて欲しくてたまらないが、誰にも言えずにいる。笑いながら定岡は、
「宇野さんはどこに住んどんさる?」
と訊いた。
私の住まいは七類からトンネルを抜けるだけの宇井という大字だったので、明かすのがためらわれた。が、そうめんを食べるくらいなら住所を教えた方がマシだと考え直し伝えた。二人は手を振りながら、それぞれ、
「酒も掃いて捨てるほどあるけえ、いつでも遊びに来んさいよー」「気を付けてくださいね。イノシシやタヌキが出ますから」
と、別れの言葉を口にした。
発進後、ブレーキを五回踏むと一気に加速させた。二人の姿がサイドミラーから消えると藤江の忠告どおり、獣の飛び出しに注意して速度を落とした。前方にチョロチョロと蛇行しながら動くウリ坊を見つけた。ガードレールの外に出て行ったのを確認するとアクセルを踏んだ。ガコッという音がした。逃がしたのに何でこうなるんだと憤懣やるかたない気持ちでハザードランプを点け、車を停めた。
何度も経験した私的データに基づくと、ガコッという衝突音はイノシシと相場が決まっている。イノシシは白黄が認識できず視力が悪いので逃避行動をしない傾向がある。もしかしたら、さっきのウリ坊だろう。だが、ウリ坊なら荷台より低いはずだ。まさかキャビンかと周囲を確認したが、問題なかった。荷台の下方を入念に見ていたら、オイルタンクなどを横に覆うサイドガードがへこんでいた。オイルタンクは無事だった。死体はなかったので、親イノシシがぶつかって走り去ったのだろう。
島根県全域に該当することだが、人が減って獣が山から下りてきている。県東部はサル、イノシシ、タヌキ、県西部はクマの目撃情報が毎日のように寄せられている。こんなニュースは仕入れたくもないが、ネットをやっていると強制的に見せられる。自宅はすぐそこなのに帰る気が失せてしまったので、コンビニ駐車場のトラックゾーンに車を止めると、何を考えるでもなく、へこんだサイドガードをずっと見つめていた。
無為徒食の生活に復帰したら、八月になっていた。相変わらずエアコンの効いた部屋でネットサーフィンをしていた。カニやヤモリを実験という名の「真剣な遊び」に巻き込むこともしなくなった。滅殺すると家の生態系が狂いかねないと思ったからだ。フナムシはとっくの昔に飽きていた。虫の鳴き声や花火といった風物詩とは無縁で、暮らしぶりに季節感はない。一つ例外があるとすれば、数日後から始まる甲子園だ。私が推している高校の都道府県は、京都、大阪、愛媛、大分の四府県で中国地方は一県もない。
藤江と定岡との交流も絶えて随分になる。彼らは「意味のない真剣な遊び」を続けているのだろうか。考えても仕方ないので、藤江に岡山県の候補者二人との面会を急ぐようメッセージを送信した。「意味のない」「真剣な」「遊び」などという言葉は考えだしたら思索の深淵に落ちそうだった。こういう胸中なり事象なりを私は柄谷行人現象と呼んでいる。彼の著書『日本近代文学の起源』が「日本」「近代」「文学」「起源」と個別に読めるのと同じ原理だ。
心中穏健の徹底が肝要だと思い、勃起不全の知人がやっていた骨盤底筋を鍛えるトレーニングをすることにした。彼は高速道路の写真集を枕元に置き、それを見ながら女性の秘部に陰茎を挿入する要領で行っていた。大橋ジャンクションのページを開いていたらしい。写真集を使用する理由がわからなかった。目的の違いかもしれない。私は第一に体幹の安定だ。ずっと寝ていて通常歩行が怪しくなってきた。第二に尿漏れ防止。四十歳にもなれば小便の切れが悪くなると聞いていたが、私はどうも具合が悪く、煎餅ほどの大きさが下着に滲むようになった。
さっそく、布団の適当な場所を秘部と仮定して腰を振ってみた。六十回を超えたあたりから太腿がプルプルと震えてきつくなった。オーバーワークはよくないので、すぐに切り上げた。予想以上に疲れたので横になった。メッセージに既読が付いていないかチェックすると、私が送信した一分後には返信が来ていた。段取りはすべて整えてあるようだ。目的地は岡山県新見市。この街は数年前、避暑のために妻と三週間ほど滞在したことがある。市街地が南北に伸び、東西は短い過疎地だ。出発は明朝で宿の予約も手配済み。藤江は預言者かなにか、未来透視ができるのか。どこかの国の非常勤エージェントかもしれない。もう考えることすら疲れるので、軽く十回ほど腰を振ってさっさと眠ってしまった。



