がむしゃらに物を運んでいるうちに、藤江が八時になったから乗り場に行きましょう、と声をかけてきた。ヘルメットを被った労務員らが三台のトラックに分乗して出発して行った。藤江は落ち着いた様子で、
「私たちはあれです」
と鮮魚が載っているという軽トラを指さした。
藤江がハンドルを握り、私は助手席に座った。彼は半年前に入社したが、まったく仕事が覚えられず、怒鳴られてばかりだと嘆いた。福本からは人格否定までされ、もう関わりたくないと弱音を吐いた。
「宇野さんみたいな坊ちゃんには務まりませんよ」
藤江は物憂げな眼をしながら前を向いていた。私は少し笑みを浮かべると、
「君だって、どうせ金持ちの坊ちゃんだろ」
と言って彼の横顔に視線を向けた。
乗り場には大中小のトラックや乗用車が待機していた。車両の誘導も労務員の仕事なのかと藤江に問うと、そうです、と答えた。鮮魚は最初に船に入れるらしく、藤江は軽トラを船尾の後ろで停め、サイドブレーキを引いた。彼は随分と憔悴しているようだったので、スヌースのポーションを二つ渡した。何かわからないという眼を向けたので、歯茎の上に挟んでニコチンを吸収する無煙煙草だと説明した。両側に挟むと効果抜群だと力説すると、それはいいですね、と眼を細めて微笑んだ。
「ランプドアが降りてきたら、船内に入ります。船の甲板員が合図します」
約一分後にランプドアが降りたが、誰もこちらに合図を送らない。待機していると、ランプドア付近で航海士か船長と談笑していた福本が、
「車も運転できねえのかよ! 入れや!」
と怒鳴った。
藤江の眼には憤怒の灯が宿っていたが、軽トラを停める位置と鮮魚を置く場所を丁寧に教えてくれた。鮮魚を運んでいる際に、怒られている甲板員がいた。新人なのだろう。パワハラどころではない、ただの雑言だった。二十歳ぐらいに見えたが、彼は近いうちに退職するだろうと思った。藤江はその若者を一瞥して、すぐに軽トラに乗り込んだ。
「で、軽トラは乗り場の隅に止めて荷台をホースで洗います。あとは車両の誘導だけです。福本さんが指示を出しますが、理解不能なら放っておいて問題ないです」
私はすべてが億劫になって黙っていた。
「つらいのは昼と夜の便ですよ。係船しないといけないですから」
軽トラの荷台を洗うと私たちは走ってランプドアの近くに陣取った。藤江によると新人は福本の近くで誘導することになっていると言う。
福本が四本指を立てた。藤江が軽自動車をランプドアまで誘導した。彼は戻って来ると、四本指は全長四メートルの車両という意味だと教えてくれた。五本指は全長五メートル。全長六メートル以上は福本が声を出して指示を出すらしいが、ぼそっと言うだけなので、聞き耳を立てる必要がある。また、大型トラックに至っては指さすだけなので、間違って誘導することが多いと話した。
藤江が教えてくれている間にも誘導は行われていて、福本はランプドアから走って自ら誘導していた。私は福本に対して、声を張れ、と怒鳴りたくて仕方なかった。
出港時の作業は易しいとのことで、福本の監督下で私と藤江で行った。係留杭からホーサーと呼ばれる係留綱を外すだけの仕事だ。が、ホーサーは重いので二人で行うことになっている。簡単ではあるが、船の上部にいる甲板員が手を挙げ、ホーサーがしっかり着水して緩んだ瞬間に海に放り投げないといけない。ずっとホーサーを持ったままだと船に引っ張られる危険性があるためらしい。
昼の便は境港に一時二十五分に到着する。それまでは、ほぼ休憩時間のようなものらしい。業者や一般人が搬入に来るが、ごく稀とのこと。労務員らは事務所内で歓談に耽っていた。私と藤江は彼らに気付かれない場所で情報交換した。藤江は私が弁解するまでもなく、浮気はなかったと同情を寄せた。そのうえで、自身の境遇について語った。不労所得で過ごす生活に飽きて社会に飛び出したところ、我が社という劣悪な企業に採用されてしまったとのことだった。近いうちに退職届を社長宛てに郵送するつもりだそうだ。「真剣な遊び」のほうは岡山県に二人候補者がいるらしく、空を見上げながら口角を上げていた。私はいまのところ見当もつかないと溜息をついて、ポーションを一つ口に入れた。
「宇野、おまえ境港が終わったら三時四十分に帰れ。初日だからな」
突如として現れた福本は仏頂面で言うと足早に去った。藤江は地面に視線を落とし、
「私は六時二十分までです。夜の係船をしなきゃ……」
と、うんざりした口調で呟き、九時間拘束か十二時間拘束しかないなんてブラックすぎる、と両手で顔を覆った。
私は思うままに所感を述べた。
「退職届だけどさ、二週間前に提出なんて遵守しなくていいじゃないか。そもそも、この会社は海事法に違反してるよ。随分前から」
「えっ?」
藤江は大きく眼を見開き甲高い声を上げた。
「家にいたら嫌でも汽笛が聞こえる。おそらく船長だろうけど、入港時の汽笛は聞いたことがない。出港の短音一回は右への針路転換だから問題ない。七類港も境港も右に旋回するじゃないか。だけど、その後の前進の汽笛は長音二回じゃないとだめだ。うちの会社は長音一回だけなんだよ」
藤江は再び顔を手で覆った。体が小刻みに震えていた。いつ怒りが噴出してもおかしくない。それはいまだと私は悟った。
「境港に寄る船で『便借』使います。明日からは無断欠勤します」
藤江の眼は不退転の決意を示すような鋭い光を宿していた。
彼によると、「便借」は社員らが自社の船で物品を輸送することだと言う。けっこうな頻度で使われ、郵便よりも早く着くことから本社も支社も書類などは「便借」を用いるのが普通だと言う。就業規則で定められた休憩時間に入ると、藤江は事務員に便箋と白封筒をもらい、公然と退職届を書いた。私を含め、誰も彼を止めようとしなかった。
一時十六分になった。境水道は凪いでいるが蒸し暑い。船影を見つけた藤江が、
「来ました! 来ました!」
と叫んだ。
やはり汽笛は鳴らなかった。境港というのはもっと広い港湾なのかと疑問に思った。少なくとも境水道大橋から先は海上保安庁や水産庁の船舶の母港で間違いなく港だ。だとすれば、やはり境水道大橋あたりから長音の汽笛を一回鳴らさないといけない。汽笛はかなり距離があっても聞こえるものなので、やはり鳴らしていないという結論が妥当だろう。
周囲に眼をやると、藤江と福本が船首のほうへ走っているのが見えた。私は藤江が「奥義」を披露するというので二人に同伴することにしていた。
係船作業も二人で行う。藤江によると、船はレットラインというホーサーを引き上げるための細い綱を陸に投げてくる。労務員は前衛、後衛に分かれて調子を合わせながらレットラインを引く。通常は技量が上の者が後衛を担う。そのうち、レットラインに結ばれたホーサーが水面から出てくる。レットラインとホーサーを一緒に係留杭にひっかけ、レットラインだけを抜く。が、レットラインの結び目をほどくのが難しいらしい。さらに二つ目の係留杭にホーサーをひっかけねばならず、船首の係船作業は体力をかなり奪われるようだ。
船が速度を落とし、ジリジリと岸壁に近づいて来る。境港に寄港する船長は操舵が下手らしく、あまり岸壁近くまで寄って来ないとも言っていた。轟音を立てながら船は四、五十メートル先まで近づいた。船上に眼を向けると甲板員が手を挙げた。ガコッと音がして、こけしのようなものが陸に落ちた。こけしはレットラインの先端部らしく、二人は職人技のように手繰り寄せていた。大きな影が近づいてきてホーサーが水中から姿を現した。二人は後ろ向きになってホーサーを陸に揚げると係留杭にひっかけた。藤江が息を切らしているのを見た福本が、
「レットラインは俺が取るから、おまえは二本目に行け!」
と指示した。
藤江は一人でレットラインを引き始めたが、数秒後には福本が加わった。二本目はすぐにホーサーが上がってきて二人はそれを係留杭にかけた。
「藤江、おまえ、そのレットラインほどいてみろ。練習だ。宇野も見とけ」
福本が無表情で言った。彼の呼吸はまったく乱れていないようだった。
「すみません! 結び目がきつくなってます!」
「どけ!」
福本はレットラインに触れると同時に魔法のように結び目をほどいた。
「藤江、おまえ、ちゃんと仕事しろや」
福本は鋭い眼光を藤江に向けたが、口調は呆れた様子だった。
「おまえら、車を誘導しとけ。それくらいできるだろ」
と言うと、船体の中腹にある底部タラップから入船して行った。
藤江は意気消沈して何も喋らなかったが、「奥義」が何かはわかった気がした。藤江はレットラインを引くとき右手だけで引いていた。左手はレットラインを離さないよう支えているだけ。後ろからだと一生懸命に引いているように見えるだろう。だが、あの福本が後衛だ。ほとんど引いていないことくらい見破ったに違いない。何も話さずランプドアのほうへ歩を進めていると、甲板員が、来い、と呼んだ。私たちは走った。
「死体入れるから、手伝え」
船内には霊柩車が停車していた。甲板員六人が棺を引っ張り出して支えていた。手をかける場所がなかったが、八人で慰安室に棺を置いた。甲板員の一人に塩を差し出されたが、無視した。船外に出ようとすると、私たちを呼んだ甲板員に止められた。
「俺がいない間に勝手なことするなよ! おまえら何してんだよ!」
この男の言っていることが理解できなかった。こいつが立ち会っていないと棺を入れられないのだろうか。不愉快だった。いますぐこいつを境水道に突き落とすか殴りたくなった。横に顔を向けると藤江の眼から光が消えていた。この勝手な男だけをただ見据えていた。動物的本能がまずいと知覚し、藤江の手を取った。藤江は絶叫した。それは会社の人間のみならず、世界を呪わんとする絶叫だった。
しばらくして本社の職員がやってきた。藤江は退職届を握りしめて呪詛の言葉を叫び続けていた。私は指さしで職員に退職届へ視線を向けさせると辞去した。……藤江は社長が隠岐支社に出張中だと勘違いしていたらしく、「便借」は必要なかった。藤江が騒いだことで出港が大幅に遅れたが会社都合退職にはならなかった。
藤江が退職届を提出した翌朝、私も本社に赴き、退職届を提出した。受付の女性に渡して去ろうとしたら、上の者を呼んできます、と言って駆けて行った。総務部長が対応してくれるとよいのだが、どうせ義父だろう。きつめのスヌースのパッケージを開け、ポーションを両歯茎に挟んだ。口の粘膜が肺より脳に近いせいか、すぐにクラクラしてきた。
応接室に通されると思っていたら、階段を降りてくる音がして義父が顔を見せた。
「おお、幸一くん。社長には渡しておいたわ。残念なことになってしまったけど、新天地で頑張ってな」
穏やかな口ぶりだったが、表情は鬼の形相で握った拳が震えていた。
「国交省から連絡があるかもしれないので、正直に話されたほうがいいですよ」
義父は、フンと鼻であしらうと、他の社員にわからないよう、私の足を強く踏みつけた。私は、腰を折り曲げて義父に名刺を渡した。
「『中国地方五賢人 次席 宇野幸一』? わからんな。新しい仕事かな?」
私は、かもしれませんね、と一礼して屋外に出た。ドラッグストアで炭酸水とビタミンB群、ビタミンC、亜鉛、カルシウムのサプリを購入して帰宅した。サプリを一気に炭酸水で胃に流し込むと、フナムシを狩りに堤防へ足を運んだ。実験したいことがあったので、紙巻き煙草とライターを持って出た。
到着してまもなく、地面を這っている個体を見つけたので、これを逃すまいと踏み潰した。平べったいので、完全に潰すことができなかったのか、脚をジタバタさせていた。煙草に火を付けると、先端をフナムシの背に押し当てた。熱いと叫んでいそうなもがき方だった。触角の存在を確認したが、一本は欠損していた。なかなか絶命しないので、煙草で裏返して腹を見た。ゴキブリの腹と似ていた。脚は短く七対あるように見えた。素早く移動できることに合点がいった。尾のような二本の部位が何のためにあるのかわかならかった。
またもがきだしたので、腹に煙草を押し付けるとおとなしくなった。もういちど表に返して、かすかに動く二本の尾をジッと見た。かつてダンゴムシが熱にどれだけ耐えられるか煙草で実験したが、これまたなかなか絶命しなかった。甲殻を有する虫は熱に強いのかもしれない。
家の門を抜け、離れの横を流れる細い水路をそっと覗くと小さなカニが隠れた。カニとヤモリは例年実験している。実験といってもエアガンで撃つだけの生命力測定だ。今年は踏み込んだことがしたかった。が、何も浮かんでこないので自室に戻った。布団を敷いて転がると、スマホを手にして映画アプリを開いた。枯れた私にはクリント・イーストウッドが描く独居頑固老人モノが心に響く。もう銃撃戦やラブロマンスは観たくない。単純に飽きたというか、お決まりの構成にうんざりしてしまった。それでも例外はあって、『ローマの休日』と『東京物語』は非常によかった。『カサブランカ』もよかった。もとより映像芸術には辟易していた。むろん、アニメを含む。かといって言語芸術は主体性が求められるため、読まないことには話が進まない。やることがないので、惰性でネットサーフィンをしていたら次第に瞼が閉じていった。
目を覚まして掛け時計を見ると一時十五分だった。私の統計では我が家のヤモリは夜の十一時から二時の間に出没する。マガジンにBB弾を詰めて本体に装填すると、離れに向かった。電気を付けるとカタッカタカタと音がした。ヤモリが動く音だ。が、どこにも姿はなく逃げてしまったようだった。そのかわり、流しにナメクジが三匹のろのろと這っていた。ナメクジは実験対象ではないので、蛇口をひねって流してしまった。
電気を消そうとスイッチに手を付けると、古い照明器具に蛾がぶつかっていた。我が家でよく見かける黒い蛾だ。しばらく観察していたら天井に張り付いた。蛾は羽を撃ち抜けば落ちるだろうと、さして狙いを定めず発射した。板張りの天井にバチンという音が鳴った。命中したらしく蛾は無軌道に旋回しながら地に落ちた。蛾の知識は皆無で触れたこともなかった。羽に白い模様があった。バタバタとうるさいので、素手で握りつぶした。バリバリと羽が砕けた。胴体はしっかりと丸みを帯びた感触があったが、羽に関してはあまりの脆さに驚かずにはいられなかった。流しで手洗いを済ませると、星を見たくなって門を出た。
北斗七星を明滅しながら西に移動する星が見えた。おそらく貨物機だろう。かすかにジェットエンジン音が聞こえる。たまに航空自衛隊の機体なのか大きな音を響かせながら何も見えないときがある。そもそも航空自衛隊の機体が島根半島上空を飛んでいるなんてことは聞いたことがない。北の方角を見ているはずなのに星が多すぎ、どれも明るいので北極星がわからない。東に視線を移すと明らかに眩しくひときわ大きな星が見えたが、北極星ではないし、月でもない。金星かもしれないが定かではない。とにかく雲一つないにも関わらず、月が見えない不思議な空だった。
ヤモリが戻っているかもしれないと思い、離れに行った。足音が聞こえたので、素早く電気を付けた。逃げるには最も遠い場所でじっとしていた。ヤモリの生命力は高く、頭に弾を受けても腹に受けても死ぬことはない。ぐったり動かなくなっても翌朝には消えている。殺傷能力の高いガスガンを使えば一撃で屠れるだろうが、死んでしまっては実験の意味がない。
ヤモリを仕留めるのには自信があったが、六発も撃ってしまった。弾丸が速くてどこに当たったか見当が付かなかったが、ほんの間のあとに腹を見せながら垂直に落ちた。降参したのか逃げる力がないのか、ヤモリは動かなかった。
今回の実験で初めてヤモリの足の指が前後とも五本だと知った。この個体は腹が薄紅の部分があって珍しいと思った。尾を突くとゆらゆら振るわせた。私は何を思ったのか、母屋からどんぶりを持って来ると、そこに小便をし、ヤモリをそっと入れた。かなり衰弱していたのか、小さな気泡を一つ残して沈んでいった。



