バッソ・オスティナート



 人間は物事の本質や真理を認識できるのだろうか。おそらく、できない。そんなことができるのであれば、仕事も恋愛もすべてうまくいくはずだ。非円滑的な職場の人間関係も夫婦喧嘩もない。浮気はすぐにばれる。恋心のすれ違いも何もかもなく、心ときめかせずとも意中の人と結ばれる。それは、とても味気ないように思える。先行き不透明な人生だからこそ、かえって楽しいのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。
 煙草の煙をプカプカさせて遊んでいたら、うっかり思索の渦に巻き込まれてしまった。こんなことは遥か昔に考えることをやめてしまったが、今日は何だかおかしい。抗不安薬を飲みすぎたのかもしれない。うつらうつらとしていたら、電話が鳴った。
「瀬戸くーん、記事の出稿まだかなあー? いくら一面トップでも待ってられないよおー?」
 猫なで声で気持ち悪く催促する主は編集長だ。すぐ出稿すると伝えて受話器を置いた。ナンバーディスプレイのない固定電話だから、ひとたび呼び出し音が鳴るとすべてに対応しないといけない。鼻から荒く紫煙を吐くと、パソコンのマウスを左右に動かした。画面が表示されると、すでにできあがっている記事に「(了)」と打ち込んで出稿した。
 一息ついていたら、休憩室から後輩の熊岡が顔を出した。シワがひどいシャツで髪の毛がボサボサでも、それなりに様になっているのは男前のなせる業だろう。
「すみません、代わりに書いてもらって。少しビールを飲みすぎました」
「市長の定例会見だろ? 楽勝だよ。録音聴いて書いた。写真はどうする?」
 熊岡はカメラからSDカードを抜くと、「たまには変顔で出しましょうよ」と妙にいやらしい目つきで私を見た。市長もまた男前だったので、急にいじわるな感情が込み上げてきた。
「よし、これでいこう。ほかにいい写真がなかったって言い張れ」
 熊岡は写真を一瞥すると、哄笑しながら室内を歩き回った。被写体は、片目だけ少し開かれたゾンビのような顔をしていた。
「私たち支局から山奥の通信部に飛ばされますよ」
「今だって通信部みたいなもんだろ。たった二人なんだから」
言いながら、私はパソコンの電源を落とし、室内の電気を消した。社屋から出ると、熊岡が口元に盃を運ぶ仕草をしたので、付き合うことにした。歓楽街へ向けて歩いているうちスマホが鳴ったが無視した。まもなく、熊岡のスマホが鳴ったが、彼も私にならって無視した。明日の紙面が楽しみだとほくそ笑んで熊岡を見たら、彼も同じ表情をしていたので、二人で笑いこけた。
道中、熊岡はフランス哲学について熱く語っていた。熊岡とは同じ大学院からの付き合いで、かれこれ十三年になる。哲学思想の分野で博士号を取るのはかなり難しい。私は近代の日本思想史を研究していたが、諸外国の思想も関連するため学ばねばならず、早々に挫折した。学会にも何度か出席したが、若手研究者のハイレベルな発表がさっぱり理解できなかった。そして、考えるのをやめた。熊岡は優秀で、順調にいけばどこか大学のポストがあったかもしれなかったが、あるとき、
「自分は哲学史をやりたいわけじゃない。哲学をしたいんだ!」
と喝破して退学した。以来、市井の哲学者をやっている。
熊岡が熱弁している哲学者や思想家は私も知っていたが、読んだことはなかった。知っていることを何か言おうものなら、熊岡がその博覧強記を発揮して圧倒してきそうだったので、適当に相槌を打ってしのいだ。
一方的な哲学談義にうんざりしていたら、無料案内所の若者に手を引っ張られた。病的な痩せ方をした男性だったが、怪力だった。
「もしかして『薬剤師さん』ですか? 眠剤もらえます?」
 突然のことに半歩後退りした。私は「薬剤師」じゃないと断った。しつこく迫られてきそうだったので、若者の出方を窺った。彼は一礼して、すんなり引き下がった。背後にいる熊岡が不安そうな顔をしているのが目に浮かんだが、振り返るとそこに熊岡はいなかった。通りの左右を見渡しても熊岡らしき姿は見えなかった。先にどこか入店したと思い、架電してみた。機械的な女性の音声が流れた。スマホの電源を切っているようだった。仕方がないので、最も懇意にしている店に入った。扉を開けるなり、若い男女が声をそろえて元気に挨拶した。気分の高揚を隠し切れず、俯きがちに店内を一見すると客は誰もいなかった。
「瀬戸さん、待ってましたよ! 今日は貸し切りですよ!」
 酒に酔うと有名アーティストの名曲を卑猥に歌うボーイが犬のような愛くるしさで近寄ってきた。私は腰をくねらせながら、
「オーライ! それじゃあ、飛びっきりのやつを一発いくゼ!」
と絶叫すると、マイクを取ってボーイに渡した。卑猥な歌声が流れるなか、アヤカを探した。いつもドレスにカーディガンを羽織っているので、すぐにわかった。奥のボックス席でスマホをいじっていた。私はアヤカの隣で屈むと、スカートの中に手を入れ、下着を指でなぞった。
「ちょっと! 仕事中なんですけど」
 彼女は鋭い目つきで私を睨むと、すぐスマホに視線を落とした。
「僕が触ることしかできないのは知ってるだろ? 村田さんはどこ?」
 アヤカには期待していない。彼女からは悪い妖気が漂っている。何事もなかったかのように私は頭をポリポリと掻いた。
「店長? 系列店のヘルプに入ってる。偉い人が来てるんだって」
アヤカにこっそり抗不安薬と三万円を渡し、
「センキュー! すぐ戻るゼ!」
と適当に叫んで店を出た。系列店に行こうと思ったが、アヤカが言った「偉い人」という言葉が気になった。何か含みがあるようで怖かった。無料案内所に戻った。先ほどの若者が出てきたので、さっきは連れがいたから渡せなかったと詫びた。睡眠導入剤を手渡すと、若者はサービステキーラだと言ってショットグラスを持ってきた。私はグラスを受け取ると、口を付けるふりをして素早くテキーラを床に撒いた。初めて見る若者だったが、先輩たちの指導がしっかりしているのだろう。サービスという文句に乗せられて何杯も煽ったりすると案内所の思うツボだ。テキーラに限らず、蒸留酒の酔いはすぐに顕在化しない。空白のシラフ状態を利用して系列店を案内し、入店させる。そのうち一気に酔いが回っていい気分になる。客は気が大きくなってシャンパンを開けたり、従業員にも飲ませたりする。ぼったくりではないが、なかなか巧妙な手口だ。情けないことに、ここでテキーラを飲んで店で大金を落とすという愚行を何年もやってきた。もうその手には乗らない。
「『薬剤師さん』、もう一杯いりますか?」
「そろそろ行くよ。あと、これからは瀬戸さんって呼んでな」
 熊岡とはルームシェアしているから、無理にいま合流する必要はない。帰宅しようと歩を進めた瞬間、スマホが鳴った。熊岡からだと思ったら、県警からだった。住宅火災とのこと。県警の第一報は常に大雑把だ。そして、消防はすでに消火活動を始めている。市営霊園の北西三〇〇メートル付近の住宅街。とにかく行ってみないとわからなかった。
 私はタクシーを拾うと、支局に行き、自分の車に乗り込んだ。経験上、夜間の火災は激しく燃えていれば、うっすら雲がオレンジ色になる。もしくは、燻火でやや空が見えづらくなる。ただし、いずれも晴れの日に限った話だ。今日の空は今にも雨が降ってきそうな曇天だった。見つけるのは難しいかもしれないと思い、煙草に火を点けた。住宅街をゆっくり走っていると、人だかりが見えた。私は路肩に車を停め、ハザードランプを点灯させると、カメラに望遠レンズを装着して走り出した。腕章を巻き、
「報道です! 報道です!」
と大声で人だかりを掻き分け、規制線までたどり着くと、黒煙の発生源に目を向けた。暗くてよく見えないが、一戸建ての家屋が全焼しているようだった。規制線が張られていない溝に足を踏み入れ、現場に近づいて行った。消防関係者に気づかれないよう、身を隠しながらカメラのレンズを覗いた。やはり全焼だった。消防員らがせわしなく動く様子も見えた。シャッターを切った。まずまずの出来栄えだった。腕章を外し、カメラを民家の生垣に隠すと、スマホ片手にさらに現場へ近づいた。消防服を着た大柄な男性が行く手を阻んでいた。スマホのカメラを起動し、フラッシュをオフ、連射モードに設定すると、大柄な消防員の横を走り抜け、全焼した家屋の正面で写真を撮った。
「危険ですから下がってください!」
 大柄な消防員が押し出すように肩を突いた。私は、
「すみません。規制線がなかったので」
と弁解して足早にその場を去った。カメラを回収し、車に戻ってスマホの写真を確認した。こちらのほうが臨場感があった。
 帰宅すると、熊岡がリビングでビールを飲みながら騒がしいテレビ番組を見ていた。熊岡はニュース番組を見るとバカになるという確固たる信念を持っていた。私もニュースは嫌いだった。冷蔵庫からビールを取り出し、熊岡の横に座った。床にはビールの空き缶が無数に散らばっていた。もしかしたら、熊岡は何も言わず先に帰ったのかと思ったが、訊かなかった。
「もしかして火事ですか? 消防車と救急車、パトカーのサイレンも聞こえましたよ?」
 熊岡はリモコンを膝でポンポン遊ぶとテレビを消した。
「うん。でも、出稿はしない。他紙がいなかった。あいつらがいい写真撮ってるよ」
 天井を仰いで私は首の骨をポキポキと鳴らした。熊岡はテレビのリモコンをなおも膝で弄びながら、
「負けっぱなしですね。あいつら警察の無線でも傍受してるのかな」
 と、どうでもよさそうな表情で言った。私もなんだか徒労に終わったことを悔やんでいたので、投げやりな口調になった。
「警察署や消防署の近くに住んでるんだろ。それに膨大な読者を抱えてる。情報提供があるんだろうよ。どうあがいても、うちに勝ち目はねえよ」
 翌朝、地元有力紙に目を通した。惚れ惚れするような美しい炎上写真だった。現場に駆け付けたことを後悔した。私たちの会社はミニコミ紙同然なので、降版時間が異常に早い。私が現場に向かっているころにはすでに販売部が刷り終わった新聞を仕分けしていたに違いない。「三人の遺体発見」という小見出しだけを見て、放り投げた。今日は行政の行事も民間のイベントもなかった。熊岡もプレスリリースが何もないのを承知しているのか、部屋から出てこなかった。私はカバンから二週間先に開催されるイベントのチラシを取り出し、告知記事を書くことに決めた。リビングのソファーに座ると、抗不安薬をビールで胃に流し込んで、夢うつつの状態で午前九時になるのを待った。夢と現実の中を彷徨しながら、昨日の火災について思いをめぐらした。人の不幸を写真に撮って何になるのだろうか。身元や出火原因などそんなことを書いて何になるのだろうか。五分もたたず読者に忘れられるようなことを書いて何になるのだろうか。ニュースは嫌いだと改めて思った。時刻は午前十一時になっていた。ガチャンという音がしたので、重たい目を上げると、熊岡が眠そうな表情で私が放り投げた新聞を見ていた。
「きれいですね」
「うむ。実にきれいだ。だが、不愉快だ」
 熊岡は何も言わず、悠然と冷蔵庫からビールを取り出してタブを開けると、一気に飲み干した。そして、空き缶を手で握りつぶした。
「瀬戸さんも今日は在宅ワークですか?」
 熊岡の目はすでにとろんとした感じでくすんだ光が宿っていた。私もさっさとビールを飲みたかった。
「何もねえからな。告知記事を書くよ。熊岡はガソリン価格でも書いてくれ」
「病害虫発生予察を書こうと思ってたんですが……」
 ふわふわした調子で話すので少しイライラした。
「じゃ、それ頼む。あんまり早く出稿するなよ。編集長がデスク作業で、てんてこ舞いの時間を狙え」
 熊岡はもとよりそのつもりだとでも言いたそうに冷蔵庫からビールを二本持って自室に戻って行った。私もビールを取り出し、一口飲むとチラシを見てイベント主催者に架電した。担当者を呼び出し、チラシをそのまま紙上で掲載してもよいかと許可を求めた。担当者は声を弾ませ、ぜひ掲載してほしいと話した。通話後、私はコピー機でチラシをスキャンし、チラシに書いてあることをそのままパソコンに打ち込んだ。わずか二〇行だったが、チラシは大きく載るので紙面を埋めるには十分だった。
 尿意を感じたのでトイレに入った。トイレットペーパーの芯と、丸めたティッシュが床に散在していた。芯を拾ってゴミ袋に入れてから用を足した。私も今年で三十八歳になる。勢いなく侘しい音を立てて流れていく小便を見て淋しくなった。気分を一転させようとティッシュも拾ってすべてゴミ袋に捨てた。自室で自慰行為をすればよかろうにと思いながら、その一つを手に取った。臭いを嗅いでみたが、精液の臭いではなかった。広げてみると血が少し混じった鼻水だった。

       二

 熊岡はいくつか障害を抱えていた。脳機能上の問題なので私は気にしなかった。初対面のときも、やたら威勢のいい快男児くらいの認識だった。大学院ではよかったが、実社会では理解してもらえず、職を転々としていた。それを見かねた私が半年前に編集長と社長に頭を下げ、入社させた。熊岡に不条理で理不尽な社会性を身につけさせることは、本当は嫌だった。いつまでも純粋な心で、このつまらない世界について考え続けてほしかった。とはいえ、彼の哲学に対する炎が消えているとは思えなかった。私は不条理かつ理不尽極まるこの社会をそのまま受け入れることで考えることをやめたが、賢明な熊岡のことだから、きっとそんな社会だからこそ、本質や真理を掴み取りたいと燃えているに違いなかった。そういう人間だと私は信じた。一緒に住んでいるのも、私が失った純粋さを熊岡が奇跡のように取り戻させてくれる気がしたからだ。
 今日も何もない日だった。資料を見て、また在宅ワークで済ますこともできたが、緊急の記者会見の案内があっては困るから、市役所に向かった。熊岡は自室で思索に耽っているか寝ていると思ったので、声をかけなかった。エレベーター前は夥しい人だまりで鬱陶しかった。階段を登って市政記者室の扉を開けた。テーブルを囲んで他紙の記者たちが談笑していた。若い男性記者の甲高い笑い声にイライラした。現場の記者は二〇代が大半で総じて若い。私は馴れ合いのような記者室の雰囲気が嫌いだった。投げ込み棚にプレスリリースがないことを確認すると、自社の机に目を向けた。痩身できれいな白髪の男性が座っていた。何も見なかったことにして記者室から出ようとしたら、呼び止められた。
「瀬戸じゃないか! エースのお出ましだな!」
 無視してドアノブに手をかけた。
「毎日、八本も記事を書いてる記者なんてなかなかいないぞ!」
 何のつもりかわからないが、黙らせないと私が恥をかくので、詰め寄った。
「宮川さん、ここは県庁じゃないですよ。あと、それは熊岡と合わせた出稿数です。僕はせいぜい、四本か五本ですよ。昨日なんて一本です」
 宮川さんは顔を近づけると、
「それでも十分すごい。この部屋の小僧どもは、多くて二本だろ。俺たちのほうが働いてるってことをガキどもに教えたまでよ」
とささやいた。私は素直に感謝の意を伝えた。すると、宮川さんは口元に盃を運ぶ仕草をした。熊岡に酒席の誘い方を仕込んだのは宮川さんかもしれない。私は、
「それじゃあ、夕方にまたお会いしましょう」
と微笑を浮かべた。宮川さんは、これから行こうと資料らしきものを雑に振り回した。はっきり見えなかったが、市の消費者物価指数、日銀支店長の定例会見、県の人口動態の資料らしかった。どれも我が社では一面ネタだ。この人にはいつも助けられている。エースは間違いなくこの人だ。出稿したかどうかは訊くまでもなかった。
 市役所を出ると、宮川さんは自身の隠れ家にしているバーに連れて行ってくれた。市役所から徒歩圏内に昼間から営業しているバーがあることを初めて知った。官庁街にも飲食店は多いが、外観からはそこがバーだとは思えないほど周囲に馴染んでいた。店内は濃紺を基調とした落ち着いた雰囲気で、整えた髪に口髭といういかにもダンディなマスターが立っていた。宮川さんは、カウンター越しに、いつものを二つと注文すると、椅子に座って隣に着席するよう手招きした。私は椅子に腰を下ろすと、口をぽかんと開けたまま半ば感激して店内を見まわしていた。
「お前ら頑張ってるな。いつぞやの市長のアホ面もお前らの仕業だろ? 無能な市長にはあれでいい。公明正大なうちの紙面らしくてよかったぜ」
 宮川さんは、いたずらっ子のような光を目に宿し、私の肩をつついた。
 店内が薄暗いので正確な色はわからないが、黄色かオレンジ色のカクテルが目の前に置かれた。宮川さんはお疲れ様というようにグラスを持ち上げて傾けた。私は目礼してそっとグラスを合わせた。宮川さんは気分がいいのか、また私の肩をつついた。
「編集長の無茶な注文に文句も言わず、よく書くなあ、瀬戸。将棋も書いてただろ」
「入社のときに、うちは全員遊軍だと言われましたからね」
 私は宮川さんを警戒して淡々と返事した。
「そうでもねえぞ。気づいているだろうけど、他の支局は書けるものしか出稿してねえ。何でもござれはお前らだけだ」
 宮川さんがグラスに口を付けたので、私も一口飲んだ。スクリュードライバーっぽい気がしたが、わからなかった。他の支局の出稿数や取材内容が偏っていることは気づいていた。絵画の展示会やら児童の体験モノなど街ネタばかりの記者は多い。だが、楽をしているとは思わなかった。私も熊岡も街ネタで何時間も拘束されることを嫌っていた。だから、最新鋭の医療技術やスマート農業機材など、なるべく資料と電話取材で済ませられるものにこだわった。楽がしたかっただけだ。家で酒を飲みながら仕事ができるなら、そのほうがいいに決まっている。内容が難しければ、担当者に何度も訊くまでだ。
「お前はよくやってる、よくやってるよ、うん。だけど、本当は何も興味ないんだろ?」
 図星だった。何も話す気にならなかったので、カクテルをぐいと飲んだ。
「何でも書けるってことは、何にも興味ねえのと同じなんだよ。世事に興味がねえ仙人しかできねえ芸当なんだよ」
 宮川さんが怒っているのか褒めているのかわかりかねた。何度か酒席をともにしたことはあったが、存外、酒に弱い人なのかもしれない。私はグラスをコツコツと叩いてマスターに、これをもう一杯と頼んだ。宮川さんは喋り続けた。
「お前もまだ髭が生えだした小僧だよ。小僧。仙人になるには早いんだよ。もっと悩んで苦しめよ」
 私は会計をこの酔っ払いの大先輩に任せると決めて、カクテルを味わった。スクリュードライバーだと思うが確信が持てない。少し苦いのはジンが多めに入れてあるからなのか。考えても仕方ないので、マスターに訊ねると、やはりジンが多めに入れてあるとのことだった。私は再度注文して、煙草に火を付けた。マスターが急ぎ足で来て、私の左手元に灰皿を置いた。私は目を見開いたまま、ゆっくりマスターを見上げた。彼は、
「瀬戸さんは左利きだろうと思いましたので」
と微笑んだ。よく観察しているなと感心した。私は箸と文房具とスマホを打つこと以外はすべて左手を使っていた。気づかれたのは高校のときに初めて付き合った恋人だけだった。交際して日が浅いアヤカは気づいていないし、今後気づくこともないだろう。横では宮川さんが大いびきをかいて寝ていた。いびきをBGMにして一人で飲むことには慣れていた。マスターが気を利かせて何か話しかけてくるだろうと思っていたが、奥のほうへ引っ込んでいるようだった。こういう無為と思われる時間は嫌いじゃない。
私は大学院の指導教官が吸っていたシガリロをカバンから取り出して火を点けた。授業中に先生は機関車のように煙を吐き出していた。先生と同じものを吸っていると頭がよくなった気がした。先生からは、
「哲学と思想史の論文は針小棒大、一点突破全面展開、そしてオーケストラのように大団円で結べ」
と繰り返し教えられた。弟子が師にできる最大の恩返しは博士論文を完成させることだったが、私は早々に諦めてしまった。悔やんでも遅い。先生はもうこの世にいない。感傷に浸ることはナルシシズムでしかないので我に返った。甘い香りの葉巻ですねと言いながらマスターが戻ってきた。
「混ぜ物ばかりの安物ですよ。かといって、コイーバやモンテクリストの良さは何度吸ってもわかりませんでした」
「瀬戸さんにとって、それが特別な葉巻だからでは?」
 本当に客をよく観察している鋭い人だ。先生が医者に止められても煙草や葉巻を手放さなかったように、私もこのシガリロだけは一生吸い続けるだろう。
「宮川とは同級生なんですよ。昔の自分と瀬戸さんが重なって見えたのだと思います。こいつは仙人というより、世捨て人という感じでしたが」。マスターは宮川さんの肩にブランケットをかけ、「こいつのことは悪く思わないでください。瀬戸さんが入社して、やっと俺も引退できると喜んでましたから」
と優しい眼差しで宮川さんの両肩に軽く手を乗せた。私はそれを眺めながら、
「悪い人だとは思っていません。尊敬できる先輩です。でも、興味ないですね」
 と無情に言い切った。実際、彼に露ほどの関心も有していなかった。マスターは優しい眼差しを崩さなかった。
「やっぱり昔のこいつと似てますよ、瀬戸さん」
 会計は心配いらないと言うので、店を出た。昔はどうあれ、宮川さんと自分が似ているとはどうしても思えなかった。大学院では邦人だけではなく、外国人留学生も死に物狂いで研究をしていた。学部を出ただけの普通の社会人と一緒にしてくれるなという怒りが湧き起こったが、すぐに収まった。冷蔵庫のビールが少なくなっていたのを思い出し、最寄りのドラッグストアに入った。入口付近の医薬品棚の前にいる金髪女性が視界に入った。細身だが、横顔はふっくらとしている。装いや雰囲気から二〇代前半と察せられた。アヤカだと思ったが、人違いという可能性もあるので、後ろを通りながら、横目で確認した。間違いなくアヤカだった。
「市販薬に手を出すのはやめたほうがいいぜ」
「フツーに風邪ですー。近寄るとうつるよ」
 街で偶然でくわしたにも関わらず、まったく動じていなかった。いっさい面識のない男性から声をかけられることが日常茶飯事なのかもしれない。会話の継続に窮した私は、
「何か調剤しようか?」
 と、ぎこちない作り笑いをした。アヤカは目も合わせず毅然としていた。
「いまのところ大丈夫。風邪もあるけど、女の子の日だから、話しかけないで」
「わかった。じゃあ、また」
 アヤカの機嫌を損ねないよう、すぐに離れると、買い物かごにビールとサラダチキンを入れた。レジ横に滋養強壮剤が並んでいた。手に取ろうとしたが、第三類医薬品の効果など無に等しいのでそのまま会計を済ませた。
 自宅に帰ると、熊岡がトイレのドアを開け、ティッシュで鼻をかんでいた。
「熊岡菌に感染するから、ちゃんと流してくれよ」
「アレルギーですよ。トイレに流したら詰まります」
 私は、そうだなと言って冷蔵庫にビールとサラダチキンを入れた。熊岡もビールを買っていたようで、数日は補充しなくてもよさそうだった。一本抜き取って、冷蔵庫の上に置いてあった送り主不明の和菓子を手にソファーに腰を下ろした。すると、熊岡がサラダチキンとビールを持って横に座った。そのサラダチキンは熊岡のために買ったものじゃないと言おうとしたが、やめた。
「和菓子とビールって合いますかね?」
「これから実験するところ」
 熊岡がどこかで入手した和菓子だと推察できたが、ずっと冷蔵庫の上に置いてあったので消費期限が過ぎているかもしれなかった。一口食べてみたところ、問題なさそうだった。和菓子は嫌いだったが、ビールの苦さと調和して意外にも美味しかった。
「今日、市役所で宮川さんに会ったぜ。僕らのことを褒めてくれたよ」
 熊岡はやや大げさと感じるほど片腕を高く上げて拳を握った。
「本当ですか? 嬉しいですね。でも、県政担当なのに、なんで市役所にいたんですかね?」
「神出鬼没だからな、あの人。この前の市長写真も褒めてたぞ」
 熊岡は思い出し笑いなのか、いきなり笑い出した。熊岡の撮影技術は確かなものだ。市長が身振り手振りで説明している動きのある写真もあった。私なら無難にそれを編集部へ送信していた。それにも関わらず、あえて悪い写真を自ら出そうと提案してきた。熊岡なりの意図があったのだろう。それを汲んで私が写真を選んだ。
「熊岡、うちはスマホでも大丈夫だぞ。一眼レフは写真一枚あたりの容量が重くて、出先で送信するのに難儀する。かっこ悪いから肩にぶら下げてるだけだ」
「ですよね。最近のスマホのカメラは性能いいし。でも、会見でスマホはさすがに……」
 熊岡の心配を吹き飛ばすように私は調子よく声を大にして言った。
「謝罪会見はスマホがいいぜ! うちはジジイの禿げ頭は撮らない主義らしいからな。神妙な顔で説明しているところを斜め下からスマホで撮るんだ。悪い連中に一眼レフを使ってやる義理はねえ!」
 熊岡は得心した様子だった。話したはいいが、すぐに後悔した。それは私の我流でエゴだった。頑固だが素直でもある熊岡が、これからスマホで撮影しているところを想像するとかわいそうな気がしてきた。スマホより一眼レフカメラのほうがいいに決まっている。熊岡の技術を考慮すれば、軽率で余計な発言だった。
「でも、心配なのでちゃんとカメラでも撮りますよ。スマホは保険で」
 それを聞いて安堵した。和菓子を何個か取り出して、ばくばくと口に頬張ってはビールで流し込んだ。熊岡も上機嫌でビールを飲んでいた。不毛な会話の応酬だったが、楽しい夜だった。熊岡はソファーで赤児のように安らかな眠りに就いていた。私は、消費期限切れと思しき和菓子で腹を下したのか、その後は一睡もできなかった。

       三

 腹痛が治まってから、簡単な告知記事を一本出稿した。これを機に出稿数を減らすのも悪くないと思った。毎日、何本も出稿していては精神が崩壊しかねない。あるいは、もう崩壊しているのかもしれない。眠剤を飲んで就寝した。
 目を覚ますとカーテンから日光が射し込んでいた。飛び起きてスマホの画面を見た。てっきり朝になっているものと思っていたが、夕方だった。ノートパソコンを開いて、会社の提稿予定表からすべてを削除した。これにきちんと予定を入れている記者は私と熊岡、宮川さんだけだった。
 酒を飲みに出るにはいい時分だったので、熊岡の部屋をノックしたが、返事がなかった。「薬剤師」業をやるには彼がいないほうが好都合だったが、何となく外で熊岡と酒が飲みたかった。リビングに行ってソファーに座ると、テーブルに置いてあった地元有力紙を開いた。広告ばかりでつまらない。紙面をめくっているうちに市長選、市議選が近いことを知った。選挙報道が一番面倒だ。選挙のたびに仕事を辞めたくなる。街に繰り出す景気づけにビールを飲んでいたら玄関からドタドタと落ち着きのない足音がした。
「支局に溜まってた新聞とファックスを捨ててきました。提稿予定表に何もなかったですけど、辞職する気ですか?」
「まさか。働きすぎだと思って消しただけだよ。それに編集長に手の内を知られたくない。熊岡も仕事のほうは少しクールダウンしなよ」
「それができない性分で。根は真面目なんです」
 私は、知ってるよと言って口元に盃を運ぶ仕草をした。熊岡は破顔してドタドタと足音を立てて自室に戻って行った。一緒に行く意思があるのか判断しかねたが、数分待つと、「行きましょう!」と呼ぶ声が聞こえた。
 歓楽街は徒歩でも行ける距離だが、面倒なのでタクシーを呼んだ。運転手はドアを開けると、私の顔をじろりと見た。一般的に、タクシーは運転手と目が合うことで客に余計な気を遣わせないよう、ルームミラーを傾けるなりしているものだが、この運転手はわざわざ私と目が合うようにした。運転中もチラチラと見てくるので、もしかしたら車内で嘔吐したり、喚き散らしたことがあったのかもしれない。
 タクシーを降りると、どこに入店するか迷うふりをして案内所の目の前を通った。あの若者はいなかった。熊岡はとくに行きつけの店があるわけでもなさそうだったので、村田さんの店に入った。卑猥な歌い手のボーイは不在だったが、村田さんはいた。一九〇センチはあろうかと思わせる堂々たる体躯に精悍な顔つき。黒のシャツとスラックスも似合っていた。とても四十六歳には見えない。
「瀬戸さん、いらっしゃいませ。先日はすみませんでした。すぐにアヤカを呼びますんで、空いてるボックスにどうぞ」
 何人も座れるL字の席に座ると、軍歌しか歌わない熊岡がデンモクのタッチパネルをいじりだした。客が少なかったら、軍歌は止めているところだが、今日は客が多いので、誰も聴いてはいないだろうと思い、放っておいた。しばらくしてアヤカが着座した。彼女は熊岡に名刺を渡して自己紹介すると、熊岡の顔を覗き込むように「瀬戸さんの友達ですか?」と訊いた。熊岡は、「会社の後輩です」と即答し、すぐにデンモクをいじりだした。私はその間にアヤカに寄って抗不安薬と眠剤、一万円が入った封筒を折ってテーブルの下から手渡した。
「お飲み物はどうされますか?」
 熊岡は聞こえていないようだったので、ビールを二つ頼んだ。
「アヤカはウーロンハイでしょ? 飲みなよ」
「いただいてもよろしいですか? ありがとうございます。村田さーん! 生二つとウーロンハイお願いしまーす!」
 今日はボーイが誰もいないようだった。卑猥な歌い手は、眠剤を飲むと異常なハイテンションになるらしく、裸で歓楽街を疾走したり、車に乗ったらなぜか他県にいたという逸話を聞いたので、彼に眠剤を調剤したことはない。ボーイは女性従業員の送迎をすることもあるので、抗不安薬も調剤していない。
 酒がやってくると、三人で乾杯した。私も熊岡も一気飲みだった。やはり店で飲む酒はうまい。アヤカはいつもなら口を濡らす程度だったが、今日は気持ちのいい飲みっぷりだった。そういうときは決まって、酔いに任せた甘い声でシャンパンをねだるのだった。熊岡は場の空気を読むのが苦手なので軍歌を歌いだすかと思っていたが、パネル遊びに夢中になっているのか、ビールを再注文した。私はハイボールを頼んだ。熊岡はまたも一気飲みだった。そして、再度ビールを注文した。熊岡は酒なら何でも飲むので、キープボトルを飲むべきだったと後悔した。私がこめかみを掻いていたら、思い立ったように熊岡が喋りだした。
「瀬戸さん、もう少しフランス現代思想を勉強してくださいよ」
 そうするよと受け流し、もう一つのデンモクをタッチしてアップテンポな曲を探した。アヤカが「最初はテレサ・テンか、ちあきなおみ歌ってるじゃないですか。聴きたい」と目で訴えてきた。自分が話に付いていけないという意味だと受け取った。が、熊岡が稲妻のごとく早口でまくしたてた。
「瀬戸さんは十九世紀のドイツで終わってるんですよ! カント、ヘーゲル、マルクス。マルクス以前かもしれませんね! 本質や真理は存在するが、神じゃない人間には真実の近似までしか認識できない。そうだと諦めてる。だからいつも平然としてるんだ!」
「カントもヘーゲルも難しくてわからないよ。でも、フランスに限らず現代思想なんてマルクスの注釈だろ?」
 熊岡はテーブルに手を付いて立ち上がった。辛辣な反論がくると覚悟した。激しく揺れ動く熊岡の瞳を見ていたが、「すみません。ヒートアップしちゃいました」と頭を下げた。熊岡は着実に前進している。いつの日か、どの哲学者や思想家の言葉も借りず、自身のつむぐ言葉だけで世界の本質を、真理を語るときがくるに違いない。私は考え続ける力も意欲もない。西郷隆盛の「敬天愛人」や、夏目漱石の「則天去私」のほうがしっくりする。
「謝ることはないぜ。僕がバカなだけだ」
「ちょっと他のところで一人で考えます。すみません」
 熊岡は金をいくらか置くと店を出て行った。私はアヤカに一言詫びを入れようとしたが、思い留まった。別に熊岡が悪いわけじゃない。客が何を話そうが勝手だ。かといって、アヤカが悪いわけでもない。接客を伴う飲食店という、この場が悪いだけだ。
「接客業って難しいな」
「まあねー。でも、さっきの後輩さん、かっこいいのに損してね?」
 その後、私は気が狂ったように歌いまくった。客が減るたび、女性従業員が代わる代わる私の左右に座った。彼女らのリクエストに応えて有名アーティストの替え歌を猥褻に歌った。冒涜に冒涜を重ねた。午前二時ごろにアヤカは退店した。さすがに呆れ果てたに違いない。気づけば、客は私だけになっていた。店内に残っていたのは、女性従業員一人と村田さんだけだった。村田さんは、店を閉めるよう指示すると、女性に代わって着席した。
「俺も飲みますけど、いいですか?」
「いいですよ。シャンパン以外ならね」
 村田さんはビールを流し込むように飲むと、「レジは俺がやるから帰っていいよ」と言った。女性が退店すると施錠して、未開封の焼酎を持ってきた。
「俺の奢りというか、店の奢りです」
 村田さんはグラスを取って来るのを失念したとみえ、すぐに起立したが私は制止した。少し酒が残ったグラスを空にして、「こいつで回し飲みしましょう」と持ちかけた。村田さんは「すみません。先に飲んでいてください」と言ってどこかに消えた。私は焼酎をグラスに注ぐと、ウォーターピッチャーから氷を掴み取ってグラスに入れた。マドラーを使うのも面倒だったので、指でかき混ぜた。一口飲んで味見をすると、横に寝転がって村田さんを待った。近づいて来る足音がしたので、「すみません。面倒だったので、ぜんぶ手でロック作りました」と断った。「ロックな作り方でいいじゃないですか」と村田さんの笑い声が聞こえた。彼はボストンバッグを床に置いて座った。
「瀬戸さん、へべれけになる前に先に済ませましょうか?」
 私は、そうですねと返答すると、アメリカで禁止薬物に指定されている眠剤を一五〇錠テーブルに置いた。向こうではレイプドラッグと呼ばれている代物だ。それほど強い眠剤がなぜ日本で認可されているのか理解できない。村田さんはパンパンに膨れ上がったスーパーのレジ袋を置いた。中身を確認したが、私が目当てにしている抗不安薬は見る限り五〇錠ほどだった。それは数年前に個人輸入禁止になり、国内でも医者が処方を渋るような薬だった。それ以外は私にとって不要だった。わざとらしく溜め息をついてロックを飲んだ。
「すみません、瀬戸さん。同業者として情けないです」
「昼間に寝ているなら仕方ないですよ。僕は暇だから、いくらでも病院巡業ができるんです。仕事中にふらついたりしませんか?」
「大丈夫です。おかげで五時間は寝れてます」
 私は村田さんに同情した。私が調剤するまでも彼は強い眠剤を飲んでいたと聞く。耐性ができて酒で服用しても二時間ほどしか眠れなかったらしい。おそらく、渡した薬もすでに耐性ができているに違いなかった。私が初めて服用したとき七、八時間は眠れた。次第に酒で服用するか用量を増やすしかなくなった。酒量も用量も増えると、もう手詰まりだ。私もよく眠れて五時間だった。
「村田さん、今回もありがとうございました。それより飲んでください」
 彼は礼を言ってロックを飲み干すと、アイストングとマドラーを使ってしっかりロックを作った。染みついた職業癖だろう。
「瀬戸さん、アヤカとは……」
「金の切れ目が縁の切れ目でしょうね。薬を切れるのかはわかりませんけど」
 村田さんは無言のまま、自分で作ったロックを飲み干して、今度はストレートで一気に飲んだ。そして、「ところで、瀬戸さん」とマドラーをぐるぐるさせながら急に笑みを浮かべた。
「昔、タクシー乗ってませんでした? 俺、レースで瀬戸さんに負けたんですよ」
 今の会社に入社する以前はタクシー会社に勤めていた。交番制という勤務形態で、朝から夕方、夕方から深夜、夕方から翌朝まで走った後は休み、翌日も休みを繰り返していた。七年も前のことだが、たしかにレースをしたことがある。夜間専門で走る運転手は短気者が多く、レースなどの揉め事は日常茶飯事だった。ほとんど記憶にないが、午前三時か四時ごろにやたら煽ってくるタクシーがいた。ルーフの行灯を消して追い越し禁止車線を跨ぎ私を抜こうとしたので、挑発に乗ってしまった覚えがある。
「タクシー乗務員やってましたよ。あの煽り運転は村田さんだったんですね」
 当時、村田という名は市内のタクシー業界では有名だった。評判の悪い会社の運転手で、駅で待機中も絶対に目を合わすなと会社から厳命された。
「俺、自分で金出して馬力上げてたんですよ。邪魔だ、どけって。そしたら、ずっと先で瀬戸さんがハザードランプ点滅させて待ってたんですよ。いつ抜かれたのかわかりませんでした。かなりへこみましたね」
「あれは村田さんの勝ちですよ。僕はライトを消して、離されたふりして近道したんです」
「そうだったんですか! 無灯火で普通にテクニックで負けたと思ってました」
 漫画じゃないからそんなことはしないと言いかけたが、村田さんがスマホを出して、見てくださいと肩をぶつけるので画面を見た。私と村田さんのツーショット写真だった。すでにSNSか何かで拡散されてしまった可能性が高かった。いわゆるデジタルタトゥーというバカがすることをやってしまったと猛省した。興奮状態でまだマドラーを持っている村田さんからロックを取ると、氷もろとも丸飲みした。のどに引っかかった氷のせいで、ビリビリと口の奥が痛んだ。おかげで冷静さを取り戻せた。七年前の地方での出来事で、ただのツーショット写真だ。何も臆することはない。
「俺は吹っ切れて、すげえやつがいる! すげえやつがいる! って、いろんなやつらに言いまわりました。それからはずっと安全運転ですよ。瀬戸さんのおかげです」
 歓楽街に来る際に乗ったタクシー運転手がやたらと私を見ていたことに合点がいった。だが、住宅火災のときに乗った運転手は気にしていなかった。真面目な運転手であまり客の顔を見ないようにしていたのかもしれない。これからは、あえて村田さんがいた評判の悪いタクシーを使おうと思った。

       四

酒が抜けていないのか、頭が痛かった。腰も痛い。ふだん、腕時計を身に着ける習慣がないので、スマホを探した。店内には窓がないので真っ暗だ。テーブルの上か下にあるはずだったが、探ってみてもそれらしき物に手が当たらない。諦めて仰向けになると、背中に固いものが下敷きになっている感触があった。よろめきながら起き上がってみると、裏返ったスマホの画面から光が漏れ出ていた。時刻は午後一時だった。全身がだるかったが、酔いを醒ますために歩いて帰宅した。
 熊岡は不在だった。たしか、明後日にも豪雨が予想される市の対策本部会議があった。資料通り書いて、記事の末尾に気象台担当者の注意喚起を入れるだけでいい。熊岡ならその場で書き上げてしまうだろう。億劫だったので、チラシの掲載許可を必要としない行政主催のイベント告知記事を出稿して床に就いた。
 深更に目覚めた。年齢を重ねるにつれてアルコールの分解速度が落ちていたので、胃腸に違和感があった。殺風景な自室を見渡した。かつて何百冊とあった蔵書はいまや十三冊だ。うち、献本されて仕方なく残しているものが三冊あった。先生の著書が二冊、親友からもらった新書が一冊。どちらも十年以上読んでいない。一年以上読んでいない本は一生読むことはないだろうから、どんな稀覯本でも捨ててきた。一冊で二〇万円した本も容赦なく捨てた。幸徳秋水と堺利彦共訳の『共産党宣言』も捨てようとしたが、熊岡が欲しがったので譲った。残っているのは、先の三冊とオルテガ『大衆の反逆』、マンハイム『イデオロギーとユートピア』、長谷川如是閑の著作二冊、丸山真男の著作六冊だった。
 万巻の書に囲まれて暮らすことを夢見ていた時期もあったが、今は蔵書が少なければ少ないほどよいと思っている。小説は読んでも得るものが何もないから読まない。そもそも哲学や思想史を研究している者は抽象的思考に浸かってしまっているから、具体的で冗長でしかない小説はショートショートすら読むことができない。文芸評論家の著作に至っては最も読む価値のないものだ。中途半端に理論武装した哲学や思想で小説を斬る姿勢が許しがたい。ただし、ヴァレリーやブランショ、ジョン・ベイリーらは天才だから例外だ。宗教に興味はないが、私の家は檀那寺が曹洞宗なので、無人島に一冊持っていくなら、懐弉の『正法眼蔵随聞記』だろうか。無人島だから、本があっても仕方ない気がする。が、こんなことを考えていても時間の無駄だ。
ときどき物思いに耽ることは悪い癖だ。枕元に置いたスポーツドリンクで眠剤を飲むと、スマホを手に取り、しっとりとした曲調のK‐POPをループ再生にして眠った。
翌朝、リビングに行くと、熊岡がソファーで腕組みしながら天井を見上げていた。
「K‐POP聴くんですね。部屋の外まで音が漏れてましたよ」
「邦楽以外なら何でも聴くよ。日本語は桎梏でしかない。言葉に思想を制約されたくないんだ。インストルメンタルやクラシックが望ましい。普遍的だしね」
 熊岡は天井を見上げたまま、なるほど、とつぶやくと腕をほどいてまた組み直した。私はシガリロのケースを開けると、熊岡に一本差し出した。
「考え事にはこれが効くぜ。頭の回転が五倍になる」
 熊岡はシガリロに火を付けて、少し吸うなり咳き込みだした。
「僕は肺まで入れてるけど、基本は吹かすものだぜ」
 熊岡はシガリロを灰皿に置くと、今度は立ち上がって腕を組み、天井を見上げた。何か閃いたのかもしれなかった。私は灰皿から火の消えたシガリロを取ると、テーブルの上でコロコロ転がして遊んだ。そのうち、遊びに飽きてシガリロに火を付けた。口の中で煙を味わってみたが、この行為に意味があるのかわからなかったので、いつも通りに肺まで吸い込んだ。かなりゆっくり吸ったので、十五分は経過したはずだが、熊岡は依然として同じ立ち姿のままだった。
「ソクラテスの魂でも乗り移ったか? 代わりに何本か書いとくよ」
 家を出て市政記者室で溜まった投げ込みを回収すると、支局に向かった。駐車場に宮川さんの車が停まっていた。関わるのが面倒だったので、営業マンが休憩やサボりでよく使っている公園へ車を走らせた。ちょうど昼時だったためか、駐車場はほぼ満車だった。
空いている場所へ車を停めると、後部座席に移動した。胡坐をかいてノートパソコンを開き、テザリングでネットにつなげた。民間調査会社が企業に対して実施したレポートに基づいて、景気見通しの意識調査、人手不足の意識調査、女性登用の意識調査の三本を脱稿した。今日の熊岡の提稿予定表を見たら、告知記事一本だった。出稿数を減らすよう勧めはしたものの、まさか熊岡まで編集長に手の内を隠すことにしたのかと心配になったので、三本のうち二本を熊岡名義で出稿した。顔を上げて外を見ると、西日が遠くの山々に隠れようとしていた。幼少期の刷り込みなのか、夕方になると早く帰宅せねばという切ない気持ちになる。ユーロビートを流して家路を急いだ。
自宅の扉を開けると、真っ暗だった。がさっと紙のようなものを踏んだ音がした。照明を付け、足元を確認した。怪しげな携帯番号が書いてあるデリヘルのチラシだった。スラックスのポケットに丸めて突っ込んだ。靴がなかったので、熊岡はどこかに出かけたようだった。
酒ばかり飲んでいると肝臓に悪いので、自室で抗不安薬を飲んだ。ベッドにうつ伏せになり、ペニスを擦り付けるという弱弱しい快楽に浸っていたら、カバンからブーブーと音がしている気がした。中を開けてみるとスマホが振動していた。アヤカからだったので、金の普請か薬の調剤だろうと呆れながらスマホを耳に当てた。
『空からお金が降ってこないかなー』
『もっと家賃の安いところを借りなよ。それと、減薬ね』
『んー。最近、体調悪いから出勤減らすかも』
 私は彼女の体調のことはおかまいなしにテレホンセックスをしようと提案したが、したことがないと断られた。ビデオ通話でお互い局部を映しながらすると性的興奮が高まると説明したが、関心がない様子だった。
『みーちゃん! みーたん! みーこ! 気まぐれちゃんで可愛いんだから。あいにゃー。みーたん、うんちしないの? 出なかったの? ふふっ』
 猫の鳴き声がした。猫は携帯電話のようなものだ。携帯電話は場の空気を変える。一対一で顔を合わせて話をしていても、強引に第三者として割り込んでくる。相手が通話を始めてしまうと疎外されている気分になる。常識人ならよほどの重要案件でない限り対面で会話している者を優先するが、そうしない、そうできない人間もいる。とりわけ電話となると通話者より身辺の事物に注意が向いてしまう人間も多い。アヤカはそういう人物だと感じた。
『みーちゃん、うんち臭いもんね。みーちゃん、早くうんちしなはれ。えっ、今日トイレの場所決めるの早くない? 早くトイレ掃除しろって言ってんの? わがままな娘なんだからあ』
『アヤカ? トイレが三ヶ所あるなら、きれいなトイレと交換すればいいだろ』
彼女は何も聞こえていない様子だった。腹が立ったので、抗不安薬を追加服用した。
『お前、トイレから出るなよ! 隙あらば出るからな。みーこメシ食ってる? あんたのうんち小さいけど。はいはい、もっとうんちしてください。うんにゃー。あはは! 面白い顔して。早くうんちしな。うんにゃー。にゃー。みーたん、にゃんにゃん』
 こんなやりとりを聞かされていては知能指数が下がると思い、スマホを枕の上に置いた。がらがらの三段カラーボックスから無造作に積み上げられた十三冊のうち、一冊を手に取った。先生の論文集だ。私は研究書の謝辞が好きだ。ビジネス書や自己啓発本など無数の書物があるなかで、なぜか研究書だけは自由に謝辞を書くことが許されている。淡々と関係者への礼を書いて済ます者もいるが、あまり見かけない。先生の著作は二冊しかないが、いずれも仕事の都合で書いた論文が収められている。特定の人物だけを扱ったものや、共通のテーマでまとめたものではない。そのため、一つの論文についての執筆経緯が逐一書かれているわけだが、これが面白くもあり、切なさを感じさせる。だからといって、私の心が大きく動くことはない。一通り目を通してスマホの画面を見ると、通話は終わっていた。
 カーテンから外を覗くと、赤い光を周囲の建物に反射させながら遠ざかっていく何かが見えた。そのうち、県警から電話があるに違いない。今回は、火災だろうが、自動車事故だろうが書くつもりはなかった。私が電話に出なければ、熊岡に連絡が行く。編集部には第一報から最終報までファックスが送られるから、今日は寝ていたことにして、それでも書くよう指示があれば書くことにした。
 豪雨が予想されるにも関わらず、私は車の洗車をしにガソリンスタンドに向かった。道中、そのうち年寄りばかりの顔写真で埋め尽くされるであろう選挙ポスターの木枠をいくつか見かけた。市長選のほうは四つ枠があったが、四人も出馬するとは思えない。つまらない男だが、現職が無投票で再選、対抗馬が出ても圧勝で再選だろう。
 セルフのガソリンスタンドにはスタッフ以外は誰もいなかった。エンジンを切って給油口を開けるレバーを引っ張ると、隣に外車のスポーツカーが停まった。運転手は降車すると、スタッフに挨拶してトイレのほうへ歩いて行った。私はこれ見よがしにスポーツカーに近づき、シフトレバーを見た。ボディを思い切り蹴りたくなった。オートマチックトランスミッションなどスポーツカーへの冒涜でしかない。給油を済ませ、どんな大バカが乗っているのかと車内で待っていたら、無地の黒いポロシャツを着た初老の男性だった。私はかつてスポーツカーの維持費がもたず、手放したことがあった。高回転時のエンジン音、そして何よりスピードを出しているとき、五速から六速にギアチェンジするのが気持ちよかった。いまでも意地を張ってマニュアルトランスミッションの軽自動車に乗っているが、六速はない。タコメーターもない。いくらスピードを出しても泣き喚くようなエンジン音が聞こえるだけだ。私はクラッチを踏んで何度か空吹かしをして、洗車をしないままガソリンスタンドを出た。
帰宅するなり、「熊岡!」と大声で呼んだ。返事がなかったので、照明を付けた。まだ外出しているようだった。こんなに腹立たしい日は久しぶりだと意識的に口角を上げた。キッチンに行くと、シンクに溜まった汚水に食器がプカプカと浮いていた。その一つに触れて泳がすと、抗不安薬を飲んでリビングのソファーに深々と腰を下ろした。テレビをつける気にはならなかった。ただ静寂だけが今の私を癒してくれるように思われた。
しばらくぼんやりしていたら気分が楽になった。少しばかりバカになってもかまわないとテレビのリモコンを押した。くだらないバラエティ番組だったので、地元ケーブルテレビに切り替えた。退屈極まりない街ネタをキャスターが読み上げていた。すぐにテレビを消した。仰向けになり足を組んだら、丸められた紙が床に転がり落ちた。玄関で踏んでしまったデリヘルのチラシだった。私には不要なものだったが、そのまま捨てる気にもならず、ボールペンで「死ね死ね死ね死ね」と書き殴った。紙の裏がきれいに真っ白だったので、思い切り「死ね」と書いた。力を込めすぎたのか、紙が少し破れた。
私は立ち上がると、シンクの掃除を始めた。排水口に詰まった腐臭物を取り除き、ギトギトになっている食器を洗った。水垢を落としているうちに、ジュッと音を立てて排水口に水が流れていった。私は何度も蛇口をひねっては勢いよく吸い込まれる水を見ていた。
自室に戻り、ベッドと室内を簡単に掃除すると、書き殴ったチラシを見て架電した。しばらく待っていたら、アジア系らしき女性がやってきた。彼女はあらゆる性的サービスをしてくれた。そして私の股間に跨り、陰部を擦り合わせた。が、私のペニスは勃起しなかった。女性の乳房を乱暴にまさぐったが、勃起しなかった。それでも私は延長に延長を重ねた。
 彼女はその後、汗だくになりながら、三時間も腰を振り続けた。……熊岡が帰宅したのは翌日の午後だった。

       五

 金の切れ目が縁の切れ目という予兆がまさに迫っている気がしていた。アヤカは体調不良で出勤しなくなり、金を渡す機会がなくなっていた。ラインを送っても既読は付かず、たまにつながる電話では食欲もなく、生理が来ないと言っていた。交際しているといっても、私はアヤカの住所を知っているわけではなかったので、手の打ちようがなかった。私は女性を愛しているというより、所有物として見ている傾向があり、異常な独占欲や支配欲があった。自覚はしていたが、どこかで取り返しのつかない一言を発してしまったのかもしれない。
「珍しく浮かない顔ですね。どうかされましたか?」
 支局に出勤したものの、ビールを飲んでいるだけだった。在宅時の姿と変わらないはずだが、熊岡には違って見えたようだ。
「ちょっと異性トラブルでね。酒と抗不安薬で何とかごまかしてる」
「そうですか。市議選は私と宮川さんでやります。瀬戸さんは市長選をお願いしたいのですが、大丈夫ですか?」
「ご高配に感謝する。市長選なら一人でもやれる。でも、立候補予定者説明会はとっくに終わってるだろ?」
「それは大丈夫です。宮川さんと行ってきました」
 いくら選挙報道が嫌いとはいえ、編集長から何ひとつ指示を仰がず、だらだらとした日々を過ごしていたのはまずかった。熊岡が気を遣ってくれたのかもしれないが、私の無為な生活ぶりを見て呆れたのかもしれなかった。宮川さんにも迷惑をかけてしまったに違いない。職務怠慢もここまで極まると解雇されても文句は言えない。だが、何も言ってこなかった編集長も怠慢ではないのか。
「編集長は僕が市長選を担当することに異論ないの?」
「むしろ、編集長からのご指名ですよ。変な人が出馬予定です」
 熊岡は壁にもたれながら私の反応を見ているようだった。冷蔵庫からビールを取り出して、熊岡に渡した。無言で乾杯し、なるべく大量に流し込んだ。市長選、市議選の告示日まで二週間を切っていた。市議選は定数四十二で前回と変わらない。パソコンで「市議選」フォルダを開くと、すでに立候補を表明している年寄り連中の顔写真が三十九枚あった。
「こいつらに渡した政策アンケートは返って来てるの?」
「返って来てますよ。政策と呼べるものなんてないですけどね。現職市長の調査表とアンケートも返って来てます。顔写真もありますよ」
 「市長選」フォルダを開いた。告示後の報道に必要なものはすべて揃っていた。調査表には氏名や生年月日、住所、経歴などが記載されている。これがなければ選挙記事は書けない。「変な人」については、市内在住の女性が立候補予定との噂を聞いていた。噂では何も意味がない。ビールを飲み干し、もう一本開けた。
「変な人はどういう人だった?」
「誰がどう見ても変人といった中年女性でした。写真を撮るなと叫んでいましたが、どさくさにまぎれて撮りました」
「その写真を五〇万円で買うよ。助かった」
 出席しただけなのか、本当に出るつもりなのか。マスゴミがその女性を強引に囲んで訊こうとしたが、何一つ情報を得られなかったものと予想できた。面倒なことになりそうだった。何も出稿しないわけにはいかなかったので、資料で書けそうなものを探した。県の底引き網漁業の動向が楽に書けそうだった。県政ネタだが、宮川さんは怒りはしないだろう。資料通りに記事を作成し、過去十年間の漁獲量を示した折れ線グラフの図表をスキャンした。十年前に比べると、ここ三年はかなり低調だった。とくに今年の下げ幅は著しかった。仮見出しを考えるのが面倒だったので、「底引き網漁業 今年は最も低調」とパソコンに打ち込んで出稿した。整理部か編集長がいい見出しをひねり出してくれるだろう。まだ午後四時だったので、編集長が無理難題を押し付けてくる可能性もあったが、休憩室で熊岡と酒を飲むことにした。
「熊岡は何か出稿する?」
「告知記事ですけど、一本出しました」
「じゃあ、スーパーでつまみを買ってくるよ」
 車に乗り込み、エンジンをかけようとしたら、黒のコンパクトカーが支局の前で停車した。宮川さんの車だった。逃げるか車内で身を隠すか迷った。駐車場は二台しか止められないので、場合によっては宮川さんにこの場所を取られかねない。座席のシートを倒し、外を窺った。十五分待ったが、出てこない。熊岡とビールを飲んでいる宮川さんの姿が脳裏をかすめた。車を降りて、支局のドアを開けた。宮川さんは赤ら顔で、空いているデスクの椅子に座っていた。
「おーい、瀬戸。つまみがねえじゃねえか」
 熊岡に視線を送ると首を横に振って肩をすくめた。手に負えないということか。
「すぐ買ってきますよ。とりあえず、乾杯しませんか?」
 空きっ腹に酒を入れて、宮川さんを早く眠らせることにした。とにかく景気よく盛り上げねばならない。私は冷蔵庫からビールを三本取り出し、熊岡と宮川さんに配った。そして、大きく息を吸い込み、ありったけの力を振り絞って叫んだ。
「よっしゃあ! よーしゃ! 宮川先輩! いつもお世話になってます! 乾杯!」
「うるせえよ! そこまでジジイじゃねえ!」
 意図していなかったが、宮川さんは機嫌が悪くなったのか、ぐいぐいとビールを飲んだ。赤ら顔だったことから察するに、熊岡と一杯飲んだあとだと思われた。ただ、空いたビールの缶がなかった。すでに飲んで来たという可能性もある。酔った状態で車を運転するのが危険だと判断して支局に寄ったのかと考えたが、訊かずに黙っていた。ビールを口元に当てて熊岡を見た。どこから出してきたのか、ウォッカの瓶を直飲みしていた。熊岡も宮川さんの酒癖を知っているのかもしれない。さっさと寝てしまおうという算段だろう。
「熊岡、俺にもよこせ!」
 思わぬ展開に嬉しくなって、スマホでコルトレーンを流した。が、早急に眠ってほしいという意味も込めてショパンの「別れの曲」に差し替えた。
「ショパンか。気が利くな瀬戸。今日の俺は憤怒の鬼と化している。別にコルトレーンでもよかったぞ」
 私はスマホを持ったまま固まってしまった。宮川さんはもしかしたら、とてつもない教養人かディレッタントなのかもしれない。いずれにしても厄介な酔人に変わりはなかった。熊岡の哲学談義の勃発はもう心配ない。仮に宮川さんが凄まじい教養人、あるいはディレッタントならば何としても逃げる必要があった。教養も芸術も宮川さんと語る気はない。とはいえ、先日の宮川さんはスクリュードライバー一杯で眠ったので、しばらく放っておくことにした。
「県政記者室の小僧どもにはうんざりだ。バカしかいねえ。ラスキンぐらい知ってろよ!」
 テレビ、新聞を問わず、記者のバカさ加減には私もうんざりしていたので、つい口が滑った。
「そうですね。できればコリングウッドの『芸術の原理』も読んどけと思います」
「さすが院卒は違うな。コリングウッドは読んだことねえな。お前、アドルノの『音楽社会学序説』は読んだことあるか?」
「いえ、アドルノは多才だし、難解すぎて読む気にもなりません」
「フランクフルト学派ぐらい押さえとけよ。俺はハーバーマスまでは読んだぜ。熊岡の言う通り、お前は十九世紀のドイツで終わってるのかもしれねえな」
 宮川さんが熊岡と哲学談義をしていたことには驚かされた。学部卒を馬鹿にしていたことを反省したが、旧帝国大学と有名私立大学の学部卒はやはりバカだと思う。宮川さんが市内の私立単科大学卒業だということは聞いていたので、なおさらその感が強くなった。宮川さんの目がとろんとしてきたので、シガリロに火を付けて彼が眠るのを待った。机に左頬を置いて、宮川さんが何か言った。私は彼の耳元で「何です?」と小声で問うた。宮川さんは、「安物の臭いだが、悪くねえ。今度吸わせてくれ」と言って瞼を閉じた。
職場で二人の同僚が酔いつぶれて寝ている。私は一人だけ残されたという淋しさと不思議な優しい気持ちで満たされていた。自分のデスクに落ち着くと、パソコンを起動し、明日の「出稿済み」フォルダを確認した。宮川さんはすでに二本入れていた。明日は寝て過ごす気だろう。熊岡は何も入れていなかった。シガリロを吸いながら、県内ガソリン価格と行政主催のイベント告知記事を出稿した。熊岡の分は、県の月別観光施設・宿泊地の動向を出稿した。いずれも県政ネタだったが、もう宮川さんに配慮することはやめた。もとより、私たちは全員遊軍なのだから。
 ウォッカを飲もうと宮川さんのもとへ近づいたが、いまになっていびきをかいていないことに気づいた。机に突っ伏していたので、表情はわからなかったが、寝息は聞こえた。ウォッカの瓶を取って、今度は熊岡を見た。熊岡もまた机に突っ伏していたが、しっかりと寝息が聞こえた。私はウォッカを一口飲むと、自分のデスクに戻ってぼんやりと部屋を眺めた。外で何か音がしたので、窓から覗いてみたら、我が社の配達員だった。深更に部屋に明かりが点いていると変に思われるので、すぐ消した。眠剤を飲んで休憩室に入った。掛け布団を枕の代わりにして寝る体勢になった。何か考え事をしようと寝返りを打ったが、急に襲ってきた眠気に抗うことはできなかった。
 カーテンを閉めなかったせいか、目覚めの日光がかなり眩しかった。スマホを見ると午前九時五〇分だった。二日酔いはしていなかった。休憩室から出て部屋を見渡したが、宮川さんの姿はなかった。熊岡は全裸で、床の上で胎児のように寝ていた。いくら男前でもこの姿では誰もが訝しがるに違いない。床にティッシュが四つ丸めて散らかっていたので、その一つを拾い上げ、臭いを嗅いでみた。今回も精液の臭いではなかった。床に全裸で寝ていれば風邪を引いてもおかしくなかったが、起こすのは気が引けたので郵便受けから地元有力紙と全国紙を取ってきて開いた。件の中年女性の情報はどこにも書かれていなかった。おそらく一人で出馬の準備を進めているのだろうが、選挙管理委員会に提出する書類や、ポスターの印刷、リーフ配布など、とても一人でやれるものではない。時間の問題で出馬を断念するだろうと思った。無投票となれば現職のバンザイ写真を撮るだけで済む。変に頑張ってくれるなよと左こぶしを額に当てた。祈りを捧げていると固定電話が鳴ったので、受話器を取った。
「瀬戸くんかな? おはよー。市長選のおばちゃんは出るのかなあ?」
「たぶん、告示日までにもろもろ間に合わないと思います」
「注意はしといてー。ところで行ってほしい場所があるんだけどお。いいかなあ?」
 昨日のうちに出稿したのが裏目に出た。土木会社が主催する高校生のバックホー乗務体験会を取材してほしいとのことだった。簡単な取材だが、様々な土木会社が人材確保のために開催しているので私は飽きていた。熊岡を起こし、記事は出してあると言って安心させると、倉庫から五段脚立を出して車に載せた。カメラはスマホでもよかったが、バックホーの振動はかなりのもので写真がブレる可能性があったため、一眼レフにした。現場に着くとすでに体験会は始まっていた。先に男子生徒が乗っていて、女子生徒はこれからのようだった。しばらく様子を見ていたが、前進や後退のようなことはせず、アームを動かすだけの体験だった。私は脚立をキャタピラの横に置いて最上段まで上がり、試しにシャッターを切った。男子高校生と指導員の距離の関係で両者が納まらなかった。スマホのカメラで撮ってみたら、ブレもなく両者ともしっかり撮れた。体験を終えた男子から感想を聞き、メモした。
 しばらくして女子の番になった。一人目の体験者がヘルメットを被って乗り込んだ。指導員が説明を始めた。体験者がレバーに手をかけた。バックホーのエンジン音が凄まじかったので、私は大声で「すみません!」と両者を呼び止めた。
「生徒さん! レバーそのまま! 指導員さんは説明している感じで止まってください! なるべく笑顔で!」
 私はスマホのカメラで素早く撮影を済ますと、「ありがとうございました!」と声を張り上げた。脚立をたたみ、しばらく待つと女子生徒が降りてきた。半ば誘導する形だったが、「土木の仕事でも女性がたくさん活躍しているので、仕事選びのきっかけになった」という完璧な感想を引き出した。指導員のコメントも欲しかったが、あとで電話すればいいので、脚立を支局に戻して帰宅した。リビングのソファーに座ると主催者に架電し、広報担当を呼び出した。「一人でも多くの生徒さんに土木の仕事に興味を持ってもらいたい」と無難なコメントが簡単に取れた。三十五行くらいで済ますつもりが、五〇行になった。余計な部分は編集長が削るだろう。
 今日は休肝日にし、その代わりにシガリロと抗不安薬を楽しもうと自室に戻った。カバンの中からブーブーと音がしていたので、編集長からの電話だと思い、画面をタップした。
『女子高生の写真いいじゃなーい。ヘルメットを被り慣れてない感じとかすごくいい』
 私は無言のままシガリロにマッチの火を近づけた。
『これ、一面トップで使うからねー』
『待ってください! こんなのどこでもやってますよ!』
 すでに通話は切れていた。宮川さんの記事を温存したかったのか、編集長の真意はわかりかねた。煙を一気に吸い込んだら、咳き込んでしまった。ゴホゴホと苦しんでいると、トイレの水を流す音が聞こえた。熊岡が風邪を引いてしまったのではないかと心配になった。

       六

 市長選、市議選の告示日まであと五日。編集長によると、市議選は定数四十二に対し立候補者数五十三とのこと。まだ立候補者が出てくる可能性もあるが、ほぼ確定とみてよさそうだった。調査表、顔写真、政策アンケートも五十三人分が「市議選」フォルダに揃っていた。問題は市長選だった。選挙戦になるかどうかはいまだ不明だった。私は在宅で淡々と記事を出稿する日々を送っていたが、抗不安薬の服用量が増えてきていた。薬物依存への警鐘を鳴らすかのように酒量も増えたが、アルコールも薬物であることに変わりはなく、むしろ酒量が増えることのほうがまずいというのが私的見解だった。二本記事を出稿した。自室の空気を換えようと窓を開けた。土砂降りではないが、けっこうな量の雨粒が地面を叩いていた。平日の雨天は夜の街に繰り出すには絶好の日だ。窓を閉め、リビングに行くと、熊岡がソファーでくつろいでいた。
「出稿は済んだようだね。飲みに出ようぜ」
「いいですよ。最近、調子がよくて世界の真理がわかった気がするんです」
「すげえな! 十九世紀のドイツ哲学者にもわかりやすく教えてくれよ」
 熊岡は起立するなり、よろめいて転倒した。
「おい。本当に調子いいのか?」
 熊岡は気分がよくて異常に高揚しているだけだと言って自室に戻った。村田さんがいたタクシー会社の車に乗ろうと配車室に架電した。電話越しでも横柄な人間だとわかる者が対応したが、村田に勝った瀬戸だと語気を強めると、見事に手のひらを返した。渋滞が予想されるが、二〇分前後で迎えに来ると話した。いい会社じゃないかとつぶやきながら、冷蔵庫を開け、景気づけのビールを飲んだ。五分もしないうちに熊岡がリビングに戻ってきた。二〇分で迎えに来ても客がいなければすぐ帰りかねないと思い、外に出た。軒先で待っていると、予定より早く車が到着した。運転手が降りてきて「頭上にご注意ください」と言ってドアを開けた。こんな対応は微塵も期待していなかったが、客を迎えに行った際はこのようなドアサービスをするのが丁寧な接客だ。
「村田さんの店までお願いします」
「村田? あいつは傷害で逮捕されたよ」
「じゃあ、彼が店長をやっていた店までお願いします」
 県警からは何も連絡がなかったから、喧嘩程度のことだろう。村田さんならやりかねないし、「薬剤師」として最近の交渉には不満があったので、気にすることなくタクシーを降りると入店した。平日の雨天ということもあり、今日も貸し切りだった。数回しか会ったことのないオーナーが村田さんの代わりに店を仕切っていた。そのオーナーに一声かけた。村田さんだけでなく、アヤカも卑猥なボーイも店を辞めたという。アヤカとの関係はこれで終わりだろう。どこでもどうぞと言うので、前回と同じボックス席にした。熊岡は入店してからずっとにやけていた。
「熊岡もオスなんだな。仙人かと思ってたぜ」
「何のことですか? こういう日常にこそ非日常を見出したんです」
 日常が厳密には非日常の連続だということは私にもわかる。熊岡はそれにしっかりとした哲学的裏付けに成功したのだと思った。接客が逆に邪魔だったので、VIPルームに移る旨をオーナーに伝えようとしたら、機先を制された。焼酎のキープボトルがテーブルに置かれ、美人ではないが愛嬌のある女性従業員二人が私と熊岡の横にそれぞれ着席した。もうこの店には用はないので女性は無視して熊岡の哲学をじっくりと聞こうと思った。私はシガリロを吹かしながら、女性らに「出前を頼むよ。君たちも好きなものを食べればいいよ」と言った。続けて、「店も好きなところを選びな。メニューを見て勝手に注文しちゃっていいから」と突き放すような口調で話しながら、視線は熊岡に向けていた。
「なあ、早くこの十九世紀の遺物に教えてくれよ」
 熊岡は依然としてにやけていた。不気味だった。私は女性二人に先に酒を作るよう求め、再度熊岡を見た。彼は私を見て微笑んだ。
「この世のすべてが、このありのままの世界が本質であり真理なんですよ。やっと気づけました。ただ受け入れるだけでよかったんです」
「おいおい……。そんな結論には猿でも到達できるんだよ。もったいぶらないで教えてくれ。哲学的裏付けがあるんだろ?」
 私は女性が水滴を拭こうとしているグラスを取って、酒を煽った。熊岡は何かのぼせていると思ったので、気付けのために酒を煽るよう勧めた。
「さっき話した通りです。それ以上のことを語ると真実とは遠ざかってしまいます」
 私は眉間を左手の親指と人差し指でぎゅっと挟んで湧出しようとする怒りを抑えようと努めた。熊岡は酒に手を付けていなかったので、彼のグラスを自分の手元に置くと、熊岡にストレートを出すよう女性に頼んだ。
「気付け薬だよ。とりあえず飲んで目を覚ましてくれ」
「正気ですよ。これ以上話すと本質や真理から遠ざかるだけです」
「それは僕の思想水準と大して変わらねえぞ! ほとんど一緒だ。諦めるなよ。もっと悩んで苦しめよ!」
 シガリロのケースを中指で叩きながら貧乏ゆすりをした。自分が宮川さんと同じことを言っていると気づいた。
「熊岡。どこかで間違ったんだ。達観したら成長しない! 僕も間違っていた。どんなことがあっても達観しちゃだめだ! ああでもない、こうでもないと不断の棄却をして悩み苦しみながら進むんだよ!」
「ありがとうございます。でも、瀬戸さんはそう言いながら何も変わらないと思います。私は満足しています。先に帰りますね」
 熊岡は立ち上がると、ストレートを飲み二万円を置いて去って行った。私は熊岡が月並みな結論に帰着してしまったのは自分のせいだと激しく後悔した。テーブルに手を付き、その上に突っ伏した。心臓が破裂せんとばかりに鼓動しているのが自分でもわかった。いちど落ち着こうと姿勢を正すと出前の配達員が立っていた。四八〇〇円だと言うので、五千円を渡し、釣りはいらないと追い払った。徒労感がひどかった。オーナーに会計を頼んだ。六千円だった。安すぎないかと訊ねたが、間違っていないという。礼を言って店を出た。
 外気に触れると冷静さを取り戻せた。無料案内所の若者はどうしているかと気になったので立ち寄った。
「久しぶり。少し体つきがよくなったね。ちゃんと眠れてる?」
「はい。心療内科に通うようになりました。それより、瀬戸さんが連れてた人、悪い噂しか聞かないですよ。この辺で薬を売ってるらしいです。ほとんどの店が出禁にしてます」
「そっか。ありがとう。僕も『薬剤師』を辞めようかね」
「瀬戸さんがいなくなったら困ります。みんな仕事辞めちゃいますよ」
 そんなことはないと言って大通りに出ると、タクシーを拾った。昨今の運転手には珍しくラジオを流していた。音量はかなり下げていたが、演歌のようだった。不思議と気持ちが落ち着いた。歓楽街はしょせん夜に華やぐ場所にすぎない。虚しいだけだということは随分前から知っていた。楽しいことなど本当は何もなかった。いい加減に見切りをつけるときだった。もうここには二度と来ないだろう。タクシーから降車する際、チップで二百円を運転手に渡した。コーヒーでも買ってくださいと言うと喜んでいた。自宅には明かりが灯っていた。熊岡と顔を合わすのは気まずかったが、思い切ってドアノブを回した。施錠されていた。やるせない気持ちでキーを差し込み家に入った。もう玄関の照明を付けなくてもわかった。熊岡は帰宅していない。彼の部屋のドアの隙間から光が漏れていた。消灯するのを忘れたのだろう。新聞記者であることにまったく矜持はないが、噂をそのまま信じるほど私はバカではない。真実はそのうち明るみになると気持ちを切り替え、自室に戻って入眠した。
 翌朝は熊岡と朝食をともにした。朝食といっても昼食を兼ねたものではあったが。焼き魚に味噌汁、たくあんに豆腐というシンプルなものだ。熊岡は大食いだったので、米は三合炊いた。二人で合掌して黙食した。こんな普通の食事は久しぶりだった。調理器具の技術進歩もあり、魚の焼き加減もちょうどよかった。味噌汁は赤味噌を使ったが、味噌は好みが別れるので自信がなかった。私は食後の合掌をした。すると、熊岡は炊飯器に残っていた米を味噌汁に投入した。くちゃくちゃ咀嚼音を発しながら食べる熊岡を見ながら、私は確認すべきことをいつ切り出そうかと悩んでいた。しばらくして、熊岡は箸を置き合掌した。
「熊岡、確認なんだが、森羅万象がすでに本質かつ真理であり、ありのまま受け入れるんだな? たとえどんなことがあっても、あがいたりしないんだな?」
「はい。すべてありのままに受け入れます」
「わかった。仕事は今まで通りやれるか?」
「問題ありません」
 私は仕事に取りかかろうと言うと、さっそく冷蔵庫からビールを取り出して自室に戻った。結局、自分は何も変わっていないのではないかと思ったが、今はやるべきことをやるしかない。ベッドに座ると宮川さんに架電した。
『おう、瀬戸。どうした?』
『市政は街ネタしかなくて。県のものを書いてもいいですか?』
『かまわねえよ。むしろ助かる。編集長からリポート記事を出すよう催促されて参ってたんだよ』
『了解です。ありがとうございます』
 ビールを半分ほど飲んで、ノートパソコンを開いた。県の経済動向、景気動向指数、鉱工業生産指数はすぐに書けそうだった。あとは告知記事を一本書きたかった。児童福祉週間の実施が簡単そうだった。ビールは一本でやめて、煙草かシガリロを吸いながら書けば、午後三時には出稿できそうだった。すべて資料を見て書けるので、いつものようにだらだらしそうになる誘惑を振り切って、パソコンに文字を打ち込んだ。その甲斐あってか、午後二時半に脱稿できた。あとは一時間ごとに一本ずつ小出しで出稿するだけだ。
ベッドに仰向けになり、紫煙の行方を追いかけているうちに、一気に出稿してしまおうという気になった。一時間ずつ小出しにしていては、うっかり寝てしてしまう可能性があった。たまには編集長に楽をさせてやってもいいだろう。書き上げた四本の記事に適当な仮見出しを付け出稿した。もう十分仕事はしたので、市政記者室に溜まっている投げ込みを取りに行くことにした。熊岡には部屋のドア越しで断ってから出発した。市役所のエントランスを通り、エレベーターのほうへ歩を進めた。幸い今日はエレベーターを待つ人が少なかった。一階にほぼ同時に降りてきたのが二ヶ所あったので、誰も乗らなかったほうに入って四階のボタンを押した。エレベーターは二階で止まった。入ってきたのは市長だった。無言を貫くのは少しおかしな気がしたので挨拶しようとしたら、市長が口を開いた。
「瀬戸記者ですよね? いつもいい記事を書いてもらって、ありがとうございます。実は私が朝に最初に見る新聞は瀬戸さんのとこなんですよ」
 嘘に決まっていた。だが、私は一礼して感謝を伝えた。四階に止まった。市長室も四階なので私はドアを押さえながら「お先にどうぞ」と手をエレベーターの外へ向けた。市長は「煙草を吸うので」と言って私に降りるよう促した。個人的に市長との関係は良好だったから、六階の喫煙所で選挙について何か話をぶつけてみようと思ったが、実りある回答は望めないことはわかっていたので、降りて記者室へ足を踏み出した。まだそれなりに歩く距離があるにも関わらず、若い記者たちの大声が飛び交っているようだった。いまどきの若者のバカさ加減に心底呆れた。乱痴気騒ぎもほどほどにしろと記者室のドアを蹴ってから入室した。私は入口で立ち尽くした。それは乱痴気騒ぎでも何でもなかった。各社の記者が電話で上司と思しき人間と必死の形相で連絡を取っていた。
「出馬です!」「出馬します!」「出馬! 出馬!」
私は記者室の熱気と若者たちの躍動を目の当たりにして退いた。肩に半開きのドアが当たった。地元有力紙の記者が、「瀬戸さん! 選挙戦です! 市長選!」と言いながら横切った。
 私は急いで投げ込み棚をチェックし、自社デスクに備えてある固定電話の受話器を持ち上げた。電話線が伸び切って本体が大きな音を立てて机から落ちた。編集部に架電しようとしたが、電話番号を覚えていなかった。スマホで会社の代表番号を調べようとしたところで、自分も興奮状態にあることを自覚した。着席し、一息ついて気分を落ち着かせた。スマホの電話帳をスクロールし、編集長に架電した。

       七

 宮川さんが隠れ家にしているバーに向かって歩いていた。編集長は宮川さんからの連絡を待てと指示した。記者室での興奮は治まり、逆に仕事を辞めたい気分になっていた。バーの扉を開け、カウンター席に腰かけた。まだ夕方の五時過ぎだったので、客は私だけだった。デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』が店内に流れていた。マスターは奥から出てくると、「もしかして、このアルバムをご存じで?」と確信しているような目で私を見た。
「はい。初期の名盤ですよね。ベルリン三部作も好きです。ここは何でも曲を流すんですか?」
「営業時間外だからですよ。宮川のためにこっそり日中も開けています」
 スマホで調べたら、この店の営業時間は午後八時から午前二時だった。無茶振りが過ぎると自覚しつつも、マスターに今の自分の心境に合ったカクテルをと注文した。すぐにスクリュードライバーが置かれた。なぜか瞳が潤んだ。小皿に盛られていたピーナッツとチョコレートを口に入れ、グラスに口を付けた。ジンが少し多めの前回来店時と変わらない味だった。マスターはにこやかな面持ちで私を見ていた。私は椅子に仰け反って天井を見ながら言った。
「マスターの言う通り、僕は宮川さんと似ているかもしれません」
 彼はしばらく黙っていたが、「だから言ったでしょう?」と声を出して笑った。私は迷信や宗教などは一切信じないが、人知を超えた自然現象はあり得ることなので、このマスターの存在は一種の超常現象なのだと論決して考えるのをやめた。熊岡に悩み苦しんで前進しろと言ったばかりだったが、私が変わることはないという熊岡の反論めいた指摘は早くも的中した。スマホが振動したので画面を見た。宮川さんからだった。
『よう、メモの準備をしろ。俺が小僧どもを脅して得た情報だ』
 私はカバンからメモ帳とボールペンを取り出して喚いた。
『そこまでしなくても、僕が地元有力紙を拝み倒して訊き出しましたよ!』
『落ち着け、冗談だよ。俺の独自取材源だ。安心しろ。名前はミシマナツコ。ミシマは三島由紀夫の三島。ナツコは春夏秋冬の夏に子供の子。短大卒で会社員。無所属。四十八歳。選挙期間中に年齢は変わらねえ。住所は城山西三丁目のオーギュスト一〇三号だ。電話には出ないから直接当たるしかねえぞ』
 私は席から立つと、メモ帳とボールペンをカバンに投げ込み、スマホを耳に当てたままレジのほうへ歩いた。
『一日中、家の前に張り付いてる必要はねえぞ。会社員だからな。朝はやめとけ。午後五時から午後十時までの五時間に絞れ。あと、他社も政策は訊けてない。門前払いみたいだ。何でもいいから訊き出せ』
『わかりました。ありがとうございます』
 十分すぎる情報だった。いつの間にか店内にはショパンの「別れの曲」が流れていた。フジコ・ヘミングの演奏だとすぐにわかった。レジでいくらですかと言おうとしたら、マスターに遮られた。
「支払いはけっこうですよ。宮川は勝負に出る時はフジコ・ヘミングの『別れの曲』を聴いていました。こればかりは私にもわかりません」
「ありがとうございます。また来ます」
 店の外に出ると小雨が降っていた。空を見上げ顔を濡らした。美しい旋律が頭の中で鳴り響いていた。マスターは知っていたはずだ。こんなにも激しく感情が燃え立つ曲はない。濡れた顔を手で拭うとカバンを地面に置き、両手を強く握った。こうした行為もナルシシズムではないかと自問自答して家路に就いた。
 帰宅すると、リビングのほうから大きないびきが聞こえた。くだらないテレビ番組をつけたまま熊岡が床で大の字になっていた。テーブルの上には一万円札が三枚、十錠一シートの眠剤が二シート置かれていた。そのすぐ横には電源が入ったままのノートパソコンが開かれていた。タッチパッドに触れると、画面が黒から切り替わった。「薬物売買疑いで新聞記者を逮捕」との仮見出しが付いた記事だった。私は熊岡の後頭部を軽く蹴った。
「自分で予定稿なんて書いてんじゃねえよ! まだ疑いすらかかってないぞ!」
 自室に戻るとジャケットとスラックスを脱いでベッドにもぐり込んだ。先生の「オーケストラのように大団円で結べ」との言葉を思い出した。学術論文はそれでいいのかもしれない。だが、人生に終わりはない。死んでも物質として世界のどこかに存在する。翻ってみると、熊岡の予定稿は悩み苦しんだすえに書かれたものかもしれなかった。ありのままを受け入れるというのならば、そんなものは書く必要がない。熊岡は絶対に立ち止まらない。安寧の場に精神を置き去りになんかしない。私は熊岡を信じると決めたはずだった。それだけは貫かなくてはならない。この「決意」が真理と異なる近似であったとしても、どうでもよかった。逡巡していたことが馬鹿らしくなったので、机の上に置いてあったミネラルウォーターで眠剤を飲み、さっさと眠ってしまった。
 夜が明け、リビングに行くと熊岡はしっかりと起きていた。ソファーに座り、パソコンに何かを打ち込んでいたので訊ねてみると市長選、市議選に対する有権者の反応をまとめているとのことだった。世代別に二、三人からコメントを取っているが、誰も選挙に興味がないらしい。私はそれを逆手に取ることを提案した。
「興味がないなら、そのまま全世代で関心が薄いってことでまとめたらどう?」
「名案ですね! それでまとめてみます」
「僕は三島候補の家に行ってくるよ。宮川さんの許可は取ってあるから、県政ネタでも書いて紙面を埋めてくれ。たぶん、編集長もそれを望んでる」
 熊岡は了解ですと答えると視線をパソコンに戻してバチバチとキーボードを打ち始めた。選挙報道で手が回らない時に援護射撃があれば嬉しいのだが、同報道で紙面が埋まると思い込んでいるのか他支局の記者は街ネタすらも出稿しなくなっていた。選挙が終わったら、本当に辞めるか山奥の通信部に異動しようと思った。
 家を出て車に乗るとカーナビに三島の住所を打ち込んだ。かつてタクシー運転手だったとはいえ、苦手な地域もある。城山周辺は苦手だった。とくに城山西地域はアパートやマンションが多く、物件名まで覚えることはできなかった。記憶が定かではないが、せいぜい五階か六階が最上階の物件しかなかったはずだ。シートベルトを締め、エンジンをかけるとカーナビが示すほうへと車を走らせた。
 目的地に到着したはいいが、カーナビが古いのか目の前には大きな駐車場が広がっていた。速度を落として走っていると、きれいな団地が見えた。降車して入口のプレートを確認すると県営住宅だった。スマホで「オーギュスト」と検索したが該当する物件はなかった。ただ、物件名から察するに比較的新しいアパートかマンションだと思われた。そのような物件はたいてい白か茶色と相場は決まっている。暗くならないうちに建物だけは特定しておく必要があった。
 時刻を確認すると午後二時を少し回っていた。若干の焦りを覚えたので、煙草で一服したのち、自販機でジュースを二本買った。長期戦になることも想定し、コーヒーも三本買った。コーヒーは小便が近くなるので避けたかったが、陽が落ちればどこかに隠れて放尿する気でいた。何とかなると信じたかったが、あまりに不安だったので抗不安薬を三錠服用した。すでに強い耐性が付いているので眠ってしまうことはあり得なかった。いちど県営住宅のものだと思われる広い駐車場に戻り、空いている場所に駐車した。スマホで再度確認したが、ここが城山西三丁目であることに間違いはなかった。座席のシートを倒して体を休めた。薬が徐々に効いてきた。スマホのマップで城山西三丁目が正確にはどこからどのあたりまでなのかを見極めた。かなり狭い地域だとわかった。徒歩でしらみつぶしにアパートとマンションを確認することにした。一件目は外れだった。二件目も外れだった。三件目でそれらしき物件を見つけた。茶色の建物の外壁に「OVEST」と黒字で明示されていた。しかしこれは「オーヴェスト」であって「オーギュスト」ではない。それから何件当たったかわからないが、「オーギュスト」という物件を見つけることはできなかった。時刻は午後四時四〇分になろうとしていた。
 駐車場に戻る途中で、もう一度「オーヴェスト」なる物件を確認しようと建物の一階に足を踏み入れた。集合ポストの「一〇三」には名前が書かれていなかった。そのまま前進して一〇三号室の前に立った。何の変哲もないドアだった。壁に名前を書くプレートがあったが無記名だった。ドアのポストに視線を落とすと、白い封筒が挟まっていた。部屋の中の人に気づかれないよう、慎重に封筒を抜き取った。送り先の氏名を素早く確かめた。「三島」に見えた。周囲を警戒して再度確認した。「三島夏子 様」と記載されていた。ゆっくりとポストに封筒を差し込んだ。部屋の中から物音がしたので足早にその場を去った。
 車内に戻ったが、居場所を突き止めた喜びより、住所を偽っていたことに怒った。また、正確な確認をしていない選管にも憤った。宮川さんの独自取材源は報道関係者ではなく、選管だと私は直感していた。一〇三号室から物音がしたので三島は在室だったとみてよい。「オーヴェスト」の駐車場を一見したら、白線の内側に部屋番号が記されていた。車は一台だけ駐車されていた。確認のためすぐに外へ出た。車の下を覗いた。スマホのライトを点けると、「一〇三」との標記をはっきり認めることができた。車に乗り、三島のアパートが目視できる場所に停車し、ハザードランプを点灯させた。編集長に架電し、三島の住まいを発見したこと、すでに家の中にいることを報告した。編集長は家にいるなら訪問してもよいのではないかと話した。
 私は腕章を巻くと、憤怒の念を抑えながら一〇三号室へ向かい、チャイムを鳴らした。ドアが開くと、乱れた赤茶髪に眼鏡の中年女性が顔を出した。部屋の中が今しがた引っ越してきたように荒れていた。暗い部屋に段ボールがいくつも転がっており、玄関先は書類やキャリーバッグ、洋服などが散乱していた。
「三島さん、政策はありますか? 何か政策を教えてください」
 三島は私の腕章を見るなり、急に険しい顔つきになり叫んだ。
「あなたたち、しつこすぎますよ! 早く帰って! 帰れ、帰れ!」
 対話は明らかに困難だったので、車に戻った。あんな人間に気を配る必要はない。グローブボックスからタール値の高い煙草を手に取ると、立て続けに三本吸った。何台かすれ違う対向車の運転手と目が合った。全員を睨みつけた。私もマスゴミは嫌いだ。だが、あの対応はひどすぎる。いったい彼女は何のために立候補したのだろうか。窓を開け、煙草を捨てると編集長に架電した。
『話になりません。あいつに報道の公平さを考慮する必要はありません。門前払いです。話になりません』
『んー、どうしようかなあ。じゃあ、「話すことは何もありません」って言わせてねー。絶対に言わせること。わかりましたかあ?』
『了解です。死んでも言わせます』
 切迫した事態だと決め込んでいたので、編集長の猫なで声を聞いて可笑しくなってしまった。まだ午後五時半だ。非常識な時間じゃない。降車して三島の部屋の前に着くと、ドアスコープから見えない位置でチャイムを鳴らした。一時間でも二時間でも鳴らしてやるつもりだったが、こっちも疲れるので五回鳴らして数秒待つという行為を五回繰り返した。出てくる気配がなかったので、車に戻って煙草を吸った。バッテリーが故障してはまずいため、エンジンをかけた。午後六時になったら、四時間ずっと鳴らし続ける気でいた。狂気には自信があった。どっちが狂っているか勝負だと心が躍っていた。カバンの中の抗不安薬を取り出すと、残り五錠しかなかった。もう家にもストックがなかったので、これが最後のシートだった。コーヒーで五錠を一気に飲み込んだ。これではせいぜい一時間が効力の限界だろうと思いながら勝負の時刻を待った。
 徐々に空が暗くなっていった。周囲に目をやるとアパートやマンションの部屋に明かりが灯り始めていた。矛盾しているようだが、狂気を維持するためには正気を維持し続けねばならない。勝負の時刻になったものの、まだ薬が十分に効いていなかった。近隣住民への迷惑は百も承知でエンジンの空吹かしをした。かなり気分が楽になったので、時刻を確認した。午後六時半だった。シガリロを吹かしながら一〇三号室に向かった。逃げも隠れもしない。ドアスコープの正面に立ち、シガリロを踏み潰した。チャイムを荒っぽく連続で押した。長期戦が予想されたので、気まぐれに鳴らし続けることにした。ドアが開かれた。わずか数分だった。部屋は真っ暗で三島の顔はほとんど見えなかった。
「一人暮らしの女性の部屋に夜遅く何度も来るなんて怖いです! 助けて! 誰か助けてください!」
「三島さん、ご迷惑をかけました。私たちに話すことは何もありませんか?」
 三島は叫び続けた。
「変な人が部屋に来てます! 助けて! 助けて!」
「わかりました。では、話すことは何もありませんね?」
「早く帰ってください! 話すことは何もありません!」
私は謝罪して一礼すると建物から離れ、編集長に架電した。
「コメント取れました。『話すことは何もありません』と言っていました」
「了解。おつかれー。ゆっくり休んでねー」
 車に乗り込むと、近くに所在する駐車場の広いコンビニへ向かった。店舗から遠い場所に駐車した。後部座席に移り、横になった。勝負はあっさり終わったが、体がだるかった。三島がすぐ折れたのはマスゴミから執拗に受けた連日訪問の蓄積かもしれなかった。他社のゴミ連中に初めて感謝の念を抱いた。

       八

 三期目の市長当選を目指す候補者の出陣式を前に、私は集まった支援者らの人数を数えていた。陣営の選挙対策本部は報道陣に対してかなり盛った人数を発表する。地元有力紙なぞは御用新聞みたいなものだから、そのまま記載する。数取器を使用し、念を入れて確認した。約五五〇人といったところだった。出陣式が始まる十分前になったので、脚立を持って人だかりの後方に陣取った。残り時間で駆け込んでくる人も含めると約五八〇人といったところだろう。編集長が本記を書くと言って張り切っていたので譲った。私は全景や候補者と支援者の握手写真の撮影など簡単なサポートをするだけだった。この群衆のどこかに編集長がいるはずだ。しばらくして、候補者の選挙カーが到着した。予想はしていたが、ワンボックスカーだった。センスのなさにがっかりした。私なら二トントラックか四トントラック、もしくはマイクロバスを使うだろう。なぜなら拡声器は遠くに音を飛ばすものなのだから、低い場所に設置していては効力を最大限に発揮できない。そもそも政治家というバカどもは細い路地には入らず、大通りばかり走るから大型トラックや大型バスでもいいくらいだ。
 そのバカの一人である応援弁士が喋り出した。やかましいので、イヤホンをして音楽を聴こうとしたら、何かが光った気がした。セミロングで黒髪の女性が写真を撮っていた。応援弁士で試し撮りをしたのだろう。こんなことをするのは我が社の編集長に違いなかった。
女性は撮影を終えると、少し離れた場所でノートを広げ、ペンを走らせていた。私は脚立に上がり、望遠レンズで女性を見た。編集長だった。フラットパンプスにグレーのパンツ、淡いブルーのブラウスに濃紺のジャケット。いかにもマスゴミという出で立ちだった。私は脚立に座り、イヤホンを耳に突っ込むと、鼓膜がやぶれるほどうるさいデスメタルを聴いた。応援弁士の話が終わっても、候補者の訴えが長々と続く。ガンバローコールまで二〇分あった。デスメタルを聴いているうち、胃腸に影響したのか便意を感じた。運よく目の前に公衆トイレがあった。多目的トイレがなかったので、男子便所に駆け込み、扉を閉めた。便座に座り肛門の心地よさを感じていると「瀬戸」と誰かが呼んだ。
「俺だ。宮川だ。選挙戦が始まると暇でな。見に来ちまった。熊岡は自宅待機中だ」
私は、「先日の情報提供ありがとうございました」と汚い床に向かって頭を下げた。宮川さんは、「頑張ったな。またな」と言い残すと、トイレから出て行ったのか足音が遠ざかっていった。
式場に戻ると支援者がそわそわしていた。カメラを覗くと候補者や応援弁士らが横一列に並んでいた。候補者の近くでは編集長がカメラを構えているはずだ。広角レンズに切り替え、大勢の支援者がレンズ内に納まるよう調整した。どうせガンバロー写真は使うことはないだろうからスマホでもよかったが、シャッタースピードが遅いので、一斉にこぶしを突き上げる瞬間を撮ることはできない。司会が全員に構えるよう促した。私は脇をぎゅっと締めた。
「ガンバロー! ガンバロー! ガンバロー!」
連射して撮った写真を確認した。上出来だった。その後、私は候補者が支援者と握手する写真を何枚か撮った。こちらは完璧だった。脚立に腰かけ、編集長が声をかけてくるのを待った。候補者の選挙カーが出発したあと、ゆっくりと編集長が近づいてきた。
「おはよう、瀬戸くん。疲れた?」
「疲れたよ。世界の果てまで疲れた」
「じゃあ、熊岡くんと一緒に自宅待機しといて。市長選は私がやるから」
「わかった。支援者らは約五八〇人。欲しい写真があれば連絡して」
 カメラを肩にかけ、脚立を持って家路に就こうとした。編集長が何か言った気がした。振り返って耳に手を当て、聞こえないというジェスチャーをした。
「たまには右手も使わないと退化するよ!」
 私は右手で大きく手を振り、そのまま帰ろうとした。が、立ち止まって、右肩にカメラをかけ、右手で脚立を持って歩いた。違和感しかなかった。編集長が後ろからずっと見ている気がしたので、身を隠せる建物まで歩いてから左半身の所定の位置にカメラと脚立を戻した。
 帰宅すると、キッチンのほうから鼻歌まじりで何かを炒める音が聞こえた。自室で部屋着に着替えながら、熊岡のペニスのから揚げだったら面白いと期待してキッチンを覗いた。熊岡が炒めているのは、肉のようだった。焼き上がりを待つ間に、ビールを飲み、フライパンに触れ、煙草を吸っていた。私は思わず、「千手観音かよ!」とツッコミを入れた。熊岡は「千手観音の手は四十二本ですよ。私では到底及びません」と淡々と応じた。その後ろ姿からは、一人暮らしをしていた時分はこのような調理をしていたことが容易に想像できた。リビングで待っていてほしいと言うので、私は煙草を重ねて立方体を作ろうと遊び始めた。マジシャン以外には無理だと悟って諦め、ビールを飲んだ。
数分後、熊岡は二つ皿を持って、お待たせしましたとリビングに足音を響かせた。皿の上には焦げた豚肉が乗っていた。熊岡は合掌するなり、「うん、うまい」と顔をほころばせた。得意げな顔に腹が立った。私も合掌したのち、肉に食いついた。早朝から何も食べていなかったので、豚のメシみたいなものでも美味しく感じた。感想をそのまま熊岡に伝えた。
「ひどいですね。豚のメシに豚肉はおかしくないですか? それに豚には贅沢すぎますよ」
その後、酒と煙草をやりながら、熊岡はフランス現代思想について延々と話し続けた。私はリビングに充満した紫煙で目が痛くなった。さすがに付き合っていられなくなって、トイレに行くふりをして眠剤を飲んだ。酒が入っていたので、話の続きを聞いているうち、眠ってしまった。
 目を覚ましてスマホで時刻を確認すると午前八時を回っていた。今日の朝刊だけは目を通しておこうと玄関のポストに向かった。リビングの床に熊岡が全裸で寝ている姿が視界に入った。そのまま玄関に行き、自社の新聞と地元有力紙を持ってリビングのソファーに座った。地元有力紙を先に開いた。市長選の欄を見ると、再選を目指す立候補者の動向について詳細に書かれていた。出陣式には約九〇〇人もいたらしい。支援者の声も載っていた。対して三島についてはほぼ白紙。政策は「なし」とあった。これは世論誘導だろうと憤慨して放り投げた。我が社の新聞は開くまでもなく、市長選、市議選が一面を飾っていた。市長選の記事は短いものだった。再選を目指す立候補者のほうは出陣式に集まった支援者らの人数も書かれていなかった。政策だけは箇条書きでいくつか書かれていた。三島の記事はほとんど内容がなかったが、政策は『本紙の取材に対して「話すことは何もありません」と語った』と書かれていた。両者とも顔写真は醜い面構えだったが、三島のほうが少し印象がよかった。選挙報道は終わったに等しかった。六日後の開票日の結果は、市長選に限れば現職の再選で確実だった。目を閉じ、溜め息をつきながら、小刻みにうなずいた。
 熊岡を起こそうと後頭部を蹴った。深酒したか眠剤を飲んだかは知らない。全裸で寝ても構わないが、風邪を引いてうつされては困る。今度は強く頭を蹴ろうとシュートモーションに入った。
「起きてます! 起きてますよ!」
「うちの新聞見てみろよ。マスゴミの鑑だぜ」
「自宅待機中ですし、余計なノイズは思考に悪影響なので、遠慮します」
 全裸でもいいから起きてくれと言うと、熊岡は額に手を当てながら起き上がった。苦悶の表情を浮かべていたため、頭痛がひどいと判断した。ムニャムニャと何か話したような気がした。彼の口元に耳を寄せた。私が寝たあと、プラトンかアリストテレスかわからないが、全集を全巻購入したらしい。両者とも古本でせいぜい二万円くらいだろう。研究者ならこれくらいは安い買い物だ。鎮痛剤と胃薬を熊岡に渡した。
「かなり強力な鎮痛剤だから、胃薬と一緒に飲んでくれ。服用前に何か食べることを忘れるなよ」
 熊岡に薬を調剤したのは初めてだった。もういちど熊岡を見た。床に転がって顔を歪ませていた。私が頭を蹴ったせいかと思ったが、そうではなさそうだった。冷蔵庫を開けるとビールばかりで食べ物がほとんどなかった。一旦、ビールを全部外に出して中を確認した。茹でる必要のないそうめんが二袋あった。消費期限は問題なかった。キッチンに行き、鍋の中に麺を袋から揺さぶり落とすと、水を張りながら手でぐしゃぐしゃと麺を洗った。洗い終えた水を流すと麺が数本こぼれ落ちた。そのまま鍋に二倍濃縮のめんつゆをドバドバと入れると、茶碗に水道水を入れた。左手に鍋、右手に茶碗を持って熊岡に声をかけた。
「これを食って薬を飲めばすぐに楽になる。つゆが辛いと思ったら、茶碗の水で薄めてくれ」
 熊岡は弱弱しく手を挙げた。了としたという旨の合図だと思った。自室からマンハイムの『イデオロギーとユートピア』を取ってきてリビングの床に胡坐をかいた。シガリロを吸いながらページをめくった。まったく頭に入ってこなかった。前屈みで読んでいたから、腰が痛くなった。ソファーに移動してシガリロを二本吸った。突然、熊岡が立ち上がった。そのまま動かないので、「またソクラテスの魂でも乗り移ったか?」とからかった。熊岡は私の横に座ると、「かなりよくなりました。さすがは『薬剤師』さんですね」となぜか揚々とした表情だった。まあなと言って、視線を本に戻すと熊岡が片手で表紙を持ち上げた。
「ようやく二十世紀のドイツまで進歩しましたか」
「マンハイムは亡命知識人だからな。いろいろ苦労した熊岡に合ってるんじゃないか?」
「ポストモダン的な一面がありますよね。いいかもしれませんね」
「自宅待機中は何をすればいいんだ? そもそも何のために待機させているんだ?」
 熊岡は聞こえていないようだった。私のシガリロを数本もてあそんでから、少しずつ煙を吐き始めた。
「いつだったか瀬戸さんが言ってくれた、不断の棄却とともに懊悩して進めって言葉、実は嬉しかったりするんです。あんな真剣な目で見つめられたら……」
 熊岡はラブコメアニメに登場する女子のようにもじもじしていた。真剣ではあったが見つめた覚えはない。熊岡の性自認はストレートだと思っていた。もしかしたら、違うのかもしれない。頭を蹴ったことで性自認が変化した可能性もあるが、すでに遅い。熊岡のほうへ体の向きを変え、黙礼した。脇腹に感触がしたので、目を開けると勃起した熊岡のペニスが当たっていた。性自認が変化した可能性など気にもせず前進し始めたのだなと感心した。ぐいぐいとペニスを押し付けるので、たまらなくなってシガリロを咥え平静を装った。
「こういうのも悪くないですね。なかなか気持ちがいい」
「うん。これは初体験だ。ところで熊岡……」
 私は部屋着を脱ぎ、全裸になって切り出した。
「短いサバティカルだと思って哲学思想について、いろいろ考えてみないか?」
熊岡は、いいですねと言って笑った。私も笑った。物事の本質や真理は認識可能かもしれないし、不可能かもしれない。だが、人生は「なるようになる」。味気ない人生だったとしても、それは「なるようになった」結果だ。殺されようが不治の病に罹患しようが孤独死しようが「なるようになった」結果に相違ない。この世のすべての事象に該当する科学的な思想だ。熊岡に話せばポパーを引き出して反証可能性がないと否定するだろうから、黙っているつもりだ。
 どうせ「なるようになる」のであれば、自宅待機なんてしていられない。だらだら過ごすのもいいが、やりたいことを思いつくまま好きにやってもいいのではないか。カラオケ店でも二度と来ないと断じた歓楽街でもいい。今日は熊岡と一緒に軍歌を絶唱したいと思った。(了)