やさしい遭難



 若年の同志たちが一人の大学生に完膚なきほど論破されたらしい。我が党の主義主張から政策まで追及され、反論の余地がなかったという。そういう頭でっかちな小僧は正面からぶつかっても心を動かすことはできない。政治談議などもってのほかだ。私は今年で三十八歳だ。若者同士でうまくやれないのが理解できない。ただ相手と楽しく話せばいいだけだ。なぜ中年の私が十数歳も離れた鼻垂れ小僧の入党工作をしなければいけないのか。ドリンクホルダーから缶ビールを手に取り、一気に飲み干すと車のアクセルを思い切り踏んだ。
 大学の来客用駐車場に車を止め、待ち合わせ場所の本部棟ロビーへ歩を進めた。自動ドアが開く。講義中なのか学生は誰もいなかった。少し早く着いてしまったので、ロビーチェアに腰かけた。作業着の胸ポケットからウィスキーの小瓶を取り出し、チビチビと飲んだ。
蒸留酒というのは不思議なもので、酔いがすぐには顕在化しない。個人差はあるだろうが、私は約四〇分後に効いてくる。それまでの時間は、いっさい風の吹かない漁港にいるかのようだ。いまの私は明晰なはずだが、どうしてもこれから会う鼻垂れ小僧の名前が思い出せない。出かける前に同志らに何度も言われたはずだった。ロビーチェアに横になり、思考の限りを尽くしたがだめだった。先に飲んだビールのせいかもしれない。あきらめて天井を見つめていたら自動ドアの開く音がした。勝手に向こうが自己紹介するだろうと思って立ち上がった。
「もしかして、国民社会党の水野さんですか?」
 目の前にいたのは、ひどい寝癖すらもおしゃれに見える高身長の美男子だった。本当にこれが鼻垂れ小僧なのかと半信半疑に陥った。
「あ、ああ、そうです。水野です。まあ、座ってください」
 私はアイドルの生写真を入れておくフォトアルバムから名刺を抜いて彼に手渡した。
「島根県支部の県委員で、『国民社会』の記者さんですかあ……」
 彼は、我が党の機構や組織については承知済みの様子で、名刺の端をペラッと弾いては退屈そうにしていた。県委員は全県の役員を指し、二〇人で構成されている。党本部の方針を島根でどう具体化していくか検討したり、党員五人から成る「班」を指導する。『国民社会』は我らが日本国民社会党の機関紙だ。週刊のタブロイド紙でページ数は多いほうだ。が、島根には県議が一人いるだけで党員も少ないので記事が載るのは難しい。ありていに言えば、何もやることがない。
「君は酒は飲めるかい? おっさんと間接キスしてもよければだけど」
 鼻垂れ小僧に小瓶を差し出すと、彼はぐびぐびと喉に流し込んだ。よく目立つ喉仏が上下に動いていた。随分飲むので途中で制止した。
「いまはいいけど、時間が経ったらいきなりガクッと効いてくるよ」
「はい。私はだいたい一時間後に効き出します。場所を変えませんか? 私の家でもいいですか?」
「いいよ。僕の車に乗りなよ」
 そう言ったとたん、体が少しよろめいた。年齢を重ねるにつれ、明晰時間が短くなっていることは自覚していた。が、予想以上の早さで酔いが顕在化したので、ロビーチェアに再び着席した。
「代わりに私が運転しますよ。まだシラフですし」
「じゃあ、お願いするわ。ちなみに松江市内だよね?」
「もちろんですよ。ふだんは自転車通学です」
 鼻垂れ小僧の家には五分もたたずに到着した。平屋が二棟、それぞれ四軒あった。彼の家は狭い道路に面した一棟目の右端だった。道路と家屋の間の狭隘なスペースに車を止める必要があり、彼は左バンパーを建物にぶつけた。ガリガリガリという音がしたが、走行可能なら問題ない。しかも、彼はシラフだ。いまの私なら何度もぶつけたかもしれない。築造年数不明のボロ屋で、臭突パイプが立っていた。汲み取り式とはいえ、トイレがあるだけマシだと思った。
 家のなかに案内されたが、すぐに帰りたくなった。六畳一間にトイレがあるだけ。室内は、謎の綿や丸めたトイレットペーパー、書籍、酒の空き缶で埋め尽くされており、足の踏み場がなかった。洋服はカーテンレールに引っかけてあるヨレヨレのスーツだけだった。エアコン、扇風機、ストーブはなく、夏と冬は苦労しそうな部屋だ。ついさっきまで抱いていた清潔な快男児という印象は一瞬で吹き飛んだ。高身長の美男子というだけで、好印象な先入観を見る者に与えるというのは、ある種の特殊能力かもしれない。畳を掃除している彼を見たら、赤チェックシャツにジーンズ姿でダサかった。もっとも、政党職員にもかかわらず、作業着を身に着けている私が言えた立場ではないが――。
「味のある部屋だね。坂口安吾よりイケてるよ」
「ありがとうございます。できれば円卓がほしいですね」
「冷暖房器具がないけど、夏と冬はどう暮らしてるの?」
 彼は掃除の手を止めると、来てくださいと言って外に連れ出した。隣のガラス引き戸を開けた。増築したのか、もとからこうなのか判断できなかったが、倉庫のようだった。洗濯機と冷蔵庫があった。洗濯物はいくつか置いてある古い食卓椅子にかけて干してあったが、下着ばかりだった。
「えっと、風呂はないの?」
「そこに洗面台がありますよね。たらいに水を張って体を拭くんです。温水はないので、冬でも冷水です。私は基礎代謝が高いので寒くないんですよ」
 日本国憲法第二十五条第一項の条文が脳裏をかすめた。が、本人が満足しているのならばそれでいいだろう。倉庫から出て部屋に戻った。私が一人座れるだけの空間は掃除されていた。そこに腰を下ろすと、彼が焼き肉をすると言うので驚いた。ホットプレートはあるらしい。仰天続きで完全に酒が抜けていた。落ち着きを取り戻そうと、抗不安薬を舌下摂取した。
 肉は豚だと思われるが、紫に変色していた。ホットプレートを点けている間、蛍光灯が何度かチカチカしたが、彼は気にしていないようだった。
「御党の綱領は読みましたよ。天皇親政、皇軍復活みたいな極右まがいのこと謳ってますけど、本音は象徴天皇制の維持と憲法九条護憲、自衛軍保持ですよね?」
「まあ、そうだね。本気で天皇親政なんて考えてないよ。いまの政権与党は嫌だけど仕方なく票を入れている、そういう不満の声に応えたいって感じかな」
 彼が極左と極右をよく思っていないことは事前情報で知っていた。漸進的に社会をよくしていこうという立場のようだ。それは我が党も同じだ。
「どこかの政党に所属するというのは、どうも抵抗があって。先日の若い党員さんたちには謝りたいです。国民社会党はいいと思いますよ」
「そりゃどうも。正直、僕は日本がどうなろうと知ったこっちゃないがね。仕事と割り切って党職員をやってるだけだよ。投票も行かないし」
鼻垂れ小僧は、煙草を咥えながら肉の焼き加減を確認すると、転がっていた一升瓶をラッパ飲みした。肉はなかなか焼けなかった。そのうち、肉の焼ける煙と紫煙で部屋が真っ白になった。目が痛くなったので、彼に断らずに窓と玄関のドアを開けた。室温が高くなりすぎていたのか、春の外気がとても寒く感じた。
「すみません。換気してもらって」
「一宿一飯の恩義ってやつだね」
「泊ってくれるんですか? ありがとうございます!」
 口が滑ってしまっただけだった。溜め息をついて額に手を当て俯いた。乱雑に重ねられた書籍にまぎれて新聞の切り抜きを見つけた。松江市を拠点に活動しているローカルアイドルの記事だった。私も二〇代の時分はアイドルを熱心に追っかけていたので、彼もそういう年ごろなのだろうと思って放り投げた。
「あっ! それ! あったんだ。よかった」
「ん? ローカルアイドルの記事?」
「昨日、切り抜いて体洗ってるうちに忘れてたんですよ」
「そりゃ、見つかってよかった。それより肉……」
 肉は焦げていたが、そのほうが私の好みだ。とはいえ、腐っている可能性があるから、よく火を通したほうがいい。醤油で味付けしたから、そのまま食べてほしいと彼は言った。割箸は用意したが、皿は用意しない無神経さに、むしろ好感度が高まった。肉を一片ホットプレートからつまんで口に入れた。うまかった。肉は豚だった。顔を上げて彼の顔を見たら得意げな表情だったので腹が立った。自分で食べて「うん、うまい」と言うので、どんどん頭に血が上った。仕方なく抗不安薬を足元に転がっていた缶ビールで飲んだ。
 鼻垂れ小僧は、切り抜きに紫煙を吹き付け、「汚れていくね」と意味のわからない恍惚の笑みを浮かべていた。かつてアイドルヲタクだった血が騒ぎ、「誰を推してるの?」と訊いてしまった。
「右から二番目の子ですよ! サコリョウカちゃん!」
 わからないとあしらって肉を食べていたら、どこに隠してあったのか、チェキ帳アルバムを開いて私の眼前に突き付けてきた。とてつもなく保存状態がよかった。チェキには「石塚勇行 様」と書かれていた。やっと鼻垂れ小僧の名前を思い出した。党の面々からは「石塚さん」としか聞いていなかったので「勇行」の読み方がわからなかったが、いま知る必要はないと思い、訊かなかった。
チェキにはハートマークやら、見ているこっちが恥ずかしくなる文言が書かれていた。「サコリョウカ」は、漢字では「佐古涼夏」だった。どこかで見たような気がするが、中年からすれば少女はみな同じ顔だ。肩まである黒髪ストレートヘアの前髪は右にしっかりと固められている。鼻筋がきれいで切れ長の目が和風美人という感じを受けるが、おっさんには数多のアイドルとほとんど区別がつかない。が、笑顔は目に光が入っていて魅力的だった。
「かわいいですよね。水野さんが涼夏ちゃんの推しになったら入党します!」
「興味ない。で、君も入党しなくていい」
 睡眠導入剤をビールで服用した。邪魔な物を雑に片づけて横になった。酒のおかげで薬の作用が増長してきた。石塚が何か言い続けている。悪い男ではなかった。だが、いまの彼には我が党よりも佐古のほうが必要な存在だろう。

     二

 党本部の決定を支部長の県議が読み上げ、県委員らは配布された資料を真剣に見ている。本部の言いたいことは党員と支持者を増やせ、機関紙読者を拡大しろ、この二点に尽きる。毎度、異なる文章で決定を出してくるが、冗長な情勢分析と今後の方針に辟易していた。どの党にも該当することだが、つまるところ、党勢を拡大しろということだ。とくに若者は党の宝で増員しなければ解党まったなしだ。本心は党の高齢化や世代交代など、どうでもいい。抗不安薬をミネラルウォーターで飲み、夢心地で二時間の会議を乗り切った。
 資料を適当にたたんでカバンに突っ込もうとしていたら、誰かが私の前で足を止めた。顔を上げると梅本さんが立っていた。還暦を過ぎているが、専業農家なので堂々たる体格で若々しい。
「水野さん、今日は温泉どがな?」
「いいですよ。リフレッシュしたいですし」
「じゃあ、あとでうちに来んさいや」
 梅本さんは県西部から四〇年ほど前に松江に移住してきたらしいが、いまだに石見弁が抜けていなかった。温泉街で有名な玉湯町に居を構えている。彼が「あとで」という際は、決まって夕方を意味していた。それまでは何らかの用事で奔走している。まだ午後三時だったが、やることがなかったので梅本宅に向かうことにした。党県支部から県道を通って約十五分で到着する。温泉で酒は多少なりとも抜けるので、ウィスキーの小瓶を半分ほど飲んだ。今日は万全の状態だから四〇分間は明晰でシラフだ。発車してしばらく走っているうち、一時停止を無視して脇道から私の前に割り込んできた車がいた。道路交通法を守らないドライバー、マナーの悪いドライバーに私は厳しい。走行しながらクラクションを十八回鳴らした。
 信号が赤になった。私はクラクションを鳴らし続けた。ドライバーが降車してきたら老若男女、ゴロツキ、反社会的勢力を問わず殺すつもりだ。車は便利だが凶器であることを運転者はもっと自覚すべきだ。グローブボックスから理容師が使うプロ仕様の剃刀を掴み取って降車してくるのを待った。剃刀のほかにはシェービングジェルも入れてある。ふだんから車内で髭剃りをしていると主張するための警察対策だ。
早く降りてこいと殺気立っていたら、信号が青になった。意気消沈して前の車が遠ざかっていくのを眺めていた。後ろからクラクションが聞こえたので、我に返り発進した。こんどはクラクションを鳴らしたであろう後ろの車に怒りが湧出してきたので、煙草に火を付け、窓を全開にした。腕を外に出して煙草の灰を落とす仕草を繰り返した。たいていの車は、これをされると私の車から少し離れて走るようになる。この技術は煽り運転にも有効だ。まれに通用しないドライバーもいるが、そういうときはトンネルに入った瞬間に吸い殻を後ろに放り投げる。後続の車がトンネル内で無灯火の場合も同様の処置をする。これくらいしなければ日本を変えるどころか政権交代すらできない。
 憤懣やるかたなく、梅本さんの自宅に到着した。自宅といっても農家なので敷地が広い。中央に乗用車が三〇台は駐車できるほどの広場があり、北は党の班会議に使われるプレハブ小屋、南に田畑、西にブドウのビニールハウス、東に大きな日本家屋が建っている。
 中央の広場に車を止めると、鎖でつながれたメスのヤギが近づいてきた。パーちゃんだ。頭がクルクルパーだから命名したと梅本さんが言っていた。いちど相撲をとったが、凄まじい力だった。オスも一匹いるが、危険なのでブドウハウスの奥に生えている大木に繋がれている。私の実家も昔はヤギを飼っていて、父はヤギの乳で育ち、死んだら肉を食べていたと聞く。味のことは訊かなかったが、パーちゃんよりは美味しいだろう。降車してパーちゃんに石を投げていたら梅本さんが叫んでいる気がした。発生源と思しきブドウハウスに目をやった。
「……さーん。水野さーん! こっち来んさいや!」
 ハウスの前で梅本さんが大きく手を振っていた。私が果物嫌いだということは知っているはずだ。面倒だったが、梅本さんは嬉しそうに手招きするとハウスのなかを案内した。ハウス内は毛細血管のようなブドウの枝が所狭しと伸びていた。「すごいですね」と出まかせを喋った。梅本さんは「すごいけえ」と返事した。もう十分だと思い、茶色に変色した中瓶のビールケースに座った。
「これ、これ見てみんさい。すごいで」
 もういい加減にしてほしかった。早くパーちゃんに石を投げたかった。
「すごいで。これらも生きとるけえ」
 パチンパチンと音がしたので、興味があるかのように装って彼のもとに近づいた。
「一つの枝に一つのブドウしか出せんけえなあ。栄養がいるけえ、いいブドウを作ろうと思ったら、ほかのは切らんといけんけ。それが難しいんよ。うーん、これ切るか」
 大変な作業だと素直に感心したが、すぐに平常心に戻った。ウィスキーを飲んで梅本さんにも勧めたが断られた。
「ワシはもうやめたけ。それより、これ見んさいや。生きとるで。これら本当にすごいわ。しっかり生きとる」
 枝の末端が切られていた。じわじわと水が出てきて小さな水滴がポタッと落ちた。しばらく見ていたら、またポタッと落ちた。
「すごいけ? そう思わんさらん?」
「すごい生命力だと思います」
 その後は剪定を手伝わされた。素人では何を残すべきかわからない。梅本さんのブドウは地域で評判がいいらしいが、私は無差別に切っていった。ブドウも生きているという旨の言葉に何か大きな意味を読み取って、やや感動していたが、チョキチョキとやっているうちにその心も冷めてしまった。
「暗くなってきたけえ、風呂行こうや」
 やっとその言葉が出たかと自然に笑みがこぼれた。梅本さんの車で一緒に行くことにした。
 玉湯町の温泉街は出雲大社の参拝者や松江城に行った人などでいつも多い。が、私たちが利用するのは温泉街から少し離れた場所にある。梅本さんは駐車場に車を止めると、「あんた、あがに酒ばっか飲んどったら風呂で干からびるで」と笑った。余計なお世話だったが、私も笑い返した。
 脱衣所での梅本さんの着替えは早い。いつだったか、横目で生殖器を見たが立派なものだった。大地の力が影響しているのだろうか。まだ奥さんと夜の営みをしているかもしれない。とても訊けることではないが、長年にわたって抗不安薬を服用してきた私にとっては実に羨ましかった。私は副作用で十数年も勃起不全で不感症。いまとなっては性欲すら無きに等しくなっていたので、不要な生殖器はちょん切りたかった。生まれた時代と国を間違えた。宦官になっていたら、もっといい暮らしができたに違いない。
 浴室に入り、体を洗って湯船に浸かった。梅本さんはまだ体を洗っている。彼は入浴後も体を洗う。湯の成分が流れてもったいないが、数年前にここで脱糞した地域の変わり者がいたらしい。以来、湯船から上がってからも体を洗うようになったそうだ。
 梅本さんが遅いので、少しでも温泉の成分を吸収しようと湯煙を吸い込んだ。そのうち、湯口の近くが成分濃度が高いかもしれないと閃いた。そちらに移動し、あくびをするように大量に吸い込んだ。
「やれんのう。水野さん、トンチンカンなこと好きだけえなあ」
「湯煙からも成分補給してるんですよ」
「そがなことが本当だったら、ワシまだピチピチよ」
 湯口で小便を済ますと、梅本さんの向かいに移動した。ふだん浴室で他人の生殖器を見る習慣はなかったが、高齢者のそれがどのようなものか興味がわいたので、入室してきた高齢者のそれを見た。なかなかのものだった。玉湯町の男性はみな巨根なのだろうか。入浴後の状態もどうなのか気になった。
「昨日は、えげな人に会ったらしいですね」
「優秀な学生だと思いますが、わかりません。数だけ増やせというなら強引に入党させますけど。推薦人がもう一人必要なので頼めますか?」
「ワシも会ってみらんとわからんけえ。こんど家に連れて来んさいや」
 私は再び小便をして放屁すると湯から上がった。軽くタオルで湯を拭き取り、脱衣所に入った。混雑していたので、さっさと着替えを済ませ、待合室の自販機でポカリスエットを買った。体が熱かったので作業着を脱ぎ、肌着で梅本さんを待った。梅本さんは顔が広いから、脱衣所で地域の人たちと歓談しているのかもしれない。十五分後に梅本さんは姿を現した。
「ごめーん。でも、新聞を二部増やしたで」
「マジすか!」
 母なる大地の恩恵なのか、神々の国の恩恵なのかはわからない。おそらく梅本さんの人徳だろう。車に乗ると梅本さんは「ええ湯だったわ」と三〇回くらい繰り返した。私は心のなかで三億回は繰り返した。毎日通えば、単純計算で一〇〇日で二〇〇部新聞が増えると言おうとしたがやめた。そんな単純なものではない。なぜなら、定期購読が半強制である身分の私ですら購読中止にしているのだから。
 梅本宅に着くと、夕食を食べていけと誘われたが断った。とにかくパーちゃんに石を投げたかった。梅本さんは「またねー」と言って自宅に入った。徹底的にパーちゃんを懲らしめるチャンスだと思ったが、小屋のなかにいるのか鳴き声も物音も聞こえなかった。パーちゃんに恨みはないが、彼女を苦しめるのが私の唯一の生きがいだ。埒が明かないので車に乗った。そのうち出てくるだろうとシートを倒すとスマホが鳴った。画面を見ると、石塚からのラインだった。名刺を渡したことを後悔した。
『この動画を観て涼夏ちゃんについて勉強してください』
 メッセージにはユーチューブのリンクが添付されていた。パーちゃんが現れるまでの暇つぶしに動画を観た。手ブレがひどく、石塚が撮影したものと思われた。場所はイベント会場としてよく使用される旧日銀松江支店だろう。石塚は真面目なのか、冒頭のグループ挨拶から撮っていた。グループ名は「ピュアネプシオーン」というようだ。「シジミ女子」「宍道湖娘」など、もっとダサいものを想定していた。画面に映っている限りではメンバーは六人。これから一人ずつ自己紹介していくのだろうが、佐古が最初とは限らない。観るのが面倒になった。シートを戻しエンジンをかけると家路に就いた。

     三

 後期高齢者だらけの班の指導をしたら、疲れがどっと押し寄せてきた。先般の党本部決定を一緒に読んでいたが、みな文字が小さいと言って投げ出してしまった。拡大コピーをしてくればよかったと悔やんだが後の祭りだった。同志らは茶を飲みながら知人の近況や健康の話に花を咲かせた。今日は服用しないと決めていた抗不安薬が随分なくなった。そして、貴重な午前の時間も失われた。
 自宅に戻り、骨盤底筋を鍛えるトレーニングをしようと体操しているうち、カバンからスマホが振動しているような音がした。支部長からの緊急連絡かもしれないと思って、急いでカバンからスマホを手に取った。石塚からの電話だったので、ミュートにして万年床に投げた。これからは石塚の電話とラインはブロックしよう。五分経過したので画面を見たら、まだ「ドルヲタのイケメン」と標示されていた。しつこいやつだ。どうせ佐古の話に決まっている。五秒で通話を終えようと画面をタップした。
『涼夏ちゃんの尊さがわかりましたか?』
『一応、観た。五秒経ったから切るよ』
 画面に通話終了の文字が浮いたので、石塚のブロック作業を急いだ。画面が切り替わった。また「ドルヲタのイケメン」からだった。
『ブロックしたいから電話しないでもらえるかな』
『観てくれたんですよね? めっちゃアツかったでしょ?』
『うん。六人それぞれ個性があってよかったよ』
『え? 六人じゃないですよ?』
『あそう。今後のご活躍をお祈り申し上げます』
 電話を切ろうとした際、『すぐに来てください!』という断末魔がかすかに聞こえた。抗不安薬で心が安らかになっているのか、なかなか心打たれる別れ方だった。電話とラインのブロックも完了したので布団に転がった。最近の若い男女はこういう別れ方をするのだろうかと想像した。スマートで悪くない。自殺して二〇年前に転生したくなった。
 骨盤底筋のトレーニングをしようとしていたのを思い出し、準備を始めた。服を脱いで全裸になると、スマホにお気に入りのAV男優の画像を映して枕の上に置いた。あとは本番さながらに腰を振るだけだ。このトレーニングは、まだ性欲があったころの遺物で、現在は単なる習慣になっている。始めたばかりは五分で根を上げたが、いまでは三時間は余裕で腰を振っていられる。時間の無駄なので挑戦しないが六時間は耐えられるだろう。以前は異性に執着があったので、スマホの画面には女優の裸体を映していたが、もはや誰でもいい。男優とはいえ、いまだにアダルトコンテンツの画像を使用している時点で精進が足りないと思った。この世にはマニアックな写真集が存在する。ゴルフ場、空港、高速道路、廃工場などだ。軽く九〇分ほど汗を流し、アマゾンで高速道路の写真集を買った。
 シャワーを浴び、再び布団に転がっていたら眠気が襲ってきた。起きているのか眠っているのかわからない瞳のなかで火星人を見た。「我が名は火星人」と言ったのでそうなのだろう。長い漆黒の乱れ髪でひどく醜い顔だった。老婆とも老人とも見える。火星人は白無垢を着た田中角栄を舐めながら、「サコリョウカ」と言ってディズニーランドとピラミッドを食べた。魔界とのゲートが開いてしまい、火星人は勇者らとともに魔王軍に殺された。
 目を覚ますと、部屋は真っ暗だった。スマホを手探りした。ふだんは部屋の照明をつけたまま寝るのでスマホを見失うことはない。有力なのは枕元だが、周辺にはないようだった。イライラしてきたので、布団の上でがむしゃらに平泳ぎした。枕をどかして前進すると、左手に固い物が触れた。それは勝手に光を発したのでスマホだとわかった。時刻は午後八時十三分だった。買い物に出るのが億劫だったので、ハイボールを作って飲んだ。ウィスキーとグラスは冷凍庫に入れてある。スーパーやコンビニのハイボールはぬるくて飲めたものではない。
 夢のなかで不気味な年寄りが「サコリョウカ」と言っていたのを覚えている。彼女を党の代表にすれば政権与党になれるかもしれない。我が党の綱領やそれに次ぐ大会決定は支離滅裂な部分が多い。女性の社会進出が雇用問題の元凶などと差別的言辞がある一方で、女性首相の早期誕生を掲げていたりする。先ほどの夢は、佐古を入党させろという神の導きかもしれない。石塚なら家を知っている可能性がある。まだ起きているはずなので架電した。
『あ、水野だけど。佐古さんを入党させるから家を教えてよ』
『だめですよ! それより早くうちに来てください』
『君の家は汚ないのよ。酒に付き合うならそっちに行ってもいいよ』
『わかりました。用意しときます』
 ハイボールを飲み干すと車のキーを掴み、石塚の自宅へ向かった。到着したはいいが、駐車時に車の右バンパーを建物に擦った。ギリッとかすかに音がしただけなので軽傷だろう。エンジンを切り、降車すると想像以上に大きな音だったのか石塚が家から飛び出してきた。服がないのか、先日と同じものを着ていた。
「けっこう大きな音がしましたけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫。早く酒を飲もう」
 家のなかはまったく変わっていなかった。私は無言で倉庫に行き、冷蔵庫を確認した。五〇〇ミリリットルの缶ビールが三パックあった。一パック取り出すと及第とばかりに冷蔵庫をコツンと叩いた。家に戻ると石塚がまたホットプレートを準備していた。
「また焼き肉かよ」
「いえ、これで米を炊きます」
 彼の意図がわかったので何も言わなかった。かなりの時間を要するが、米に水をかければ炊ける。あとは醤油をかけるだけ。そんなところだろう。腐っていると思われる肉を食べるのはどうかと思ったが、学生が工夫して作る貧乏メシは嫌いではない。
「で、佐古さんを入党させたいけど、どうすればいい?」
 座るスペースを確保しながら切り出した。
「運営と親御さんが許可するわけないじゃないですか。まだ高校生ですし。三年生なので、グループを卒業しないか心配です」
「もし十八歳なら親の同意はいらないぜ。しかし、やたら詳しいね。ストーカーじゃん」
 ビールのタブを開け、ぐいっと飲んだ。一口目のビールはうまい。
「高校の後輩なんですよ! 涼夏ちゃんのために留年したんですから!」
「別に批判してるわけじゃないぜ。好きな女子の家を探すのは当然だよ。僕も昔は退勤するコンビニ店員の家まで着いて行ったもんさ」
 石塚によると、彼は岡山県新見市の出身で新見学園高校を卒業。二年前に帰省した際に佐古の噂を聞き、自宅を突き止めたそうだ。卒業論文は提出したが、故意に必修科目を一つ落として留年したという。両親ともに小学校の教員で、留年については何も言われなかったらしい。裕福で羨ましいと妬みながらビールを空け、二本目を口にした。
「グループを卒業したら入党の呼びかけがしやすくなるな」
 石塚はグツグツと音を立て出したホットプレートを割箸でかき混ぜた。
「東京に行ったらどうするんです? 水野さんの管轄は島根でしょう?」
「ぶっちゃけ、誰がどこでぶち込んでもいいんだよ。君はどうでもいい。とにかく彼女に興味があるんだ」
 石塚は米を混ぜ続けていたが、手を止めて破顔した。
「やっと涼夏の魅力に気づいてくれたんですね! 私にとってもこの一年がラストチャンスかもしれないんです。涼夏が東京に行ってしまったら終わりなので……」
「いきなり彼氏目線かよ。東京に行ったなら、君も東京の会社に就職すればいいだけだろ」
 石塚の表情がどんどん明るくなっていく。それくらい考えが及ばなかったのかとムシャクシャしたが、純粋に応援しているのだろう。ライターのガスが切れたのか煙草に火を付けるのに難儀していたら、石塚が「ヲタ友の証に」と言ってチェキを譲ってくれた。卒論を書いている時にもらったという。
『あきらめないでガンバレ! りょうか』
 私は腐りきった島根を浄化する仕事を頑張っているつもりだったので腹が立った。チェキを作業着の胸ポケットに突っ込んだ。石塚とのツーショットでなかったことが何よりの救いだ。三本目のビールのタブに指をかけながら、別に佐古である必要はないと思った。神の導きなどあるわけがない。党の代表はいまの男性で私は満足している。女性でも大いにけっこうだが、元タレントを起用したほうがいいだろう。早くも酔ってしまったのか、思考がめちゃくちゃになっていた。
「てゆーか、佐古さんは新見から松江に通ってるってことだよね?」
「学校が終わったら、すぐに母親の車でレッスンに来てるみたいです」
「特急やくもがあるじゃん。どうして車?」
「よくわかりませんが、新見駅到着が遅いからだと思います」
 なるほどね、と言ってビールを飲んだ。またここに泊まることになりそうだった。石塚は佐古の話で夢中なのか、酒は飲まず、煙草には触れてもいなかった。が、ホットプレートの米が焦げていた。もとより、ふっくらごはんを求めていたわけではない。せめて、おかゆくらいに仕上げてほしかった。石塚がガリガリと割箸で焦げた米を剝がしているのを手伝った。バキバキしていて常人の食べ物ではなかったが、不味いツマミだと思ってビールと一緒に胃に流し込んだ。私が文句も言わずに食べたのが嬉しかったのか、石塚はビールを一気飲みすると饒舌になった。
「旧日銀松江支店の動画ありましたよね? あれ超アツいんで、すべて観てください」
「それより六人じゃないってどういうこと? 僕の数え間違いかもしれんけど」
「涼夏が学校行事で遅れたらしいです。ちょうど涼夏のセンター曲でサビから出てきたんですけど、逆にそれがエグかったです!」
 石塚の佐古に対する熱量はどんどん上昇していった。耐えられなくなってトイレで眠剤を飲み込んだ。汲み取り式に抵抗はなかったが、トイレットペーパーの芯やハエの死骸が散らかっていた。ハエの死骸を見ると妙な気持ちになる。私はハエの死骸を一つ拾うと部屋に戻って米と一緒に食べた。
 石塚の熱量はさらに増していて、佐古のダンスパートの髪の流れが美しすぎるとか、曲ごとに自分の魅せ方をよくわかっているとか、どうでもいいことに口角泡を飛ばしていた。私は眠剤をもう一錠ビールで飲んで、眠りに落ちるのを待ち続けた。

     四

 イケメンは減点方式と言われる所以に合点がいった。石塚はクチャクチャと咀嚼音を発してチャーハンを食べていた。さらに、ライスを注文してチャーハンの皿に投入した。見かねた店主が「よその店でやったら怒られるよ」と注意した。これは貧乏学生の知恵だし――石塚の実家はむしろ裕福だが――客がどう食べようが勝手だと憤ったが、品位に欠けるので店主の言い分にも一理あると感じた。注意されても何食わぬ顔をしているのには閉口した。石塚を殴り、店主の指を切り落としたくなった。
 電話とラインのブロックを解除し、石塚とは友人として接していたが、出がけに支部長から何としても彼を入党させるよう念を押された。大都会でも現役学生の入党はほとんどないらしい。党本部としても喜ばしいことなので、すぐに支部に連絡をよこして経緯を聴取したのち機関紙に掲載するだろう。残念ながら記事を書くのは私ではない。
 焦げた米を食した日から何度か石塚の家で飲食をともにしたが、彼は米を研ぐことをしない。最近は軽く研ぐだけで十分だと聞くが、石塚はホットプレートに米と水を入れるだけだ。無洗米でないのは確認している。たらいでいいから研ぐ努力をしてほしい。それは石塚の育った家庭環境にも依るだろうから口にしなかった。私はギョーザと瓶ビールを頼み食事を終えていたが、チャーハンとライスを追加注文した。店主の顔を窺ったが、怒ってはいないようだった。石塚が食べ終えて水を飲んだ。私はウィスキーの小瓶を一口飲むと店主に見つからないよう石塚に渡した。彼は小瓶を空けてしまうと、ウォーターピッチャーの水をコップに何度も注いで飲んだ。
 チャーハンとライスが置かれたので、私たちは勘定を済まして店の外に出た。今日は石塚とともに梅本さんの家に遊びに行くことになっている。車の運転をシラフの石塚に任せて目的地に向かった。道中、石塚は執拗に旧日銀松江支店の動画を観るよう勧めてきた。すべてを鑑賞するのは嫌だったので、佐古が登場してからのステージは観ると約束した。むろん、観る気はない。これから顔を合わせる梅本さんのプロフィールを紹介しているうちに到着した。
 午後一時半だったので、梅本さんは不在だった。おそらく担当している班の指導に行っているはずだ。予想はしていたが、石塚はパーちゃんに興味を示した。地面から長い枯草を拾ってパーちゃんに与えていた。いちどでは物足りないのか、彼はパーちゃんに枯草を食べさせる行為をずっとしていた。私は助手席のフロアマットに落ちていたポケットティッシュを石塚に手渡した。いつ訊いたのかは覚えていないが、ヤギが紙を食べるというのは本当かと父と梅本さんに確認したら、両者ともに本当だと答えた。実際、パーちゃんは新聞紙を食べた。菓子の袋は食べないようで、かじるだけだった。石を投げつけたかったが、今日は石塚にパーちゃんを譲ることにした。眠剤を飲んで車内で眠った。
 車の窓を叩く鈍い音で目が覚めた。梅本さんが窓にべったりと手をつけて私の名前を呼んでいた。石塚は鎖を持ってパーちゃんと走り回っていた。降車して梅本さんに挨拶した。
「水野さんが寝とる間に石塚さんと仲良くなったけえ。男前で、えっと(とても)面白い人だけ?」
「はい。少し変わってますけどね」
「ワシも、あがにヤギとばっか遊んどる人は初めて見たかもしれん。水野さんはいじめるけえなあ」
 いじめていないと反論しようとしたが、自然のなかで楽しそうにパーちゃんと遊ぶ石塚に目を奪われた。彼に近づき声をかけた。
「まさかヤギに推し変するとはな。佐古さんにチクっとくわ」
「してませんよ。それに涼夏がそんな馬鹿げた話を信じませんよ」
「卒業が怪しまれるメンバーには早めに見切りをつけて推し変するのが心のダメージ少ないぞ」
 真剣な助言だったが、石塚は獣遊びに夢中で聞いていなかった。不愉快だったので抗不安薬を飲んだ。梅本さんが北のプレハブから大声で私たちを呼んだ。我が党について説明するようだ。プレハブに入るのは初めてだった。土足で入れたが床はきれいだった。縦長の事務テーブルに丸いパイプ椅子が六脚あった。ほかには、デスクトップパソコンとコピー機が隅に並べて置かれていた。陽射し除けなのか、党のポスターが窓にたくさん貼られていて代表に監視されているような気がした。
 梅本さんも石塚が勉強熱心な論客だと知っているので、世間話や農業の話で牽制していた。「国民社会党の人は信頼できる」と思ってもらえるまで、ゆっくり人間関係を築いていく人だ。そのため、何ケ月も党活動の成果がないと思いきや、いきなりひと月のうちに四人も党員を迎え入れたなどと党内連絡があったりする。農作業の傍らフラフラどこかに遊びに行ったりもするが、少なくとも県支部の委員のなかでは最も意識の高い人だと思う。そんな梅本さんが突如として口にした話は原子力発電所についてだった。
「石塚さんは、うちの党の主張は知っとんさる?」
「全国の原発の早期再稼働ですよね」
「それが違うんよねー」と梅本さんは穏やかな笑みを浮かべた。
 石塚は明らかに困惑していた。絶対的な確信が外れたのだろう。瞳は小刻みに泳いでいて口は半開きだった。
「うちは再稼働反対、稼働中の原発は止めろって言っとるけえ。だけえ、反原発団体と一緒にデモやるけえね」
 漸進的な改革を望む石塚は大きく開かれた目をゆっくり閉じた。少し安堵したようだ。私はポスターに印刷された代表の笑顔を見た。梅本さんの姿勢がやや前かがみになった。
「だけど、もっと強力な原発が必要って主張だけえ」
「つまり、現行の原発は止めて、高スペックな原発を作れってことですか?」
「まあ、そがな感じよ。いまより安全で環境によくてパワーもあるもの作れってことだけえ。シンプルに考えたらわかることだけ?」
 石塚は何も喋らなかった。彼の心中はわかっているつもりだ。私も最初にエネルギー対策の項目を見たときは驚いた。だが、諸問題を抱えているものならば、それをすべて解決する新たなものを創造すればいいだけだ。原発問題を解決するために原発を作る、党外の人には理解しがたいと思う。私はシビアな問題なので話はこれくらいにして温泉に行こうと提案した。二人は快諾した。
 梅本さんの車に同乗し、いつもの温泉に行った。石塚はなぜか意気揚々とした表情をしていた。さっさと服を脱ぎ、体を洗って湯船に浸かった。今日は疲れたので、湯口の前で軽く湯煙を吸いながら排尿した。一〇分ほどで湯から出た。体が熱くてどうしようもなかった。屋外に出るとすっかり暗くなっていた。パンツ一丁になり、梅本さんの車に張り付いた。すぐに二人の声が聞こえてきた。
「水野さん、あんたワシの車と結婚する気かいな?」
「寂しいんでしょうね。私は気持ちわかりますよ?」
 振り返ると二人はにっこりと笑顔を見せた。その笑顔に両者とも互いに心を許している感じを受け取った。服を着て車に乗った。梅本さんは相変わらず「ええ湯だったわ」と何度も言っていた。石塚も「リフレッシュできました」と満足した口調だった。私は「満足感想合戦」からは離脱したので黙っていた。私が勝つのは必定だからだ。
 梅本宅に着くと、また夕食に誘われた。食べますと言って玄関へと歩いていたら石塚も後ろを歩いていた。ダイニングに通されると、テーブルの上にはすでに食べ物が置かれていた。梅本さんは、奥さんがパートに出る前に作って行ったと話した。野菜炒め、鶏のから揚げが底の深いどんぶりに盛られていた。
「うちはセルフだけえ。食器は適当に取っていいけえ。米もあるし、鍋に味噌汁もあるし。遠慮せず食べんさいよ」
 言われた通り遠慮せずに食べた。とても美味しかった。石塚は例外だが、よその家庭料理は素晴らしいということを感動を以って認識した。私は箸を置いたが、石塚と梅本さんはまだ食べていた。じきに梅本さんも箸を置いたが、味噌汁を持って立ち上がると炊飯器の米を味噌汁の器に入れた。席に戻ると慣れた手つきで混ぜ、ズズッと音を出して食べだした。私は半笑いでうなだれた。
「猫まんま食べる人を久しぶりに見ましたよ」
「これが一番うまいけえ。ねえ? 石塚さん」
「私も実家でよく食べてました。美味しいですよね」
 私はどんぶりを手に取ると、米を二合くらい入れて鍋に残っていた味噌汁をどんぶりに流し込んだ。スプーンを手にして、中身を混ぜながら着席すると梅本さん以上に下品な音を立てて猫まんまをすすった。
「人が食べよるのを見りゃ食べとうなるもんだけえ。そがにしても量が多すぎよ」
 私は一食で三合は食べられる。いまは少しきついが石塚が食べるのを阻止するのが狙いだ。計画通り、石塚は席を離れると炊飯器を開けた。がっかりしている表情を見て愉悦に浸った。嬉しくて猫まんまをすする音がどんどん下品になっていった。石塚は肩を落としながらも、味噌汁を器に入れていた。席に着くなり、ズズーズズッという音を立てて味噌汁を吸いだした。味噌汁を残したことを悔やんだが、いまは石塚より下品な音を立てることに集中すべきだ。
――ズ、ズーズ、ズズズッ。
――ズズッ、ズズッズ、ズ、ズズ。
――ズッ、ズーズズ、ズー、ズズッ、ズズズー、ズッ。
――ズズズー、ズッ、ズーズズズズー、ズズッ、ズズーズッズッ。
 私は心中で降参した。もともと人が食べ物をすする音に耐えられない。テレビで芸能人がラーメンの食レポをしているのをよく見かけるが、すぐにチャンネルを変える。自分がやっていたことの不毛さに思わず笑ってしまった。梅本さんも笑いだした。
「ワシ、笑いこらえるのに必死だったわ。楽器鳴らしとるみたいだったけえな」
 石塚は味噌汁を食べ終えると何の話かわからない様子で、平然と箸を置いて合掌した。心から笑ったのは随分前だった気がする。そういう純粋な笑いは年に一回か二回くらいなものだ。何だか優しい気持ちになった。横目で石塚を見たら口元が少し緩んでいた。第二回戦は石塚と共闘だ。協力して石を投げれば必ずパーちゃんに当たるはずだ。

     五

 魔が差して佐古のパフォーマンスを観ようとしていたのに、党支部に寄ったせいで二〇分も苦痛を味わっている。他党のことは知らないが、我が党にはクレームや迷惑電話がよくある。今回は迷惑電話だ。声質からして七〇代の男性。大阪府警の私服警官が自分を狙っていると繰り返し訴えている。我が党の大阪支部に相談してほしいと言ったが聞いていない。
『曽根崎のな、私服の女がな、銭湯まで来て俺を追いかけてきてんねん』
『それは大変ですね。国民社会党は大阪にもあります。島根からではお手伝いできませんので』
『あの私服の女がな、銭湯まで入ってくんねん。曽根崎でな、ずっと見張られとる』
 同様の調子でさらに二〇分が過ぎた。迷惑電話対策としては電話帳に登録し、その後は電話に出ないなど職員によって対応は様々だろう。私は受話器を放置して仕事をするか暇つぶしに相手をするかのどちらかだ。後者はけっこう楽しかったりする。
『曽根崎のな……』
 こういう手合には間髪入れずに自分の話したいことを自由に話せばいい。ストレス解消に役立つ。
『曽根崎の銭湯行くんだね。僕は温泉行くけど、小便すると気持ちいいよ。最近はストレスで寝小便したりすんのよ。大人になって初めて寝小便したのは二十二歳のときだったわ。ショックでなかなか……』
『私服の女がな、隠れながら……』
『島根の佐古涼夏って知ってる? 僕も全然知らんけど、これから勉強しようと思ってんのよ。「ピュアネプシオーン」ってグループなのよ。調べたらさ、ギリシャ語で一〇月って意味なのよ。こっちが神在月だからかな。お兄さんも一緒に応援しようよ。松江は遠いかもしれんけどさ、一緒に……』
 通話が切れてがっかりした。迷惑電話をしてくる者は根性がない。いつかの宿直のとき、午後七時に電話が鳴った。相手はかなり若い声の男性で、「これから四時間ずっと電話を鳴らし続ける」と話した。やれるものならやってみろと呼び鈴が鳴るなかスマホをいじっていたが、四〇分ほどでピタリと止んだ。ナンバーディスプレイには「非通知」と標示されていたし、気概がまったく感じられなかった。そもそも四時間というのも短い。最低でも七十二時間ではないのか。怒りが頂点に達して、その日は一睡もできなかった気がする。私も含め、気骨のある日本人は絶滅した。
 過去を思い出したら怒りが込み上げてきたので抗不安薬を飲んだ。給湯室の冷蔵庫から缶ビールをくすねると、支部長に「石塚さんの入党工作をしてきます」と言って支部を出た。駐車場の車のなかでユーチューブを開いた。ビールのタブを開け、一気に半分飲んで「ピュアネプシオーン」と検索した。去年のクリスマスライブをアップしているユーザーがいたのでサムネイルをタップした。冒頭からやかましいイントロが流れて七人が踊り出したところで観るのをやめた。アイドルヲタクを軽蔑しているわけでは決してない。むしろ、何かに熱中できるのはすごいことだ。私が凡人なだけだ。石塚の動画はラインを開いてリンクから飛ぶのが面倒だったので、すぐ観れるように高評価しておいた。残りのビールを飲んで帰宅した。玄関にはポストから落下したと思われる郵便物があった。包装を破くとアマゾンで購入した高速道路の写真集だった。通常配送にしていたので、すっかり忘れていた。適当にページをめくり、トレーニングに最適な「オカズ」を探した。もっとも、私は自慰行為をするわけではないので、その表現は的確ではないが、ほかに思いつかない。
 中国地方の高速道路はだいたい知っているので、いちども通ったことのない首都高速道路の大橋ジャンクションを「オカズ」に決めた。すごいジャンクションらしいが、私には円形の味気ないものにしか見えなかった。これを「オカズ」にできたなら、私はさらなる高みへ登っていけると確信した。さっそく裸になり当該ページを枕の上に開くと正常位でトレーニングを開始した。このごろは時間が確保できないので量より質を重視することにし、時間は三〇分とした。そのかわり、骨盤底筋を意識しながら激しく腰を振る。
 三〇分が経過した。私は汗だくで、大橋ジャンクションはかなり濡れていた。滲んで歪んだ円形のほうが魅力的に見えた。シャワーを済ませ時刻を確認すると午後二時四〇分だった。抗不安薬がなくなりかけていたので、病院巡りをしないといけない。三時からであれば、三ヶ所は行けそうだった。私の処方薬はかなり強い部類の抗不安薬なので心療内科では処方してくれない。だから、いつも行くのは内科だ。不眠を強調すれば、生活習慣の改善という内科領域に入るので入手は容易だ。当然、眠剤も内科で処方箋をもらっている。
 血圧測定があるので、緊張しないよう残りの抗不安薬をすべて服用してから病院へ向かった。一件目と二件目の診察を終え、三件目の病院に向かっているうち、眠気を覚えた。過去、路上やコンビニ駐車場で爆睡し、救急搬送されたことが六回あったので、営業マンがサボり場としてよく使っている公園で休んだ。二十四錠ほどで眠くなることはないはずだが、原因は三〇分のハードトレーニングだろう。降車してストレッチしながら覚醒させる。ストレッチを終え、車内に戻るとスマホが振動した。石塚からのラインだった。
『観てくれましたか?』
『まだ。今晩観る』
『了解です!』
 三件目の病院に着いたのは午後五時半だった。受付時間ぎりぎりだ。待合室でスマホをいじっていたら、こんどは梅本さんからラインがきた。
『近いうち三人で登山しませんか?』
 登山は好きなので、すぐに「オーケー」スタンプを送った。
『石塚さんにはワシから伝えます』
 梅本さんはラインのメッセージでは共通語になる。そして文章は短文。そもそもラインを送ってくること自体が珍しい。いつもは電話だ。班の指導で退屈しのぎに送ったのかもしれない。そうこうしているうちに私の名前が呼ばれた。
 帰宅してすぐ布団に転がり込んだ。石塚の動画はどうしても観ることができなかった。仕方なくネットで「ピュアネプシオーン」の公式サイトを検索したら表示された。最近はXやインスタグラムが公式サイトの役割を担っているグループが散見されたので安心した。私はいずれもアカウントを持っていない。私的に発信したいことが何もない。公的には一介の政党職員がSNSで情報発信することに違和感がある。広報担当の職員や議員、首長、国政候補者などは別だ。
 ローカルアイドルなので粗末なサイトかと思ったら、意外にもしっかりしていた。「NEWS」「ABOUT」などを無視して「PROFILE」をタップする。佐古を見つけた。すぐに部屋のカレンダーを確認する。佐古の誕生日は明後日だった。起立して石塚に架電した。
『佐古さんの誕生日は明後日じゃねえか!』
『お、ワクワクしてるんですか? 生誕祭がありますよ』
 喫緊の事態であることを理解していない石塚の尻を蹴りたくなった。
『入党させるんだよ!』
『無理ですよ。スタジオは入り待ち出待ち禁止です。ついでに物をステージに投げ込むのも禁止ですよ。入党申込書とかね』
『じゃあ実家に行こう。明後日は新見に行くぞ』
『だめです。彼女にとって特別な日ですから。私は行きません』
 そうかいと返答してスマホを布団に投げつけた。誕生日に晴れて入党という流れがベストだと思った。が、アイドルとはいえ女子高生が不審者に入党の呼びかけをされて嬉しいわけがない。面識もなく自宅前で突然に、となると警察を呼ばれても文句は言えない。やはり支部長の指示通りに石塚を入党させるほうが賢明だろう。いまのやりとりで石塚との関係が悪くなってしまったことは間違いない。明日は素直に謝ろうと思った。
 目を覚ますと、漏れた日光がカーテンの下を照らしていた。時刻は七時五十三分だった。かなりの時間寝てしまった。頭がぼんやりしているので煙草を吸い続けた。アラフォーともなれば、さすがに自分の体のメカニズムがわかってくる。どれだけニコチンを摂取してもまた眠ってしまうだろう。
まだタンスの奥に眠っている昔の推しメンの生誕Tシャツを着た。直筆でクマかタヌキか宇宙人なのか判別不可能な生命体が大きくプリントされている。下は短パンにした。服装に羞恥心はないが、中性脂肪でピチピチなTシャツと短パンが恥ずかしい。これを着用してランニングしたらもっと恥ずかしいに違いない。小さめのリュックサックにウィスキーの小瓶と抗不安薬、スマホ、財布を入れると駆け出した。が、それは玄関までで施錠したら走る気をなくしてしまった。
我が家から石塚の家までは徒歩で約二〇分。関係修復の手段はすでに考えてある。幼少期に兄と一緒に風呂に入っていたが、そのたびに互いの生殖器を擦り合わせていた。兄か弟がいる男性ならば誰もが通過した道だろう。すこぶる気持ちよかったのは確かだ。石塚との交わりを想像していたらすぐに到着した。この家にはチャイムがないのでドアを叩いた。しばし時が経ってドアが開いた。石塚は汚物を嫌悪するような目で私を見た。昨日の発言は佐古にも石塚にも無配慮だったと深謝した。石塚は気にしなくていいと言って家のなかに入れてくれた。
「魂でつながって仲直りしたい。パンツを脱いでくれないか?」
 私は短パンと下着を一気に脱いだ。石塚は狼狽していた。
「水野さんがそういう人だということは尊重します。でも、私の性自認はストレートなんです」
「僕もストレートだ。うちの党には男女ともストレートしかいない。過度な多様性の尊重は社会秩序を崩壊させるからな。とにかく脱いでほしい。交わればわかる」
 私は豆粒のように縮んでしまった生殖器を晒しながら石塚に近づいた。彼は尻もちをつくとクモのように素早く後退りした。
「あ、ああ、あのー。二人で一緒に涼夏を観て親交を深めませんか?」
「わかった。佐古さんだけじゃなくて、ほかのメンバーのことも知りたいから最初から観よう」
「箱推しですか? 私は涼夏推しですけど、結局は全員好きになっちゃうんですよね」
 石塚は打って変わって、カンガルーのように跳ねながら外付けハードディスクをノートパソコンの端子に差し込んだ。そして、「私の入党が近づきましたね」と微笑んだ。私はというと、隣で胡坐をかいて動画を視聴している石塚の股間を横目でずっと見ていた。

     六

 先週行われた佐古の生誕祭について「ヤバかった!」と連呼していた石塚が肩で息をするようになっていた。標高二一〇メートルの山でも甘く見てはいけない。登山経験豊富な梅本さんが少し先で私たちを待っている。登っているのは、島根半島の東端に位置する馬着山。大山登頂を目指す人たちが力をつけるための山というのが愛好家の共通認識だ。私は太るたびに馬着山を何度も登るので、この山に限っては梅本さんよりよく知っている。
 ゴール地点は三キロ先にある関の五本松公園だ。あくまで私の場合だが、山中の珍しい樹木や草花に目もくれずに歩いて約五〇分。山頂まではきつい勾配がいくつかあるが、全体的に起伏も少なく初級者向けの山といえる。石塚は大量の汗をかいていて、額に張り付いた前髪を掻き上げた。
「もう少し登れば東屋があるから、そこで休憩しよう。それか登頂したら五本松公園はあきらめて下山しよう」
 ありがとうございますと弱い声で返事をすると石塚は歩きだした。
「やっぱり梅本さんが立っているところで休もう。そこにベンチがある。東屋まで行っちゃうと山頂まですぐそこなんだ」
 石塚はベンチを素通りし、東屋まで頑張って歩いた。彼は崩れるようにベンチに転がった。梅本さんはさすがというべきか、呼吸ひとつ乱れていなかった。私は繁みに隠れて小便をすると、下山すべきか梅本さんと相談した。山頂からは傾斜のきつい下りが続くため、石塚の足が踏ん張れるかどうか心配だった。晴れの日が続いていたので土が乾いて滑りやすい。その旨を伝えると、「こがな山なら問題なかろう」と笑って眼下の美保関町の港を見ていた。梅本さんは「ええ眺めだで」と言い、続けて「石塚さんって下の名前『ゆあん』って読むんだねえ。ナウいじゃん」とからかった。
 石塚は水を飲みながら、荒っぽく足踏みした。彼の気力が戻ったようなので登山を再開した。山頂には一〇分もかからなかった。草木が生い茂って日本海がわずかしか見えない。全員がベンチに座った。煙草などの嗜好品は持参していたが、ドーパミンとノルアドレナリンが分泌されているのか気分がよかった。
 高揚していた私は二人にある提案をした。それは、ここから北の小山にある旧日本海軍望楼跡を見て、すぐ両者に追いつくというものだった。数年前に購入した島根の山ガイドブックには道なりに歩けば着くと書いてあり、距離は一・五キロだったと記憶している。くたびれた石塚と一緒なら梅本さんとて五本松公園まで一時間半はかかるだろう。必ず追いつける。
 私の好奇心が噴出していたのか、梅本さんは「やれんのう」と笑って北を指さした。私は「ゆあん、行ってくるぜ! ゆあんも、ゆあんも、ゆあんも頑張れよ!」と叫びながら走り出した。何がおかしいのか、石塚の哄笑が聞こえた。
 走っているうち、道が狭くなってきた。東側は木々で何も見えなかったが、崖かと思うとゾッとした。そのままゆっくり進むと四十五度はあろうと思われる急斜面が現れた。踏み込んだ瞬間に乾いた落ち葉で足先から仰向けに滑った。ところどころに木が生えていて、滑っては木に止まりを繰り返した。いつも通りの作業着、そして登山用リュックサックに二リットルの水を三本入れていたおかげで、怪我もなく頭を打たずに済んだ。斜面を下りた先には、すいぶん開けた場所があった。古びた四角いコンクリート製の大きな水溜らしきもののなかに枯れ葉と菓子の袋が落ちていた。西のほうには明るい日光が射し込んでいた。集落へと続く道だろう。時間の確認のためスマホを見ると石塚からのラインが届いていた。
『もうだめ』『終わった』『死にたい』
 佐古のグループ卒業が頭をよぎったが、長く苦しい勾配に疲れて弱音を吐いているものと思い、激励のメッセージを送った。水分補給をしながら視線を東に向けると木の枝に赤いテープが巻かれていた。近づくと獣道のような山道が続いていた。やはり西は集落への道だ。倒木の危険がないのに枝に赤いテープが巻かれている。直感でこちらが望楼跡の道だと判断した。
東に歩を進めると道が崩れかけていたが、ロープ伝いにせっせと進んだ。しばらくして波音が聞こえてきた。目的地はすぐそこに違いない。岩が増えてきたので、いよいよだと確信した。が、目の前には下へと降りる岩場が広がっていた。かなり下ったのに、さらに下に望楼があるだろうかと疑った。恐る恐る下側を覗くと、鉄リングが打ち込まれた大岩同士が握りこぶしほどの太いロープで繋がれている。きっとこの先で正しい。一方で疑いの念も強くなり、私は身をひるがえした。スマホを見ると圏外だった。ロープを伝い危険な細道を戻る。これまで基準点か水準点かわからないが、地面に打たれた国土地理院の標識を目印に歩いてきた。地面を確認しつつ、赤いテープが巻かれた枝を目指した。が、歩けど歩けどいっこうに見つからない。
すでに方向感覚もわからなくなり、樹海に迷い込んでいた。石塚と梅本さんに連絡しようとしたが圏外だった。南と思しき方角へ登れば正規の登山ルートに復帰できると歩き続けたが、それも叶わなかった。斜面を登っては滑り転がり、木にしがみついて休憩した。ヤブ蚊が多くてずっと同じ場所にはいられない。作業着は汗が染み込んで重かった。スマホは画面にヒビが入り、正常に作動しない。大声で叫んでも助けが来る見込みはない。火を付けて山火事を起こそうと決意し、胸ポケットのライターを取り出した。煙草とチェキが一緒に落ちた。
『あきらめないでガンバレ! りょうか』
 目頭が熱くなった。ウィスキーの小瓶、煙草、抗不安薬を木の根元に置くと、土と落ち葉を被せて「埋葬」した。チェキを胸ポケットに収め、必死に樹海を駆けた。そのうち切れかかったロープを見つけた。手繰り寄せるたびに切れるので地面を這った。次第に樹海が明るくなっていき、青々とした日本海が見えた。が、目の前は文字通りの断崖絶壁だった。呆然としていると風が吹いて何かの袋が舞った。目で追いかけると着地点にロープがあった。ロープは途中で切れていたが、これを使って降りるしかない。恐怖など入り込む余地もなかった。
 ロープの強度を確認すると、ゆっくり崖を降りて行った。広い出っ張りでロープは切れていた。もしかしたら、密猟者か密入国者が使用しているのかもしれない。そこからは慎重に手足を使えば降りることができた。何もない岩礁に着いたことに失望したが、陽射しが当たらない場所で登山用リュックサックを枕にして横になった。スマホは依然として正常に機能しなかったが、時刻とバッテリー残量だけはわかった。水は残り一リットル、ブドウ糖と塩分タブレットもある。私はここで一晩すごし、明朝に崖を登ろうと考えた。が、午後三時になると風が冷たくなってきた。眠れぬ夜になることは容易に想像できた。寒さで疲弊した私は絶対に壁を登れない。スマホを再起動したら奇跡的に正常化した。すぐに「一一〇」をタップした。電話はつながった。
『すみません。遭難しました』
『わかりました。緊急センターにつなぎます』
 スマホの画面が少しブレだした。
『緊急センターです。遭難は海ですか山ですか?』
『山ですが、いまは海というか、陸にいます』
『わかりました。お怪我などはありますか?』
『足の水膨れがひどいですが、大丈夫です』
担当者は氏名と電話番号、水分や食料などの有無を確認した。冷静かつ温厚で安心できた。
『場所はどのあたりですか?』
『馬着山の裏の岩礁です。島根半島の先端です』
『わかりました。すぐに警察官を向かわせますので』
 画面が激しくブレだした。それを伝えると、緊急センター専用ページのリンク先をショートメールで送るという。担当者はそのページに写真を添付してほしいと話した。通話終了とほぼ同時にショートメールが届いた。現在地の写真を撮ってページを開いたが、真っ赤で驚いた。写真は容量が大きすぎて添付できなかった。担当者に架電した。
『容量オーバーで添付できません』
『そしたら、現在地の緯度と経度を教えてください』
 通話を維持したまま、マップに「現在地」と打ち込んだが、緯度と経度はわからなかった。そのかわり、数字の羅列が表示された。
『数字の羅列ならわかりますけど』
『では、それを教えてください。もう警察官が向かっているので安心してください』
 数字を教えると、担当者は安全な場所で休んでいてほしいと話して電話を切った。私は崖を登るしか戻る方法はないと思った。こんなところまで警察官が来れるわけがない。隠岐諸島に向かうフェリーが遠くを航行していたが、こちらに気づくはずもなかった。四〇分が経ったろうか、電話に出ると別の人の声になっていた。
『水野さんですか? いまヘリコプターで探してますが、見えたら大きく手を振ってください』
 ヘリのプロペラの音は遠ざかっては消えた。見つけられないのではないかと弱気になった。胸ポケットをぎゅっと握った。しばらく待っていると、急にプロペラの音が近づいてきたので山の上を見上げた。ヘリが姿を現した。それは一瞬の「ご来光」だった。私が手を振ると、なぜか離れた場所でホバリングしていた。不思議に思っていると、海上保安庁の船がすぐそこに来ていた。潜水服を着た四人の保安官がゴムボートで上陸した。私はそれに乗せられ、船のやや手前から二人の保安官に引っ張られて泳いだ。残りの二人は私の登山用リュックサックが濡れないように泳いでいた。
 船室に通されると本人確認とともに体調チェックを受けた。とくに問題はなかったが、保安官は救急車の出動要請が必要か訊いた。大丈夫ですと断ると、私の肩に毛布をかぶせ、アクエリアスを置いて甲板に上がって行った。
 徐々に航進速度が遅くなり海保の母港が近いと感じた。スマホは異常な模様の画面しか映らなくなっていた。そのうち「着きましたよ」と声がした。保安官らに頭を下げて下船した。目の前には石塚と梅本さんが立っていた。
「とんだトンチンカンだけ。えっと心配したけえ」
「私は遭難してると思ってました。とにかく無事で何よりです」
 また目頭が熱くなった。二人に背を向け、あさっての方向を眺めた。振り返り、人生で初めて最敬礼をした。二人に生きて謝罪できたことが嬉しかった。頭を上げると、石塚のスマホを持つ手が震えていた。梅本さんがバインダーとボールペンを私に差し出した。バインダーには入党申込書が挟んであった。すでに石塚の記入欄は埋められており、二人の推薦人欄の片方には梅本さんの署名があった。
「僕は佐古さんを推すことはできなかったよ」
 バインダーから入党申込書を抜き取ると破って海に捨てた。石塚は声を上げて泣き出した。佐古は窮地を救ってくれた。世界中を這いずり回ってでも入党させる。石塚はそれからでいい。いや、それからがいい。
 梅本さんにバインダーとボールペンを返して一礼すると、係留杭に座って空を見上げた。石塚の人生には無限の未来が開けている。あきらめないでガンバレ! 名前のごとく勇んで行け。いつの日か君が憧れた女性が必ず迎えに来るのだから。(了)