夏が来るのと同時に水泳授業が始まった。
プールサイドから響く男子の声は、蝉の鳴き声をかき消すほど大きく、更衣室の奥まで遠慮なく入り込んでくる。その音を聞くだけで、胸の奥がざわついた。どうにかこの時間を避けられないかと考えていた。どうか雨が降ってほしい。そう願ったけれど、空は皮肉なほど青かった。私の願いはあっさり裏切られた。
中学に入ってから、自分の体が確実に変わってきていることを、否応なく意識するようになった。制服の中では目立たなくても、水着になると周りの子と比べると、どうしても目立ってしまう胸の輪郭がくっきり浮かびぶ。
着替えを終え、更衣室の扉を開けた瞬間、空気は変わった。好奇心だけの視線が背中に貼り付くように感じられ、息が浅くなる。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、全身が小さく硬直する。
水面に映る自分の姿をちらりと見ると、胸の輪郭が浮かび、思わず目を伏せた。プールの水は冷たいはずなのに、体は最初から強張ったままだった。泳ぎ始めても、うまく力が抜けない。水面のきらめきの向こうに、視線が張りついている気がして、息を吸うたび胸が苦しくなる。
誰も私を見ていない――そう言い聞かせても、不安は消えなかった。頭の片隅には常に「見られているかもしれない」という感覚がつきまとうのだ。
そのとき、体の奥で、はっきりしない異変が起きた。痛みとも違う、違和感とも言い切れない感覚。
理由は分からない。ただ、「これはまずい」という直感だけが、恐怖と一緒に押し寄せてきた。
早く終わって。
早く、この時間が終わって。
そう願っても、体は思うように動かない。水の中で、自然と体を小さく丸めていた。心臓の音だけが、やけに大きく耳に響く。
「……おい、あれ」
誰かの声がして、空気が一変したのが分かった。
次の瞬間、世界が一斉にこちらを向く。
視線が突き刺さり、ひそひそとした笑いが、波紋のように広がっていく。私は振り返らなかった。振り返れなかった。
見なくても分かったからだ。今、自分が“中心”にいることを。
何を言われているのか、はっきりとは聞こえない。
でも、分かった。
理解してしまった。
好奇心と嘲りの混じった目にさらされて、私は、ただ立っていた。水の中で、見られながら。ただ、自分が“見世物”になったということを。
そう思うのに、水の中で、体が動かなくなる。逃げるという選択肢が、最初から存在しなかったことに気づく。プールは広いはずなのに、どこにも行けない。ここは授業で、逃げ出せば「問題」になる。声を上げれば「大げさ」になる。プールの縁は遠く、時間だけが残酷に流れていく。水は冷たいはずなのに、体の内側は熱く、羞恥で焼かれているようだった。
赤いシミのような物がプールに広がっていく。その瞬間、私は「自分」じゃなくなった。
名前も、感情も、意思も消えて、ただの対象になった。
誰かの話の種。誰かの笑いの材料。
「大丈夫?」
嵐のようなざわめきの中で、かすかな声が届いた。
たったそれだけの言葉なのに、張りつめていた何かが、ぷつりと切れた。視界がにじみ、気づけば涙がこぼれていた。
それでも、その声がなければ、私はきっと、息を止めていた。声は小さくて、頼りなくて、すぐ消えそうだった。でも、それだけで十分だった。
世界に、まだ一人だけ「私」の味方をしてくれる人がいると分かったから。助けられたわけじゃない。すべてが解決したわけでもない。
ただ、完全に壊れずに済んだだけ。
「もう大丈夫?」
その言葉を、何度聞いただろう。先生も、保健室の先生も、家に帰ってからの母も、同じ調子でそう言った。
大丈夫じゃない、とは言えなかった。
理由を説明しようとすると、喉の奥が詰まって、言葉が形になる前に崩れてしまう。
だから、うなずいた。「うん」とだけ口にし続けた。
あの日のことは、先生に「もう終わったこと」と言われた。授業は中止になり、保健室で少し休んで、連絡帳には「体調不良」とだけ書かれた。それで、私の中のことは、なかったことになった。
次の日も、その次の日も、学校は何事もなかったように動き続けた。チャイムは鳴り、授業は進み、黒板は消され、また書き直される。世界は、私ひとりを置き去りにして、きちんと前へ進んでいた。
教室に入ると、空気がわずかに揺れるのが分かる。私の席の周りだけ、微妙に空気が違う。笑い声は少し抑えられ、会話は途中で切れる。ひそひそとした声。視線が一瞬だけ集まって、すぐに逸らされる。「配慮」という名前の距離が、はっきりと存在していた。誰も露骨に何かを言わないでも、「知っている」という気配だけが、教室のあちこちに残っていた。
それが、余計にきつかった。優しさのふりをした沈黙ほど、残酷なものはない。
席に座ると、背中がじわじわと熱くなる。後ろの席の男子が笑っただけで、心臓が跳ねる。
前の席の女子が振り返っただけで、呼吸が浅くなる。
——また、見られているかもしれない。
その考えが、常に頭のどこかにこびりついて離れなかった。
体育の時間は、地獄だった。着替えが遅れると、先生が言った。
「早くしなさい。みんな待ってるよ」
その「みんな」の中に、自分が含まれていない気がして、胸が冷えた。視線を上げると、誰も見ていない。でも、誰も私を見ないということ自体が、突き刺さる。体操服に着替えるだけで、手が震える。
鏡を見るのが怖くなった。自分の体が、自分のものじゃないみたいに感じられる。誰かに触れられたわけでもない。はっきりとした言葉をぶつけられたわけでもない。
水泳の授業は、私だけ見学になった。理由は「体調管理」
プールサイドで座っていると、水の音と笑い声が、やけに大きく聞こえる。
誰も私を指ささない。
誰も名前を呼ばない。
それなのに、私は、そこに“置かれている”。教室にいるだけで、心が削られていく。透明な檻に入れられたみたいだった。
昼休み、トイレの個室に閉じこもることが増えた。誰もいない静かな場所で、ようやく息ができる。
でも、鏡に映る自分の顔を見ると、あの日のプールの光景が、勝手に蘇る。
「……ああいうの、本人が一番つらいよね」
慰めのつもりだったのかもしれない。でも、「ああいうの」という言葉が、私を完全に“出来事”に変えた。
私はもう、名前じゃなくなった。
あの日の何か、それだけになった。
笑い声。
ざわめき。
自分に集まった、あの視線。
「気にしすぎだよ」
「もう終わったことじゃん」
そう言われるたび、じゃあ、この苦しさは何なんだろう、と思った。終わったのは、出来事だけだ。私の中では、何ひとつ終わっていない。
声をかけてくれた、あの子とは、ちゃんと話せていない。感謝を伝えたいのに、目を合わせるだけで胸が詰まる。”あの子”にまで「思い出させてしまう」気がして、距離を取ってしまった。
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、男子が笑いながら通り過ぎる。私のほうを見ていない。それなのに、体が勝手に強張る。笑い声が、全部自分に向けられている気がする。違うと分かっているのに、体が信じてくれない。
家に帰って、制服を脱ぐ。鏡に映る自分を見て、思う。
——この体がなければ。
そんな考えが浮かんだ瞬間、自分が怖くなった。でも、否定できなかった。夜、布団に入ると、体が勝手に縮こまる。目を閉じると、プールの水の冷たさと、熱く焼けるような感覚が、同時によみがえる。
眠りたいのに、眠れない。
忘れたいのに、忘れられない。あの日以来、私はずっと、「見られる前の自分」に戻りたかった。
何も起きなかった頃の自分。
誰にも知られていなかった自分。
でも、どれだけ願っても、時間は戻らない。
終わった場所に、ひとりだけ取り残されたままだった。それなのに、毎日、少しずつ、確実に、私は削られていった。
学校は続く。私は、そこにいる。ただそれだけのことが、どうしようもなく、苦しかった。
プールサイドから響く男子の声は、蝉の鳴き声をかき消すほど大きく、更衣室の奥まで遠慮なく入り込んでくる。その音を聞くだけで、胸の奥がざわついた。どうにかこの時間を避けられないかと考えていた。どうか雨が降ってほしい。そう願ったけれど、空は皮肉なほど青かった。私の願いはあっさり裏切られた。
中学に入ってから、自分の体が確実に変わってきていることを、否応なく意識するようになった。制服の中では目立たなくても、水着になると周りの子と比べると、どうしても目立ってしまう胸の輪郭がくっきり浮かびぶ。
着替えを終え、更衣室の扉を開けた瞬間、空気は変わった。好奇心だけの視線が背中に貼り付くように感じられ、息が浅くなる。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、全身が小さく硬直する。
水面に映る自分の姿をちらりと見ると、胸の輪郭が浮かび、思わず目を伏せた。プールの水は冷たいはずなのに、体は最初から強張ったままだった。泳ぎ始めても、うまく力が抜けない。水面のきらめきの向こうに、視線が張りついている気がして、息を吸うたび胸が苦しくなる。
誰も私を見ていない――そう言い聞かせても、不安は消えなかった。頭の片隅には常に「見られているかもしれない」という感覚がつきまとうのだ。
そのとき、体の奥で、はっきりしない異変が起きた。痛みとも違う、違和感とも言い切れない感覚。
理由は分からない。ただ、「これはまずい」という直感だけが、恐怖と一緒に押し寄せてきた。
早く終わって。
早く、この時間が終わって。
そう願っても、体は思うように動かない。水の中で、自然と体を小さく丸めていた。心臓の音だけが、やけに大きく耳に響く。
「……おい、あれ」
誰かの声がして、空気が一変したのが分かった。
次の瞬間、世界が一斉にこちらを向く。
視線が突き刺さり、ひそひそとした笑いが、波紋のように広がっていく。私は振り返らなかった。振り返れなかった。
見なくても分かったからだ。今、自分が“中心”にいることを。
何を言われているのか、はっきりとは聞こえない。
でも、分かった。
理解してしまった。
好奇心と嘲りの混じった目にさらされて、私は、ただ立っていた。水の中で、見られながら。ただ、自分が“見世物”になったということを。
そう思うのに、水の中で、体が動かなくなる。逃げるという選択肢が、最初から存在しなかったことに気づく。プールは広いはずなのに、どこにも行けない。ここは授業で、逃げ出せば「問題」になる。声を上げれば「大げさ」になる。プールの縁は遠く、時間だけが残酷に流れていく。水は冷たいはずなのに、体の内側は熱く、羞恥で焼かれているようだった。
赤いシミのような物がプールに広がっていく。その瞬間、私は「自分」じゃなくなった。
名前も、感情も、意思も消えて、ただの対象になった。
誰かの話の種。誰かの笑いの材料。
「大丈夫?」
嵐のようなざわめきの中で、かすかな声が届いた。
たったそれだけの言葉なのに、張りつめていた何かが、ぷつりと切れた。視界がにじみ、気づけば涙がこぼれていた。
それでも、その声がなければ、私はきっと、息を止めていた。声は小さくて、頼りなくて、すぐ消えそうだった。でも、それだけで十分だった。
世界に、まだ一人だけ「私」の味方をしてくれる人がいると分かったから。助けられたわけじゃない。すべてが解決したわけでもない。
ただ、完全に壊れずに済んだだけ。
「もう大丈夫?」
その言葉を、何度聞いただろう。先生も、保健室の先生も、家に帰ってからの母も、同じ調子でそう言った。
大丈夫じゃない、とは言えなかった。
理由を説明しようとすると、喉の奥が詰まって、言葉が形になる前に崩れてしまう。
だから、うなずいた。「うん」とだけ口にし続けた。
あの日のことは、先生に「もう終わったこと」と言われた。授業は中止になり、保健室で少し休んで、連絡帳には「体調不良」とだけ書かれた。それで、私の中のことは、なかったことになった。
次の日も、その次の日も、学校は何事もなかったように動き続けた。チャイムは鳴り、授業は進み、黒板は消され、また書き直される。世界は、私ひとりを置き去りにして、きちんと前へ進んでいた。
教室に入ると、空気がわずかに揺れるのが分かる。私の席の周りだけ、微妙に空気が違う。笑い声は少し抑えられ、会話は途中で切れる。ひそひそとした声。視線が一瞬だけ集まって、すぐに逸らされる。「配慮」という名前の距離が、はっきりと存在していた。誰も露骨に何かを言わないでも、「知っている」という気配だけが、教室のあちこちに残っていた。
それが、余計にきつかった。優しさのふりをした沈黙ほど、残酷なものはない。
席に座ると、背中がじわじわと熱くなる。後ろの席の男子が笑っただけで、心臓が跳ねる。
前の席の女子が振り返っただけで、呼吸が浅くなる。
——また、見られているかもしれない。
その考えが、常に頭のどこかにこびりついて離れなかった。
体育の時間は、地獄だった。着替えが遅れると、先生が言った。
「早くしなさい。みんな待ってるよ」
その「みんな」の中に、自分が含まれていない気がして、胸が冷えた。視線を上げると、誰も見ていない。でも、誰も私を見ないということ自体が、突き刺さる。体操服に着替えるだけで、手が震える。
鏡を見るのが怖くなった。自分の体が、自分のものじゃないみたいに感じられる。誰かに触れられたわけでもない。はっきりとした言葉をぶつけられたわけでもない。
水泳の授業は、私だけ見学になった。理由は「体調管理」
プールサイドで座っていると、水の音と笑い声が、やけに大きく聞こえる。
誰も私を指ささない。
誰も名前を呼ばない。
それなのに、私は、そこに“置かれている”。教室にいるだけで、心が削られていく。透明な檻に入れられたみたいだった。
昼休み、トイレの個室に閉じこもることが増えた。誰もいない静かな場所で、ようやく息ができる。
でも、鏡に映る自分の顔を見ると、あの日のプールの光景が、勝手に蘇る。
「……ああいうの、本人が一番つらいよね」
慰めのつもりだったのかもしれない。でも、「ああいうの」という言葉が、私を完全に“出来事”に変えた。
私はもう、名前じゃなくなった。
あの日の何か、それだけになった。
笑い声。
ざわめき。
自分に集まった、あの視線。
「気にしすぎだよ」
「もう終わったことじゃん」
そう言われるたび、じゃあ、この苦しさは何なんだろう、と思った。終わったのは、出来事だけだ。私の中では、何ひとつ終わっていない。
声をかけてくれた、あの子とは、ちゃんと話せていない。感謝を伝えたいのに、目を合わせるだけで胸が詰まる。”あの子”にまで「思い出させてしまう」気がして、距離を取ってしまった。
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、男子が笑いながら通り過ぎる。私のほうを見ていない。それなのに、体が勝手に強張る。笑い声が、全部自分に向けられている気がする。違うと分かっているのに、体が信じてくれない。
家に帰って、制服を脱ぐ。鏡に映る自分を見て、思う。
——この体がなければ。
そんな考えが浮かんだ瞬間、自分が怖くなった。でも、否定できなかった。夜、布団に入ると、体が勝手に縮こまる。目を閉じると、プールの水の冷たさと、熱く焼けるような感覚が、同時によみがえる。
眠りたいのに、眠れない。
忘れたいのに、忘れられない。あの日以来、私はずっと、「見られる前の自分」に戻りたかった。
何も起きなかった頃の自分。
誰にも知られていなかった自分。
でも、どれだけ願っても、時間は戻らない。
終わった場所に、ひとりだけ取り残されたままだった。それなのに、毎日、少しずつ、確実に、私は削られていった。
学校は続く。私は、そこにいる。ただそれだけのことが、どうしようもなく、苦しかった。

