美智子はベンチに腰を下ろしたまま、足を動かさずにいた。
両足を地面につけているだけで、足の裏がじん、と熱を持つ。歩くたびにズキズキと疼いた感覚が、まだ靴の中に残っている。
靴の中に画鋲を入れられたのだと、考えるより先に、体が知っていた。何かを踏みつけた瞬間の、あの鋭い感触。思い出そうとしなくても、足の裏が勝手に記憶を引きずり出す。
靴を脱げば、楽になる。中を確かめて、画鋲を取り出してしまえば、それで終わる。たったそれだけのことだと、頭では分かっていた。
それでも、美智子は動かなかった。
靴ひもに手を伸ばす気力が、なぜか湧かなかった。
痛みが、消えてしまう気がした。
この小さな痛みだけが、今の自分をここにつなぎ止めているように思えた。何も感じなくなってしまうよりは、まだましだ。歩くたびに足の裏を刺す感覚が、否応なく思い知らせてくる。――まだ、ここにいるのだと。
もしこの痛みがなくなったら、自分は何を頼りに立っていればいいのだろう。
そう考えた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
フェンスの向こう、公園を横切る誰かの声と足音。ランドセルがぶつかる音。世界は何事もなかったように続いている。時間はきちんと進み、誰かは笑い、誰かは友だちと並んで歩いている。
その輪の中に、自分の居場所はない。
近づけば、冷たい視線が返ってくる。
言葉を出せば、どこかで必ず、くすりと笑われる。その笑いが消えたあと、自分だけが浅く切れていることに気づく。
――そのときだった。
何気なく顔を上げた視線の先で、フェンスの向こうに立つ影と、目が合った気がした。
ほんの一瞬。確かめる間もないほど短い時間。
あ、とも、誰だとも、考える前に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
足の裏の痛みが、一瞬だけ遠のく。
伊南真保呂。
名前だけが、遅れて浮かぶ。
見られてはいけない、と思った。
同時に、見つけてほしかった、という気持ちが、どこかで微かに疼いた。
けれど次の瞬間、その視線は外れた。
相手は前髪を直すような仕草で目を伏せ、美智子の存在は、なかったもののように風景へ溶けていく。
美智子は、膝の上で組んだ指に、わずかに力を込めた。
呼吸が、少しだけ遅れる。
――やっぱり。
期待した自分が、ひどく惨めに思えた。
気づかれたとしても、何が変わるわけでもない。声をかけられることも、手を差し伸べられることもない。ただ、見ただけ。見て、通り過ぎただけだ。
それでも、胸の奥に残った小さな揺れが、かえって痛かった。
その感覚が、なかなか抜けない。
気づけば、自分の輪郭が曖昧になっていた。
沈殿した水を揺らすように、触れないようにしていたものが、底からゆっくり浮かび上がってくる。
胸の奥が、重く沈んでいく。
何かを訴えたい気持ちは、ずっと前に削られていた。声を上げる前に、どうせ無駄だと分かってしまったからだ。誰かに助けを求める想像さえ、今では遠い。
どうせ、届かない。
分かってもらえない。
風が吹き抜ける。
葉が擦れ合い、遠くで誰かの足音が乾いたリズムを刻む。どれも美智子とは無関係な音だった。世界は彼女を避けるように、何事もなかった顔で今日を続けている。
美智子はベンチに腰を下ろしたまま、膝の上で指を組み、動かなかった。
痛みを抱えたまま、そこに留まる。それ以外の選択肢が、もう思い浮かばなかった。
「消えたい」
言葉は唇まで届かず、胸の奥で折り返した。小さな反響だけが、内側に残る。
確かに感じられるのは、足の裏の痛みだけだ。靴の中に潜むその小さな異物が、今の自分を現実に縫い留めている。
これがなければ、きっとどこかへほどけてしまう。
膝の上で組んだ指先が、わずかに靴ひもに触れた。ほんの一瞬、脱ごうと迷った手は、すぐに止まる。
真保呂の背中が遠ざかっていくのを見つめるうち、胸の奥がじわじわと重く圧迫されていく。
視線の先には、もう誰もいない。
それでも、美智子はゆっくりと立ち上がった。
痛みはまだ、足の裏に残っていた。
両足を地面につけているだけで、足の裏がじん、と熱を持つ。歩くたびにズキズキと疼いた感覚が、まだ靴の中に残っている。
靴の中に画鋲を入れられたのだと、考えるより先に、体が知っていた。何かを踏みつけた瞬間の、あの鋭い感触。思い出そうとしなくても、足の裏が勝手に記憶を引きずり出す。
靴を脱げば、楽になる。中を確かめて、画鋲を取り出してしまえば、それで終わる。たったそれだけのことだと、頭では分かっていた。
それでも、美智子は動かなかった。
靴ひもに手を伸ばす気力が、なぜか湧かなかった。
痛みが、消えてしまう気がした。
この小さな痛みだけが、今の自分をここにつなぎ止めているように思えた。何も感じなくなってしまうよりは、まだましだ。歩くたびに足の裏を刺す感覚が、否応なく思い知らせてくる。――まだ、ここにいるのだと。
もしこの痛みがなくなったら、自分は何を頼りに立っていればいいのだろう。
そう考えた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
フェンスの向こう、公園を横切る誰かの声と足音。ランドセルがぶつかる音。世界は何事もなかったように続いている。時間はきちんと進み、誰かは笑い、誰かは友だちと並んで歩いている。
その輪の中に、自分の居場所はない。
近づけば、冷たい視線が返ってくる。
言葉を出せば、どこかで必ず、くすりと笑われる。その笑いが消えたあと、自分だけが浅く切れていることに気づく。
――そのときだった。
何気なく顔を上げた視線の先で、フェンスの向こうに立つ影と、目が合った気がした。
ほんの一瞬。確かめる間もないほど短い時間。
あ、とも、誰だとも、考える前に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
足の裏の痛みが、一瞬だけ遠のく。
伊南真保呂。
名前だけが、遅れて浮かぶ。
見られてはいけない、と思った。
同時に、見つけてほしかった、という気持ちが、どこかで微かに疼いた。
けれど次の瞬間、その視線は外れた。
相手は前髪を直すような仕草で目を伏せ、美智子の存在は、なかったもののように風景へ溶けていく。
美智子は、膝の上で組んだ指に、わずかに力を込めた。
呼吸が、少しだけ遅れる。
――やっぱり。
期待した自分が、ひどく惨めに思えた。
気づかれたとしても、何が変わるわけでもない。声をかけられることも、手を差し伸べられることもない。ただ、見ただけ。見て、通り過ぎただけだ。
それでも、胸の奥に残った小さな揺れが、かえって痛かった。
その感覚が、なかなか抜けない。
気づけば、自分の輪郭が曖昧になっていた。
沈殿した水を揺らすように、触れないようにしていたものが、底からゆっくり浮かび上がってくる。
胸の奥が、重く沈んでいく。
何かを訴えたい気持ちは、ずっと前に削られていた。声を上げる前に、どうせ無駄だと分かってしまったからだ。誰かに助けを求める想像さえ、今では遠い。
どうせ、届かない。
分かってもらえない。
風が吹き抜ける。
葉が擦れ合い、遠くで誰かの足音が乾いたリズムを刻む。どれも美智子とは無関係な音だった。世界は彼女を避けるように、何事もなかった顔で今日を続けている。
美智子はベンチに腰を下ろしたまま、膝の上で指を組み、動かなかった。
痛みを抱えたまま、そこに留まる。それ以外の選択肢が、もう思い浮かばなかった。
「消えたい」
言葉は唇まで届かず、胸の奥で折り返した。小さな反響だけが、内側に残る。
確かに感じられるのは、足の裏の痛みだけだ。靴の中に潜むその小さな異物が、今の自分を現実に縫い留めている。
これがなければ、きっとどこかへほどけてしまう。
膝の上で組んだ指先が、わずかに靴ひもに触れた。ほんの一瞬、脱ごうと迷った手は、すぐに止まる。
真保呂の背中が遠ざかっていくのを見つめるうち、胸の奥がじわじわと重く圧迫されていく。
視線の先には、もう誰もいない。
それでも、美智子はゆっくりと立ち上がった。
痛みはまだ、足の裏に残っていた。

