わかんないよ。わかんないさ、わかんないね


埃の匂いが鼻に残る。それは、家にいるよりも呼吸がしやすい匂いだった。
 窓から差し込む朝の光が、誰もいない学校の床を無遠慮に照らしている。伊南真保呂(いなみまほろ)は朝の学校が好きだ。
 耳に入るのは水槽のエアレーターが吐く、規則正しい小さな泡の音だけ。私は昇降口で上履きに履き替え、静かな廊下を歩き出す。
階段を上るにつれて、ワックスの匂いと湿ったコンクリートの冷たさが混じり合い、この時間帯特有の空気が肺いっぱいに広がった。
  教室の扉を開けると、整頓された机と机の間をすり抜けるように光が伸び、床に四角い影を落としていた。夜のあいだに何も起こらなかったらしいと、整然と並ぶ机が無言で伝えてくる。その事実だけで、胸の奥の力がわずかに抜けた。
 窓際の席に鞄を置き、カーテンを半分だけ開けた。小さな机と椅子の並ぶ教室は、小学校ならではの柔らかい空気に満ちている。外では、まだ眠たげな校庭の木々が風に揺れている。
 ここでは、誰も私に話しかけない。名前を呼ばれることも、期待されることもない。ただ、朝の光と静けさだけが平等にそこにある。

だからこそ、チャイムが鳴る前のこの時間が、私にとって、一日の中でいちばん素でいられる瞬間だ。
誰も来ないうちに、私は雑巾を取り出し、田村美智子(たむらみちこ)の机に書かれた落書きを急いで落とした。
 水を含んだ布が木目をなぞるたび、爪でひっかいたような角ばった黒い線は、意味を持たない染みへと変わって、やがて形を失っていく。
  乱暴な言葉だった。意味を確かめるまでもない。毎朝ここに来る理由のひとつは、それを見ないふりができないからだと、真保呂は思う。

 机の端に残った薄い影を、何度か指で擦る。完全には消えない。それでも、誰かの目に入る前なら、それでよかった。
 廊下の向こうで足音がした。真保呂は反射的に雑巾を鞄に押し込み、何もしていなかった顔をして教室を出た。心臓が一拍、余計に音を立てる。
 けれど、足音は階段を上らず、そのまま遠ざかっていった。
 小さく息を吐く。振り返ると、窓からの光がさっきより少し角度を変え、机の上を照らしていた。消えかけた文字の跡は、光の中では、ほとんど分からない。
それでいい。少なくとも今は。
 
「真保呂ちゃん知ってる?今、学校近くの公園で映画の撮影してるんだって」
 
 放課後になると、決まって飛びつくように話しかけてくる下田由紀(しもだゆき)が目を丸くさせて言った。由紀の声は、机に置いた鞄の金具みたいに、教室の空気に軽くぶつかって跳ねた。私はその音が消えるまで返事を待つ癖があった。教科書から顔を上げ、由紀の方を見る。由紀は机に両手をつき、身を乗り出している。放課後になると必ず、こうして新しい話題を運んでくるのだ。
 
「映画?」
「そう!エキストラも募集してるらしいよ。ほら、たまに来るじゃん、有名な俳優とか」

 由紀の声は少し弾み、教室の空気もざわつき始めた。カバンを閉じる音、椅子を引く音――朝の静けさとは別の、日常の騒がしさが戻ってくる。

「へえ」

 それだけ言い、ページの端を押さえた。親指と人差し指にわずかに力が入り、紙が少し歪む

「反応うすいなあ。真保呂ちゃん、こういうの興味ない?」
「ないわけじゃないけど……」

 言葉を探す間、窓の外に視線を向ける。校庭の向こう、フェンスのさらに先の道。映画の撮影が行われているという公園は、もちろん見えない。

「人が多いところ、あんまり得意じゃないだけ」
「それ、前も言ってたね」

 由紀はあっさり引き下がった。残念そうでもなく、むしろ納得したような顔だ。その軽さに、肩の力が抜けていくのを感じ、私は自然に由紀を見た。
 廊下の奥で、誰かが美智子の名前を叫ぶ声が微かに響く。瞬間、肩に微かな緊張が戻る。私の中でまだ形にならない感情を、指先でそっと押すようだった。それでも、振り向かなければならない理由は、どこにもない。
 その声の行方に意識を向けないようにした。

「ねえ、真保呂ちゃん」

 由紀が声を落とす。

「一緒に帰る?」

 一緒に、という言葉の重みが思ったより耳に残る。

「……少しだけなら」

 そう答えると、由紀は嬉しそうに笑った。
 無意識に指先をこすり合わせる。雑巾を握った感触がまだ残っていた。
 廊下を出た先に、美智子の姿はもうなかった。代わりに、静かな時間がゆっくりと流れていた。