燃ゆる重富

 水道屋がスマートな仕事だと勘違いしていた。蛇口の修理やメーター検針など楽なものだと想像していた。しかし、実際は穴掘り作業の毎日だ。入社してまだ二週間だが、すでに辞めたくなっている。先輩たちはバックホーで掘る。新米の私はシャベルで掘る。二〇代の時分はプライドが高く、気に入らない職場は平気で足蹴にしてきた。四十路ともなれば仕事を選べる年齢ではない。別れた妻とその父に頭を下げてまで紹介してもらった職場だ。ここを先途と覚悟して県都松江から中山間地の浜田市旭町重富に転居したものの、業務内容のきつさに心が折れていた。
 年間休日日数は八十八日。隔週で土曜日は出勤しなければならない。薄給なうえ、自宅から職場の同市金城町下来原まで十五キロの距離を車で通うが、通勤手当は出ない。廃校になった小学校の教員宿舎を旭支所が破格の安値で貸すというので重富に住まいを決めたが、過酷な生活環境にこれまた心が折れた。
 宿舎にはエアコンがなかった。私は五月末に引っ越しを済ませ、六月一日から働いていたが、旭町は蒸し暑い。とくに重富はそれが顕著で、異常気象が特別ではなくなった昨今においては朝晩も気温が下がらず、扇風機だけで過ごす生活は地獄だった。種々の虫や蛙の鳴き声も当初は気に入っていたが、次第にやかましくなった。転居してからというもの、まともに眠れたことがない。夜空だけは美しかったので、無数の星々を何時間も眺めているという具合だった。広大な宇宙に吸い込まれる感覚が聴覚を鈍化させるのか、やかましい鳴き声は空を見上げているときだけは心地よかった。このような生活をしていると、肝心の仕事で呆けていることが多く、先輩に怒鳴られることが当たり前になっていった。入社から一ケ月後には誰からも口をきいてもらえなくなった。話しかけても無視される日々が続いた。
 手透きになると、私は膨大な継手を覚える風を装って用具小屋に籠っていた。みな私にやる気がないことはわかっていたかもしれないが、誰も声をかけてくることはなかった。現場に出ると私は孤独だった。施工のほとんどは住宅の下水道の修繕だった。新たに配管を組み直すとしても創造力と技術が求められる。継手やパイプをいかにうまく繋げていくか先輩たちは楽しそうに働いていた。私は穴掘りの後は用無しで、ただ立っているだけだった。入社二ケ月後には、先輩から路傍の石のように何気なく蹴られたり、スコップで頭を叩かれるようになった。
 唯一の救いは午後五時に必ず終業することだった。それは会社の就業規則で決まっているわけではなく、その時間になると各家庭で夕食の準備が始まるという理由からだった。終礼が済むと先輩らは次々と帰宅していく。新米で役立たずの私は先輩に挨拶をしてから最後に退社する。むろん、先輩らは私の挨拶など無視して去って行く。残された私は短ければ三〇分、長いときは一時間にわたって社長と事務をしている社長の妻から叱責された。社長は注意ていどのものだったが、妻にいたっては人格否定の発言を連発した。私は黙して耐えた。聞き流しているつもりでもストレスが蓄積していたのだろう。帰宅後、付近の田畑に巡らされている害獣除けの電柵に手が伸び、触れたくなる気持ちになることが度々あった。
 星を眺めることはなくなり、夜中に景勝地の断魚渓に車で行ったり、川本町や広島県境まで行ったりすることが日課になった。とくに断魚渓はおぞましい名称もさることながら、何も見えない夜分に訪れるには不気味で、すでに心を病んでいた私にとってはむしろ憩いの場だった。
 七月下旬の休日、昼間だったが、重富に来て初めてまとまった睡眠がとれた。しかし、気持ちよく目覚めたわけではなかった。左頬に熱を感じて起きるとベッドに積まれていた書籍が燃えていた。私はジタンというフランスの煙草を吸っていたが、しっかり始末しないと火が消えない銘柄として知られていた。用心して揉み消したつもりだったが、何かの折に灰皿がひっくり返ったらしく、ほかの煙草に火が移り、書籍の炎もみるみる大きくなった。急いでどんぶりに水道水を入れ消火した。被害は四六判の書籍二冊だけで済んだ。その二冊の下には岩波書店のプルースト『失われた時を求めて』全十四冊を収めた函が置かれていた。中身を確認すると第一冊と第十四冊が濡れていた。フランスに恨みはないが、捨て鉢になっていた私は再度どんぶりに水を入れると、函を床にぶちまけ、全十四冊にボタボタと水を垂らした。第八冊まで読了していたが、もはやどうでもよかった。この一件を機に私は辞職する決意を固めた。
 盆には帰省する予定でタイミングもちょうどよかったので、八月になってすぐに社長に退職届を提出した。社長は黙って受け取ったが、同席していた社長の妻は堰を切ったように私に対して雑言を吐いた。転職先を決めたものと誤解しているのか、
「あんた、うちは腰かけだったってことか!」
 と、鋭い光を目に宿して激昂した。
 私は身を固くしつつも、自身の至らなさを丁寧に説明した。が、彼女の顔は険しさを増していく。
「うちの若いもん行かせて、あんたの家を燃やしてやる!」
いよいよ彼女の憤怒は天蓋を突き抜けてしまったようだった。
 その後、どれほど怒鳴られ、そのたびに平謝りを続けたかわからない。帰宅してからも彼女の脅迫が頭から離れず、深夜二時ごろに浜田警察署に向かった。当直担当者の男性警察官にすべてを話した。彼は調書か何かにペンを走らせながら真剣に聞いてくれたが、そんなことは起こらないから安心してほしいと繰り返した。そのうち、署内の上の階から誰かの怒声が聞こえた。警察も信用できない。このままでは放火される。もしかしたら、まさにいま家は燃えているかもしれない。私は恐怖に怯えながら急いで警察署を辞した。
 重富に戻ると家は燃えていなかった。もう会社都合で退職になってもかまわないと思ったので、無断欠勤して籠城し、焼き討ちに備えることにした。どうせ眠ることはできないのだから、部屋の蛍光灯は点けっぱなしにし、スマホで古今東西を問わず、籠城戦について検索した。参考になる戦はなかった。兵糧攻めをされるとまずいと思い、米だけでも買いに出ようとした。が、火を放たれては米があっても仕方がないと気付き、ほかの案を考えた。
 ベッドで思案しているうち、かつて所持していたモデルガンの火薬があったことを思い出した。ワルサーPPKという小銃だったが、発砲音は大きかった。押し入れの段ボールを漁ると、モデルガン専用火薬が一シート五〇発、三シートあった。敵がやってきたら、シートに点火すれば爆竹のようにバチンバチンと凄まじい破裂音がするに違いない。とはいえ、これで退かない可能性もある。油断はできない。ほかの段ボールを開けると、百人の僧侶が「般若心経」を唱和したものが収録してあるCDを見つけた。こいつを大音量で浴びせれば敵もおいそれと攻撃できないはずだ。だが、すぐにCDを再生する機材がないことに気付いた。私は頭を抱えた。これでは戦えない。包丁はさすがに持ち出せない。急に恐怖心に駆られ、ベッドに転がりタオルケットを被った。もう終わりだ。私はここで焼かれて死ぬ。
 それから四日ほど、一睡もせず怯えていた。何も食べていないせいか、はたまた寝ていないせいか、悪寒が酷かった。会社からと思われる電話が何度も鳴ったが無視し続けた。電話に出てしまうと、あの社長の妻がいよいよ宣戦布告してきそうで怖かった。いや、もうあの脅迫が宣戦布告そのものだ。タオルケットをぎゅっと握りしめた。すると、チャイムが鳴った。玄関で誰かが叫んでいる。いよいよ来たのかと、おそるおそるドアスコープを覗いた。警察官だった。私はすぐにドアを開け、会社の人間に放火されると訴えた。警察官は最寄りの和田駐在所から来たと言い、高齢者の熱中症予防など戸別訪問して呼びかけているらしい。私はもういちど放火される危機にあることを訴えたが、そんなことは絶対にないと笑って去った。
 警察官と対面して初めていまは昼間だと認識した。警察は当てにならず、自衛のための十分な能力もない。もう逃げるしかなかった。私は車に乗ると、旭インターチェンジから高速に乗った。とにかく浜田市から離れたかった。古い軽自動車なのでエアコンをつけるとスピードが出ない。窓を開けると熱気が車内に流れ込んできた。それを振り切るかのようにスピードを上げた。
――ガガガガガガッ!
何か大きな音がした。フロントガラス越しに白い煙が見える。事故を起こしてしまったと思った。
目を覚ますと天井が見えた。しばらくして、ここが病院だとわかった。ベッドの横には元妻が椅子に座っていた。彼女の説明によると、居眠り運転でガードレールに衝突したらしい。左前輪とバンパーがごっそり落ちていたという。本線ではなく、金城パーキングエリア入口でぶつかったから、交通に影響はなかったようだ。救急搬送されたが、怪我もなく今日中に退院できる見込みだと話した。
 私が黙っていると、手を握って謝りだした。表情は暗く、どんどん小声になって十分に聞き取れなかったが、とんでもない会社を紹介してしまったと嘆いているようだった。彼女の父も後悔しているらしい。私は事故も含め、すべては自身の落ち度で二人には何の責任もないと言った。むしろ感謝していると伝えると、少し穏やかな顔つきになった。
 病室の窓に目を向けると真っ赤な西日が射し込んでいた。まるで炎のような。だが、それも夜の訪れとともに消えていくだろう。