「今の『間』、もう0.2秒だけ詰めてみてよ」
気づけば僕は、学園のカリスマを相手に生意気な指示を出していた。 放送部室の空気は、練習を始めて一時間が過ぎた頃には、僕たちの熱気で少しだけ湿り気を帯びていた。
「0.2秒……こうか? 『お釣りのお返し、一万両になります』」 「……いや、それだと『一万両』のインパクトに神崎くんが自分で酔ってる。もっと無機質に、事務的に。その方が落語家っぽさが際立つから」 「なるほどな。理屈はわかる。……お前、本当に厳しいな、高田」
神崎くんは額の汗を手の甲で拭うと、愉快そうに笑った。 その屈託のない笑顔を見るたびに、僕の心臓は変な跳ね方をする。深夜ラジオのヘビーリスナー特有の「ひねくれた自意識」が、彼の真っ直ぐな光にさらされて、溶けてしまいそうになる。
「……別に厳しいわけじゃないよ。神崎くんが『完璧』を目指すから、僕もそれに応えようとしてるだけ」 「いいよ。その『応えようとしてる』って言葉、めちゃくちゃ嬉しい」
神崎くんが僕の顔を覗き込んできた。 さっきから何度も繰り返しているネタ合わせの立ち位置。センターマイクに見立てた古いスタンドマイクを挟んで、僕たちの距離は常に、手を伸ばさなくても触れ合えるほどに近い。
「ねえ、高田。ちょっと休憩しようぜ。これ、飲むか?」
彼がカバンから取り出したのは、一本のスポーツドリンク。彼はそれを一口飲むと、当然のように僕に差し出してきた。
「え……いいよ。僕、自分のあるし」 「いいから。俺たちの間柄だろ?」
『俺たちの間柄』。 その響きに、喉の奥が熱くなる。 昨日の今頃までは、ただの「クラスメイト」ですらなく、「風景」と「王子様」だったのに。 僕は戸惑いながらも、彼の手からボトルを受け取った。彼が口をつけた部分。冷たいボトルに残る、彼の指先の温度。それを意識しないように一気に流し込むけれど、結局、心臓の音は大きくなるばかりだった。
「……神崎くん。どうして僕なの?」
ボトルを返しながら、ずっと胸に溜まっていた問いを口にした。 「漫才なら、もっと他にいくらでもいるでしょ。サッカー部とか、ダンス部とか。君と同じように華があって、喋りが上手い人なんて……」
「華があるやつなんて、飽きるほど周りにいるよ」 神崎くんは、放送室の窓に寄りかかり、遠くの校庭を眺めた。 「でも、誰も俺の『中身』に興味を持ってくれない。みんな、神崎龍一っていうブランドを好きなだけなんだ。……でも高田は違った。俺がラジオの話をした時、君は俺の顔じゃなく、俺の『言葉』を聴こうとした。それが、俺にとっては奇跡みたいに嬉しかったんだ」
彼は視線を校庭から僕へと戻した。 夕闇がさらに深まり、部室の照明はつけていない。暗がりに慣れてきた視界の中で、神崎くんの瞳だけが、夜の星のように強く光って見えた。
「俺、高校生漫才グランプリに出たいのは、有名になりたいからじゃない。お前の書く言葉を、一番かっこよく世の中に届けられるのは、俺だって証明したいんだ。……これって、傲慢かな?」
「……傲慢だよ。すごく」 僕は俯いて、自分でも驚くほど小さな声で答えた。 「でも……僕も、神崎くん以外がこのネタをやるのは、想像できない」
それが僕の精一杯の「告白」だった。 神崎くんは一瞬目を見開いたあと、まるで宝物を見つけたような顔をして僕の手を握った。
「決まりだな。……よし、もう一回やろう。次は『コンビニ店員』の後の、あのシュールなくだり。高田がボケるパート」
「えっ、僕がボケるの? ツッコミじゃなくて?」 「お前のボケは、狂気があって最高なんだよ。ほら、マイクの前に立て」
神崎くんが僕の背中に手を添え、グイと自分の方へ引き寄せる。 その拍子に、僕の体は彼の胸元にすっぽりと収まってしまった。 重なる肩、触れ合う腕。 静かな放送部室に、ドクドクと、自分のものではない鼓動が響いているような気がした。
いや、これはきっと、僕の鼓動だ。 神崎くんという「太陽」の周波数を、僕の体が全力でキャッチしてしまっている。
「……近いよ、神崎くん」 「……ああ。でも、漫才ってこれくらい近くないと、伝わらないだろ?」
彼は離れようとせず、低い声でそう囁いた。 その声は、深夜ラジオで聴くどんな名パーソナリティの美声よりも、深く、甘く、僕の心の奥底を揺さぶった。

