ボケとツッコミと、震える唇

「……無理だよ。絶対に無理だ」

僕は放送室の隅、機材ラックの影に隠れるようにして、手元のノートを抱え込んだ。 目の前には、学園の誰もが羨む端正な顔立ちを、これ以上ないほど真剣に歪めた神崎くんが立っている。

「なんでだよ。さっき『砂の惑星』の正体、認めたじゃないか。あんなにキレのあるネタを書けるやつが、何が無理なんだ」

「書くのと、人前でやるのは違うんだよ。僕は……僕は、布団の中で、ラジオの向こう側にいる人にだけ届く言葉を投げているのが心地いいんだ。直接、誰かの反応を見るなんて、心臓が持たない」

僕は、彼から視線を逸らした。 神崎くんは、僕とは対極にいる人間だ。全校集会でマイクを持てば誰もが静まり返り、彼の一挙手一投足に視線が集まる。そんな彼が、どうして僕のような、夜の静寂だけを友にしている人間に執着するのか。

「高田。お前の言葉は、もっと広い場所で響くべきなんだ」

神崎くんが、ゆっくりと歩み寄ってくる。 狭い部室には、埃っぽい匂いと、少しだけ使い古された機材の熱がこもっている。 彼は僕のすぐ前で足を止め、視線を合わせるために少しだけ腰を落とした。

「俺はさ、小さい頃からずっと『神崎龍一』を演じてきたんだ。親の前でも、教師の前でも、女子たちの前でも。完璧で、スマートで、悩みなんてなさそうな王子様。でもさ、ラジオを聴いている間だけは、その『役』から降りられる。お前のネタを聴いた時、初めて『ああ、俺と同じように世界を斜めから見てるやつがいる』って思えたんだよ。嬉しかったんだ、すごく」

彼の大きな手が、僕の肩にそっと触れる。 その温かさが、制服越しに伝わってきて、僕は動けなくなった。 窓から差し込む夕日が彼の長い睫毛に影を落とし、その瞳が熱っぽく潤んでいるように見える。

「俺を、お前の『役』にしてくれよ。お前が頭の中で描いてる最高に面白い世界を、俺の体を使って表現させてほしい。……ダメか?」

そんなふうに真っ直ぐ見つめられたら、僕みたいな「ハガキ職人」に断れるはずがない。 僕は震える指先で、抱えていたノートをゆっくりと開いた。

「……本当の漫才は、ラジオのネタ投稿みたいに、一方通行じゃないよ。相方の呼吸を読んで、間(ま)を測って、相手が欲しがってる言葉を、一番いいタイミングで投げなきゃいけないんだ。神崎くんに、それができるの?」

僕は、精一杯の「理屈」で武装して問い返した。 すると、神崎くんはパッと顔を輝かせ、僕の手からノートをひょいと取り上げた。

「やってやるよ。まずはここにある、先週ボツになったっていう『コンビニの店員が全員ベテランの落語家だったら』っていうネタ。これ、今からここで合わせようぜ」

「えっ、今!? 立ち位置とか、マイクの高さとか……」

「いいから。ほら、高田、こっち立てよ」

彼は僕の腕を掴み、無理やり部室の中央へと立たせた。 僕の左肩と、彼の右肩が触れ合う。 1.5メートルどころか、数センチの距離。隣から、彼の体温と、かすかに石鹸のような清潔な香りが漂ってくる。

「……じゃあ、俺から入るからな。……どうもー、神崎です」 「……高田です」 「いやー、最近のコンビニって便利だけど、接客がマニュアル通りで味気ないよね」

神崎くんの声は、いつもの「王子様」のものとは違っていた。少しだけトーンを落とし、僕だけに語りかけるような、親密で、熱い響き。

僕は、彼が投げた言葉を、必死で打ち返そうとする。 「そうだね……。でも、お釣りをもらう時に『おあとがよろしいようで』って言われたら、もう二度とその店行けないよ」

「……ははっ!」

神崎くんが、素で笑った。 台本通りのツッコミじゃなく、僕の「言葉」そのものに反応してくれた。

その瞬間、僕の中で何かが弾けた。 深夜の暗闇で一人で笑っていたあの孤独な時間が、彼という「相方」を得て、色鮮やかな光を帯びていく。

「高田、今の間、最高。もう一回、今のところから!」

彼は興奮したように僕の背中を叩いた。 痛い。でも、心地いい。 僕たちは、狭い放送部室で、たった二人のための「公開録音」を繰り返した。 窓の外でカラスが鳴き、最終下校のチャイムが鳴り響いても、僕たちの「フリートーク」は終わる気配がなかった。

これが、僕が「誰かを自分の中に入れたい」と初めて願った、最初の放課後だった。