連休明けの夜勤で張り切って働いているうち、面倒な客を乗せてしまった。またも「ビエンベニード」からの客だった。ドリンクホルダーにノンアルコールビールが置いてあることを十一時ごろから咎められている。ハンドルの左奥でギアチェンジを繰り返していたら、センターコンソールに視線が移るのは自然だろう。酔っ払いなら見つかることはないと油断していた。
客は二〇代半ばと思しき男。もといゴミ。江津市に住んでいたことがあるらしく、「江津でもノンアルなんて飲んでるドライバーいなかったぞ」「おまえ、会社に連絡されたら困るだろ? どうするんだよ?」などと同じ批判を繰り返していた。私はゴミが一息入れるたび、その間隙をついて抗不安薬を二錠ずつ舌下摂取した。ヒナタから伝授された車内封鎖は実行可能な状況にしてある。が、長引くとは思わなかったので、料金が上がらないようメーターだけ止めて平謝りを続けている。日付が変わった。
「なあ、どうすんだよ? おまえにも家族とかいるんだろ?」
「すみません」
「すみませんじゃねえよ。おまえの人生これからどうするんだよ?」
どうもこうもない。タクシードライバーの募集はいくらでもある。大型自動車免許もあるし、トラックドライバーの求人も掃いて捨てるほどある。失職を怖れているわけではない。こんなゴミに説教されているのが悔しくてたまらないのだ。同様の問答がさらに三〇分続いた。ゴミは自分より低級なゴミと映った私に説教することで満足したのだろう。走行を許可された。料金メーターをここで切ろうとしたが、彼は支払いはすると言ったので、再度メーターを回した。ゴミの家は五分もかからずに着いた。1190円だった。彼は五千円を置くと、自分でドアを開けて降車した。
「おまえも頑張れよ。応援してるからな。釣りはいらねえから。とにかく頑張れよ」
そう言い残すと二階建てアパートのほうへ歩いて行った。「離れ」を押してシートを倒した。急に腹が立ったので外に出て叫んだ。
「おい! 会社じゃなくて旅客自動車協会に言わないと意味ないぞ!」
彼の姿はもう見えなかった。虚しい静寂があるだけだった。あのようなゴミこそ知的障害者ではないのか。憤りが収まらないので抗不安薬を五錠ノンアルコールビールで流し込んだ。忘れ物の確認を失念していたので、後部座席のシートとフロアマットを目視した。助手席の下も確認したが何もなかった。スマホが振動しているような音がしたため、もういちど後部座席のシートとフロアマット、助手席の下を確認した。助手席のフロアマットに落ちているスマホが光っていた。私のスマホだ。急いで助手席のドアを開け、スマホを耳に当てた。
『ケンサクくん? 今日は走ってる?』
懇意にしてもらっているナイトクラブ「アブリル」のママからだった。私もよく飲みに行くのでウィンウィンの関係だ。
『一時ごろって大丈夫? ルナを送ってくれる?』
「今日は三時までなので、大丈夫ですよ」
『じゃあ、お願い』
ママの家は都野津の県営住宅だ。都野津はおそらく亜細亜市内で最大規模の広さだろう。迷路のように複雑で、何回も通って学習しないと出ることすら難しい。ママの送迎で県営住宅には何度も行ったことがあるが、住まいは少なくとも一階ではない。ドアの前で客を迎えるというのは明らかにプライバシーの侵害なので、建物から少し離れた場所で待つようにしている。ルナちゃんはママの長女で、いちど乗せたことがある。去年の春に岡山県の四年制大学に進学した。国公立か私立かは訊いていない。亜細亜と比べると岡山のほうがはるかに大学は多い。が、もし国公立となると通学先がかなり絞られてしまう。私のようなゴミでも良心はある。まだ十九歳なので酒は飲めないが、今日は土曜日だから店を手伝っているのだろう。ママに似て美人で礼儀正しい子だ。ママは、女手一つでよく立派に育てたものだと感心する。「アブリル」は亜細亜二丁目なので気が引けたが、店から近いコンビニで待機することにした。コンビニに着くと、一時まで十五分あった。喫煙所で煙草を吸いながらスマホをいじっていたら、ミオリからラインが来た。
『さびしい』
既読スルーしようとしたが、『何か食べたいものある?』と返信した。
『アイス食べたい』
適当に「オーケー」というスタンプを送った。アイスのような砂糖菓子は血糖値が乱高下するのでメンタルケアの点であまり食べさせたくなかったが、制限するのもストレスになるので、何個か買って一緒に食べようと思った。脂質も高いので、ちょっとした睡眠導入剤の代わりにはなるだろう。ミオリもシングルマザーだが、いまは里親に任せて自分のことを考えたほうがいい。いざとなれば、私が父親の代わりをしてもいいと思っている。五分前になったので店に向かって発車した。
「アブリル」の前に停車して店のドアを開けた。
「あ、もうお迎えか」「ワシが呼んだタクシーかな?」と店内がざわついた。
ママはスマホ片手に誰かと話しながら、「外で待ってて!」と大声で言った。おそらく電話の相手は別れた元夫だ。事情は知らないが、接客を他の従業員に任せて怒鳴っている姿を何度も見ている。家庭生活にまつわる言葉がたびたび出ていたので元夫だろう。あくまで私の憶測を出ないが、一本芯の通った人だと改めて感心した。
歓楽街は文字通りゴミだらけで汚い。が、夜空は美しい。都会はコンクリートジャングルで空も見えないのではないか。ゴミの亜細亜にはもったいない空だと眺めていたら、ママとルナちゃんが出て来た。ルナちゃんは白のラウンドネックにジーンズ姿だった。普段着だと思ったが、美人が着ると洗練されて見える。髪は黒のセミロングのままで高校生のころと変わっていなかった。
「ごめんごめん。ケンサク君、ルナ送ったあと、もう一往復できる?」
「いいですよ。ゆっくり走って片道十二分。急いで十一分ですね。二十二分で店に戻れます」
「了解。じゃあ、待ってるね」
そうは言ったものの、プロドライバーとして安全運転をゆるがせにするわけにはいかなかった。発車しようとしたらエンストした。ルナちゃんを乗せているから緊張しているのかもしれない。恥ずかしくなって急発進してしまった。先ほど痛い目にあったばかりにも関わらず、ドリンクホルダーにノンアルコールビールを置いていた。ルナちゃんは見つけても怒らないという確信があった。やはり私はゴミだ。
「久しぶりだね。いま大学は休みなの?」
「はい。高校の友達と会いたいし、お母さんも忙しそうだし」
ゴミの地で育った人とは思えなかった。心の清らかさや優しさが心地よい澄んだ声に乗って伝わってくる。
「言いたくなければいいよ。もしかして、ぼっちだから帰省したの?」
「友達いますよお。ケンサクさんは友達多そうですよね」
「いるけど、みんな結婚してるからなあ。誰も遊んでくれないよ。ぼっちみたいなもんだよ」
信号が赤になったので、ブレーキをゆっくりかけて止まった。ノンアルコールビールを取って一口飲んだ。
「ノンアルでも飲まないとやってられなくてね。嫌な人ばっかり乗ってくる。神社でお祓いしてもらおうかな」
ルナちゃんは、くすっと笑うと温かみのある声で話した。
「そうなんですね。でも、亜細亜はいい人多いですよ。地元に帰って来ると落ち着きます」
青になったので発進した。こんどはエンストしなかった。何か話したかったが、話題が思いつかなかった。当たり障りのない話題なら何時間でも話せるはずなのに、脳が機能停止したのかと思うくらい何も出てこなかった。県営住宅には、ぴったり十二分で到着した。建物から少し離れた所定の場所に車を停め、ハザードランプを点けた。
「あっという間に着いたね。ルナちゃんは亜細亜は好き?」
「好きですよ。亜細亜しか知らないですけど、大好きです」
ルナちゃんが財布から二千円を取り出したので制止した。料金はいらないと言えば納得しないと思ったので、一年遅れの入学祝いだと言ったら、礼を告げて降車した。
少し車を動かし、ハイビームでルナちゃんの足元を照らした。ルナちゃんは軽い足取りで遠ざかって行った。一階の踊り場で振り返ると手を振った。表情は見えなかったが、彼女は笑顔で手を振ったのだと思う。ハイビームをスモールライトにした。そして、ライトを切った。スマホが振動したので画面を見た。ミオリからのラインだった。メッセージに既読をつけた。
もはや建物の輪郭しか見えない県営住宅を前にして、ゴミのなかにも宝玉があるかもしれないと思った。いや、そうであってほしい。私は四方を明滅するハザードランプの光にずっと包まれていたかった。(了)
客は二〇代半ばと思しき男。もといゴミ。江津市に住んでいたことがあるらしく、「江津でもノンアルなんて飲んでるドライバーいなかったぞ」「おまえ、会社に連絡されたら困るだろ? どうするんだよ?」などと同じ批判を繰り返していた。私はゴミが一息入れるたび、その間隙をついて抗不安薬を二錠ずつ舌下摂取した。ヒナタから伝授された車内封鎖は実行可能な状況にしてある。が、長引くとは思わなかったので、料金が上がらないようメーターだけ止めて平謝りを続けている。日付が変わった。
「なあ、どうすんだよ? おまえにも家族とかいるんだろ?」
「すみません」
「すみませんじゃねえよ。おまえの人生これからどうするんだよ?」
どうもこうもない。タクシードライバーの募集はいくらでもある。大型自動車免許もあるし、トラックドライバーの求人も掃いて捨てるほどある。失職を怖れているわけではない。こんなゴミに説教されているのが悔しくてたまらないのだ。同様の問答がさらに三〇分続いた。ゴミは自分より低級なゴミと映った私に説教することで満足したのだろう。走行を許可された。料金メーターをここで切ろうとしたが、彼は支払いはすると言ったので、再度メーターを回した。ゴミの家は五分もかからずに着いた。1190円だった。彼は五千円を置くと、自分でドアを開けて降車した。
「おまえも頑張れよ。応援してるからな。釣りはいらねえから。とにかく頑張れよ」
そう言い残すと二階建てアパートのほうへ歩いて行った。「離れ」を押してシートを倒した。急に腹が立ったので外に出て叫んだ。
「おい! 会社じゃなくて旅客自動車協会に言わないと意味ないぞ!」
彼の姿はもう見えなかった。虚しい静寂があるだけだった。あのようなゴミこそ知的障害者ではないのか。憤りが収まらないので抗不安薬を五錠ノンアルコールビールで流し込んだ。忘れ物の確認を失念していたので、後部座席のシートとフロアマットを目視した。助手席の下も確認したが何もなかった。スマホが振動しているような音がしたため、もういちど後部座席のシートとフロアマット、助手席の下を確認した。助手席のフロアマットに落ちているスマホが光っていた。私のスマホだ。急いで助手席のドアを開け、スマホを耳に当てた。
『ケンサクくん? 今日は走ってる?』
懇意にしてもらっているナイトクラブ「アブリル」のママからだった。私もよく飲みに行くのでウィンウィンの関係だ。
『一時ごろって大丈夫? ルナを送ってくれる?』
「今日は三時までなので、大丈夫ですよ」
『じゃあ、お願い』
ママの家は都野津の県営住宅だ。都野津はおそらく亜細亜市内で最大規模の広さだろう。迷路のように複雑で、何回も通って学習しないと出ることすら難しい。ママの送迎で県営住宅には何度も行ったことがあるが、住まいは少なくとも一階ではない。ドアの前で客を迎えるというのは明らかにプライバシーの侵害なので、建物から少し離れた場所で待つようにしている。ルナちゃんはママの長女で、いちど乗せたことがある。去年の春に岡山県の四年制大学に進学した。国公立か私立かは訊いていない。亜細亜と比べると岡山のほうがはるかに大学は多い。が、もし国公立となると通学先がかなり絞られてしまう。私のようなゴミでも良心はある。まだ十九歳なので酒は飲めないが、今日は土曜日だから店を手伝っているのだろう。ママに似て美人で礼儀正しい子だ。ママは、女手一つでよく立派に育てたものだと感心する。「アブリル」は亜細亜二丁目なので気が引けたが、店から近いコンビニで待機することにした。コンビニに着くと、一時まで十五分あった。喫煙所で煙草を吸いながらスマホをいじっていたら、ミオリからラインが来た。
『さびしい』
既読スルーしようとしたが、『何か食べたいものある?』と返信した。
『アイス食べたい』
適当に「オーケー」というスタンプを送った。アイスのような砂糖菓子は血糖値が乱高下するのでメンタルケアの点であまり食べさせたくなかったが、制限するのもストレスになるので、何個か買って一緒に食べようと思った。脂質も高いので、ちょっとした睡眠導入剤の代わりにはなるだろう。ミオリもシングルマザーだが、いまは里親に任せて自分のことを考えたほうがいい。いざとなれば、私が父親の代わりをしてもいいと思っている。五分前になったので店に向かって発車した。
「アブリル」の前に停車して店のドアを開けた。
「あ、もうお迎えか」「ワシが呼んだタクシーかな?」と店内がざわついた。
ママはスマホ片手に誰かと話しながら、「外で待ってて!」と大声で言った。おそらく電話の相手は別れた元夫だ。事情は知らないが、接客を他の従業員に任せて怒鳴っている姿を何度も見ている。家庭生活にまつわる言葉がたびたび出ていたので元夫だろう。あくまで私の憶測を出ないが、一本芯の通った人だと改めて感心した。
歓楽街は文字通りゴミだらけで汚い。が、夜空は美しい。都会はコンクリートジャングルで空も見えないのではないか。ゴミの亜細亜にはもったいない空だと眺めていたら、ママとルナちゃんが出て来た。ルナちゃんは白のラウンドネックにジーンズ姿だった。普段着だと思ったが、美人が着ると洗練されて見える。髪は黒のセミロングのままで高校生のころと変わっていなかった。
「ごめんごめん。ケンサク君、ルナ送ったあと、もう一往復できる?」
「いいですよ。ゆっくり走って片道十二分。急いで十一分ですね。二十二分で店に戻れます」
「了解。じゃあ、待ってるね」
そうは言ったものの、プロドライバーとして安全運転をゆるがせにするわけにはいかなかった。発車しようとしたらエンストした。ルナちゃんを乗せているから緊張しているのかもしれない。恥ずかしくなって急発進してしまった。先ほど痛い目にあったばかりにも関わらず、ドリンクホルダーにノンアルコールビールを置いていた。ルナちゃんは見つけても怒らないという確信があった。やはり私はゴミだ。
「久しぶりだね。いま大学は休みなの?」
「はい。高校の友達と会いたいし、お母さんも忙しそうだし」
ゴミの地で育った人とは思えなかった。心の清らかさや優しさが心地よい澄んだ声に乗って伝わってくる。
「言いたくなければいいよ。もしかして、ぼっちだから帰省したの?」
「友達いますよお。ケンサクさんは友達多そうですよね」
「いるけど、みんな結婚してるからなあ。誰も遊んでくれないよ。ぼっちみたいなもんだよ」
信号が赤になったので、ブレーキをゆっくりかけて止まった。ノンアルコールビールを取って一口飲んだ。
「ノンアルでも飲まないとやってられなくてね。嫌な人ばっかり乗ってくる。神社でお祓いしてもらおうかな」
ルナちゃんは、くすっと笑うと温かみのある声で話した。
「そうなんですね。でも、亜細亜はいい人多いですよ。地元に帰って来ると落ち着きます」
青になったので発進した。こんどはエンストしなかった。何か話したかったが、話題が思いつかなかった。当たり障りのない話題なら何時間でも話せるはずなのに、脳が機能停止したのかと思うくらい何も出てこなかった。県営住宅には、ぴったり十二分で到着した。建物から少し離れた所定の場所に車を停め、ハザードランプを点けた。
「あっという間に着いたね。ルナちゃんは亜細亜は好き?」
「好きですよ。亜細亜しか知らないですけど、大好きです」
ルナちゃんが財布から二千円を取り出したので制止した。料金はいらないと言えば納得しないと思ったので、一年遅れの入学祝いだと言ったら、礼を告げて降車した。
少し車を動かし、ハイビームでルナちゃんの足元を照らした。ルナちゃんは軽い足取りで遠ざかって行った。一階の踊り場で振り返ると手を振った。表情は見えなかったが、彼女は笑顔で手を振ったのだと思う。ハイビームをスモールライトにした。そして、ライトを切った。スマホが振動したので画面を見た。ミオリからのラインだった。メッセージに既読をつけた。
もはや建物の輪郭しか見えない県営住宅を前にして、ゴミのなかにも宝玉があるかもしれないと思った。いや、そうであってほしい。私は四方を明滅するハザードランプの光にずっと包まれていたかった。(了)



