冷徹な鬼隊長は、虐げられ女官を独占したがる

 夕刻の後宮は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。朱塗りの回廊を渡る風が、香の残り香を揺らす。

 警備隊の訓練を終えた破魔は、上級妃の私室前で足を止めた。虹色の光沢を放つ布の向こう側にいるのは、幼い頃から知る相手――この後宮で、数少ない「腹を割って話せる」存在であった。

「入っていらっしゃい」

 落ち着いた声が響く。
 中にいる人物にこちらの姿は見えないが、破魔は一礼して室内に入った。

 そこにいたのは、柔らかな色合いの衣をまとった上級妃・玉玲(ぎょくれい)だった。
 薄絹の帳の奥に座る玉玲は、後宮の華やぎとは一線を画す静けさをまとっていた。

 淡い翡翠色の衣は、主張しすぎることなく、かえって彼女の気品を際立たせている。細やかな刺繍には雲と瑞鳥があしらわれ、動くたびにかすかに光を含んで揺れた。
 顔立ちは、驚くほど整っているというよりも、見る者の心を静かに引き寄せる不思議な調和を持っていた。切れ長の瞳は穏やかでありながら、その奥には後宮で生き抜いてきた者だけが持つ聡明さと強さが宿っている。微笑めば柔らかく、黙していれば凛とした威厳がにじんだ。

 破魔は幼い頃から、幼なじみである玉玲を信頼していた。教養はあるが、権力や富への渇望はなく、いつも誰かによりそう彼女のことが友人として好きなようであった。

「珍しいわね。あなたの方から来るなんて」

「今日は相談がある」

 その一言に、玉玲は察したように微笑んだ。

「座りなさい。顔に書いてあるわ。大切な人に嫌われちゃったとね」

 破魔は言われるまま腰を下ろした。

「初めて傍付き女官を選んだ」

「ええ、噂で聞いているわ。下界出身の娘でしょう?」

「……問題があるか」

「いいえ、むしろ逆よ。私は賛成」

 玉玲は茶を注ぎながら、穏やかに言った。

「あなた、あの子のことになると露骨におかしくなるわよね」

 破魔は眉をひそめた。

「……俺はただ守ろうとしているだけだ」

「それを“おかしい”って言うのよ。特にあなたのような他人に興味がなさそうな人にはね」

 玉玲は苦笑し、湯気の立つ茶を差し出す。

「あなたが女官に対して今までどうしてきたのか大体察しがつくわ。先回りして、危険を全部排除して……それなのに肝心なことは、何一つ言わない」

「……」

 図星だった。

「ねえ、破魔。もしかして、女官から怖がられてないかしら?」

「……」

 沈黙が答えだった。
 その通りだ、という肯定の答え。

 玉玲はため息をつく。

「あなたは昔からそう。剣で人守ることはできても、言葉で寄り添うのが致命的に下手……というより壊滅的ね」

 破魔の指が、膝の上でわずかに強張る。

「言葉にしなくとも守ることはできるだろう?」

 玉玲はゆっくりと首を横に振った。

「言葉にしなければ伝わらないことが世の中には、たくさんあるわ。想っている理由も、守りたい理由も、あなたの覚悟も。言わなければ、ただの“支配”にしか見えない」

「俺は……」

 破魔は言いかけて、言葉を失った。
 胸の奥にあるものは、確かに重く、深い。
 だが、それをどう形にすればいいのか分からない。
 玉玲は、そんな彼を見て、少しだけ声を柔らかくする。

「あなたが冷徹鬼なんて、私は一度も思ったことないわ。ただ、不器用で、真っ直ぐすぎるだけ」

「……」

「大丈夫。ちゃんと伝えなさい。あなたの言葉でしっかり『絶対に守る』とね」

 破魔はゆっくりと息を吐いた。

「……努力はする」

 それだけ言って立ち上がる。

 玉玲は微笑んだ。

「ええ。それで十分」

 私室を出た破魔は、回廊の向こうを見つめた。
 そこに、雪月の姿があるような気がして。

 ――言葉に、する。

 剣を握るよりも難しいその課題を、彼は初めて真正面から背負う覚悟を決めていた。