破魔の傍付き女官になってから、雪月の暮らしは目に見えて変わった。
下級女官の宿舎では、夜明け前に起こされ、桶を運び、床を磨き、誰かの八つ当たりを受けるのが日常だった。けれど今は、破魔の私室に近い静かな区画に小さな部屋を与えられ、決まった時間に起き、決まった仕事だけをこなせばいい。誰かに水をかけられることも、理不尽に叱責されることもない。
それだけで、後宮はまるで別の世界のようだった。
――だからこそ、なんとなく落ち着かない。
どんなに恵まれた生活でも後宮、及び上界では保証されない。いつ、だれに狙われているのか。いつ、どのように失態を犯して地位を失うのか。誰にも分からないのだ。
私はどんくさいから、きっと破魔さまにも見捨てられてしまうのだろうなぁ。
その日の夕方、見回りを終えた破魔が私室に戻ってくると、卓の上には小さな皿が置かれていた。桜の形をした焼き菓子が置かれている。下女たちから分けてもらった干し果実と粉を使って、雪月がこっそり焼いたものだ。
「なんだ、これは?」
「お疲れさまです。甘いものを作ってみました。少しだけですが……」
破魔は無言で一つ取り上げ、かじった。
雪月は少し緊張しながら、その様子を見つめる。
「……」
何も言わない。眉ひとつ動かさないまま、淡々と咀嚼している。美味しいのか、それとも不味いけど食べてくれているのか。表情からは全く読み取れなかった。
「あの……」
雪月は思わず口を開いた。
「い、一緒に……食べませんか?」
さすがにこれは、やりすぎたであろうか。
卑しい身分である雪月が破魔と食事を共にするなど。錦蘭が聞いたら、驚きと怒りのあまり声を張り上げ数々の罵倒を浴びせてくるに違いない。
破魔は一瞬だけ、わずかに目を見開いたが、すぐに椅子に腰を下ろした。どうやら許可がおりたらしい。雪月も向かいに座り、ひとつ手に取る。
「……おいしいですね」
そう言って微笑むと、破魔はまた沈黙したまま、焼き菓子を見つめている。
「……?」
怪訝そうに、彼女の方を見る。
「……どうした?」
「いえ……破魔さまが、何も言わないので、もしかしたら菓子が不味いのかなって……」
「不味いなど一言もいってないだろう?」
「おいしさって……誰かと一緒に、共有するものだと思うんです」
ぽつりと零した言葉に、破魔は一瞬だけ視線を逸らし、再び焼き菓子を口に運んだ。
「……うまい」
それだけだった。けれど、その低い一言には、妙なぎこちなさと、隠しきれない誠実さがあった。
雪月は、はっとする。
――もしかして、この人……。
冷徹鬼と呼ばれるほど無表情で、言葉も少なく、怒っているように見えるその態度。でも今、こうして隣にいると、それはただ――感情を言葉にするのが、ひどく不器用な結果、そういうふうに見えているだけということが分かる。
「……よかったです」
そう答えると、破魔は少しだけ視線を逸らしたまま、残りの焼き菓子を静かに食べ続けた。
その横顔が雪月には、感情をうまく表現できない不器用な男の物に見えた。
下級女官の宿舎では、夜明け前に起こされ、桶を運び、床を磨き、誰かの八つ当たりを受けるのが日常だった。けれど今は、破魔の私室に近い静かな区画に小さな部屋を与えられ、決まった時間に起き、決まった仕事だけをこなせばいい。誰かに水をかけられることも、理不尽に叱責されることもない。
それだけで、後宮はまるで別の世界のようだった。
――だからこそ、なんとなく落ち着かない。
どんなに恵まれた生活でも後宮、及び上界では保証されない。いつ、だれに狙われているのか。いつ、どのように失態を犯して地位を失うのか。誰にも分からないのだ。
私はどんくさいから、きっと破魔さまにも見捨てられてしまうのだろうなぁ。
その日の夕方、見回りを終えた破魔が私室に戻ってくると、卓の上には小さな皿が置かれていた。桜の形をした焼き菓子が置かれている。下女たちから分けてもらった干し果実と粉を使って、雪月がこっそり焼いたものだ。
「なんだ、これは?」
「お疲れさまです。甘いものを作ってみました。少しだけですが……」
破魔は無言で一つ取り上げ、かじった。
雪月は少し緊張しながら、その様子を見つめる。
「……」
何も言わない。眉ひとつ動かさないまま、淡々と咀嚼している。美味しいのか、それとも不味いけど食べてくれているのか。表情からは全く読み取れなかった。
「あの……」
雪月は思わず口を開いた。
「い、一緒に……食べませんか?」
さすがにこれは、やりすぎたであろうか。
卑しい身分である雪月が破魔と食事を共にするなど。錦蘭が聞いたら、驚きと怒りのあまり声を張り上げ数々の罵倒を浴びせてくるに違いない。
破魔は一瞬だけ、わずかに目を見開いたが、すぐに椅子に腰を下ろした。どうやら許可がおりたらしい。雪月も向かいに座り、ひとつ手に取る。
「……おいしいですね」
そう言って微笑むと、破魔はまた沈黙したまま、焼き菓子を見つめている。
「……?」
怪訝そうに、彼女の方を見る。
「……どうした?」
「いえ……破魔さまが、何も言わないので、もしかしたら菓子が不味いのかなって……」
「不味いなど一言もいってないだろう?」
「おいしさって……誰かと一緒に、共有するものだと思うんです」
ぽつりと零した言葉に、破魔は一瞬だけ視線を逸らし、再び焼き菓子を口に運んだ。
「……うまい」
それだけだった。けれど、その低い一言には、妙なぎこちなさと、隠しきれない誠実さがあった。
雪月は、はっとする。
――もしかして、この人……。
冷徹鬼と呼ばれるほど無表情で、言葉も少なく、怒っているように見えるその態度。でも今、こうして隣にいると、それはただ――感情を言葉にするのが、ひどく不器用な結果、そういうふうに見えているだけということが分かる。
「……よかったです」
そう答えると、破魔は少しだけ視線を逸らしたまま、残りの焼き菓子を静かに食べ続けた。
その横顔が雪月には、感情をうまく表現できない不器用な男の物に見えた。

