その日の後宮は、妙に静かだった。
夕刻の鐘が鳴り、回廊に薄紅の光が差し込むころ、雪月は一人で洗濯物を運ばされていた。
——さっきから、誰かに見られている気がする。
胸の奥になにかが流れてくる。
悪意だ。だれかが私に悪意を向けている。
雪月は思わず足を止める。
「……気のせい、ですよね?」
そう言い聞かせた瞬間、背後から声がかかった。
「雪月」
振り向くと、錦蘭の取り巻きの女官が立っていた。口元には三日月のような笑み。
「倉庫の整理を命じられたの。人手が足りないから、あなたも来て」
「え……?」
「命令よ。まさか逆らおうだなんて考えていないわよね?」
拒む選択肢など、最初から存在しない。
下級女官にとって上級女官の命令は絶対。
雪月にとって錦蘭の指示は絶対なのだ。
雪月は、胸の奥に嫌な冷たさを感じながらも、黙って後をついていった。
後宮の華やかな回廊を抜け、人気のない裏通路へ入るにつれて、空気が変わっていく。
香の匂いは消え、湿った土と古木の匂いが鼻を刺す。
——ここは……。
雪月は知っていた。
この先にあるのが、使われなくなった倉庫だということを。ただの倉庫ではない。かつて、女官が妃から罰を受けていた恐ろしい場所であることを。
雪月は決して後宮勤めは長い方ではなかったが、倉庫の噂については先輩女官からなんとなく聞いていた。
重い扉の前で、錦蘭が立ち止まる。
「中に入って」
軋む音とともに扉が開き、薄暗い空間が口を開ける。干からびた布や壊れた調度品が積み上げられ、光がほとんど届かない。
幸い折檻に使われていたという道具は見当たらないが、数時間でも滞在していれば気がおかしくなってしまいそうなぐらい不気味な場所であった。
「ここで……なにを……」
言い終わる前に、背中を強く押された。
よろめいて中へ入った瞬間、扉が閉まる。
膝に痛みが走ると共に、深い絶望感に襲われた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
叩いても、返事はない。
——閉じ込められてしまった!
倉庫の外から、くすくすという笑い声が聞こえてくる。暗闇の中で、雪月の中に、感情の波が一気に膨れ上がった?
外にいる女官たちの愉悦。
錦蘭の冷たい満足。
それが、はっきりと伝わってきた。
壁に手をつき、雪月はゆっくりと座り込んだ。
床は冷たく、ほこりが舞い上がる。
胸の奥が、じくじくと痛む。
どうして、こんな酷い目にあわなくちゃいけないの?
家に帰りたい。後宮と違って宝石や金、豪華な食事はないけれど、あの場所には確かに暖かいものがあった。
——今すぐ逃げ出したい!
もう嫌だよぉ。ごめんなさい、母様。
寒い夜。痩せた手で、頭を撫でてくれた母を思い出す。
『雪月は、どこに行っても生きていけるよ。貴方には天神様から授かった……があるんだから』
「むりだよ……」
倉庫の闇が、ゆっくりと彼女を飲み込んでいく。
涙が、頬を伝う。古い木と湿った布の匂いが、息をするたびに喉の奥に絡みついた。薄暗い倉庫の中で、どこにも落ちていかないまま、床に染みていく。
絶望の渦に落ちた……そのとき。
遠くで、金属のぶつかる音がした。
ぎぃ……と、重たい扉が軋む。
「雪月ッ!」
低く、聞き覚えのある声。
胸が、強く跳ねた。
「破魔さま……?」
闇の向こうから、背の高い影が現れる。
差し込んだ灯りに照らされたその輪郭を見た瞬間、喉の奥が熱くなった。
——助けが来てくれた。
私のような卑しい存在にも手を差し伸べてくれる人がいるのだ。それと同時に、恐怖も湧き上がる。
そういえば、この人はどうして私がここにいることが分かったのだろう?
いつも、私が困っているときだけ現れるのはどうしてなのだろう?
破魔の感情が、洪水のように流れ込んできた。
怒り。焦り。苛立ち。そして、それらをすべて押し流すほどの——熱い飴のような感情。悲しみでもなく、慈しみでもなく。ただ、正体の分からない謎の感情を彼が雪月に向けていることが分かった。
「動くな」
「あ、えっと……」
脅迫……?
いや、違うか。
破魔はそう言いながら、雪月の前に膝をついた。
「怪我は?」
「だ、大丈夫……です……」
「立て。後宮の女がいつまでも地べたに座っているな」
「いえ……わたし……もう後宮にいるつもりはありません」
「どうして……?」
珍しく破魔は困惑しているようであった。
雪月は嗚咽を漏らすように震えた声で返した。
「母さまからは後宮に入れば下界よりも良い生活ができると言われましたが、実際に来てみて分かりました。私のような卑しい存在に居場所なんて初めから無かったのです。どうか帰らせてください」
「それは違うッ!」
破魔が突然、声を張り上げたので雪月は体を震わせた。
「居場所ならある」
「えっと、どこでしょう?」
雪月が眉を上げで驚くと、破魔は目を細めた。
「俺のいる場所だ。俺がお前の居場所になってやる」
雪月が言葉を失ったのは言うまでもない。
夕刻の鐘が鳴り、回廊に薄紅の光が差し込むころ、雪月は一人で洗濯物を運ばされていた。
——さっきから、誰かに見られている気がする。
胸の奥になにかが流れてくる。
悪意だ。だれかが私に悪意を向けている。
雪月は思わず足を止める。
「……気のせい、ですよね?」
そう言い聞かせた瞬間、背後から声がかかった。
「雪月」
振り向くと、錦蘭の取り巻きの女官が立っていた。口元には三日月のような笑み。
「倉庫の整理を命じられたの。人手が足りないから、あなたも来て」
「え……?」
「命令よ。まさか逆らおうだなんて考えていないわよね?」
拒む選択肢など、最初から存在しない。
下級女官にとって上級女官の命令は絶対。
雪月にとって錦蘭の指示は絶対なのだ。
雪月は、胸の奥に嫌な冷たさを感じながらも、黙って後をついていった。
後宮の華やかな回廊を抜け、人気のない裏通路へ入るにつれて、空気が変わっていく。
香の匂いは消え、湿った土と古木の匂いが鼻を刺す。
——ここは……。
雪月は知っていた。
この先にあるのが、使われなくなった倉庫だということを。ただの倉庫ではない。かつて、女官が妃から罰を受けていた恐ろしい場所であることを。
雪月は決して後宮勤めは長い方ではなかったが、倉庫の噂については先輩女官からなんとなく聞いていた。
重い扉の前で、錦蘭が立ち止まる。
「中に入って」
軋む音とともに扉が開き、薄暗い空間が口を開ける。干からびた布や壊れた調度品が積み上げられ、光がほとんど届かない。
幸い折檻に使われていたという道具は見当たらないが、数時間でも滞在していれば気がおかしくなってしまいそうなぐらい不気味な場所であった。
「ここで……なにを……」
言い終わる前に、背中を強く押された。
よろめいて中へ入った瞬間、扉が閉まる。
膝に痛みが走ると共に、深い絶望感に襲われた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
叩いても、返事はない。
——閉じ込められてしまった!
倉庫の外から、くすくすという笑い声が聞こえてくる。暗闇の中で、雪月の中に、感情の波が一気に膨れ上がった?
外にいる女官たちの愉悦。
錦蘭の冷たい満足。
それが、はっきりと伝わってきた。
壁に手をつき、雪月はゆっくりと座り込んだ。
床は冷たく、ほこりが舞い上がる。
胸の奥が、じくじくと痛む。
どうして、こんな酷い目にあわなくちゃいけないの?
家に帰りたい。後宮と違って宝石や金、豪華な食事はないけれど、あの場所には確かに暖かいものがあった。
——今すぐ逃げ出したい!
もう嫌だよぉ。ごめんなさい、母様。
寒い夜。痩せた手で、頭を撫でてくれた母を思い出す。
『雪月は、どこに行っても生きていけるよ。貴方には天神様から授かった……があるんだから』
「むりだよ……」
倉庫の闇が、ゆっくりと彼女を飲み込んでいく。
涙が、頬を伝う。古い木と湿った布の匂いが、息をするたびに喉の奥に絡みついた。薄暗い倉庫の中で、どこにも落ちていかないまま、床に染みていく。
絶望の渦に落ちた……そのとき。
遠くで、金属のぶつかる音がした。
ぎぃ……と、重たい扉が軋む。
「雪月ッ!」
低く、聞き覚えのある声。
胸が、強く跳ねた。
「破魔さま……?」
闇の向こうから、背の高い影が現れる。
差し込んだ灯りに照らされたその輪郭を見た瞬間、喉の奥が熱くなった。
——助けが来てくれた。
私のような卑しい存在にも手を差し伸べてくれる人がいるのだ。それと同時に、恐怖も湧き上がる。
そういえば、この人はどうして私がここにいることが分かったのだろう?
いつも、私が困っているときだけ現れるのはどうしてなのだろう?
破魔の感情が、洪水のように流れ込んできた。
怒り。焦り。苛立ち。そして、それらをすべて押し流すほどの——熱い飴のような感情。悲しみでもなく、慈しみでもなく。ただ、正体の分からない謎の感情を彼が雪月に向けていることが分かった。
「動くな」
「あ、えっと……」
脅迫……?
いや、違うか。
破魔はそう言いながら、雪月の前に膝をついた。
「怪我は?」
「だ、大丈夫……です……」
「立て。後宮の女がいつまでも地べたに座っているな」
「いえ……わたし……もう後宮にいるつもりはありません」
「どうして……?」
珍しく破魔は困惑しているようであった。
雪月は嗚咽を漏らすように震えた声で返した。
「母さまからは後宮に入れば下界よりも良い生活ができると言われましたが、実際に来てみて分かりました。私のような卑しい存在に居場所なんて初めから無かったのです。どうか帰らせてください」
「それは違うッ!」
破魔が突然、声を張り上げたので雪月は体を震わせた。
「居場所ならある」
「えっと、どこでしょう?」
雪月が眉を上げで驚くと、破魔は目を細めた。
「俺のいる場所だ。俺がお前の居場所になってやる」
雪月が言葉を失ったのは言うまでもない。

