冷徹な鬼隊長は、虐げられ女官を独占したがる

 回廊を拭きながら、雪月の胸には小さな棘のような後悔が刺さっていた。

――なんだか、申し訳ないことしちゃったな。

 あのとき、破魔はたしかに助けてくれた。
 これは彼が冷徹鬼だろうが、なにであろうが確かな事実だ。助けて貰ったのに、結局、怖がって逃げてしまった。

「悪いことをしたな……」

 ぽつりとこぼれた声は、誰にも届かない。
 ただ胸の奥でぷすりと針のように突き刺さるだけだ。
 そうこうしているうちに時間は容赦なく流れ、雪月は今日も雑用に追われていた。

「まだ終わってないの?」

 錦蘭の冷たい声が背中に突き刺さる。

「独り言喋ってる暇があったらさっさとやったら?」

 わざと水をかけられ、せっかく綺麗になった廊下が、また濡れる。女官たちの嘲笑が部屋を満たした。

「また濡らしちゃったら可哀想でしょ?」
「仕方ないじゃない。下界の穢れが皇族の方々についてしまったら大変だもの」
「それもそうね」

 溢れんばかりの悪意が、心の奥に流れ込んでくる。
 突き刺すような軽蔑と、わずかな愉悦。
 雪月は俯き、黙って布を動かした。
 今までは暴言を浴びせてきたり、

「……お前たち、一体なにをやっている!」

 低い声が、背後から響く。
 振り向くと、そこには見覚えのある男性が立っていた。破魔だ。

「え……?」

 錦蘭を含めた全ての女官が一斉に、破魔の方を見て表情を強ばらせた。

「持ち場を離れて役目を放棄したうえに、他女官に水をかけ虐げるなど言語両断」

「破魔様、いいえ、これは誤解です」
「身分を奪われ、実家に戻されたくなければ今すぐ持ち場に戻れ!」

 先ほどまでの高慢な態度はどこへやら。錦蘭を含めた上級女官たちは、そそくさと立ち去ってしまった。
 中には、去り際にわざと雪月の裾を踏みつける者もいた。

 廊下に残されたのは破魔と雪月の二人だけ。
 雪月の胸に、驚きと戸惑いが広がる。
 彼の感情が、かすかに流れ込んできた。

――怒りだ。

 それも、鋭く、深く、私の方へ向いている。
 一体、なにに対して怒っているのだろう?

「……腕の傷を見せろ」

 命令のような低い声。
 雪月はびくりとしながら袖をまくった。
 赤く残る痕に、破魔の視線が止まる。

「……やはりな」

 そう呟く声が、わずかに硬い。

「この調子なら塞がるだろう。だが……無理はするな。傷は陽の光には当てないようにしろ。腕に残ってしまうからな」

 赤く残る痕に、破魔の視線が止まる。

「は、はいッ!」

 どくりと心臓が跳ね、上司に睨まれた新米の衛兵のように、勢いよく返事をする。

「どうしてお前は……」

 破魔が、言葉を探すように一瞬、視線を逸らす。

「……俺の見ていないところで、怪我ばかりするんだ?」

 どうして怪我をするのかって?
 そんなことを聞かれたところで分かるわけがない。
 怪我をしたくてしているわけでは無いのだ。
 怪我をするぐらい苦しまないと居場所がないのだ。

「それが俺にとっては、たまらなく不快だ」

 雪月は息を呑んだ。

 そこにあるのは、怒りではなく、焦りに近い感情だ。

「お前が傷つくと……落ち着かない」

 短い言葉。
 でも、雪月には痛いほど伝わってくる。

――失いたくない。

「……だから」

 破魔が一歩、近づく。

「下級とはいえ女官は後宮の私有物。体に傷跡があるなど許されるべきではないことは理解しております。今後気をつけて参りますので、どうかお許しを」

 雪月の声が震える。

 破魔は、ほんのわずか目を見開いた。
 そして、困ったように口を結ぶ。

「違う……すまない。俺としたことが、困らせるようなことを言ってしまった」

 庇護や怒りの感情は収まり、今度は彼から後悔や恥ずかしさのような感情が流れてきた。

「い、いえいえ。体調は私のような下っ端の女官と違ってお忙しいでしょうし……なにより、私も以前助けていただいたのに逃げてしまい申し訳ございません」

 雪月は深く頭を垂れ、謝罪の意を表した。

「お前が謝る必要はない。それより……」

 破魔はなにかを言おうと口を開いたが、言葉を発するより先に背後から現れた警備兵に名を呼ばれた。

「今すぐ向かう」

 警備兵に一言だけ告げた破魔は、雪月に向かって「続きはまた話そう」とだけ告げ立ち去った。

 すっかり誰もいなくなった廊下でただ一人、雪月はびしょ濡れになった床を見下ろし、雑巾を手にとった。