雪月は宴会場の外へと駆け出し、回廊の柱の陰に身を寄せた。
胸が苦しく、息がうまく吸えない。絹の香りと酒の匂いに満ちたあの場所から離れただけで、少しだけ空気が軽くなった。
風に揺れる梅の枝が、かすかな音を立てた。
その静けさの中で、ふと、懐かしい匂いがした気がした。土と水と、草の匂い。
香木や金の匂いなどない澄み渡った空気。
——下界にある雪月の実家だ。
崩れかけた土壁の家。
母が煮てくれた薄い粥の湯気。
冬の夜、寄り添って眠ったぬくもり。
貧しくても、あの頃は、誰も雪月を「下界の娘」と嘲らなかった。
名前で呼ばれ、手を引かれ、笑い合っていた。
「……帰りたい……」
そっと昔の記憶を思い出す。
あれはたしか……友人の少女と喧嘩をしたときだ。
友人と散々口論をした雪月は家に帰ってから母に泣きついた。
「みゅちゃん私のこと……嫌ってる……」
「雪月は、なんでそんなことが分かるの?」
母は雪月を抱きしめながら問いかけたが、答えることができなかった。
どうしてなのかは分からない。
だって感じ取ってしまうから。
昔からそうだった。雪月には生まれつき、なんとなく相手が隠し持っている感情を感じ取ることができた。
そのせいで、私は「気味の悪い子「人の心を盗む子」と囁かれ、気づけば仲間はずれにされていたのだ。
「……私って、変なのかな……」
母は、私の髪をそっと撫でてくれた。
荒れた手なのに、不思議ととても優しかった。
「変じゃないよ、雪月」
低くて穏やかな声。
「人より少し感じる力が強いだけ。ご先祖さまにも何人か同じような力を持っている方がいてね。これは、誰かの痛みに気づける素晴らしい力なんだよ」
「でも……みんな、嫌がるから……」
「人間にとって、分からないものは、怖いからね」
母はそう言って、私を強く抱きしめた。
「でもね、雪月。いつか、あなたのその力を『怖い』って言わない人に……素敵だと褒めてくれる人に、きっと出会える」
胸に伝わる母の感情は、温かくて、揺るぎなかった。
疑いも、恐れも、ひとつもなかった。
ただ、愛しているという感情だけがひしひしと伝わってくる。
大人になった。
少しでも良い生活をしようと下界から出て後宮へと来てしまった。
もう雪月を抱きしめてくれる母はいない。
また、あの暖かい感情に触れることができたら……。
そのときであった。
「随分と余裕があるのね」
冷たい声が、背後から突き刺さる。
雪月が振り返ると、錦蘭が立っていた。
宴の灯りを背に受け、艶やかな衣の影が長く伸びている。
「大切な宴の最中に、勝手に抜け出すなんて。
下級女官の分際で、ずいぶんと身の程を忘れているじゃない」
「ち、違います……私は……」
「なぁに、言い訳?」
錦蘭は一歩近づき、雪月の腕を強く掴んだ。
鋭い痛みが走り、鮮血が溢れる。
「あなたの失態は、私たち上級女官の管理不足として扱われるの」
雪月の目に、涙がにじむ。
だが、それを見て錦蘭は、楽しそうに微笑った。
「仕方がないから、私がちゃんと躾け直してあげる」
錦蘭の手が、雪月の腕を強く引いた。
石畳に足を取られ、よろめいた瞬間――突然、手首を締め付ける圧が消えた。
「……っ?」
顔を上げると、錦蘭の手が、誰かに掴まれている。
黒い袖に白くて冷たい大きな手。
「——彼女を放せッ!」
低く響いたその声に、雪月の心臓が跳ねた。
重々しい声が凛と響く。
破魔だ。
どうしてここに……?
先ほどまで、宴会場にいたはずなのに。
「……な、なんの御用ですの?」
錦蘭の声が、わずかに揺れる。
「私は、この子を教育しようと——」
「触るな」
短い言葉だったが、空気が凍った。
破魔の視線が、雪月の腕に移る。
自分でも気づかなかったが、そこに赤い跡が残っている。
「……」
その視線を向けられただけで、雪月は息が詰まった。
息が苦しくなり頭が真っ白になる。
雪月の本能が「今すぐ逃げろ」と警笛を鳴らしていた。
彼の瞳から、ほんのりと怒りの感情が伝わってくる。
いったい、なにに怒っているのだろう?
「護衛隊長に、誤解されるようなことはしておりませんわ」
錦蘭はそう言って、ゆっくりと手を離した。
「では、失礼します」
弱々しい声と足音が遠ざかり、残されたのは雪月と、破魔だけ。一気に静寂が訪れ、建物の内側からは酒に酔いつぶれた男たちと、楽器の音色が響いていた。
「なにをしている?」
「え……?」
「医官の元へは行かないのか?」
いかん……?
腕を見下ろす。錦蘭によって傷つけられた腕からは真っ赤な鮮血が滴っていた。
彼が伝えたいことをやっと理解する。
破魔の声は、思ったより低く、ぎこちなかった。
「……ご、ごめんなさい……」
なぜ謝っているのか、自分でも分からない。
「私……仕事に戻らないと……」
はやく仕事に戻らないと。
下級女官ごときが仕事を投げ出して、医官から治療を受けるなど許されるはずかない。
背を向けようとしたとき。
「……待て」
その一言に、体が強ばる。
呼び止められた。
「医官の元へ行かないのかと聞いている」
雪月の中で、恐怖だけが膨らんでいく。
「……すみません……!」
雪月は、思わず走り出していた。
振り返ることもできず、ただ、あの視線から逃げるように。
胸の奥が、腕よりもずっと酷く傷んだ。
胸が苦しく、息がうまく吸えない。絹の香りと酒の匂いに満ちたあの場所から離れただけで、少しだけ空気が軽くなった。
風に揺れる梅の枝が、かすかな音を立てた。
その静けさの中で、ふと、懐かしい匂いがした気がした。土と水と、草の匂い。
香木や金の匂いなどない澄み渡った空気。
——下界にある雪月の実家だ。
崩れかけた土壁の家。
母が煮てくれた薄い粥の湯気。
冬の夜、寄り添って眠ったぬくもり。
貧しくても、あの頃は、誰も雪月を「下界の娘」と嘲らなかった。
名前で呼ばれ、手を引かれ、笑い合っていた。
「……帰りたい……」
そっと昔の記憶を思い出す。
あれはたしか……友人の少女と喧嘩をしたときだ。
友人と散々口論をした雪月は家に帰ってから母に泣きついた。
「みゅちゃん私のこと……嫌ってる……」
「雪月は、なんでそんなことが分かるの?」
母は雪月を抱きしめながら問いかけたが、答えることができなかった。
どうしてなのかは分からない。
だって感じ取ってしまうから。
昔からそうだった。雪月には生まれつき、なんとなく相手が隠し持っている感情を感じ取ることができた。
そのせいで、私は「気味の悪い子「人の心を盗む子」と囁かれ、気づけば仲間はずれにされていたのだ。
「……私って、変なのかな……」
母は、私の髪をそっと撫でてくれた。
荒れた手なのに、不思議ととても優しかった。
「変じゃないよ、雪月」
低くて穏やかな声。
「人より少し感じる力が強いだけ。ご先祖さまにも何人か同じような力を持っている方がいてね。これは、誰かの痛みに気づける素晴らしい力なんだよ」
「でも……みんな、嫌がるから……」
「人間にとって、分からないものは、怖いからね」
母はそう言って、私を強く抱きしめた。
「でもね、雪月。いつか、あなたのその力を『怖い』って言わない人に……素敵だと褒めてくれる人に、きっと出会える」
胸に伝わる母の感情は、温かくて、揺るぎなかった。
疑いも、恐れも、ひとつもなかった。
ただ、愛しているという感情だけがひしひしと伝わってくる。
大人になった。
少しでも良い生活をしようと下界から出て後宮へと来てしまった。
もう雪月を抱きしめてくれる母はいない。
また、あの暖かい感情に触れることができたら……。
そのときであった。
「随分と余裕があるのね」
冷たい声が、背後から突き刺さる。
雪月が振り返ると、錦蘭が立っていた。
宴の灯りを背に受け、艶やかな衣の影が長く伸びている。
「大切な宴の最中に、勝手に抜け出すなんて。
下級女官の分際で、ずいぶんと身の程を忘れているじゃない」
「ち、違います……私は……」
「なぁに、言い訳?」
錦蘭は一歩近づき、雪月の腕を強く掴んだ。
鋭い痛みが走り、鮮血が溢れる。
「あなたの失態は、私たち上級女官の管理不足として扱われるの」
雪月の目に、涙がにじむ。
だが、それを見て錦蘭は、楽しそうに微笑った。
「仕方がないから、私がちゃんと躾け直してあげる」
錦蘭の手が、雪月の腕を強く引いた。
石畳に足を取られ、よろめいた瞬間――突然、手首を締め付ける圧が消えた。
「……っ?」
顔を上げると、錦蘭の手が、誰かに掴まれている。
黒い袖に白くて冷たい大きな手。
「——彼女を放せッ!」
低く響いたその声に、雪月の心臓が跳ねた。
重々しい声が凛と響く。
破魔だ。
どうしてここに……?
先ほどまで、宴会場にいたはずなのに。
「……な、なんの御用ですの?」
錦蘭の声が、わずかに揺れる。
「私は、この子を教育しようと——」
「触るな」
短い言葉だったが、空気が凍った。
破魔の視線が、雪月の腕に移る。
自分でも気づかなかったが、そこに赤い跡が残っている。
「……」
その視線を向けられただけで、雪月は息が詰まった。
息が苦しくなり頭が真っ白になる。
雪月の本能が「今すぐ逃げろ」と警笛を鳴らしていた。
彼の瞳から、ほんのりと怒りの感情が伝わってくる。
いったい、なにに怒っているのだろう?
「護衛隊長に、誤解されるようなことはしておりませんわ」
錦蘭はそう言って、ゆっくりと手を離した。
「では、失礼します」
弱々しい声と足音が遠ざかり、残されたのは雪月と、破魔だけ。一気に静寂が訪れ、建物の内側からは酒に酔いつぶれた男たちと、楽器の音色が響いていた。
「なにをしている?」
「え……?」
「医官の元へは行かないのか?」
いかん……?
腕を見下ろす。錦蘭によって傷つけられた腕からは真っ赤な鮮血が滴っていた。
彼が伝えたいことをやっと理解する。
破魔の声は、思ったより低く、ぎこちなかった。
「……ご、ごめんなさい……」
なぜ謝っているのか、自分でも分からない。
「私……仕事に戻らないと……」
はやく仕事に戻らないと。
下級女官ごときが仕事を投げ出して、医官から治療を受けるなど許されるはずかない。
背を向けようとしたとき。
「……待て」
その一言に、体が強ばる。
呼び止められた。
「医官の元へ行かないのかと聞いている」
雪月の中で、恐怖だけが膨らんでいく。
「……すみません……!」
雪月は、思わず走り出していた。
振り返ることもできず、ただ、あの視線から逃げるように。
胸の奥が、腕よりもずっと酷く傷んだ。

