雪が降っている。白い雪が手足から熱を奪い、肺にひんやりとした空気が入ってくる。
灰色の空の下、役所の前には長い列ができていた。
幼い雪月は母の手を握りしめ、その温もりが離れてしまわないように指先に力を込めていた。
列の先には、いったいなにが待っているのだろう?
雪月は期待が籠った瞳で列の先を見つめていた。
長い列の先へやっとたどり着き、中へ通されると、木の机の向こうに役人が座っている。母は深く頭を下げた。
「この子を、後宮の女官候補としてお引き取りいただきたく……」
役人は雪月を一瞥し、値踏みするように目を細めた。
「下界の娘が、そう簡単に上界の宮へ行けると思うなよ」
二人の視線が交差した刹那――役人は我を忘れたように息を飲み、目を見開く。
「……顔立ちは悪くないな」
その言葉に、雪月の胸がざわつく。自分が“商品”のように見られている感覚が、はっきりと伝わってきた。
「母さま……」
気づけば縋るように母を呼んでいた。
母は振り返り、やさしく微笑んだ。
「雪月。大丈夫よ」
役人に向き直り、母は続ける。
「この子は、働き者で、頭も良い。なにより……人の心に寄り添える子です」
役人は鼻で笑った。
「心? 下級女官ごときに必要なのは、顔と従順さだ」
雪月の目に、涙がにじむ。
「……私、母さんと一緒がいい……。別れるのなんてイヤ。後宮がどんな場所か知らないけど絶対に行きたくない!」
「雪月」
母は膝をついて、雪月と目の高さを合わせた。
「ここにいたら、お前は一生、下界の娘のまま。でも後宮に行けば、きれいな衣を着て、雨の入らない部屋で眠れる」
「でも……」
「むかし母さんは、とある役人の子供を助けてね。その役人様から後宮のことを教わったんだ。貴族のお姫様みたいに、綺麗な服を着て、腹いっぱい飯が食べられて、文字の読み書きや舞踊を教えてもらえる。つらい思いをするかもしれない。それでも、下界暮らしよりはずっとましな人生になる」
母は雪月の頬に触れた。
「母さんは……お前が苦しむ姿を、もう見たくないんだよ」
役人が、咳払いをする。
「決まりだな。この娘は私が預かって後宮へ連れていく」
その言葉が、別れの合図だった。
母はもう一度、役人に頭を下げる。
「……どうか、この子をお願いいたします」
母の胸からは優しさと懇願の感情が伝わってきた。
「母さん……」
母は、最後にもう一度だけ微笑んだ。
覚悟を決めた幼い雪月は母の手を離し、役人へ連れられ、後宮へと続く道に足を踏み入れた。
これからきっと良い生活が始まる――。
始まると信じていたのにッ!
「ほら、さっさとしなさいよ」
天花国の大宴が開かれる大広間は、まるで天上の楽園のようだった。
垂れ下がる金糸の帳は星の川のようにきらめき、無数の灯籠が淡い光を揺らしている。
円卓には翡翠や瑠璃で飾られた酒器が並び、果実酒や花酒が注がれるたびに、透き通った色が灯りを反射してきらめいた。
楽師たちが奏でる弦と笛の音が、宴のざわめきに溶け込む。笑い声、盃が触れ合う音、絹擦れの衣の気配。それらすべてが混ざり合い、華やかでありながらどこか息苦しいほどの熱を帯びて、大広間を満たしていた。
上級の女官たちは艶やかな衣を翻しながら優雅に客へ酒を注ぎ、ささやくような声で談笑を交わす。
その影で、下級女官たちは壁際や卓の下を忙しく行き交い、こぼれた酒を拭き、空いた皿を下げ、誰にも見られぬように息を整えながら働き続けていた。
壁際で膝を折り、雪月は黙々と床を拭いていた。
さきほど錦蘭にわざと酒をこぼされ、敷石に広がった染みを、誰よりも早く消せと命じられたのだ。
「まだ終わらないの? 本当にのろいわね」
頭上から降ってくる声に、雪月の肩が震える。
周囲の女官たちがくすくすと笑うのが、耳に刺さった。
視界に涙が滲み、視界が霞む。でも涙は零すまいと必死に涙を拭う。
「下界の娘に、晴れの場の仕事は荷が重すぎたかしら?」
「でも雑巾なら似合ってるわよ」
「床に這いつくばって、まるで豚みたいね」
クスクスと笑う彼女たちからは、愉悦と嘲笑ね感情が伝わってきた。錦蘭が雪月対して向けている感情だ。
生まれつき、ほんの少しだけ察しが良い雪月には彼女たちが心の底から自身を軽蔑している事が理解できてしまう。
わざと足を伸ばされ、雪月の手から布がはね飛ぶ。
床に伏したまま拾おうとすると、裾で踏みつけられた。
「……っ」
声を上げることも許されない。
雪月は歯を食いしばり、ただ頭を下げた。
そのときだった。
ふと、空気が張りつめる。
ざわめきの中に、異質な静寂が混じった。
何かに導かれるように顔を上げた雪月の視線の先――
広間の奥、灯籠の光の中に、黒衣の男が立っていた。
――破魔だ。
後宮で最も恐れられる存在。
鋭い眼差しが、一直線に雪月を射抜いている。
――あの男が。冷徹鬼が、私を見ている。
その事実だけで、心臓が凍りついた。
怒られる、斬られる、消される。
下界で育った雪月にとって、強い力と畏怖を持つ男の視線は、災いそのものだった。
雪月は慌てて視線を逸らし、頭を深く下げる。
「……っ」
息が詰まり、足がすくむ。
再び視線を感じて顔を上げると、破魔はまだ、じっとこちらを見ていた。
その瞳に宿るものが敵意ではないことは、うっすらと感じ取れる。
それでも得体のしれない恐怖が、雪月を包んだ。
雪月は耐えきれず、雑巾を抱えたまま、宴の喧騒の中へと逃げ出した。
「ちょっと、どこに行くのよ!」
「逃げるつもり?」
「錦蘭様に言いつけてやる!」
背後から女官の声が響き渡ったが、聞こえないふりをする。今は目の前の悪夢から逃げだすことが先決であった。
灰色の空の下、役所の前には長い列ができていた。
幼い雪月は母の手を握りしめ、その温もりが離れてしまわないように指先に力を込めていた。
列の先には、いったいなにが待っているのだろう?
雪月は期待が籠った瞳で列の先を見つめていた。
長い列の先へやっとたどり着き、中へ通されると、木の机の向こうに役人が座っている。母は深く頭を下げた。
「この子を、後宮の女官候補としてお引き取りいただきたく……」
役人は雪月を一瞥し、値踏みするように目を細めた。
「下界の娘が、そう簡単に上界の宮へ行けると思うなよ」
二人の視線が交差した刹那――役人は我を忘れたように息を飲み、目を見開く。
「……顔立ちは悪くないな」
その言葉に、雪月の胸がざわつく。自分が“商品”のように見られている感覚が、はっきりと伝わってきた。
「母さま……」
気づけば縋るように母を呼んでいた。
母は振り返り、やさしく微笑んだ。
「雪月。大丈夫よ」
役人に向き直り、母は続ける。
「この子は、働き者で、頭も良い。なにより……人の心に寄り添える子です」
役人は鼻で笑った。
「心? 下級女官ごときに必要なのは、顔と従順さだ」
雪月の目に、涙がにじむ。
「……私、母さんと一緒がいい……。別れるのなんてイヤ。後宮がどんな場所か知らないけど絶対に行きたくない!」
「雪月」
母は膝をついて、雪月と目の高さを合わせた。
「ここにいたら、お前は一生、下界の娘のまま。でも後宮に行けば、きれいな衣を着て、雨の入らない部屋で眠れる」
「でも……」
「むかし母さんは、とある役人の子供を助けてね。その役人様から後宮のことを教わったんだ。貴族のお姫様みたいに、綺麗な服を着て、腹いっぱい飯が食べられて、文字の読み書きや舞踊を教えてもらえる。つらい思いをするかもしれない。それでも、下界暮らしよりはずっとましな人生になる」
母は雪月の頬に触れた。
「母さんは……お前が苦しむ姿を、もう見たくないんだよ」
役人が、咳払いをする。
「決まりだな。この娘は私が預かって後宮へ連れていく」
その言葉が、別れの合図だった。
母はもう一度、役人に頭を下げる。
「……どうか、この子をお願いいたします」
母の胸からは優しさと懇願の感情が伝わってきた。
「母さん……」
母は、最後にもう一度だけ微笑んだ。
覚悟を決めた幼い雪月は母の手を離し、役人へ連れられ、後宮へと続く道に足を踏み入れた。
これからきっと良い生活が始まる――。
始まると信じていたのにッ!
「ほら、さっさとしなさいよ」
天花国の大宴が開かれる大広間は、まるで天上の楽園のようだった。
垂れ下がる金糸の帳は星の川のようにきらめき、無数の灯籠が淡い光を揺らしている。
円卓には翡翠や瑠璃で飾られた酒器が並び、果実酒や花酒が注がれるたびに、透き通った色が灯りを反射してきらめいた。
楽師たちが奏でる弦と笛の音が、宴のざわめきに溶け込む。笑い声、盃が触れ合う音、絹擦れの衣の気配。それらすべてが混ざり合い、華やかでありながらどこか息苦しいほどの熱を帯びて、大広間を満たしていた。
上級の女官たちは艶やかな衣を翻しながら優雅に客へ酒を注ぎ、ささやくような声で談笑を交わす。
その影で、下級女官たちは壁際や卓の下を忙しく行き交い、こぼれた酒を拭き、空いた皿を下げ、誰にも見られぬように息を整えながら働き続けていた。
壁際で膝を折り、雪月は黙々と床を拭いていた。
さきほど錦蘭にわざと酒をこぼされ、敷石に広がった染みを、誰よりも早く消せと命じられたのだ。
「まだ終わらないの? 本当にのろいわね」
頭上から降ってくる声に、雪月の肩が震える。
周囲の女官たちがくすくすと笑うのが、耳に刺さった。
視界に涙が滲み、視界が霞む。でも涙は零すまいと必死に涙を拭う。
「下界の娘に、晴れの場の仕事は荷が重すぎたかしら?」
「でも雑巾なら似合ってるわよ」
「床に這いつくばって、まるで豚みたいね」
クスクスと笑う彼女たちからは、愉悦と嘲笑ね感情が伝わってきた。錦蘭が雪月対して向けている感情だ。
生まれつき、ほんの少しだけ察しが良い雪月には彼女たちが心の底から自身を軽蔑している事が理解できてしまう。
わざと足を伸ばされ、雪月の手から布がはね飛ぶ。
床に伏したまま拾おうとすると、裾で踏みつけられた。
「……っ」
声を上げることも許されない。
雪月は歯を食いしばり、ただ頭を下げた。
そのときだった。
ふと、空気が張りつめる。
ざわめきの中に、異質な静寂が混じった。
何かに導かれるように顔を上げた雪月の視線の先――
広間の奥、灯籠の光の中に、黒衣の男が立っていた。
――破魔だ。
後宮で最も恐れられる存在。
鋭い眼差しが、一直線に雪月を射抜いている。
――あの男が。冷徹鬼が、私を見ている。
その事実だけで、心臓が凍りついた。
怒られる、斬られる、消される。
下界で育った雪月にとって、強い力と畏怖を持つ男の視線は、災いそのものだった。
雪月は慌てて視線を逸らし、頭を深く下げる。
「……っ」
息が詰まり、足がすくむ。
再び視線を感じて顔を上げると、破魔はまだ、じっとこちらを見ていた。
その瞳に宿るものが敵意ではないことは、うっすらと感じ取れる。
それでも得体のしれない恐怖が、雪月を包んだ。
雪月は耐えきれず、雑巾を抱えたまま、宴の喧騒の中へと逃げ出した。
「ちょっと、どこに行くのよ!」
「逃げるつもり?」
「錦蘭様に言いつけてやる!」
背後から女官の声が響き渡ったが、聞こえないふりをする。今は目の前の悪夢から逃げだすことが先決であった。

