薄暗い部屋だった。
窓は高く、小さく切り取られた空は、どんよりと曇っている。昼なのか、夕方なのかも分からない。
冷たい石の床には木の椅子。雪月は、背筋を伸ばしたまま、硬い椅子に座らされていた。
両手は膝の上で固く握られ、指先は白くなっている。
——寒い。
これは体の冷えからくる感情ではなかった。
胸の奥が、凍りついているのだ。
「もう一度聞くぞ」
机越しに座る役人が、無感情に告げる。
「なぜ禁域に入った」
「私は入っていません。たしかに錦蘭様の命令で入るよう命じられましたが、すぐに立ち去りました」
何度目か分からない答え。
声は、かすれていた。
「下界出身者の分際で上級女官に罪をなすりつけようとするのか?」
言葉が詰まる。これ以上、言えることがない。
どうしてこうなってしまったのだろう?
雪月は俯いた。
床の小さなひび割れを、ぼんやりと見つめる。
——誰も、信じてくれない。
破魔は……?
彼は私が捕縛されていることを知っているのだろうか。
胸が、ずきりと痛んだ、その時であった。
——がらり。
重い戸が開く音がした。
「失礼するわね」
甘く、澄ました声。
雪月の背中が、びくりと震える。
この声を、知らないはずがなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは——錦蘭だった。
艶やかな衣。
整えられた髪。
余裕に満ちた微笑み。
まるで、観劇にでも来たかのような余裕に満ちた表情。
「あら……ずいぶんみすぼらしい姿ね」
くすり、と笑う。
「これが破魔様の傍付き女官様?」
胸が、きゅっと縮んだ。
唇を噛んで睨みつける。
何も言い返せない。
錦蘭はゆっくりと歩み寄り、雪月の前に立った。
見下ろす視線は、冷たく、鋭い。針みたいだ。
「やっぱり下界の人間は違うわね。やんごとなき方に少し優しくされたくらいで、いい気になって、まさか禁域にまで入るなんて。恥ずかしくないの?」
言葉が、刃のように突き刺さる。
ひとつひとつが、心を切り裂いていく。
「違います……私は……」
かすれた声で、必死に否定する。
「ふふ。まだ言い訳するの?」
錦蘭は鼻で笑った。
「どうせ、破魔様に気に入られて自分は特別だって、思い込んだんでしょう?」
身の程知らず。
あなたたち下界の奴ら、ただの家畜よ。
言葉が話せるだけの家畜。
家畜にはやっぱり泥とあばら家がお似合いよね?
錦蘭は雪月を侮辱することが楽しいらしく、どんとん言葉を荒らげさせた。
様子を見かねた兵士の一人が制止しようとしたが、錦蘭は兵士に向かって「私に逆らったらどうなるか分かっているの?」と脅すように告げた。
「ねえ、知ってる?」
錦蘭は、わざと優しい声で囁く。
「破魔様、貴方のせいで、すごく迷惑してるのよ」
——え。
心臓が、止まりかける。
「本当よ?」
にっこりと笑う。
「下界出身の女官が問題を起こして、後始末までさせられて、なんて可哀想」
視界が、ぐらりと揺れた。
——やっぱり。
——私のせい。
ずっと、思っていたことを。
一番怖かったことを。
錦蘭は、楽しそうに続ける。
「あなたみたいなのがそばにいるから。破魔様の評価も下がるの。はっきり言って足手まといなのよ」
その一言で。
何かが、ぷつりと切れた。
胸の奥で、支えていたものが、崩れ落ちる。
——足手まとい。
雪月の視界が、滲んだ。
涙が、止まらない。
やっぱり私は足枷だったのだ。
必死に堪えようとしても、こぼれてしまう。
声にならない嗚咽が漏れる。
肩が、小さく震えた。
錦蘭は、それを見て満足そうに微笑んだ。
「まぁ、みっともないわね。でも安心して」
そっと、耳元に顔を近づける。
「もうすぐ、貴方は後宮から消えるんだから」
い、嫌だ。破魔にもう会えないたなんて絶対に嫌。
破魔の顔が、脳裏に浮かぶ。
無口で。不器用で。ちょっと口下手で。
それでも、いつも私を守ってくれた人。
その人と、もう会えないなんて!
雪月は、俯いたまま、動かなくなった。
心の中が、真っ暗になる。
光が、消えていく。
でも、もういいや。
どうせ、誰も信じてくれない。
どうせ、私は——いらない存在なんだから。
「ほう、誰が足手まといだと……?」
重い音を立てて、取り調べ室の戸が開いた。
突然の音に、役人も、錦蘭も、そして雪月も、はっと顔を上げる。
そこに立っていたのは——
「……随分と、楽しそうだな」
黒い外套。
鋭い眼差し。
背筋を正した、圧倒的な存在感。
破魔だった。
「は……破魔様?」
錦蘭の顔から、余裕が消える。
頬がひきつり怯えているようであった。
破魔はゆっくりと中へ入り、雪月の前に立った。
その背中は、大きく、頼もしい。
まるで——盾のように。
「俺が来るまでよく耐えたな」
小さく、雪月にだけ聞こえる声で言う。
雪月は、呆然と彼を見上げた。
「……は、ま……さま……?」
夢かと思った。幻かと、思った。
助けに来てくれたッ――!
破魔は机の前に立つ役人へ向き直る。
「この件の調査は、俺が引き継ぐ」
「え、いやぁ……」
対応を決めかねているらしい役人は、眉にシワを寄せながら弱々しく呟いた。
「雪月の疑いを晴らせる証拠が揃った」
短く、断言する。破魔は懐から、一通の書簡と、数枚の紙を取り出し、机の上に、叩きつけるように置いた。
「まず、これだ」
机の上に置かれたのは、書庫番の記録と禁域侵入許可証の貸出記録だ。役人が慌てて目を通す。
顔色が、変わった。
「許可証を借りたのは……」
「錦蘭だ」
破魔の声は、冷たい。
——ざわっ。
室内がざわめく。
「禁域付近で見つかった女官は許可証を持っていたそうだが、たしか許可証の貸出は禁じられていたな」
「な……っ……!」
錦蘭が、一歩後ずさる。
「そ、それは……偶然……!」
「偶然?」
破魔は、ちらりと錦蘭を見る。
その瞳は、氷のように冷たかった。
「では、次だ」
今度は、別の紙を出す。
「新人女官の供述書だ。禁域付近で見つかった女官に書かせた」
破魔は、淡々と読み上げる。
「『錦蘭様より、雪月を書庫へ連れて行くよう命じられました』とな」
——決定打だった。
「……っ!!!」
錦蘭の顔が、真っ青になる。
「ち、違……そんな……!」
役人が、完全に黙り込んだ。
もう、言い逃れはできないだろう。
「……錦蘭」
破魔は、低く名を呼ぶ。
「お前は、雪月を陥れるために」虚偽命令、誘導、証拠偽装を行った。これは重罪だ」
錦蘭は、震えながら叫んだ。
「ち、違います。私はただ……」
「ただ?」
破魔は、鼻で笑った。
初めて見せる、はっきりとした嘲笑。
「妬んでいるだけだろう?」
「俺が、雪月を選んだことを」
「……っ!!」
錦蘭の唇が、わなわなと震える。
「下界の女が、身の程を知らず……!」
叫びかけた瞬間。
破魔の声が、響いた。
「黙れ」
一言。それだけで、場を支配した。
「身分で人を測るな。雪月は——」
破魔は、ちらりと後ろを振り返る。
泣き腫らした目で、呆然とする雪月を見る。
そして、はっきりと言った。
「俺が、命を懸けて守る価値のある女だ」
——どくん。
雪月の心臓が、大きく跳ねた。
錦蘭は、完全に崩れ落ちた。
「いや、うそ、そんなぁ……」
役人が立ち上がる。
「錦蘭、虚偽告発および謀略の罪により役職剥奪、後宮追放を命ずる」
「……っ!!」
錦蘭は、床に座り込んだ。
髪が乱れ。顔は歪み。
かつての気品は、跡形もない。
「破魔様……お願いします……!」
錦蘭は縋ろうと手を伸ばしたが、破魔は、一歩も近づかなかった。
「終わりだ」
それだけ言った。
役人に連れられ、錦蘭は引きずられていく。
泣き叫びながら。
取り調べ室が、静かになった。
破魔は、ゆっくりと雪月の前に戻った。
「……もう、大丈夫だ」
不器用な声。でも、優しかった。
雪月の目から、再び涙が溢れた。
「……っ……は、ま……さま……」
破魔は、少し迷ってから。
そっと、彼女の頭に手を置いた。
「……二度と、独りにはさせない」
窓は高く、小さく切り取られた空は、どんよりと曇っている。昼なのか、夕方なのかも分からない。
冷たい石の床には木の椅子。雪月は、背筋を伸ばしたまま、硬い椅子に座らされていた。
両手は膝の上で固く握られ、指先は白くなっている。
——寒い。
これは体の冷えからくる感情ではなかった。
胸の奥が、凍りついているのだ。
「もう一度聞くぞ」
机越しに座る役人が、無感情に告げる。
「なぜ禁域に入った」
「私は入っていません。たしかに錦蘭様の命令で入るよう命じられましたが、すぐに立ち去りました」
何度目か分からない答え。
声は、かすれていた。
「下界出身者の分際で上級女官に罪をなすりつけようとするのか?」
言葉が詰まる。これ以上、言えることがない。
どうしてこうなってしまったのだろう?
雪月は俯いた。
床の小さなひび割れを、ぼんやりと見つめる。
——誰も、信じてくれない。
破魔は……?
彼は私が捕縛されていることを知っているのだろうか。
胸が、ずきりと痛んだ、その時であった。
——がらり。
重い戸が開く音がした。
「失礼するわね」
甘く、澄ました声。
雪月の背中が、びくりと震える。
この声を、知らないはずがなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは——錦蘭だった。
艶やかな衣。
整えられた髪。
余裕に満ちた微笑み。
まるで、観劇にでも来たかのような余裕に満ちた表情。
「あら……ずいぶんみすぼらしい姿ね」
くすり、と笑う。
「これが破魔様の傍付き女官様?」
胸が、きゅっと縮んだ。
唇を噛んで睨みつける。
何も言い返せない。
錦蘭はゆっくりと歩み寄り、雪月の前に立った。
見下ろす視線は、冷たく、鋭い。針みたいだ。
「やっぱり下界の人間は違うわね。やんごとなき方に少し優しくされたくらいで、いい気になって、まさか禁域にまで入るなんて。恥ずかしくないの?」
言葉が、刃のように突き刺さる。
ひとつひとつが、心を切り裂いていく。
「違います……私は……」
かすれた声で、必死に否定する。
「ふふ。まだ言い訳するの?」
錦蘭は鼻で笑った。
「どうせ、破魔様に気に入られて自分は特別だって、思い込んだんでしょう?」
身の程知らず。
あなたたち下界の奴ら、ただの家畜よ。
言葉が話せるだけの家畜。
家畜にはやっぱり泥とあばら家がお似合いよね?
錦蘭は雪月を侮辱することが楽しいらしく、どんとん言葉を荒らげさせた。
様子を見かねた兵士の一人が制止しようとしたが、錦蘭は兵士に向かって「私に逆らったらどうなるか分かっているの?」と脅すように告げた。
「ねえ、知ってる?」
錦蘭は、わざと優しい声で囁く。
「破魔様、貴方のせいで、すごく迷惑してるのよ」
——え。
心臓が、止まりかける。
「本当よ?」
にっこりと笑う。
「下界出身の女官が問題を起こして、後始末までさせられて、なんて可哀想」
視界が、ぐらりと揺れた。
——やっぱり。
——私のせい。
ずっと、思っていたことを。
一番怖かったことを。
錦蘭は、楽しそうに続ける。
「あなたみたいなのがそばにいるから。破魔様の評価も下がるの。はっきり言って足手まといなのよ」
その一言で。
何かが、ぷつりと切れた。
胸の奥で、支えていたものが、崩れ落ちる。
——足手まとい。
雪月の視界が、滲んだ。
涙が、止まらない。
やっぱり私は足枷だったのだ。
必死に堪えようとしても、こぼれてしまう。
声にならない嗚咽が漏れる。
肩が、小さく震えた。
錦蘭は、それを見て満足そうに微笑んだ。
「まぁ、みっともないわね。でも安心して」
そっと、耳元に顔を近づける。
「もうすぐ、貴方は後宮から消えるんだから」
い、嫌だ。破魔にもう会えないたなんて絶対に嫌。
破魔の顔が、脳裏に浮かぶ。
無口で。不器用で。ちょっと口下手で。
それでも、いつも私を守ってくれた人。
その人と、もう会えないなんて!
雪月は、俯いたまま、動かなくなった。
心の中が、真っ暗になる。
光が、消えていく。
でも、もういいや。
どうせ、誰も信じてくれない。
どうせ、私は——いらない存在なんだから。
「ほう、誰が足手まといだと……?」
重い音を立てて、取り調べ室の戸が開いた。
突然の音に、役人も、錦蘭も、そして雪月も、はっと顔を上げる。
そこに立っていたのは——
「……随分と、楽しそうだな」
黒い外套。
鋭い眼差し。
背筋を正した、圧倒的な存在感。
破魔だった。
「は……破魔様?」
錦蘭の顔から、余裕が消える。
頬がひきつり怯えているようであった。
破魔はゆっくりと中へ入り、雪月の前に立った。
その背中は、大きく、頼もしい。
まるで——盾のように。
「俺が来るまでよく耐えたな」
小さく、雪月にだけ聞こえる声で言う。
雪月は、呆然と彼を見上げた。
「……は、ま……さま……?」
夢かと思った。幻かと、思った。
助けに来てくれたッ――!
破魔は机の前に立つ役人へ向き直る。
「この件の調査は、俺が引き継ぐ」
「え、いやぁ……」
対応を決めかねているらしい役人は、眉にシワを寄せながら弱々しく呟いた。
「雪月の疑いを晴らせる証拠が揃った」
短く、断言する。破魔は懐から、一通の書簡と、数枚の紙を取り出し、机の上に、叩きつけるように置いた。
「まず、これだ」
机の上に置かれたのは、書庫番の記録と禁域侵入許可証の貸出記録だ。役人が慌てて目を通す。
顔色が、変わった。
「許可証を借りたのは……」
「錦蘭だ」
破魔の声は、冷たい。
——ざわっ。
室内がざわめく。
「禁域付近で見つかった女官は許可証を持っていたそうだが、たしか許可証の貸出は禁じられていたな」
「な……っ……!」
錦蘭が、一歩後ずさる。
「そ、それは……偶然……!」
「偶然?」
破魔は、ちらりと錦蘭を見る。
その瞳は、氷のように冷たかった。
「では、次だ」
今度は、別の紙を出す。
「新人女官の供述書だ。禁域付近で見つかった女官に書かせた」
破魔は、淡々と読み上げる。
「『錦蘭様より、雪月を書庫へ連れて行くよう命じられました』とな」
——決定打だった。
「……っ!!!」
錦蘭の顔が、真っ青になる。
「ち、違……そんな……!」
役人が、完全に黙り込んだ。
もう、言い逃れはできないだろう。
「……錦蘭」
破魔は、低く名を呼ぶ。
「お前は、雪月を陥れるために」虚偽命令、誘導、証拠偽装を行った。これは重罪だ」
錦蘭は、震えながら叫んだ。
「ち、違います。私はただ……」
「ただ?」
破魔は、鼻で笑った。
初めて見せる、はっきりとした嘲笑。
「妬んでいるだけだろう?」
「俺が、雪月を選んだことを」
「……っ!!」
錦蘭の唇が、わなわなと震える。
「下界の女が、身の程を知らず……!」
叫びかけた瞬間。
破魔の声が、響いた。
「黙れ」
一言。それだけで、場を支配した。
「身分で人を測るな。雪月は——」
破魔は、ちらりと後ろを振り返る。
泣き腫らした目で、呆然とする雪月を見る。
そして、はっきりと言った。
「俺が、命を懸けて守る価値のある女だ」
——どくん。
雪月の心臓が、大きく跳ねた。
錦蘭は、完全に崩れ落ちた。
「いや、うそ、そんなぁ……」
役人が立ち上がる。
「錦蘭、虚偽告発および謀略の罪により役職剥奪、後宮追放を命ずる」
「……っ!!」
錦蘭は、床に座り込んだ。
髪が乱れ。顔は歪み。
かつての気品は、跡形もない。
「破魔様……お願いします……!」
錦蘭は縋ろうと手を伸ばしたが、破魔は、一歩も近づかなかった。
「終わりだ」
それだけ言った。
役人に連れられ、錦蘭は引きずられていく。
泣き叫びながら。
取り調べ室が、静かになった。
破魔は、ゆっくりと雪月の前に戻った。
「……もう、大丈夫だ」
不器用な声。でも、優しかった。
雪月の目から、再び涙が溢れた。
「……っ……は、ま……さま……」
破魔は、少し迷ってから。
そっと、彼女の頭に手を置いた。
「……二度と、独りにはさせない」


