冷徹な鬼隊長は、虐げられ女官を独占したがる

 朝日が昇る。薄い雲が空を覆い、皇城の屋根瓦を淡く白く染めていた。後宮では、夜明けと同時に一日が始まるのだ。

 水盤に水を張る音。
 衣擦れの音。
 回廊を行き交う女官たちの小さな足音。

 すべてが、いつも通りだった。

——だが。

 破魔の胸の内はなぜか落ち着かなかった。
 執務室の机に向かいながらも、視線は何度も入口へと向かってしまう。

……玉玲が来るのが遅い。

 いや、遅くはない。
 雪月はいつも、決められた時間より早く来る。
 ただ破魔の焦る心が、彼女の到着が遅いように錯覚させるのだ。

「……失礼いたします」

 小さくて、控えめな声が扉の向こうから響く。
 扉が静かに開き、雪月が入ってくる。

 いつも通りの装い。
 いつも通りの表情。
 なにも変わらないように見える。

 だけど破魔は、すぐに気づいた。

 距離がある。

 机から明らかに一歩分、距離が空いている。
 以前なら、もっと近くに立っているのに。

「本日の予定です」

 淡々と告げられる報告。
 声も、態度も、丁寧だ。

「……分かった。内侍省のやつらには、さっさと報告を済ませるよう伝えておけ」
「はい、承知いたしました」

 破魔は雪月を見た。
 透明に透き通り輝く黒真珠のような瞳。
 まるで、こちらを避けるように伏せられた目線?
 必要以上に背筋を伸ばした姿勢。

 むかしから人の仕草を観察する癖のあった破魔にはすぐに勘づくことができた。

――避けられている。

 なぜだ?
 理由が、分からない。

「なにかあったのか?」

 思わず、口をついて出た。
 雪月は一瞬、肩を揺らし、それから慌てて首を振る。

「い、いえ。なにもありません……」
「どうして目線を逸らす? どうして距離を取る?」

 思い返されるのは、あの夜のこと。
 玉玲の元から帰ろうとした破魔は再度釘を刺すように彼女から忠告された。

『破魔。行動だけでは伝わらないのよ』
『気持ちは、口にしなきゃ分からない』


 そうだ。言われたではないか。
 気持ちは言葉にしなければ伝わらないと。
 
 逃がしたくない。
 どこにも行かないで欲しい。
 失いたくない。

 その想いは、今では、はっきりとしている。

 それなのに——どう言えばいいのか、分からない。
 言葉にしたいのに、適切な表現が見つからない。

「雪月ッ!」

 名を呼ぶ。勢いよく叫んだせいか雪月は、びくりと小さく震えた。

「その……」

 喉が詰まる。
 言葉が、形にならない。

「俺から離れるな」

 出てきたのは、この一言だけであった。

「俺の……目の届かないところに行くな」

 雪月の表情が、わずかに曇る。

「……申し訳ありません。ただ、私どうすれば良いのか分からないのです。ご容赦ください」

 破魔の胸が、締めつけられる。
 違う、困らせるつもりはなかった。
 本当は、ただ……一緒にいて欲しい。
 そばにいて欲しい。
 守りたいだけだ。

「……失礼いたします」

 雪月はそう言って、静かに一礼し、部屋を出ていった。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 破魔は、机に手をついたまま動けなかった。


 また、失敗した。
 そばで守るどころか余計に距離を取られてしまった。

 玉玲の言葉が、胸に刺さる。

「くそッ!」

 小さく呟き、額に手を当てる。
 初めてだった。
 戦場でも、陰謀の渦中でもない。
 ひとりの少女との関係が、これほど怖いと思ったのは。