冷徹な鬼隊長は、虐げられ女官を独占したがる

 ――白銀の月は、すべてを知っている。

 天花(てんげ)国の後宮霧夜宮(きりよみや)の上空に浮かぶ月がひとつ。静かに見下ろしていた。

 下級女官のひとりである雪月はその夜、ひとり中庭にいた。胸の奥で昼間に浴びせられた罵声と嘲笑が蛇のように蠢いている。

 「汚らわしい下界産まれの分際で、私と顔を合わせようだなんてね」

 上級女官・紅蘭(こうらん)。後宮の中でもひときわ目を引く女官だった。艶やかに結い上げた黒髪には高価な簪が何本も差され、衣は常に流行の紅色と黄金の刺繍で彩られている。歩くたびに衣擦れの音と香の匂いが周囲に広がり、まるで自分がこの後宮の主であるかのような態度を崩さない。

 その美貌は確かに人目を引く。だが、その瞳の奥には、他者を見下ろす冷たい光が宿っていた。
 笑顔の裏で平然と人を傷つけ、甘い声で命令を下す。
 後宮の空気を操るのが得意で、気に入らない者を孤立させることに一切のためらいがない。
 常に雑用を命じられ、少しでも反抗的な態度を取れば理不尽な制裁を受ける。

 ある日、雪月は本来二人で行うはずの洗濯を一人で押しつけられた。冷たい水に手を浸し続けるうち、感覚がなくなり、指先が赤く腫れあがっていく。それでも休めば「怠け者」と責められることを知っているから、歯を食いしばって布を絞り続けた。

 夜になると、錦蘭は平然と仕事の失敗を雪月のせいにした。身に覚えのない叱責を受けながら、雪月はただ頭を下げるしかなかった。反論すれば、もっと酷い仕打ちが待っている。

 誰にも見えない場所で、雪月は小さく息を殺して泣いた。声を上げてしまえば、また罰を受ける。

 だから、涙が頬を伝っても、ただ袖で拭い、何もなかったふりをするしかないのだ。

 錦蘭にとって雪月は、自分より下にいることを証明するための、都合のいい存在でしかなかった。

 「……どうして、私はまだ生きているの?」

 零れた独り言は、霧に溶けて消えた。
 一筋の希望を願って、後宮まで来たのに――。

 天花国では、人は生まれた場所によって価値が決まる。

 天に最も近い上界、国を動かす中界、そしてすべての底にある下界。

 下界は、罪人の子、借金持ち、身寄りのない者たちが集められる場所で、そこに生まれた者は、努力をする前に「人として劣っている」と刻み込まれる。

 雪月もまた、その下界の生まれだった。

 名もない母のもと、狭く暗い路地で育ち、温かい寝床も十分な食事も知らずに大きくなった。それでも母は、雪月の手を握ってこう言った。

 「生まれで人の価値は決まらない」と。

 ――生きなさい。信じなさい。もがいた者か最後に幸せを手に入れるの。

 だが母が亡くなり、ひとり天花国の頂点に存在する後宮に飛び込んだ雪月は思い知らされる。下界の子は、ただ存在しているだけで罪なのだと。

 両親に少しでも良いものを食べさせるためにやって来た後宮であったが、その正体は、下界の人間を使い捨てるための、美しく飾られた牢獄だった。上界、中界出身の女官や衛兵に蔑むような目で見られ、道具のように扱われる。

 雪月はそこで学んだ。目立たず、逆らわず、何も望まなければ、かろうじて生きていける。

 諦めてしまえば幸せになれるのだ。

 背後で衣擦れの音がした。
 振り返るより早く、雪月の肩に温もりが落ちる。
 羽織られたのは、深い夜色の外套。

 「……今宵は冷えるな」

 低く、かすれた声。
 後宮の誰もが恐れる護衛隊長・破魔(はま)だった。
 白銀の髪の毛に星を宿した黄金色の瞳。皇帝直属の護衛隊長。皇族という、やんごとなき身分でありながら、ただ一振りの剣振り続けることだけを選んだ男だ。

 戦場では一切の情を見せず、命令に背く者も、敵も、ためらいなく斬る。その無表情と鋭い眼差しから、人々は彼を「冷徹鬼」と呼んだ。

 彼は月光を背に、雪月を見つめている。
 鋭く冷たいはずのその瞳からは、うっすらと優しい熱が伝わってくる。

 「……泣いているのか?」

 たったそれだけの言葉なのに、
 まるで心の奥を撫でられたように、涙が滲んだ。
 破魔は何も言わず、外套を脱いで雪月の肩にそっとかけた。
 その温もりに、張りつめていた心がほどけ、涙がまた溢れる。

 「すみません……見苦しいところを……」

 かすれた声に、破魔はわずかに眉を動かした。

 「……見苦しくなどない。お前が見苦しいはずがない」

 破魔は雪月の前に膝をつき、目線を合わせる。
 言葉を探すように、何度か口を開いては閉じ、ようやく絞り出す。

 「どうか泣くな」

 破魔はそう言って、ぎこちなく雪月の頭に手を置いた。じんわりとかれの内側に眠る暖かい感情が伝わってくる。一見、冷静沈着な彼の正体が、少し不器用な執着の獣であることを雪月は知っていた。

 やがて白く大きな手が雪月を抱擁する。
 泣くなと言われたはずなのに、気づけばじんわりと暖かい涙が零れ始めていた。