境界線を守りたい几帳面な僕が、無頓着な同級生と同室になりました。



 体育祭の練習が始まった。
「一応先にルールだけ説明しとくな」と体育委員の岡崎くんが説明を始めた。
 僕が出場する障害物競走の練習は、借り物競争の要素も混ざっているらしい。「お題の紙を拾い、お題の人物を連れて一緒に走る」という変則ルールだ。抽選で引いたお題によっては、誰かを探す手間が発生する。
 これが非常に、非常に僕には不向きだった。
 この要素が混じっていると最初に知っていたら絶対に選ばなかったのに。いや、でもきっと他の種目も何らかの罠が仕掛けられているはずだ。本当に全部が全部、誰かの協力が不可欠な種目になっている。
 この学校の教師たちは、ぼっち学生の気持ちを理解していない。
 けれど、不幸中の幸いというか、僕が出るレースの練習は体育祭前日の一回だけらしい。ほぼぶっつけ本番だ。リレーと違って、人に迷惑をかける可能性は少ないだろう。そう思うと少し気が楽だ。

 問題はリレーの練習の方だ。
 リレーメンバーは四人。
 第一走者は寮長でもある山下くん、第二走者の岡崎くん、第三走者の佐々木くん、そしてアンカーの月城くん。
 補欠には僕が登録されていたから、一応僕も練習に参加しなければならなかった。
 聞いたところによると、みんなかなり速いらしい。リレーとかに登録される人ってだいたいそうだよね。
 ただでさえプレッシャーなのに、追い打ちをかけるように月城くんは今、右手に怪我をしている。一応体育祭前に抜糸できるらしいのだけど、さすがにまだバトンパスはできない。
 ということで、今日の練習では怪我をしている月城くんに代わって、僕が代走を務めることになっていた。

「湊、緊張してる? 体調悪いんじゃないのか?」

 練習前、体操服に着替えてストレッチをしている僕に、月城くんが駆け寄ってきた。右手はまだ包帯で固定されている。
「別に。大丈夫だよ」
「ウソつけ。顔、真っ青じゃん。手も震えてるし。具合悪いなら保健室行こう」
「違う。少し緊張してるだけだから、大丈夫」

 何を言われても大丈夫だとしか言えないけど、本当は怖くて怖くて仕方なかった。
 僕がリレーに参加するなんて無理なんだ。月城くんはそんな僕の様子を見て、何か言いたそうに口を開きかけたけど、結局「無理すんなよ」とだけ言って離れていった。
 そんな気遣いさえ今は重たくて、僕は俯く。

「じゃあ、ちょっとバトンパスの感覚試してみようぜ。ほら、白倉も」

 岡崎くんに呼ばれて、僕はしぶしぶトラックの練習場所へ向かった。
 今日はトラックを使って、実際にバトンを使って渡す練習だという。本格的すぎて吐きそうだ。
 リレーの要は、なんといってもバトンパスだ。バトンを受け渡すタイミングが勝敗を左右するといっても過言じゃない。
 前の学校では、僕は第三走者をやっていた。練習のときから何度もミスをしてきたけど、その度にクラスメイトは「ドンマイ!」と明るく励ましてくれた。
 なのに僕は本番でも、結局同じミスをした。

「白倉。とりあえず俺とやろうぜ。航の代わりやってくれよ」

 佐々木くんは、相変わらず穏やかな笑顔だ。普段通りの落ち着いた態度は、むしろ僕みたいにビビり散らかしてる人間にとってはありがたい。
 僕は何も口に出せず、黙ってうなずいた。
 まず歩きながら簡単に受け渡しの確認をして、少しずつスピードを上げていくという流れらしい。

「いきます。スタート」

 佐々木くんの合図とともに僕はゆっくりと走り出し、背後から佐々木くんが近づいてくる足音が聞こえた。そして「はい」という小さな掛け声とともに、手のひらに固い感触が伝わる。
 ただそれだけのことなのに、心臓が破裂しそうなほど緊張する。
 手汗がひどくて、バトンが滑り落ちそうだ。

「一回止まって」
 佐々木くんの指示で足を止めると、彼は落ち着いた口調でアドバイスをくれた。

「白倉、もっと手を後ろに高く上げて。親指は下向きに。あ、それと手のひらの角度がちょっと斜め過ぎるかも。俺が差し出しやすい角度があるから、次はそれ試してみよう」

 こういう細かいところを具体的に言語化して指導してくれるのは、ありがたい。佐々木くんはリレー経験者なのだろうか。理解しやすい。
 けれど、一応本番は僕じゃなくて月城くんが走るのに、単なる補欠の僕にやたらと指導が細かい。
 僕の訝しげな視線を受け止めた佐々木くんは、「航が間に合わないかもしれないからな」なんて恐ろしいことを笑いながら呟いてきた。いやいや、それ、冗談じゃすまないから。

「じゃあ、もう少しスピード上げるぞ。せーの」
 歩く速度から、小走りくらいの速度に切り替わる。そしてまたバトンが渡される。ドン、と手に重みが伝わった瞬間、フラッシュバックのように脳裏に蘇る映像があった。

 バトンを落とした瞬間の、グラウンドに響いた乾いた音。周囲のざわめき。チームメイトの絶望した顔。

 僕の手の平からバトンがするりと抜け落ちたのは、その直後だった。

「……あっ」
 カラン、と鈍い音がしてバトンが地面に落ちる。時間が止まったような錯覚に陥った。
「悪い、今の俺の渡し方が下手だったな」
 佐々木くんがすぐに拾い上げてフォローしてくれたけど、僕の耳には届かない。耳鳴りのようなものがして、視界がぐにゃりと歪む。
 またやってしまった。まただ。練習ですらまともに走れない。どうして。この学校ではまだ誰も、僕を責めたりしないのに。

「白倉! 大丈夫か、ちょっと休憩しよう」
 岡崎くんの呼ぶ声が遠くに聞こえる。僕は地面に手をついて、ぜえぜえと息を乱していた。佐々木くんが心配そうに背中をさすってくれている。
「ごめんなさ、僕……」
 掠れた声で謝ると、誰かが強い口調で叫んだ。多分岡崎くんだ。
「ちょっと、一旦中断しよう。白倉の顔色がやばい」
「そうだな」
 山下くんの冷静な判断で、その場の練習は一時中断された。

 僕は佐々木くんに肩を支えられてトラックの脇まで歩き、座り込んだ。
 足が震えている。手も震えている。過呼吸になりそうな自分を必死に落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。
 そこへ、月城くんが走り寄ってきた。右手に包帯を巻いたままで。
 その姿がどうしようもなく僕の罪悪感を刺激する。
「湊!」
「……ごめん。月城くん、右手使えないのに、僕のせいで」
「そんなこといいから。具合悪いなら言えって。今日はやっぱりやめとこう、な? 寮に戻ろう」

 月城くんの声は優しかったけど、それを素直に受け取れない自分がいた。
 絶対大丈夫じゃない。早く怪我を治して、代わりに走って欲しい。
 そんな僕の弱音は、彼を失望させるだろうか。それとも、怪我をしてまで庇ってくれた善意を裏切ることになるだろうか。
 なんにも言えずに俯いている僕の腕を、月城くんが左手で掴んだ。その手の大きさと熱さにドキリとする。

「歩けるか? 肩、貸すから」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない奴が、大丈夫って言うなよ」

 それ以上、何も反論できなかった。僕は結局月城くんに付き添われる形で、グラウンドをあとにした。

 寮の部屋に戻るなり、月城くんは強引に僕をベッドに座らせ、自分はデスクの椅子を持ってきて僕の正面に陣取った。逃がさないという姿勢がありありと見える。

「湊。前の学校で、何があったか教えてくれないか」