境界線を守りたい几帳面な僕が、無頓着な同級生と同室になりました。

 翌日から、僕はできる限り月城くんのお世話をすることにした。
 授業中のノートをとってあげたり、教科書や資料を運んであげたり。もちろん彼が嫌がることはしない。だけど月城くんはやってもらうのが当たり前だとは思わない人だから、あまりいい顔をしなかった。

「ノート取るくらい自分でできるって」
「左手で書けるの?」
「ゆっくりならなんとか」
「僕のノートをあとで貸すから。授業は集中して真面目に聞いておいた方がいいよ。成績に関わる」
「……湊って、意外と頑固だよな」

 こうして僕が説得すると、月城くんはおとなしく授業を聞くことに専念してくれた。
 普段、僕に対して何かと世話を焼いてくる月城くんだけど、自分がお世話をされる側に回るのはあまり好きじゃないみたいだ。
 だけど「ごめん」とか「ありがとう」とか素直に言えるところは、やっぱり彼の人柄だと思う。
 こういうことが自然に出来るからこそ、彼は人気者なんだろう。

 一番困ったのは、着替えだ。月城くんは右手が使えないから、制服のボタンを留めたり外したりするのに苦労している。あとネクタイを締めるのも。僕は勇気を出すことにした。
 
「月城くん、着替え手伝うよ」
「……マジで?」
「マジで」

 はっきり言って、めちゃくちゃ恥ずかしい。
 普段からスキンシップの多い月城くんだけど、能動的に触るのと受動的に触られるのは全然違うらしい。制服のシャツのボタンを外すために、かなり近くに寄らなければならない。
 いつも当たり前のように僕との距離が近い月城くんが、なぜか気まずそうに視線を逸らしている。

「……あのさ、俺、自分で脱ぐから。その方が早い」
「怪我してるのに、無理しないでいいよ」
「だって、湊の顔近すぎてドキドキすんだけど」
「なに言ってんだよ。月城くんはいつも自分から僕に密着してくるじゃん」

 顔から火が出るかと思った。
 こんな風に意識していることを、平気で言葉にするから彼はずるい。
 僕は動揺を必死に隠して、黙々とボタンに手を伸ばして作業しているのに。指先が少し震えている。シャツの布越しに、月城くんの高い体温がじんわりと伝わってきて、僕の心臓の鼓動まで速くなる。
 月城くんの顔が赤くなっているのが視界の端に入る。やめてくれ、君が照れたら僕はもっと照れるんだ。こっちを見ないでほしい。
 なんとか無事にボタンを外し終え、すぐさま月城くんから距離をとる。

「あとは一人で着替えられる?」
「ああ、うん。ありがとう」

 普段、人一倍よく喋る月城くんの口数がなぜか少なくなっていて、なんだか気まずい。僕もなにを言っていいかわからずに目を逸らしてしまう。

「なあ、湊」
「……なに」
「ズボンのベルトもちょっときつくて、外しにくいんだけど」
「…………」
「ごめん嘘」
「……なんでそういうこと言うかな」

 本当に嘘だったのかは分からない。彼の言葉を聞いて、思わず顔が引きつってしまった自覚はある。顔が青くなっていたかもしれない。
 月城くんは硬直した僕の表情を見て「冗談だよ」と苦笑いしてきた。気をつかってくれたのかもしれない。

 ただ、それよりもうひとつ大きな難関があった。

 怪我をするまでは、月城くんはだいたい夜に寮の一階にある共同の大浴場へ行き、僕は部屋のシャワーを使う。このルーティンで平和が保たれていた。
 けれど、怪我をしてから、月城くんも部屋のシャワーを使うと言い出した。
 理由は簡単で、包帯でぐるぐる巻きになった右手で大浴場に行くのは、他の生徒に気を遣わせてしまうし、怪我を庇いながら洗うのは面倒くさいからだという。

「湊ー、風呂入ろーぜ」
「だからなんで一緒に入ろうとするんだよ」

 結局、僕は月城くんの身体を洗うのを手伝うことになってしまった。
 もちろん僕は彼の前で裸になるのは断固拒否したので、部屋着のTシャツに短パンという格好だ。シャワー室へ一緒に入るだけでも抵抗があるのに、月城くんはサバサバしている。

「別に減るもんじゃないし、一緒に入って洗えばいいのに」
「やだ。めっちゃ狭いもん。あとで一人でゆっくり洗いたい」

 僕が口を尖らせて拒否すると、月城くんは「そっかあ」と言って、しょんぼりした顔をする。犬みたいな人だ。
 シャワー室が狭いのは事実だけど、それより彼の前で裸になるのは恥ずかしすぎる。彼は完璧な肉体を惜しげもなく披露しているのに、僕は、自分の細くて筋肉もない貧相な身体を見せることに激しい抵抗を覚えていた。
 月城くんは気にしないと言うだろうけど、僕が嫌なのだ。

「せっかく一緒に入るのに、湊は裸じゃないの不公平じゃないか?」
「公平じゃないのは体格のいい月城くんの方だよ」
「そんなことないって。湊はかわいいし」
「全然褒めてないから、それ」

 かわいい、という表現が引っかかって、ちょっとムッとしてしまう。
 初日に目撃したからわかってたけど、月城くんの身体は無駄な脂肪がなくて、アスリート特有のしなやかな筋肉がついている。男の僕から見ても見惚れるくらい綺麗で、そんなものを見せつけられているこっちの身にもなってほしい。

 しかも、狭いシャワー室の中で月城くんと肩が触れ合うたび、僕の心臓はドラムのような音を立てていた。この距離感で世間話をしていること自体、冷静に考えれば異常事態だ。
 僕の脳内では「逃げろ」という警報が鳴り響いている。危険すぎるので、早く終わらせてしまおう。
 先に頭を洗ってくれと頼まれたので、シャンプーを手にとって泡立て、彼の濡れた髪に手を差し入れる。

 月城くんの髪は思ったより柔らかい。一見硬そうなのに、水に濡れるとしんなりと指に絡む。強く洗わないように気をつけながら指を丁寧に動かす。
 
「ヤバい。湊の指、超気持ちいい。これに慣れると俺自分で洗えなくなりそう」
 
 月城くんが喉を鳴らして笑う。彼の熱を帯びた視線が、鏡越しに僕の顔をじっと射抜いていた。その真っ直ぐな眼差しに、泡を流す手が一瞬止まる。
 彼にとってはこの距離感は当たり前なのだとしても、僕にとっては一分一秒が試練だ。
 
「俺さあ、中学のとき弟たちの世話いつもしてたから、こうやって誰かに洗ってもらうのって新鮮かも」
「弟、何人かいるんだっけ」
「三人」
「お兄ちゃんだね、月城くんは」
「まあ、そうだけど。でも案外俺がいなくても平気だと思うよ。可愛がってはいるけどな」
 
 月城くんはそのまま目を閉じて、ぽつりと言う。その言い方がちょっとだけ寂しそうに聞こえた。

「相手にされてないの?」
「ていうか、多分バレてたんだと思う。俺が一番溺愛してたのはハルだったから。俺がハルばっかり特別扱いしてたから、他の弟たちはサッサと兄から自立したのかも」
 
 また、ハルの名前が出た。
 彼の口から語られるその名前に、僕は少しだけ胸がチクリとした。
 この流れでいうと、ハルは月城くんの家族の誰か、ということなのだろうか。それとも全くの別人か。でも、少し前に月城くんは寝ぼけて僕を抱き枕にしたときも、ハルの名前を呼んでいた。
 家族の中に、ハルという名前の人はいるのだろうか。
 どうしよう。尋ねてみてもいいだろうか。
 
「……月城くんは、今でもそのハルくんを可愛がってるんだね」
「いや、もう可愛がれないんだ。ちょっと後悔してる」
「? どういうこと?」
 

「ハルは、俺のせいで死んじゃったようなもんだから」

 彼のその言葉が耳に入った瞬間、手元が狂って、シャワーのヘッドから勢いよく吹き出したお湯が、僕のTシャツの胸元に直撃した。