境界線を守りたい几帳面な僕が、無頓着な同級生と同室になりました。

 これまでと違う空気とその距離の近さに、僕の全身の毛が逆立つような錯覚を覚える。領域侵犯に対する警告じゃない。心臓のドキドキがあまりにもうるさくて、破裂しそうで、うまく息ができなかった。
 月城くんは僕の腕をしっかりと掴んだまま、僕とまっすぐ視線を合わせてくる。その真剣な眼差しから、目が離せなくなる。

「お前が実は我慢してたって知って、俺も反省して、なんとか俺自身も我慢しようと思ってたんだよ」
「へ?」
「だけどさ。同じ部屋で、隣のベッドで無防備に寝てたり、美味そうにお菓子食ってる湊を見てたら……。ちょっと、やっぱり我慢できなくなって。このまま同じ部屋にいたらまずいって感じて」
「我慢って、何を?」
「触りたい衝動」

 月城くんの手がゆっくりと伸びて、僕の頬に触れた。熱い指先が首筋までなぞる柔らかい感触に鳥肌が立つ。
 月城くんは怖くないはずなのに、今はなぜか怖い。拒絶したいわけじゃないのに、たまらなくなって逃げ出したい。彼の掌は皮膚の下を直接撫でられてるみたいに熱くて、振り払うことができなかった。

「今日、岡崎に抱きつかれてるの見た時、マジでイライラした。他の奴がお前に触れてるのを見るのも嫌なんだって気づいた。……部屋変わろうと思ってたけど、お前が他の奴と同室になると思うと、やっぱり腹が立つし、それはそれで無理かも」

 月城くんの指先は僕の髪を梳き、そのまま耳の後ろをするすると往復する。撫でられるたびに身体の奥底がゾクゾクして、頭の芯が痺れてしまう。
 なんだかよくわからないけれど、目の前の彼に食べられてしまいそうで、怖いのに目が離せなくなる。

「俺だけのものにしたいっていうか、抱きしめてぇなって思うようになってることに気が付いてさ。こういうヤバい独占欲とか衝動が、自分でも止められなくなって。このまま一緒の部屋にいたら、いつかお前の意思とか関係なく、無理やりしちゃいそうで怖くなったんだよ。だから、自分の理性を守るために距離を置こうとしただけ」
「は、はあ」

 頭が追いつかなくて、気の抜けた返事をしてしまう。月城くんの言葉が、鈍器のように心臓を殴った。
 つまり、月城くんの「部屋替えをしたい」というのは、僕が面倒くさい奴だからとかじゃなくて、むしろ、僕に変なことをしそうで怖いからってこと……?
 す、すごい意味の告白では?
 頭の中で情報処理がうまくいかなくて、目の前がチカチカしてくる。

「というか、さっきから気になってたんだけど」
 月城くんは、戸惑っている僕をよそにスマホをポケットから取り出し、画面を操作しながらぽつりと呟いた。

「お前さ、ハルのこと。誰だと思って、そんな切ない顔してたわけ?」
「え、だって。月城くんの地元にいた、大切な、過去の人じゃないの?」

 月城くんが無言でスマホを差し出してきたので、僕は恐る恐る彼のスマホの画面を覗き込んだ。
 そこには、白いお腹を丸出しにして、マヌケな顔で熟睡している、超絶モフモフの三毛猫。

「俺の実家にいた猫。ハル。俺が拾ったんだ。中学の時、病気に気づけなくて死なせちゃった、世界一可愛い俺の相棒。『親友』っつーか、まあ、うん。猫」
「は?」
「怒るとすぐシャーって威嚇してくるところが、湊にそっくり。これがハル」
「えっと、にゃんこ……?」
「そう。猫」
 
 ……マジか。
 頭の中で、僕の切ない片思いの歴史がガラガラと崩れ落ちていく。僕はずっと、月城くんのペットの猫に嫉妬してたってこと?

「湊、顔めちゃくちゃ真っ赤になってる」
「~~~~っ!」

 羞恥心で全身が発火しそうだった。僕は太陽みたいに爽やかな笑顔を浮かべている月城くんの肩を突き飛ばし、布団にダイブしてミノムシのように丸まる。
 「ハル」の話題を出したときの月城くんのあの辛そうな表情。あれはなんだったんだ⁉ いや、多分月城くんは本気で落ち込んでいたからなんだろうけど。それにしてもだ。頭が真っ白になった。
 壁にめりこんで消滅してしまいたい。宇宙の果てに飛ばされてしまいたい。とりあえず恥ずかしいから、しばらく布団から出たくない。

「おい、湊。布団の中、蒸し風呂だぞ」
「いい! 一生ここから出ない!」
「……そーか。じゃあ、俺が入っちゃお」

 月城くんが布団の端を強引にめくってくる。
「やだ、来るな!」
「いいじゃん、狭い方が距離近くて最高だし」

 強引に潜り込まれて、狭い布団の中に月城くんの熱気が流れ込んでくる。近い。近すぎて、彼の心臓の音が僕の胸にまで響く。

 僕は咄嗟に、月城くんと反対側を向いて背中を丸めた。振り向いてやるもんか。
 そのままの状態で数十秒。しばらく沈黙が続いた。

「なあ、湊。顔みせて」

 月城くんの声は、さっきよりずっと柔らかくて、優しくて、でも有無を言わせない響きを持っていた。だけど僕はモゾモゾと首を振る。
 今の自分の顔は涙と恥ずかしさでぐちゃぐちゃだ。とても見せられるものじゃない。
 僕が振り向く気配がないので、月城くんが諦めたのだろう。

「じゃあ、そのままでいいから。俺が今から言うこと、ちゃんと聞いてほしい」

 心臓が激しく波打っている。布団の中の酸素が薄くなってきているせいか、思考がぼんやりと霞んでいく。それでも、彼の言葉だけは、一言一句聞き逃すまいと耳を澄ませた。

「今日、リレーで湊が走ってるときな。マジでやばかった」

 リレーの話をされると思わなくて、僕は布団の中で目をぱちくりとさせる。

「あんなに怖がってたのに、俺のこと『信じてる』って言ってくれて、それだけでも嬉しかったのにさ。バトン受け取れた湊が、俺のところに向かって走ってくる姿見てたらさ、もう、死ぬほどかっこよくて。格好良すぎて、誰にも見せたくなくなった。俺のために走ってるんだって思ったら、本当に、……なんていうか」

 月城くんの声が、ほんの少し掠れる。それはいつもの自信満々な彼からは想像もつかないことで、だからこそ、僕は息を潛めて次の言葉を待った。
 ゴトリ、という重みが伝わってくる。どうやら丸まっている僕の背中に、月城くんが頭を預けたらしかった。
 
「友達とか、そんなんじゃ足りない。やっぱり湊が欲しい。誰にも渡したくない」
「……つ、きしろくん?」
「俺、こんなふうに誰かを好きになったことがないから、加減がわからない。多分、お前が思ってるよりずっと、俺は重い奴だと思う」

 月城くんの声はいつになく真剣だ。僕はあまりのことに混乱して、ただ黙ってその言葉を浴び続ける。心臓がうるさくて、呼吸が浅くなる。彼の一挙一動に全身の細胞が反応してしまう。

「好きだよ」
 
 背中越しじゃなくて、耳元で掠れた声が聞こえる。月城くんの手が僕の腰に回され、ぐいと引き寄せられる。

「こっち向いて。顔、見せてよ」

 言われるがままに観念して振り向けば、至近距離に月城くんがいた。彼の瞳が蕩けるように僕を捉えていて、息が止まりそうになる。

「嫌い……じゃないよな?」
「……嫌いなわけ、ないよ」

 僕が絞り出すと、月城くんは満足げに笑った。

「ぎゅーってしても、いい?」

 体育祭のときはいきなり抱きしめてきたのに。今は、僕に許可を求めてくる。ていうか、既に腰に手が回ってるし、抱きしめられているようなものだけど。
 嬉しいけど、頷くのは恥ずかしい。恥ずかしいけど、正直になりたいと思った。僕は俯いたまま、彼の胸に額をこつんと押し当てる。それが、僕なりの精一杯の返事だった。
 
 月城くんの腕が背中にぐるりと回って包み込まれて、ぎゅっと抱き締められる。僕の顔は彼の胸にうずまっていて、自分では今どんな顔をしているのかはわからないけれど、きっと今にも泣きそうな顔をしている気がする。
 二人でこうして触れ合っている。以前は怖くてできなかった領域の共有が、今はこんなにも自然に感じられて、自分の変化に驚いてしまう。

「猫に嫉妬してたんだ?」

 耳元で悪戯っぽく囁かれて、僕はボンッと顔が爆発する。
 抱きしめられながらも、月城くんをベシベシと叩いて抗議するけど、もちろんまったく効果はない。むしろ楽しそうに笑いながら抱きしめる腕の力を強めてきた。

「やっぱり湊、俺の想像以上に可愛すぎるな」

 そう言う月城くんの頬が、ほんのり朱く染まっていることに僕は気づいた。
 月城くんの心臓の音が聞こえる。いつもよりずっと速い。その鼓動に耳を澄ませていると、少しだけ気持ちが楽になった。
 いつも彼に振り回されてばかりだと思っていたけど、でも実は、違うかもしれない。だって、この誰よりも自由で強い人が、僕の一言でこんなに喜んだり、照れたりしているのだ。
 そう思うと、胸の奥からふわふわした温かい気持ちが込み上げてきた。

「……好き」
 自分でもびっくりするくらい小さな声だった。
 でも、月城くんの耳にはしっかり届いていたらしい。気がつくと、彼は満面の笑みで僕の顔を覗き込んでいた。
「俺も好き。世界で一番、湊が好き」

 月城くんの大きな手が、そっと僕の頬を包み込む。その指先がほんの少し震えていて、彼も緊張しているんだとわかった。いつも強気で自信満々な月城くんの、そんな意外な一面を見つけてしまって、胸がきゅうっと締めつけられる。

「……していい?」
 
 声が掠れている。瞳は真剣そのもので、でもどこか不安げで。
 僕は言葉の代わりに、ぎゅっと目を閉じた。心臓がうるさすぎて、ちゃんと返事できそうになかった。ただ、嫌だなんて、これっぽっちも思っていないってことをわかってほしかった。

 月城くんの吐息が近づいてきて、ほんの一瞬、唇に柔らかいものが触れた。
 一瞬すぎて、それが本当にキスだったのかわからないくらい。

「……もっかい、いい?」

 目を開けると、月城くんの顔が想像以上に近くにあって、僕は咄嗟に目を逸らしそうになった。でも、彼の手がそれを許さなくて、頬を包み込まれて、もう一度、今度はさっきより少しだけ長く、唇が重なった。

 柔らかくて、あったかくて、頭の先からつま先まで、月城くんの温度で満たされていくみたいだ。
 離れた瞬間、僕は息をするのも忘れていて、ぼうっと彼を見上げた。月城くんも同じように僕を見下ろしていて、お互いの間抜け面に、どちらからともなく吹き出した。

「……は、なにその顔」
「月城くんだって、変な顔してる」
「してねーし」
「してるよ」

 へらへらと笑い合いながら、月城くんがもう一度僕を抱きしめる。今度は力加減なんて考えてない、思いきりぎゅうぎゅうのハグだった。苦しいけど、それが嬉しい。

「これからもずっと一緒だからな。部屋替えも無し」
「うん」
「ていうか、むしろ今まで以上にベタベタ触るから」
「それはちょっと加減してほしいかも」
「ダメ」

 ベッドの上でくすぐったくなるような攻防を繰り返しながら、気がつけば二人とも声を上げて笑っていた。僕の目尻には涙が滲んでいたけど、それはもう切なさの涙じゃなかった。