「で、でも……バトンパス上手くできないし。バトン落とすかもしれないし」
「別に落としても拾えばいいよ。誰にも文句言わせないし」
「よくないよ。落としたせいで、……僕のせいで、また勝てなくなっちゃうよ。そしたら」
「いいって。湊のせいだって思わせないようにするから。何回バトンを落としても、お前がこけても俺が絶対取り返すから。俺にバトンを渡してくれさえすれば、なんとかするから」
グイ、と身を乗り出してきた月城くんに気圧される。息がかかるほど近くに寄られて、視線が逸らせなくなってしまった。
いつもの笑顔を封印した彼の真剣な瞳に射抜かれて、反論できない。
「大丈夫だって。俺、実はめちゃくちゃ走るの速いんだ。湊が失敗しても、死ぬ気で走って絶対一位でゴールしてみせるから」
「無理だよ、そんなの」
「出来るから言ってんだろ。俺のこと信用しろよ」
月城くんは僕の肩に手を置いた。その手の温かさが、パニックになりかけた僕の意識をかろうじて現実に繋ぎ止める。
「……月城くん、顔、近い」
「近くないと、お前の頑固な耳に届かねーだろ」
天然なのか悪びれもせずに真顔で返されて、カァッと顔が熱くなっていく。
「湊が失敗しても、俺が絶対カバーしてやる。だから、一人で責任感じる必要なんてないから。安心しろよ。リレーってそういう競技だろ」
月城くんの言葉は力強い。
なんだか理由はわからないけれど、月城くんが世界で一番頼もしく見えた。強くて大きな掌は、僕の緊張を和らげる。
「絶対」なんてありえないって頭ではわかってるけど、月城くんが僕のために言ってくれてる言葉は、信じられる気がするから不思議だ。
彼は僕に「大丈夫か?」って尋ねてこない。「大丈夫だよ」って声をかけてくれる。
その優しさが僕の心を救いあげて、背中を押してくれる。僕は一度深呼吸をしてから、はっきりと返事をした。
「わかった。月城くんを信じて、走る」
「おう。めちゃくちゃかっこよくゴールするところを見せてやるよ」
僕の言葉に月城くんは目を細めて、嬉しそうに笑った。そのまま手を伸ばしてきて、くしゃっと僕の髪を撫でてくる。久しぶりのその感触に、僕は少しだけ泣きそうになった。
だから、心の中で僕はひとつの決意をする。
僕たちの様子を見て、岡崎くんと佐々木くんもホッとした顔をしている。他のクラスメイトも口々に声援を送ってくれた。その温かい空気に心がじんわりとしてきた。
「順番は変わらず、二走が俺。白倉が三走。アンカーが月城だ」
岡崎くんが確認するように口にすると、僕は月城くんと一緒にうなずいた。
外では、ちょうど前の種目が終わってアナウンスが響き渡ったところだった。ついに、僕たちの出番がきてしまうと思うと、緊張感が増してきた。
「よし、行くぞ」
岡崎くんの合図でグラウンドへ出る。
相変わらず手足は震えている。それでも、さっきまでとは少しだけ違う感覚が僕を包んでいた。
月城くんの言葉を何度も心の中で繰り返す。何度も何度も、おまじないみたいに唱え続けると、あんなに恐ろしかった恐怖が、ほんの少しだけ和らぐのがわかった。
心強い味方がいるというだけで、一人で戦うよりも遥かに心が軽かった。
トラックの走者位置へ向かう途中、前の一年生のリレーでバトンミスが起きていた。うまくつながらなかったのだ。それを目の当たりにした瞬間、冷たい汗が背中を伝っていく。あんな風に失敗したらどうしよう。ぐらりと足元が揺らいだ気がした。その時だ。
「湊、大丈夫だから」
真後ろから、月城くんが囁くような声をかけてきた。
急に耳元で鳴った声に驚いて、心臓が跳ね上がる。振り返ると、思った以上に月城くんの顔が近くて、慌てて身を引いた。鼓動がうるさいくらいに鳴り響いているのが自分でもわかる。
「気軽に走っていいよ。湊がミスしたら俺の見せ所だろ? 本気で絶対一位獲ってやるから。ちょっとくらい、失敗してくれてもいいよ」
悪戯っぽく笑う月城くんの瞳には、微塵の不安も感じられない。
それだけで、なぜだか僕は「大丈夫だ」と心から思えてしまうから不思議だ。ここに来るまでは不安で吐きそうになっていたのに。
「いや、失敗しないよ」
なんの根拠もないのにそう言い切れてしまった自分に驚きつつ、僕は月城くんを見上げながらむうと唇を尖らせる。
「あれ? 俺にカッコいいとこ見せて欲しいんじゃないのか?」
「違うよ」
「冗談。頑張ろうな」
「うん」
笑顔の彼につられて微笑んでしまう自分がいた。やっぱり月城くんは凄い人だ。
「二年生・男子、クラス対抗リレー! まもなくスタートです。走者は位置に就いてください!」
放送部のアナウンスがグラウンド中に響き渡った。
第一走者である山下くんと第三走者である僕はスタート地点に、第二走者である岡崎くんとアンカーである月城くんはバトンタッチの交代エリアへと散っていく。
アンカーが一番外側のコースにいるので必然的に月城くんとは少し距離が空いてしまったけど、そこからも手を振っているのが見える。
なんだか彼の余裕そうな態度を見ていると、胸の内の霧が晴れていくようだった。
数分後。
ピストルが鳴り響いた。山下くんが綺麗に飛び出す。クラス全体の応援の声が一気に膨れ上がった。
山下くんは、その落ち着いた性格の通り安定した走りを見せる。他クラスと互角に渡り合いながら、第一区間を走り抜けていく。
そのまま岡崎くんへとバトンが渡った。岡崎くんは持ち前の身体能力を生かして、軽快なステップで飛び出していく。
「前、行けー!」
「抜かせー!」
ワーワーと地鳴りのような声援が飛び交う中、岡崎くんは力強い走りで順位を一つ上げ、現在二位。まもなく、バトンが僕の番になる。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
その瞬間に、過去の記憶が脳裏をよぎる。
青空の下、前の学校の体育祭での記憶が鮮烈に蘇り、脳裏に張り付いて離れない。
苦い記憶がこみ上げてきて、視界が歪みそうになる。息が詰まる。足が震える。指先が急速に冷たくなっていく。
『——大丈夫だよ』
月城くんの言葉を心の中で反芻する。何度も、何度も。
大丈夫、絶対に大丈夫。月城くんがそう言ってくれたから、僕はそれを信じる。
僕が意を決して顔を上げた、まさにその瞬間だった。盛大な音を立てて、岡崎くんが激しく転倒した。見事なズッコケぶりだ。
おそらくスパイクが引っかかったのだろう。バトンがカラカラと派手な音を立てながら、トラックの外へと転がっていく。周囲から悲鳴に近い声が上がった。
「コラー! 岡崎‼ だっせええ! サッサと拾いに行けよ!」
「うっせえええっ!」
トラックの向こうからの月城くんの怒鳴り声に、岡崎くんが必死に叫び返しながら慌てて立ち上がる。バトンを拾い上げ、すぐにこちらに向かって猛然と走り出したけど、前を走る選手たちとは絶望的な差が開いてしまっていた。
現在、最下位。でも、逆にその方が気楽かもしれない、とも思った。
だって、もう誰かに抜かれる心配はないのだから。
「ごめん!」
僕に向かって謝罪の言葉を叫びながら岡崎くんは必死の形相で走ってくる。僕はゆっくりと振り返り、軽く走り出した。
一歩、二歩、三歩――。
「白倉! 頼む‼」
岡崎くんが僕の背後からバトンを差し出した。
お互いの領域が重なる瞬間、ゾクリと悪寒が走る。前の学校でバトンを落とした日の光景がフラッシュバックし、手が震えた。
過去が追体験される。相手の歪んだ顔がよぎる。僕は思わず目を背けそうになり——。
「湊——っ! 走れ!」
その時、グラウンドの反対側から月城くんの声が響き渡った。
テイクオーバーゾーンのさらに向こう、トラックの対角線上。あんなに遠くにいるのに、彼の声は、周囲の喧騒をすべて突き破って、僕の耳にはっきりと届いた。
「走れ! ここで待ってるから!」
「別に落としても拾えばいいよ。誰にも文句言わせないし」
「よくないよ。落としたせいで、……僕のせいで、また勝てなくなっちゃうよ。そしたら」
「いいって。湊のせいだって思わせないようにするから。何回バトンを落としても、お前がこけても俺が絶対取り返すから。俺にバトンを渡してくれさえすれば、なんとかするから」
グイ、と身を乗り出してきた月城くんに気圧される。息がかかるほど近くに寄られて、視線が逸らせなくなってしまった。
いつもの笑顔を封印した彼の真剣な瞳に射抜かれて、反論できない。
「大丈夫だって。俺、実はめちゃくちゃ走るの速いんだ。湊が失敗しても、死ぬ気で走って絶対一位でゴールしてみせるから」
「無理だよ、そんなの」
「出来るから言ってんだろ。俺のこと信用しろよ」
月城くんは僕の肩に手を置いた。その手の温かさが、パニックになりかけた僕の意識をかろうじて現実に繋ぎ止める。
「……月城くん、顔、近い」
「近くないと、お前の頑固な耳に届かねーだろ」
天然なのか悪びれもせずに真顔で返されて、カァッと顔が熱くなっていく。
「湊が失敗しても、俺が絶対カバーしてやる。だから、一人で責任感じる必要なんてないから。安心しろよ。リレーってそういう競技だろ」
月城くんの言葉は力強い。
なんだか理由はわからないけれど、月城くんが世界で一番頼もしく見えた。強くて大きな掌は、僕の緊張を和らげる。
「絶対」なんてありえないって頭ではわかってるけど、月城くんが僕のために言ってくれてる言葉は、信じられる気がするから不思議だ。
彼は僕に「大丈夫か?」って尋ねてこない。「大丈夫だよ」って声をかけてくれる。
その優しさが僕の心を救いあげて、背中を押してくれる。僕は一度深呼吸をしてから、はっきりと返事をした。
「わかった。月城くんを信じて、走る」
「おう。めちゃくちゃかっこよくゴールするところを見せてやるよ」
僕の言葉に月城くんは目を細めて、嬉しそうに笑った。そのまま手を伸ばしてきて、くしゃっと僕の髪を撫でてくる。久しぶりのその感触に、僕は少しだけ泣きそうになった。
だから、心の中で僕はひとつの決意をする。
僕たちの様子を見て、岡崎くんと佐々木くんもホッとした顔をしている。他のクラスメイトも口々に声援を送ってくれた。その温かい空気に心がじんわりとしてきた。
「順番は変わらず、二走が俺。白倉が三走。アンカーが月城だ」
岡崎くんが確認するように口にすると、僕は月城くんと一緒にうなずいた。
外では、ちょうど前の種目が終わってアナウンスが響き渡ったところだった。ついに、僕たちの出番がきてしまうと思うと、緊張感が増してきた。
「よし、行くぞ」
岡崎くんの合図でグラウンドへ出る。
相変わらず手足は震えている。それでも、さっきまでとは少しだけ違う感覚が僕を包んでいた。
月城くんの言葉を何度も心の中で繰り返す。何度も何度も、おまじないみたいに唱え続けると、あんなに恐ろしかった恐怖が、ほんの少しだけ和らぐのがわかった。
心強い味方がいるというだけで、一人で戦うよりも遥かに心が軽かった。
トラックの走者位置へ向かう途中、前の一年生のリレーでバトンミスが起きていた。うまくつながらなかったのだ。それを目の当たりにした瞬間、冷たい汗が背中を伝っていく。あんな風に失敗したらどうしよう。ぐらりと足元が揺らいだ気がした。その時だ。
「湊、大丈夫だから」
真後ろから、月城くんが囁くような声をかけてきた。
急に耳元で鳴った声に驚いて、心臓が跳ね上がる。振り返ると、思った以上に月城くんの顔が近くて、慌てて身を引いた。鼓動がうるさいくらいに鳴り響いているのが自分でもわかる。
「気軽に走っていいよ。湊がミスしたら俺の見せ所だろ? 本気で絶対一位獲ってやるから。ちょっとくらい、失敗してくれてもいいよ」
悪戯っぽく笑う月城くんの瞳には、微塵の不安も感じられない。
それだけで、なぜだか僕は「大丈夫だ」と心から思えてしまうから不思議だ。ここに来るまでは不安で吐きそうになっていたのに。
「いや、失敗しないよ」
なんの根拠もないのにそう言い切れてしまった自分に驚きつつ、僕は月城くんを見上げながらむうと唇を尖らせる。
「あれ? 俺にカッコいいとこ見せて欲しいんじゃないのか?」
「違うよ」
「冗談。頑張ろうな」
「うん」
笑顔の彼につられて微笑んでしまう自分がいた。やっぱり月城くんは凄い人だ。
「二年生・男子、クラス対抗リレー! まもなくスタートです。走者は位置に就いてください!」
放送部のアナウンスがグラウンド中に響き渡った。
第一走者である山下くんと第三走者である僕はスタート地点に、第二走者である岡崎くんとアンカーである月城くんはバトンタッチの交代エリアへと散っていく。
アンカーが一番外側のコースにいるので必然的に月城くんとは少し距離が空いてしまったけど、そこからも手を振っているのが見える。
なんだか彼の余裕そうな態度を見ていると、胸の内の霧が晴れていくようだった。
数分後。
ピストルが鳴り響いた。山下くんが綺麗に飛び出す。クラス全体の応援の声が一気に膨れ上がった。
山下くんは、その落ち着いた性格の通り安定した走りを見せる。他クラスと互角に渡り合いながら、第一区間を走り抜けていく。
そのまま岡崎くんへとバトンが渡った。岡崎くんは持ち前の身体能力を生かして、軽快なステップで飛び出していく。
「前、行けー!」
「抜かせー!」
ワーワーと地鳴りのような声援が飛び交う中、岡崎くんは力強い走りで順位を一つ上げ、現在二位。まもなく、バトンが僕の番になる。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
その瞬間に、過去の記憶が脳裏をよぎる。
青空の下、前の学校の体育祭での記憶が鮮烈に蘇り、脳裏に張り付いて離れない。
苦い記憶がこみ上げてきて、視界が歪みそうになる。息が詰まる。足が震える。指先が急速に冷たくなっていく。
『——大丈夫だよ』
月城くんの言葉を心の中で反芻する。何度も、何度も。
大丈夫、絶対に大丈夫。月城くんがそう言ってくれたから、僕はそれを信じる。
僕が意を決して顔を上げた、まさにその瞬間だった。盛大な音を立てて、岡崎くんが激しく転倒した。見事なズッコケぶりだ。
おそらくスパイクが引っかかったのだろう。バトンがカラカラと派手な音を立てながら、トラックの外へと転がっていく。周囲から悲鳴に近い声が上がった。
「コラー! 岡崎‼ だっせええ! サッサと拾いに行けよ!」
「うっせえええっ!」
トラックの向こうからの月城くんの怒鳴り声に、岡崎くんが必死に叫び返しながら慌てて立ち上がる。バトンを拾い上げ、すぐにこちらに向かって猛然と走り出したけど、前を走る選手たちとは絶望的な差が開いてしまっていた。
現在、最下位。でも、逆にその方が気楽かもしれない、とも思った。
だって、もう誰かに抜かれる心配はないのだから。
「ごめん!」
僕に向かって謝罪の言葉を叫びながら岡崎くんは必死の形相で走ってくる。僕はゆっくりと振り返り、軽く走り出した。
一歩、二歩、三歩――。
「白倉! 頼む‼」
岡崎くんが僕の背後からバトンを差し出した。
お互いの領域が重なる瞬間、ゾクリと悪寒が走る。前の学校でバトンを落とした日の光景がフラッシュバックし、手が震えた。
過去が追体験される。相手の歪んだ顔がよぎる。僕は思わず目を背けそうになり——。
「湊——っ! 走れ!」
その時、グラウンドの反対側から月城くんの声が響き渡った。
テイクオーバーゾーンのさらに向こう、トラックの対角線上。あんなに遠くにいるのに、彼の声は、周囲の喧騒をすべて突き破って、僕の耳にはっきりと届いた。
「走れ! ここで待ってるから!」


