境界線を守りたい几帳面な僕が、無頓着な同級生と同室になりました。

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 体育祭当日の朝は、僕の気持ちとは裏腹に抜けるような青空だった。
 雲ひとつない絶好のスポーツ日和。こんなに晴れなくてもいいのに、と恨み言の一つも言いたくなる。

 クラスメイトたちは朝から浮き立っていて、教室のあちこちから「今日は絶対勝とうぜ」「楽しみだな」なんて声が聞こえてくる。その熱気に当てられまいと、僕は自分の席で小さくなっていた。

 月城くんはというと、朝からクラスの中心で笑っている。右手の包帯がとれているのを見て、安心すると同時に寂しくもあった。もう僕が彼の世話を焼く必要はどこにもない。
 あれから僕たち二人の間に流れる空気は、冷たいというより、薄氷を踏むような慎重さに満ちていた。挨拶はするし、必要最低限の会話はする。でも、それ以上月城くんは踏み込んでこない。もう僕の頭を撫でたりしないし、そもそも触れてこない。まるで見えない境界線を引き直したみたいに。
 昨夜も、月城くんは共同浴場に行ってからなかなか帰ってこなくて、結局消灯時間ギリギリに部屋に戻ってきた。避けられていると思うと、それ以上踏み込む勇気が出なかった。

 さっさと部屋替えをしてもらった方がいいのかな。
 頭の隅でそんなことを考えながら、僕はノロノロ体操服に着替えて、トボトボとグラウンドへ向かった。

 開会式が終わり、午前中の競技が次々と消化されていく。
 中には騎馬戦なんていう恐ろしい競技もあったりして眩暈がする。……どれもそれなりに盛り上がっているけれど、僕の気持ちはどんよりしたままだ。
 僕が出場する障害物競走は午前の後半の種目だ。プログラムを見るたびに胃がキリキリと痛む。今回は障害物競走だ。バトンはない。だから大丈夫——そう必死に自分に言い聞かせる。

「白倉、そろそろ招集だよ、いこうぜ」
 
 同じ種目に出るクラスメイトから腕をとられて、僕は反射的に身構えてしまった。月城くん以外の誰かに触れられるのは、やっぱりまだ緊張する。その場の空気を悪くすることが怖くて手を振り払うことができずに、そのままゆっくりと立ち上がる。足が鉛みたいに重い。
 すると、僕の腕をつかんでいたクラスメイトの手が、なぜか第三者によってサラリと外された。
 ふと視線をあげれば、いつの間にか月城くんの背中が目の前にあった。僕とクラスメイトの間に壁みたいに、身体を滑りこませてきたみたいだ。

「あー、こいつのことは俺が連れてくわ」

 口ぶりは軽いのに圧がすごい。クラスメイトは何かを感じ取ったようで「そうかー頼んだ。じゃ、先に行ってるわ」と言いつつサッと去っていく。取り残されてしまった。

「……ありがとう」
 小さく礼を言えば、「別に」と短い返事が返ってきた。だけど月城くんはその場にとどまっていて、こちらを探るように僕の顔をじっと見ている。

「緊張してんの?」
「……ちょっとだけ」

 本当は少しではなかったけれど、ここは曖昧に答えておく。
 月城くんは何かを考え込んでいるようだ。視線が僕の顔を捉えて離さない。なんだか見つめられると恥ずかしくて、顔がじわじわと熱くなってくる。

「手、震えてる」
 気がつかないうちに震えていた両手を、下から掬い上げるようにして大きな掌で包み込まれて、思わず息をのんでしまう。
 包帯が取れたばかりの月城くんの掌は、少し硬くて、驚くほど熱い。指先が僕の手首の脈拍にぴったりと重なって、ドクドクと早鐘を打つ鼓動が彼にすべて伝わってしまいそうで、なんだかちょっと怖くなる。
 久々に感じる彼の温もりにどうしていいかわからなくて、僕は完全に固まってしまった。

「緊張しすぎたら怪我すんぞ。どうしても無理なら助けてやるから。気軽に走ってこい」
「え……」
「ほら、時間だろ。行ってこい」

 握っていた手をゆっくりと離して、ポンと軽く背中を押される。いつもの癖で思わず僕の頭を撫でそうになったのだろうか。月城くんの片手が空中に上がって、行き場を失っている。
 僕は咄嗟に一歩だけ後退した。もう少し近づいたら触れてしまう距離で視線がかち合う。僕たちは同時に視線を外すと、落ち着かなくて、それぞれ別の方向を向いた。
「行ってくる」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 月城くんはもうなにも言わなかった。ただじっと僕を見送ってくれていた。

 スタート地点に移動して順番待ちの列に並びながらも、心臓の鼓動は治まりそうにない。
 障害物はハードルと平均台と網くぐり。それだけならまだいいけど。いちばん厄介なのは最後にある「借り物競争」の部分だ。
 競技内容は至ってシンプルで、「障害物コースを走り抜けたあと、設置されている箱の中から一枚カードを引く」というものだ。そしてそのカードに指定された品物、あるいは人物を借りてきてゴールするというもの。
 単純なゲームだけど、僕の場合この「人と関わる」という要素が致命的過ぎた。どうか簡単な品物に当たりますように。

「去年さあ、体育委員のやつがふざけて『好きな人』ってカード仕込んでたんだよな。今年もあるかな?」

 ちょうど隣に並んでいる男子生徒の会話が耳に入ってきて顔がひきつる。最悪すぎる。そんなものを引いてしまったら、卒倒してしまうかもしれない。
 スタートの号砲が鳴り響いて一斉に駆け出す。僕も数歩遅れて走り出した。

 まずは障害物であるハードルを飛ぶ。これは特に問題なし。そのあとの平均台は少しばかりバランスを崩したけど、落下することはなかった。続いて網くぐりもなんとか成功。ここまで順調すぎるくらいに順調だ。僕は何とか三位以内をキープしてゴールへの一直線を目指す。

「白倉~‼ その調子! ガンバレ‼」

 応援の声がどこからか聞こえて来た気がするけれど、僕は前を向いたままスピードを緩めない。走り抜けながらラストの関門である「借り物カード」が入った箱の前に到達した。
 この時点で既に一位の生徒はカードを引いていて「池田先生! どこだ~?」と叫びながら、英語教諭の池田先生を捜索しているところだった。
 僕の直前を走る女子生徒もすでにカードを引いていて、「誰か眼鏡貸して!」と自分のクラスのテントに向かって叫んでいる。みんなそれぞれに目標を見つけている様子だ。
 僕も慌てて箱の中に手を突っ込むと、一枚だけ摘み出してそのカードを裏返した。

 そこに書かれていた文字を見て、時間が止まった。

 頭が真っ白になって息が詰まる。体中の血液が急速に温度を下げていくのを感じた。周りの歓声や砂埃の匂いが遠く霞んでいく。

 ……こんなの、今の僕には一人しか思い浮かばない。

 この学校に来てまだ数か月しか経っていないコミュ障の僕にとって、ここでの交流はほぼ彼を通してのものだけだ。
 でも彼とは現在進行形ですれ違ってしまっている。距離を置かれている。
 僕だって自分の言葉で彼を傷つけた。呼びかけたいけど声が喉につかえて出てくる気配がない。
 僕は一人棒立ちになってパニックになっているのに、応援団の笛の音が高らかに響くばかりだ。クラスの誰かが「白倉がんばれー!」と声援を送ってくるのが更にプレッシャーになる。
 早く決めなきゃ。僕のあとからカードを引いた人たちがどんどん進んでいる。
 それでも僕は動けない。焦燥感が募っていく。足が石のように硬くなってその場から進むことができない。やっぱり僕には無理なんだ。諦めかけた刹那——。

「湊!」

 聞き慣れた声がグラウンド中に響きわたった。僕はその声に釣られて、反射的に顔を上げて振り返る。険しい顔で僕をじっと見つめていた彼の目が、僕と視線が合った瞬間に、ふっと柔らかく緩む。

「そこに何て書いてあるか知らねえけど」

 彼はジャージの裾を翻して僕の目の前まで来ると、カードの中身なんて見もしないで、頼もしく声を張った。

「それ、俺でもいける? 一緒に行くよ」

 堂々とトラックの内側に現れたのは、ほかでもない月城くんだった。
 こんな大舞台で注目を集めるのは苦手だけど、それどころではない。僕は半ば呆然と彼を見つめていた。
 ほら、やっぱり彼しかいなかった。
 無言のまま、必死に気持ちを落ち着かせようとしている僕の様子を見て、月城くんが、眉をひそめる。

「俺じゃダメなやつか? だったら誰か別の奴呼んでくるけど」
「……月城くんで、お願いします……」

 身を翻しかけた月城くんの体操服の裾を慌てて掴む。彼を逃がしたくなかった。上手く言葉が紡げなくて蚊の鳴くような声しか出なかったけど。

「よし。じゃあ走るぞ」

 月城くんはちょっとだけ笑ってから僕の手をとり、そのまま手を引っ張りながらゆっくりと駆け出した。まったく躊躇いがない。
 僕は引きずられるようにして彼について行った。こんなにも彼の近くで走るのは初めてだけど、月城くんの動作にはまったく隙が無い。掌から伝わってくる温度にじわじわと安心感を覚えながら、改めて実感する。
 月城くんってほんとに凄い人だ。何でこんなに僕のことをわかってくれるんだろう。
 答えの出ない疑問はひとまず脇においておくことにする。今はとにかくゴールを目指さなきゃ。手を引かれながらふと前を向けば、一位でゴールした男子生徒の姿が見えた。彼の担任の池田先生を引っこ抜いてきたらしい。二位通過の女子生徒もクラスメイトから眼鏡を入手した模様。
 そのあと、二人ほどゴールしていて、結局僕は五位でゴールテープを切った。ビリじゃなかっただけマシなレベルだけど、この僕が完走できただけ奇跡だと思う。

「はーい、じゃあ、カードチェックします!」

 三年生の女子の先輩が審査担当らしくてニコニコしながら近づいてくる。
 正直、月城くんが近くにいる状態で見せたくなかったけど、そういうわけにもいかない。覚悟を決めて僕はカードを掲げた。
 先輩はカードを受け取って、僕と月城くんを見比べて、なぜかにやにやしている。

「ふーん、月城がそうなんだあ、へえ。青春だねえ。よし、合格! おめでとうございまーす♪」

 先輩は意味深なコメントとともに、僕にカードを返してくれた。青春というのは一体。首を傾げている僕とは裏腹に、月城くんは若干赤面しながら、バツが悪そうに咳払いをしている。
 
「あのさ、湊。そろそろ手離してもらっていいか?」

 言われてはじめて気がついた。ゴールしてからも、お互いに指を絡ませたまま、かなり強く握りしめていたらしい。
「あ、ご、ごめん……っ」
 慌てて手を離す。けれど、離れた瞬間の指先が冷たく感じられて、胸の奥がちょっとだけ疼いた。触れ合っていた皮膚に、まだ彼の熱がべったりと張り付いている気がする。
 それを誤魔化すように自分の手をぎゅっと握り込む僕の前で、月城くんは耳の後ろをガシガシと掻きながら、視線をあちこちに泳がせていた。

「ありがとう。ごめんね。あと……助かりました」

 感謝の念を込めて月城くんに向かって頭を下げると、彼は少し耳を赤くしたまま、照れ臭そうに微笑んだ。
「そんな畏まられると困るんだけど……どういたしまして?」

 どこかぎこちないやり取りだったけれど、久しぶりに感じた柔らかい空気感にホッとした。

「で、結局カードにはなんて書いてあったんだ?」

 恥ずかしかったけど、協力してくれた彼に伝えないわけにもいかないと思い、僕は無言でカードを差し出した。月城くんは戸惑いつつも、そっと受け取ってくれた。そこに書かれていた文字を見て、少し目を見開く。

「これ、俺でよかったのか?」
「月城くんしか思い浮かばなかったよ」
「……そっか。なら良かった」

 安堵したように笑う月城くんの表情がなんだか新鮮で。少しだけドキドキした。僕たちの間にあった氷のような壁が徐々に溶けていくような感覚があった。

 カードに書かれていた文字は、『困ったときに、絶対に助けてくれる人』だった。