境界線を守りたい几帳面な僕が、無頓着な同級生と同室になりました。

 翌朝から、月城くんは不自然なくらい僕を避けるようになった。
「おはよう」といった挨拶や会話はする。だけど、一切僕に触れてこないし、距離を置いて話す。
 僕の隣に座り込むこともなければ、頭を撫でてくることもない。そもそも教室でもほとんど話しかけてこなくなったし、月城くんは昼食も別の友達と食べるようになってしまった。
 昨日までは当たり前に感じていた月城くんからの接触がなくなってみると、どうしようもなく居心地が悪かった。なんだか心にポッカリ穴が空いたような寂しさがあって。こんなの知らないほうが良かった。
 彼との接触にいつの間にか慣れてきてしまっていたことがこんなにも怖い。

「航と喧嘩したのか?」

 僕と月城くんの微妙な空気を察知したのか、岡崎くんがそっと話しかけてきた。珍しく食堂で一人で食べている僕を気づかってくれたらしい。優しい。

「いや……僕が一方的にキレたというか……」
「白倉を怒らせるなんて。アイツどんな爆弾踏んだわけ」
「月城くんは悪くないんだ。僕が……僕の方が全部悪いんだ」
「俺で良ければ、話聞くけど」

 岡崎くんはにっこり笑って言う。自称口は堅くて信頼できる、という岡崎くんに話を聞いてもらえたら、少しだけ心が軽くなるだろうか。

「あの、岡崎くん。月城くんってさ……兄弟多いんだよね? しかも三人。知ってた?」
「そんくらい人数いたかな。なんでまた?」
「ハルって人、兄弟の中にいるのかなって思って」
「……ハル?」
 
 聞き覚えのない名前なのか岡崎くんは首を傾げた。どうやら心当たりはないらしい。
 月城くんの地元の人か、あるいは、僕の知らない彼の過去の人、だろうか。あんなに後悔を滲ませて、死なせてしまったと言っていた、大切な人……。

「なんでもない。変なこと聞いてごめん。本人に聞いてみるよ」
「そうだな。航はわりと無神経だから、きちんと言わないとわからんこともあるんじゃないか?」
「……月城くんは、無神経じゃないよ」

 ぼそりと呟いた僕の言葉に、岡崎くんは困ったように微笑んだ。
 月城くんは確かに距離が近くて突拍子もない行動も多いけど、無神経ではない。ちゃんと周囲をよく見てる。僕がお願いしたことは、きちんと守ろうとしてくれる。
 今のこの状況も、僕を気遣ってくれた結果だ。僕がずっと「我慢していた」と彼につい言ってしまったから。

「ちゃんと話し合って、仲直りしろよな」

 食事のあと、岡崎くんはポンと僕の肩を叩いて笑ってくれる。岡崎くんのシンプルな言葉が胸に沁みた。
 僕と月城くんは喧嘩をしているわけじゃない。けれど、やっぱりちゃんとお互いの本音を言葉にしないと平行線のままになりそうだ。

 右手の怪我が治った月城くんは、最近サッカーの部活に復帰した。
 以前は放課後、寮まで一緒に並んで帰ったりしていたけど、今はそういうことはしないし、月城くんは僕の世話をもう必要としていない。つまり寮の部屋が同じという事実を除けば、僕が彼と一緒にいる理由も消失したわけで。

 物理的にも心理的にも距離ができ始めている僕たちを見兼ねたのかもしれない。

「白倉、ちょっと時間あるか?」

 放課後、クラスメイトで、なおかつ寮長でもある山下くんから呼び止められた。ちらりと周囲を見渡して月城くんが席にいないのを確かめている気がした。
 最近の月城くんは放課後、真っすぐ部活へ向かっている。一応、僕に声かけはしてくれるけれど、放課後の行動はいつも別だ。

「えっと……何?」

 なんとなく嫌な予感がした。山下くんは穏やかな笑顔を見せつつも、その目は真剣だ。どうやら真面目な話らしい。

「前にお前が希望した部屋替えの件だけど……」
「……部屋替え?」
「転校早々、寮長の俺にお願いしに来ただろ? 原則として認められないから少し様子見てって返してたけど。実は昨日、月城からも何とかならないかってお願いされてさ。お前らがそんなにこじれてるとは思わなかったよ」
「月城くんが?」

 予想外の情報に思考が停止する。
 自分が部屋替えの希望を出したこと自体は、もちろん覚えている。転校初日に我慢できずに山下くんへ部屋替えをお願いしたのは確かだ。基本的に希望は聞けないし、三年生は一人部屋になる規則だからそれまで何とか我慢できないか?と返されていた。
 そのうち、月城くんとの二人暮らしにも慣れてきて、もう大丈夫かなと感じていた。
 今さら、部屋替えのことを持ち出されるなんて思わなかった。しかも、月城くんが同じことを言ってくるなんて。心の中に冷たい雨雲が立ち込めはじめる。

「月城曰く、お前との距離が近くて嫌がられてたのに無理やり距離縮めてたかもしれない。それで怪我して、罪悪感から世話までやかせてしまって、申し訳ないから責任を取りたい。みたいな感じだったかな」
「それって」

 僕が彼を責めたせいで、月城くんを追い詰めてしまったということだろうか?
 違う。僕が言った『我慢してたこと』は、彼に距離を詰められることが、触られるのが嫌だったからじゃない。僕を見てくれているわけじゃないのに、優しくされるのが苦しかったからで。
 月城くんの勘違いに、胸の奥がぎゅっと痛む。責任を取るなんて言い出すところがまさに彼らしい。

「どうしても合わないなら、個室はちょっとまだ無理だけど、別の誰かと部屋交換できるよう学校に相談してもいいかな。このままだと、お前も月城も生活に影響が出るだろ? 月城はお前が希望してるならいつでもいいし、別に誰と同室になってもいいってさ」

 僕が嫌なら。月城くんの行動原理はいつもそれだ。
 僕自身を見てくれているわけじゃないのに、そんな風に優しくしないでほしい。
 山下くんは、淡々と手続きについて説明してくれる。
 ここで頷けば全て解決するのかもしれない。もうこれ以上モヤモヤ考えなくてすむ。なのに僕は言葉に詰まっていた。月城くんがいなくなると想像した瞬間、胸が波打つような感覚に襲われた。

「え……っと。もうちょっと、考えてもいいかな……」
「いいよ。てか、できればちゃんと二人で話し合って決めてくれると助かるよ。第三者が間に入ると余計拗れるから。お節介かもしれないけど」
「ごめん、ありがとう」

 僕は考えてることがわかりやすいのだろうか。岡崎くんといい山下くんといい、やたらと気を遣ってくれる。申し訳なさと情けなさで胸が締め付けられる。

 ヨロヨロしながら部屋に戻ったものの、月城くんは部活で当然部屋にはいない。一人きりの空間で立ち尽くす。
 机に向かって教科書と課題を広げるけれど集中できない。どうしてもさっきの山下くんとの会話が頭から離れない。ペンを持つ手が止まる。
 月城くんはどう思っているんだろう。
 ふと自分の身の回りの私物に視線を巡らせる。壁際に並べられた教科書類はきれいに整頓されていて、僕が並べたままだ。月城くんは、無頓着に見えて、決して僕の私物に許可なく触らない。
 彼が無意識に構って、触ってしまっていたのは、いつも僕自身だ。
 ベッドでつい寝てしまった僕の髪を、飽きもせず何度も撫でていた大きな手。与えられたお菓子をモグモグ食べていると、ニコニコしながら、顔を覗き込んできた目。
 それは多分、僕が彼の大切な人に似ているから。そう考えると、やっぱりちょっと複雑な気分になる。
 月城くんとちゃんと話したいと思うのだけど、自分が何を伝えたいのか分からない。

 夜八時過ぎにようやく月城くんが部活から帰ってきた。多分夕食も済ませてきたのだろう。
 最近、月城くんは食事を済ませてから部屋に戻ってくることが多い。

「おかえり」
「……ただいま」

 僕が声をかけると、月城くんはこちらに振り向いて視線をあわせてくれる。だけど互いに遠慮がちな様子で顔をそらしてしまった。僕たちは微妙な距離ができたままだ。けれど、何とかしたい。

「山下くんに聞いたよ。部屋替えのこと」
「あぁ……」

 月城くんは眉根を寄せると気まずそうにうつむいた。

「僕がキレてグダグダ言ったからだよね。ごめん」
「いや、違うって。湊に無理させてた俺が悪いから。これ俺の問題だから。ほんとごめん」
「無理、してないし」
「いや、してるだろ?……ごめん、俺もうこれ以上湊に嫌われたくないから。とりあえず時間ないし風呂行ってくる」
 僕を刺激しないようにとでも言うみたいに、月城くんはそっと視線を外した。気のせいか、彼もしょんぼりしているように見える。
「うん……いってらっしゃい」

 月城くんはさっと荷物を置くと、着替えを掴んで、共同浴場へと行くために部屋から出て行った。ドアが閉まる音がやけに重たく響く。
 最近はずっとこんな感じだ。なんだかまともに会話するのさえ、避けられている気がする。

 部屋の中には再び静寂が訪れた。空気がぎこちないのは自覚している。
 数日前までの僕たちであれば、こんな時間でもくだらない話をしていたはずだ。
 今の月城くんは必要以上に僕と距離を置いていて、僕に干渉してこない。
 僕たちの間には以前よりずっと分厚い透明の板があるみたいで。最初に壁を作ったのは僕のほうなのに。傷つく権利なんて僕にはない。それなのに。
 視界が滲んでいるのは疲れのせいだと信じたかった。