境界線を守りたい几帳面な僕が、無頓着な同級生と同室になりました。

 単刀直入な問いだった。逃げ道を塞がれた気分になる。
 僕はしばらくの沈黙のあと、ぽつぽつと話し始めた。

「前の学校の体育祭で、僕はリレーで走ることになって」
「うん」
「それで、練習のときから何度かミスしてて。バトンを落としたり、うまく渡せなかったり。でもみんな『本番は大丈夫だ』って励ましてくれて……」
「それで?」
「本番で、僕、やっぱりバトンを落としたんだ。走りながら受け取ろうとして、掴み損ねて」

 言いながら、あの時の情景が克明に蘇る。ゴール前の直線。テイクオーバーゾーン。僕が全力で走り抜けた先で、待っているはずだったアンカーのチームメイトに、僕はバトンを繋ぐことができなかった。
 渡す相手の彼が一瞬だけ、顔をしかめたからだ。それだけで、僕は彼の領域に入ることができなくなった。
 結局バトンは地面に落ちて、相手が拾い上げてくれたけど、それでまたタイムを大幅にロスして、結局最下位になった。
 競技が終わったあと、直接的な罵倒はなかった。だけど、みんな遠巻きに眺めてくるだけで、誰も口をきいてくれなかった。
「真面目にやれよな」
 誰かが小さく呟く声だけが聞こえた。
 受け取るときも、渡すときも、僕はバトンを落としたからだ。
 大真面目にやってるのに、僕のせいで負けてしまったから、何を言っても言い訳になる。だから謝ることしかできなかった。

 他人に自分の領域へ踏み込まれることも、自分が他人の領域に踏み込んで拒絶されることも怖い。
 他人と連携を取ることができない僕にとって、バトンパスは、他人が自分の境界線を越えて踏み込んでくる、最も恐ろしい瞬間だ。
 僕の脳細胞が、テイクオーバーゾーンを誰かと自分の領域が重なる領域だと認識してしまってからは、もう直接バトンを受け取れなくなってしまった。
 
 こんな面倒くさい自分の特性が、性質が嫌で嫌で仕方なかった。
 僕が、みんなと同じように『普通』に、できればいいだけなのに。

 僕のつまらない話を月城くんは遮らずに聞いてくれて、僕が話し終えると大きくため息をついた。
「そっか……だからリレー嫌がってたんだな」
「うん」
「でもさ」
 と月城くんは身を乗り出す。
「もう誰もお前のこと責めたりしねえよ。今のクラスメイトはそんなんじゃねえし。大体補欠の湊にそんなプレッシャー与えねえ。もし本番でミスしても、誰も文句なんか言わせないし」
「でも、本番で月城くんが走れなかったら、僕のせいでもあるし」
「お前のせいじゃねえって。俺が怪我したせいだろ。もともと」
「違う、僕が」
「違くない」
 言い合いになりかけて、月城くんが急にぐっと黙り込んだ。

「……とにかく。無理すんな。今日みたいに体調悪いなら練習なんて休んでいいし。つか、湊はもう参加しなくていい。岡崎に俺から適当に言っておくから。それに、あと少しで俺の手も完全に治るから、そしたら俺が走るし。本番は、湊が頑張らなくても大丈夫だから」

 その言葉が、妙に棘のあるものに感じられた。
 頑張らなくてもいい。無理するな。その言葉自体は、かつての僕が喉から手が出るほど欲しかったセリフだ。
 なのに、今の僕の心にはちっとも響かない。
 月城くんの言い分は正論なのに、それを受け入れられない自分がいる。

「……月城くんは、どうしてそこまで僕に構うの?」

 気づけば、口からこぼれ落ちていた。ずっと聞きたかったけど聞けなかった疑問。
 月城くんは一瞬面食らった顔をして、それから困ったように眉を下げる。

「どうしてって……そりゃ、ルームメイトだし。それに、なんだかお前、放っておけねえし」
「放っておけないって、どうして? 僕が月城くんの弟みたいだから? それとも、亡くなったハルって人に似てるから?」
「……は?」

 月城くんが明らかに動揺したのがわかった。その名前を出したことで、彼の表情が強張る。
 その反応を見て、ああ、やっぱりそうなんだ、と僕の中であきらめにも似た気持ちが広がった。

「月城くんは、僕のこと、ずっと誰かの代わりとして見てるんだよね」
「待て、何言って」
「僕がハルって人に似てるから、だから構うんでしょ。可哀想な僕を助けてあげようって、罪滅ぼしみたいに」
「湊?」
「月城くんはなんで僕に優しいの? 初日から距離が近くて、髪を撫でてきて、寝ぼけて抱きしめてきて。あんなの普通の距離じゃないよ。ずっと我慢してたけど。僕は誰かの身代わりになれるほど図太くなれない」

 途中から自分の声が震えているのがわかった。視界が滲んでいく。
 気づかれないように、気づかれないように。ずっと堪えていた感情が、決壊してあふれていく。もうぐちゃぐちゃだ。

「ちょっと、待て、落ち着け。湊、お前なんか誤解してる。ていうか……ハルは、その」

 月城くんは何かを言いかけ、驚いたように目を見開いた。それから、なぜか耳の根元までカッと赤く染めて、信じられないものを見るように僕を凝視する。
 落ち着けと言いながら、月城くん自身が完全にパニックに陥っているようだった。
 僕の方は唇をかみしめて、嗚咽をこらえるのに精一杯だった。僕だって意味不明なことを言っている自覚はある。自分が情けなくて恥ずかしい。
 なんで僕はこうやって人を困らせてばかりなんだろう。

「ごめん。僕ちょっと頭冷やしたいから外出てくる」

 立ち上がり、部屋を出ようとすると月城くんが腕を掴んできた。痛いほどだ。

「いい、俺の方がいったん部屋出るから。湊は部屋で休んでてくれ。あとでゆっくり話そう」

 そのまま半ば強引に押し切られる形で、顔を奇妙に強張らせて赤くした月城くんが、逃げるように部屋を出て行った。
 部屋の扉が閉まる音が虚しく響いた。ひとり取り残された部屋はシンと静まり返っていて、普段よりもずっと広く感じる。

 多分、僕は月城くんを傷つけた。
 気がつかないふりをして、そのまま身代わりを演じ続けていればよかったのかもしれない。でもなんだか耐えられなくなってしまったのだ。
 さっきまで月城くんが座っていた椅子が視界に入った。そこに彼がいないだけなのに、すごく寒くて。
 胃のあたりが鈍く痛んで、鼻の奥がツンとする。
 自分の心の奥底にある感情の名前がわからない。悲しいのか、苛立っているのか、怖いのか。

***

 月城くんは夕食の時間になっても戻ってこなくて、僕は久しぶりに一人で食事をした。
 最初は苦痛でしかなかった月城くんとの食事が、いつの間にか当たり前になっていた。はじめて会ったその日からずっと世話をされて、月城くんが右手に怪我をしてからは、逆に世話をしているうちに、それが習慣になっていたのだ。
 いつも賑やかに喋っていた彼が隣にいないと、食堂がこんなにも静かだなんて忘れていた。

 結局、月城くんが戻ってきたのは消灯時間ギリギリになってからだった。

「湊、今まで我慢させてごめんな。俺めちゃくちゃ反省したから。これ以上湊に迷惑かけないようにする。だからもう少し待ってくれ」

 どこか思い詰めた様子でそう告げてきた月城くんに、僕は思わず気になっていたことを確認した。

「月城くん、ごはんは? お風呂は?」
「あー。ちょっと色々あって適当にすませた。お風呂はとりあえず響んとこのシャワー借りた」
「え?」
「もう、湊に迷惑かけないから。本当にごめんな」

 それだけ早口で述べると、月城くんはじゃあと言って、脱衣所で着替えはじめた。
 いつもなら、全く気にせず僕の目の前で着替えるのに。

 シャワーは佐々木くんの部屋で済ませたっていうことは、僕の存在を極力排除したんだろう。
 自分から突き放したくせに何故かモヤモヤする。
 月城くんは自分のベッドへと行き、僕に背を向けて横になった。

 もう今日は僕も寝よう。
 電気を消して自分のベッドに潜り込む。視界の端に見えるもう一つのベッドの中にいる月城くんは動かない。
 
「おやすみ」
 絞り出すように発した僕の声に、一瞬の沈黙があった。闇の向こうから、月城くんの掠れた声が返ってくる。

「ああ。おやすみ、湊」

 いつもなら、その後に続くはずの他愛のないやり取りはない。闇の中、衣擦れの音すらしない。
 頭を撫でてこなかったな、と気がついた。その「いつも」が消えただけで、部屋の空気がこんなにも冷え切ってしまうなんて。
 僕は布団を頭まで被った。自分で望んで壁を作ったはずなのに、その距離がこんなにも鋭く僕の心を切り刻むとは。

 その日は、いつまでも寝付けなかった。