黒瀬くんのひみつ

 付き合い始めても、世界が急に変わるわけじゃなかった。
 朝はいつも通り目覚ましで起きて、少し眠い目をこすりながら制服に袖を通す。駅までの道も、教室の匂いも、黒板の前で淡々と進む授業も、全部同じ。

 でも、確かに変わったことがあった。

 廊下ですれ違うとき。放課後のチャイムが鳴った直後、何でもない瞬間に胸の奥がふっとあたたかくなる。

「平川先輩」

少し低めで、落ち着いた声。

「黒瀬くん」

 名前を呼ぶだけ。目が合うだけ。それだけで、昨日より少しだけ頑張れそうな気がする。

 誰にも言っていない。クラスの人も、先生も、もちろん家族も知らない。僕と黒瀬くんだけが知っている、静かな秘密。

 放課後は、いつもの場所に向かう。
 人通りの少ない階段の踊り場。窓から差し込む西日の色が、時間によって少しずつ変わる場所。

 並んで座ると、肩が自然に触れる距離になる。意識しなくても、離れようとは思わない。

「無理、してませんか」

 黒瀬くんは、本当に不思議なくらいよく気付く。声の調子とか、目線の落ち方とか、そういう小さな変化を。

 優しい瞳で見つめられると、どうしても強がれなくなる。

「……少しだけ」

 そう答えると、黒瀬くんは否定も説教もしない。ただ、静かに息を吸って。

「俺の前では、無理しないで下さい」

 そのまま、そっと体が包まれる。力は強くない。でも、逃げ場がないくらい、安心する。それが、恋人になった僕たちの日常だった。

 手をつなぐのは、誰もいないところだけ。
 ハグも、ほんの短い時間だけ。

 それでも、その一瞬一瞬が、確かに僕の中に残っていく。自分を守るために笑っていた頃の僕を、少しずつ塗り替えてくれる。

 ある日、教室でまた軽い冗談を言われた。笑い声の中に混じる、いつもの調子の言葉。

 以前なら、何も考えずに笑って流していたと思う。そうする方が楽だって、知っていたから。

 でも、その日は違った。

「……それ、やめてほしい」

 声は震えていた。喉も、手も、全部。教室が一瞬だけ静かになって、何人かが驚いた顔をする。

 心臓が、耳の奥でうるさく鳴っていた。

 放課後、例の踊り場で。何も言わずに隣に座ると、黒瀬くんが先に口を開いた。

「言えたんですね」

「……うん」

 自分でも、まだ信じられなかった。

「ちゃんと自分で選べて、偉いですよ」

 その言葉が、胸にすっと入ってきた。過去は消えない。傷ついた記憶も、苦しかった時間も、全部残っている。

 でも、それだけが、僕じゃない。

夕暮れの校門前。

 オレンジ色の空の下、人影のない場所で、黒瀬くんがそっと僕を抱き寄せる。

「平川先輩」

「なに?」

「俺、先輩が好きです」

 何度も聞いたはずの言葉なのに、そのたびに胸が苦しくなる。

「……知ってる」

 照れくさくて、そう返すと、小さく笑われた。

 秘密は、まだ続く。でも、ひとりで抱える秘密じゃない。

選べなかった僕が、今は黒瀬くんを選んでいる。
それが、何より大切だった。