黒瀬くんのひみつ

最初は、ほんの冗談みたいなものだった。

「平川ってさ、ほんと何考えてるか分かんないよな」

「優柔不断代表〜って感じ」

 教室の後ろの方から、笑い混じりの声が聞こえる。名前を呼ばれたわけじゃないのに、心臓がきゅっと縮こまった。
でも、いつものことだ。そう思い込もうとする。

笑っていればいい。
曖昧に流して、場の空気を壊さなければいい。
そうやって、僕はずっと生きてきた。

「はは……そうかも」

 軽く返すと、相手は満足そうに笑った。
それで終わるなら、問題ない。
問題ない、はずだった。

視線の端で、黒瀬くんがこちらを見ているのに気づいた。表情が、いつもと違う。何か言いたげで、それを飲み込んだような顔。

放課後、廊下に出たところで、呼び止められた。

「……平川先輩」

振り返ると、黒瀬くんが立っていた。声が、少し低い。

「さっきの、あれ」
「え?」
「笑うところじゃないです」

心臓が跳ねる。どうやら、教室でのやり取りを見ていたらしい。

「いいんだよ。ああいうの、慣れてるから」
無意識に、いつもの言葉が口をつく。

「慣れてるとか、そういう問題じゃない」

はっきりとした口調だった。黒瀬くんが、こんなふうに強く言うのは初めてで、思わず息をのむ。

「嫌なら、嫌って言えばいいですよね」

「……言えないよ」

自分でも驚くほど、弱い声が出た。

「言ったら、僕のせいで空気が悪くなるし…」
「それで平川先輩が傷つくのはいいんですか」

真正面から投げられた言葉に、逃げ場がなくなる。視線を逸らすしかできなかった。

「僕は…大丈夫だから」
その場を収めたかった。これ以上、面倒なことにしたくなかった。

「俺は大丈夫じゃない」

 短い言葉。でも、はっきりとした否定だった。
その瞬間、黒瀬くんの感情が、隠しきれずに表に出た。怒り。焦り。苛立ち。全部が、僕に向けられている。

「平川先輩は、いつもそうだ」
「え……?」
「自分のこと、後回しにして」

胸が、どくんと鳴った。

「それで、また笑って」

「……やめてよ」

声が、震える。

「僕のこと、分かったみたいに言わないでよ……! 黒瀬くんは、何も分からないでしょ……!」

言ってしまった。止めたかったのに、止まらなかった。黒瀬くんは一瞬、目を見開いた。それから、何か言おうとして、結局口を閉ざした。

「……すみません」

そう言って、踵を返す。

「黒瀬くん……」

 呼び止めたけれど、振り返ってはくれなかった。遠ざかる背中を、ただ見送るしかなかった。

 それから一週間。僕たちは、ほとんど言葉を交わさなかった。

 図書室でも、委員会でも。視線が合いそうになると、黒瀬くんはそっと逸らす。それが、こんなにも胸を締めつけるなんて思わなかった。

まただ。頭の中で、過去の記憶が蘇る。

『どっちか選んでよ』
『選ばないのが一番迷惑』

選べなくて。
言えなくて。
そして、いなくなる。

 昼休み、ひとりで弁当を食べながら思った。このまま、黒瀬くんとも終わるんだろうか。何も言わずに。何も選ばずに。

それが、僕の結末なのかもしれない。

放課後、誰もいない廊下を歩く。

「……このまま、ずっと?」

声に出した瞬間、涙が滲んだ。

 黒瀬くんの怒った顔が、頭から離れない。あれは、僕を責める怒りじゃなかった。

守ろうとする、怒りだった。

分かっている。分かっているから、怖い。
また大切になったら。
失うのが怖い。
だから、何も言えない。

それでも、胸の奥で小さな声が囁く。

『本当に、ずっとこのままでいいの?』