黒瀬くんのひみつ

春は、僕にとって少し苦手な季節だ。クラス替え、自己紹介、新しい人間関係。どれも、うまく笑ってやり過ごせばいいと分かっているのに、心の奥がざわつく。

 失敗しないように。
 誰か一人を選ばなくて済むように。

そんなことばかり考えてしまう自分が、少し嫌だった。

「平川くん、委員会の資料、これ一年の教室に届けておいてくれない?」

 クラスの女子に声をかけられて、反射的に頷く。

「うん、分かった」

 断る理由もなかったし、誰かに任せる理由もなかった。
 いつも通り、曖昧に笑って、プリントの束を抱える。こうして頼まれる役回りになるのは、慣れている。

 一年生の教室は、まだ落ち着かない空気が漂っていた。机の位置も、掲示物も、どこか仮置きのままで、ざわざわとした音が絶えない。

 教卓の前で担任の先生を探していると、ふと視線を感じた。

 窓際の席。周囲と少し距離を取るように座っている男の子が、こちらを見ていた。

 無表情で、じっと。

 見られている、と思った瞬間、胸がひくりと跳ねる。
 慌てて視線を逸らした、そのときだった。足元の段差に気づかず、身体が前につんのめる。

「あっ……」

 手に抱えていたプリントが、床に散らばった。紙の擦れる音がやけに大きく響く。

 情けなくて、顔が一気に熱くなった。

「大丈夫ですか」

 低くて、落ち着いた声。

顔を上げると、さっき窓際にいた男の子が立っていた。
 無駄のない動きでプリントを拾い、一枚一枚丁寧に揃えてから、僕に差し出す。

「ありがとうございます……」

「どういたしまして」

 それだけ言って、彼は席に戻ろうとする。その背中を見送ろうとして、なぜか胸の奥が引っかかった。

「あ、えっと……」

 呼び止めてから、何を言うつもりだったのか分からなくなった。
 彼は振り返り、少しだけ首を傾げる。

「……あの、名前」

 間の抜けた問いかけだったと思う。それでも、彼は特に気にした様子もなく答えた。

「黒瀬です。黒瀬優斗」

「僕は平川。二年の……」

「知ってます」

「え?」

 思わず聞き返すと、黒瀬くんは淡々と続けた。

「さっき委員会の名簿で見ました」

 それだけ。なのに、ちゃんと覚えられていたことが、少しだけ意外だった。

「じゃあ、失礼します。平川先輩」

 そう言って、黒瀬くんは自分の席に戻っていった。不思議な子。それが、最初の印象だった。

 それから数日。なぜか、黒瀬くんとは何度も顔を合わせるようになった。

 図書室。
 委員会の集まり。
 放課後の廊下。

 約束をしたわけでもないのに、気づけば近くにいる。

「平川先輩、これ落としました」

「あ、ありがとう。助かったよ」

「良かったです」

 それだけのやり取り。なのに、黒瀬くんは本当によく見ていた。僕が落とした消しゴム。机の横に引っかけたままのバッグ。無意識にため息をついた瞬間まで。

 それでも、踏み込んでこない。必要以上に距離を詰めることも、詮索することもない。その距離感が、心地よかった。

 気を張らなくていい。無理に笑わなくていい。気づけば、こんなに長い時間誰かと一緒に過ごしているのは久しぶりだった。

「黒瀬くんは……学校、慣れた?」

 沈黙が続いて、思わずそう聞いた。

「まあ。特に困ってないです」

 即答だった。僕は曖昧に笑う。自分から会話を振ったくせに、次に何を言えばいいのか分からない。

「そっか……」

 会話はそこで途切れた。でも、不思議と気まずくはならなかった。ただ、静かな空気が流れるだけ。

 黒瀬くんは、時々じっと僕を見る。理由は分からない。でも、まっすぐで、澄んだ瞳で見つめられると、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。

どうしてだろう。