小説
暗い淵。
暗い、淵に沈んでいた。
嗚呼、ここは平穏と静寂と無気力が充満している。
生ける、魂を圧殺せんとする圧力が渦巻いて、存在という殻を突き破ろうと無言の圧力が圧しかかった。
いつから此処にいるのか。
始めの記憶と終わりの瞬間が欠如している。嗚呼、そうだ、ここは永続の世界。
終わりが欠如しているが故に一度入れば抜け出せない。そう感覚で分かる。深遠の闇が海底のように遥か遥か果ての見えない果てまで佇んでいた。
しばらくして、薄らいでいた意識が明瞭になってきた。
暗闇。なのにうっすらと明るい。ちょうど朝が来る前の薄明りの空の中にいるのに似ている。
雲もなければ、星もないけれど、空間が見えない果ての果てまで続いていた。
あまりに巨大な空間を前に怖い、ような、それなのに気持ちが落ち着いていて、何もなく、なにも起きない状況を前に、何をすればいいのか、どうすればいいのか、ここはどこで今どういう状況なのか、わからなかった。
声がする。誰の姿もない。微かに聞こえた。声。遠い。何をしゃべっているのだろう。聞こえる。どこから聞こえるのかわからない、音の位置を把握できない声。
「こんにちは」
そう聞こえた。どこから聞こえるのだろう。どこにいるのだろう。虚空に浮かんでいるだけの私は、声が遠方から響いているのか、それともすぐ近くから響いているのかわかりかねた。
「こんにちは」
もう一度その声は言った。
私はその声に返事を返してみた。
「こんにちは。誰ですか?」
少しの間が開いて、声が響かなくなって、少し不安を感じた頃、再び声が聞こえてきた。
「ぼく……ぼくのこと? ぼくはゴマフアザラシ」
そんな声が返ってきた。今度は私が黙る。ゴマフアザラシ? どういう意味だろう。少なくとも私が知るアザラシとは動物で、喋ったりしない。
しかしそんなことはどうでもよかった。相手が知性があって、喋れるなら、いろいろ聞きたいことがある。
「ここはどこなのでしょうか?」
声は間を置かずに返ってくる。
「宇宙」
宇宙? なんで宇宙に私が浮かんでいるのだろう。
「なんで私、宇宙にいるのかな」
自称アザラシは答える。
「死んだから。死んだら天国に行くってママに聞かなかった?」
天国。確かに天国は空の上にあるってむかしから伝承にあるけれど。
「君も死んだの?」と私は少しその声に親しみをかけて話しかける。あまり悪意があったり危険な存在ではないような気がしたからだ。
「僕は死んだことない。命を返す仕事をしてるの」
言っている意味がよくわからなかった。そもそも宇宙にアザラシがいる時点で意味不明だ。
「君は神様なのかな」
どこからともなく聞こえる声にそう尋ねると、声はすぐに言葉を返した。
「そうだよ。僕はアザラシの神。何を司る神になるか迷って、アザラシの神にしてもらったの」
アザラシ神。なんだろう、すごい敬意がわきづらい。
「そうなんだ。私これからどうなるの?」
一番怖かったことを聞いてみた。なんであれ神様なら、何でも知っているだろうから、これからの自分の運命について聞いておきたかった。
「僕スカウトに来たの。このまま宇宙を漂うか、生き返って人生をやり直すか、聞きに来たの。いろいろ頼みたいこともあるし」
「生き返れるの? ぜひ生き返りたいな」私はすぐにそう返した。すぐには信じられないけれど、そもそももう死んでいるなら、もうどうにだってなれだ。
「よかった。断る人もいるから、不安だったんだぁ。あと、お願いも聞いてほしいなぁ」
生き返れるのか。神様でもなんでも、ありがたい話だけど、お願いというのが気になった。
「お願いってなに?」
「お姉ちゃんが死んでから、下の世界は千年以上経っているんだけど、そろそろ最後の審判が近いんだ。メシアも、メシアのみ使いたちも、配役は決まったんだけど、肝心の悪役を誰もやりたがらないんだ。だから、素質のある魂に声をかけて勧誘して回ってるの」
メシア。確かキリストのヘブライ語の意味だった気がする。意味は油を被った人とか王様だとかなんとか。あまり詳しく知らないけれど。
私は意味を考えあぐねて黙っていると、またアザラシ神の声が響いた。
「お願い! 光の陣営はもう揃ってるのに、闇の陣営のほうはまだ三割しか埋まってないの! 困ってるの。助けて」
それが生き返る条件なのだろうか。宗教的な悪役が辿るのは、たぶんろくな目にならない。
「え、待って、悪役になったら、せっかく天国にいるのに地獄に行っちゃうんじゃ?」
恐る恐る聞いてみると、アザラシ神はすぐに答えた。
「うん、行くよ。でも地獄のお客さんじゃなくて、地獄の管理者の側になるから、天国の住民より待遇いいかも」
よくわからない。地獄でいじめられる側じゃなくて、いじめる側になれるってこと?
地獄で罰を受ける側じゃなくて、閻魔的な側になれるみたいな。
それは天国の住民とどっちがいいんだろう。
「アンチメシアは地獄の王子様だから、地獄では待遇いいんだよぉ。だけどみんな信心深くて、これまで声をかけた魂はみんな断られちゃったんだ。素質がある魂も滅多にいないし、お姉ちゃんがなってくれて安心した」
生き返ることは承諾したけど、悪役になることは承諾してないんだけど。でもまぁ生き返れるならいいや、と思って、私はそのまま話を進めた。
「生き返ったら何をすればいいの?」
アザラシ神は答える。
「自由だよ。こっちの神様たちが勝手に進めるから、なにも意識しなくて大丈夫だよ。ぼくはアザラシたちを見守るので忙しいから、手助けはできないけど。質問終わった?」
いやいや、まだまだ疑問点あるから。
「いえ、もしかして、生まれ変わって悪役だったら、ひどい目に合うんじゃ?」
それは真っ先に聞いておくべきことだった。
「大丈夫、誰もお姉ちゃんがアンチメシア陣営だと知らないから。ただちょっと生まれる前後に、流星群が起きたり、地震が起きたり、不思議な印を起こさないといけない規定になってるから、そういうのは起きるけど。でもそれで正体がばれることはまずないから」
なんかそのニュアンスにはばれたらやばいような意味が含まれている気がする。当たり前か、悪役だから。
「光の陣営と闇の陣営があるって聞いたけど、具体的にわたしは闇の陣営の中の何になるの?」
アザラシ神は少し間を置く。
「えーと、それは、生まれてから教えるね。ごめんね、忙しいの」
すごい予定がひっ迫してるのかな。なんか微妙に話を切り上げようとしてるのがわかる。
「生まれ変わったら記憶とか意識の継続とかあるんですか?」
「ないよ。みんな赤ん坊になると忘れちゃうの。でも光か闇の陣営に属してる人は、人生の途中で思い出すようになってるの。だから、生まれかわったら、なんらかの方法で教えるね」
そういうとそれっきり、私が何度話しかけてもアザラシ神の声は返ってこなくなった。しばしの静寂の後、本当は何もなかったんじゃないかと思い始めたころ、わたしは自分が徐々に眠くなっているのに気付いた。
なんだか麻酔を打たれて、ほんわり気持ちがゆったりするのに似た感覚の中、意識は完全に途切れた。
「鍵」の王国
2
どくどく、こめかみが脈打つ。
ああ、額の目が開く。
両目の瞼が痙攣して、眠ろうとしても、目を閉じても、瞼の裏が透けて天井が見える。
額が割れる。そんなものは幻想。触るまでもなく、額は割れてなどいないのに、羽毛で触れられたような感覚が額の真ん中に集中する。
目を閉じても見えてしまうなら、開けるまで。
不思議と目を開け続けて、十分以上も瞬き一つしなくても、まったく痛くないし目も乾かなかった。
視界の闇の中により深い闇が見えた。私はその闇に手を伸ばす。闇はぬめっとした感触があって、手を伸ばして捕まえると、一気に引き抜いた。空間の中から、黒い塊。それは部屋の暗闇に拡散して、やがて細かな光る粒となって部屋の中を漂った。
さっきまで、熱にウナサレテ、眠っていた。
起きたのはつい今しがたで、二度寝しようとしても「目」が覚醒して眠ることが出来ない。
部屋は寝室。
窓が開いていて、カーテンが風に揺れている。光の粒は窓から外に流れていく。外は夕暮れ時だった。
病人がいるのに、窓を開けているとはどういうことだろう、今朝、まだ風邪を引いているから部屋で眠るといったのに。
棚を開けて、ガウンを着る。すぐに窓を閉めた。
ーーそう、寝込んでいる場合ではない。熱などにやられている場合ではない。
私にはやることがある。終末の、ただ一つのチャンス。彼を助けなければ。彼に報いなければ。彼に。彼に。
まだ寝ぼけていて、何を考えているのかよくわからない。例えば、彼とはだれなのかもわからなければ、終末とは何のことかもわからないのに、ただそう頭に思い浮かんだ。眠い、眠い。
目を閉じると、案の定部屋がそのまま瞼の裏に映った。
「うわ、怖い」
瞼が瞼の役割をしていない。一瞬本当に目を閉じ切っているのか自信がなくなって、強く目を瞑るが、部屋の視界が歪んだだけで、部屋と天井が映っていることに違いはなかった。
それでいて妙だ。部屋の暗闇の中に、無数の小さな光の粒が見える。それも赤、青、黄色、とカラフルに、海の生物のように煌めいていて、一様に同じ色ということがなく色彩が変化していた。
それは、恐ろしく綺麗な光景だった。部屋の中に漂う光が流れていて、それはどこともなく、空間の中の「闇」から現れるのだった。手に取ってみようと、手を伸ばしてみても、何の感覚もなく手を透き通っていくのに、体に入った光は、血液が流れるように自分の手から心臓へ流れて、また逆の手から出ていった。
目を閉じたまま、ベッドから出て部屋を歩き回ってみた。目を開けている時と閉じている時で、部屋の構図も配置もまったく変わらない。むしろ目を閉じている時の方が、若干光度が明るくて部屋が鮮明に見えるほどだった。
鏡には目を閉じた自分の姿。目を閉じた姿を見ることなんて普通は無いと思うから、そこはなんだか楽しかった。
部屋の隅に「闇」が現れていた。光の粒は多くがそこから流れているようだ。闇の中にはより深い闇がある。それはあまりに暗いので、少し濃い青色に見えた。世界のどの色より、目に染み込んで、染み込んで吸い寄せられる何かがある。
私は手を伸ばして、闇の中に手を差し込んだ。引き抜けば、闇の中から光。部屋に充満するあの光が右手に溢れた。
少し、温かくて、生き物のようで、咄嗟に手を離した。光は目の前の空間を浮かぶと、また拡散して部屋に広がった。
何なんだろう、これは。体に入り込むが、害はない。部屋を漂って、体に循環して、外に流れて、その後どこに行くのかも知らない。この光りの粒は何なんだろう。
一瞬、気配を感じて「闇」へ振り向いた。なにか、大きな目があった気がした。闇の中に何かいるのだろうか。気配はやがて去って、ここは自分一人しかいない部屋の中だと冷静になって再び悟った。
急に恐ろしくなって、目を開けると、そこには闇なんてなく、ただ薄暗い夕刻の部屋が映っていた。目を開けると「闇」は見えない。閉じると見える。なんだか意味不明だ。
え、これどうやって防げばいいのだろう。目を閉じても開けても見えてしまうなら、眠ることができないのではないだろうか。
近頃「透視」のできる時間が増えた。瞼を閉じても光景が映るこの状態を、私はそのまんま「透視」と呼んでいる。幸いにも、朝起きた時や、眠気があるときによく現れるだけで、目が覚めると「透視」は出来なくなって、日常生活に支障はない。
しかし不眠気味にはなっている。本当に眠くなると目の前に光景が映っていてもいつの間にか眠ってしまうのだが、それでも睡眠しづらいのは確かで、睡眠時間は子供のころよりは減っていた。
廊下に出た。
暗い淵。
暗い、淵に沈んでいた。
嗚呼、ここは平穏と静寂と無気力が充満している。
生ける、魂を圧殺せんとする圧力が渦巻いて、存在という殻を突き破ろうと無言の圧力が圧しかかった。
いつから此処にいるのか。
始めの記憶と終わりの瞬間が欠如している。嗚呼、そうだ、ここは永続の世界。
終わりが欠如しているが故に一度入れば抜け出せない。そう感覚で分かる。深遠の闇が海底のように遥か遥か果ての見えない果てまで佇んでいた。
しばらくして、薄らいでいた意識が明瞭になってきた。
暗闇。なのにうっすらと明るい。ちょうど朝が来る前の薄明りの空の中にいるのに似ている。
雲もなければ、星もないけれど、空間が見えない果ての果てまで続いていた。
あまりに巨大な空間を前に怖い、ような、それなのに気持ちが落ち着いていて、何もなく、なにも起きない状況を前に、何をすればいいのか、どうすればいいのか、ここはどこで今どういう状況なのか、わからなかった。
声がする。誰の姿もない。微かに聞こえた。声。遠い。何をしゃべっているのだろう。聞こえる。どこから聞こえるのかわからない、音の位置を把握できない声。
「こんにちは」
そう聞こえた。どこから聞こえるのだろう。どこにいるのだろう。虚空に浮かんでいるだけの私は、声が遠方から響いているのか、それともすぐ近くから響いているのかわかりかねた。
「こんにちは」
もう一度その声は言った。
私はその声に返事を返してみた。
「こんにちは。誰ですか?」
少しの間が開いて、声が響かなくなって、少し不安を感じた頃、再び声が聞こえてきた。
「ぼく……ぼくのこと? ぼくはゴマフアザラシ」
そんな声が返ってきた。今度は私が黙る。ゴマフアザラシ? どういう意味だろう。少なくとも私が知るアザラシとは動物で、喋ったりしない。
しかしそんなことはどうでもよかった。相手が知性があって、喋れるなら、いろいろ聞きたいことがある。
「ここはどこなのでしょうか?」
声は間を置かずに返ってくる。
「宇宙」
宇宙? なんで宇宙に私が浮かんでいるのだろう。
「なんで私、宇宙にいるのかな」
自称アザラシは答える。
「死んだから。死んだら天国に行くってママに聞かなかった?」
天国。確かに天国は空の上にあるってむかしから伝承にあるけれど。
「君も死んだの?」と私は少しその声に親しみをかけて話しかける。あまり悪意があったり危険な存在ではないような気がしたからだ。
「僕は死んだことない。命を返す仕事をしてるの」
言っている意味がよくわからなかった。そもそも宇宙にアザラシがいる時点で意味不明だ。
「君は神様なのかな」
どこからともなく聞こえる声にそう尋ねると、声はすぐに言葉を返した。
「そうだよ。僕はアザラシの神。何を司る神になるか迷って、アザラシの神にしてもらったの」
アザラシ神。なんだろう、すごい敬意がわきづらい。
「そうなんだ。私これからどうなるの?」
一番怖かったことを聞いてみた。なんであれ神様なら、何でも知っているだろうから、これからの自分の運命について聞いておきたかった。
「僕スカウトに来たの。このまま宇宙を漂うか、生き返って人生をやり直すか、聞きに来たの。いろいろ頼みたいこともあるし」
「生き返れるの? ぜひ生き返りたいな」私はすぐにそう返した。すぐには信じられないけれど、そもそももう死んでいるなら、もうどうにだってなれだ。
「よかった。断る人もいるから、不安だったんだぁ。あと、お願いも聞いてほしいなぁ」
生き返れるのか。神様でもなんでも、ありがたい話だけど、お願いというのが気になった。
「お願いってなに?」
「お姉ちゃんが死んでから、下の世界は千年以上経っているんだけど、そろそろ最後の審判が近いんだ。メシアも、メシアのみ使いたちも、配役は決まったんだけど、肝心の悪役を誰もやりたがらないんだ。だから、素質のある魂に声をかけて勧誘して回ってるの」
メシア。確かキリストのヘブライ語の意味だった気がする。意味は油を被った人とか王様だとかなんとか。あまり詳しく知らないけれど。
私は意味を考えあぐねて黙っていると、またアザラシ神の声が響いた。
「お願い! 光の陣営はもう揃ってるのに、闇の陣営のほうはまだ三割しか埋まってないの! 困ってるの。助けて」
それが生き返る条件なのだろうか。宗教的な悪役が辿るのは、たぶんろくな目にならない。
「え、待って、悪役になったら、せっかく天国にいるのに地獄に行っちゃうんじゃ?」
恐る恐る聞いてみると、アザラシ神はすぐに答えた。
「うん、行くよ。でも地獄のお客さんじゃなくて、地獄の管理者の側になるから、天国の住民より待遇いいかも」
よくわからない。地獄でいじめられる側じゃなくて、いじめる側になれるってこと?
地獄で罰を受ける側じゃなくて、閻魔的な側になれるみたいな。
それは天国の住民とどっちがいいんだろう。
「アンチメシアは地獄の王子様だから、地獄では待遇いいんだよぉ。だけどみんな信心深くて、これまで声をかけた魂はみんな断られちゃったんだ。素質がある魂も滅多にいないし、お姉ちゃんがなってくれて安心した」
生き返ることは承諾したけど、悪役になることは承諾してないんだけど。でもまぁ生き返れるならいいや、と思って、私はそのまま話を進めた。
「生き返ったら何をすればいいの?」
アザラシ神は答える。
「自由だよ。こっちの神様たちが勝手に進めるから、なにも意識しなくて大丈夫だよ。ぼくはアザラシたちを見守るので忙しいから、手助けはできないけど。質問終わった?」
いやいや、まだまだ疑問点あるから。
「いえ、もしかして、生まれ変わって悪役だったら、ひどい目に合うんじゃ?」
それは真っ先に聞いておくべきことだった。
「大丈夫、誰もお姉ちゃんがアンチメシア陣営だと知らないから。ただちょっと生まれる前後に、流星群が起きたり、地震が起きたり、不思議な印を起こさないといけない規定になってるから、そういうのは起きるけど。でもそれで正体がばれることはまずないから」
なんかそのニュアンスにはばれたらやばいような意味が含まれている気がする。当たり前か、悪役だから。
「光の陣営と闇の陣営があるって聞いたけど、具体的にわたしは闇の陣営の中の何になるの?」
アザラシ神は少し間を置く。
「えーと、それは、生まれてから教えるね。ごめんね、忙しいの」
すごい予定がひっ迫してるのかな。なんか微妙に話を切り上げようとしてるのがわかる。
「生まれ変わったら記憶とか意識の継続とかあるんですか?」
「ないよ。みんな赤ん坊になると忘れちゃうの。でも光か闇の陣営に属してる人は、人生の途中で思い出すようになってるの。だから、生まれかわったら、なんらかの方法で教えるね」
そういうとそれっきり、私が何度話しかけてもアザラシ神の声は返ってこなくなった。しばしの静寂の後、本当は何もなかったんじゃないかと思い始めたころ、わたしは自分が徐々に眠くなっているのに気付いた。
なんだか麻酔を打たれて、ほんわり気持ちがゆったりするのに似た感覚の中、意識は完全に途切れた。
「鍵」の王国
2
どくどく、こめかみが脈打つ。
ああ、額の目が開く。
両目の瞼が痙攣して、眠ろうとしても、目を閉じても、瞼の裏が透けて天井が見える。
額が割れる。そんなものは幻想。触るまでもなく、額は割れてなどいないのに、羽毛で触れられたような感覚が額の真ん中に集中する。
目を閉じても見えてしまうなら、開けるまで。
不思議と目を開け続けて、十分以上も瞬き一つしなくても、まったく痛くないし目も乾かなかった。
視界の闇の中により深い闇が見えた。私はその闇に手を伸ばす。闇はぬめっとした感触があって、手を伸ばして捕まえると、一気に引き抜いた。空間の中から、黒い塊。それは部屋の暗闇に拡散して、やがて細かな光る粒となって部屋の中を漂った。
さっきまで、熱にウナサレテ、眠っていた。
起きたのはつい今しがたで、二度寝しようとしても「目」が覚醒して眠ることが出来ない。
部屋は寝室。
窓が開いていて、カーテンが風に揺れている。光の粒は窓から外に流れていく。外は夕暮れ時だった。
病人がいるのに、窓を開けているとはどういうことだろう、今朝、まだ風邪を引いているから部屋で眠るといったのに。
棚を開けて、ガウンを着る。すぐに窓を閉めた。
ーーそう、寝込んでいる場合ではない。熱などにやられている場合ではない。
私にはやることがある。終末の、ただ一つのチャンス。彼を助けなければ。彼に報いなければ。彼に。彼に。
まだ寝ぼけていて、何を考えているのかよくわからない。例えば、彼とはだれなのかもわからなければ、終末とは何のことかもわからないのに、ただそう頭に思い浮かんだ。眠い、眠い。
目を閉じると、案の定部屋がそのまま瞼の裏に映った。
「うわ、怖い」
瞼が瞼の役割をしていない。一瞬本当に目を閉じ切っているのか自信がなくなって、強く目を瞑るが、部屋の視界が歪んだだけで、部屋と天井が映っていることに違いはなかった。
それでいて妙だ。部屋の暗闇の中に、無数の小さな光の粒が見える。それも赤、青、黄色、とカラフルに、海の生物のように煌めいていて、一様に同じ色ということがなく色彩が変化していた。
それは、恐ろしく綺麗な光景だった。部屋の中に漂う光が流れていて、それはどこともなく、空間の中の「闇」から現れるのだった。手に取ってみようと、手を伸ばしてみても、何の感覚もなく手を透き通っていくのに、体に入った光は、血液が流れるように自分の手から心臓へ流れて、また逆の手から出ていった。
目を閉じたまま、ベッドから出て部屋を歩き回ってみた。目を開けている時と閉じている時で、部屋の構図も配置もまったく変わらない。むしろ目を閉じている時の方が、若干光度が明るくて部屋が鮮明に見えるほどだった。
鏡には目を閉じた自分の姿。目を閉じた姿を見ることなんて普通は無いと思うから、そこはなんだか楽しかった。
部屋の隅に「闇」が現れていた。光の粒は多くがそこから流れているようだ。闇の中にはより深い闇がある。それはあまりに暗いので、少し濃い青色に見えた。世界のどの色より、目に染み込んで、染み込んで吸い寄せられる何かがある。
私は手を伸ばして、闇の中に手を差し込んだ。引き抜けば、闇の中から光。部屋に充満するあの光が右手に溢れた。
少し、温かくて、生き物のようで、咄嗟に手を離した。光は目の前の空間を浮かぶと、また拡散して部屋に広がった。
何なんだろう、これは。体に入り込むが、害はない。部屋を漂って、体に循環して、外に流れて、その後どこに行くのかも知らない。この光りの粒は何なんだろう。
一瞬、気配を感じて「闇」へ振り向いた。なにか、大きな目があった気がした。闇の中に何かいるのだろうか。気配はやがて去って、ここは自分一人しかいない部屋の中だと冷静になって再び悟った。
急に恐ろしくなって、目を開けると、そこには闇なんてなく、ただ薄暗い夕刻の部屋が映っていた。目を開けると「闇」は見えない。閉じると見える。なんだか意味不明だ。
え、これどうやって防げばいいのだろう。目を閉じても開けても見えてしまうなら、眠ることができないのではないだろうか。
近頃「透視」のできる時間が増えた。瞼を閉じても光景が映るこの状態を、私はそのまんま「透視」と呼んでいる。幸いにも、朝起きた時や、眠気があるときによく現れるだけで、目が覚めると「透視」は出来なくなって、日常生活に支障はない。
しかし不眠気味にはなっている。本当に眠くなると目の前に光景が映っていてもいつの間にか眠ってしまうのだが、それでも睡眠しづらいのは確かで、睡眠時間は子供のころよりは減っていた。
廊下に出た。

