「宮脇さあ」
またマネージャーが声を荒げた。客の入りはピークになっているというのに。
「死ねよ」
空気が凍りつく。
「死ねっつってんだよ、分かる?」
「すみません……」
この前新しく入ったバイト、宮脇がまた泣きそうになっている。
「まだこんなこともできないんじゃうち、もうお手上げだよ。頭悪いよね?ねえ?」
「はい」
「どうすんの、もう帰る?帰ろっか?」
「帰りません」
「宮脇、下ぁ向くなよ」
店長が厨房から顔を出し、にやりと笑って言った。
「涙が溢れるぞ」
「はい……」
ああいうおとなしいやつにはこの店は向かないと思う。あいつはいつ壊れてもおかしくない。
ここはスパーザ。よく「スパゲティはないのか」と聞かれるが、2種類しかない。うちはハンバーグ専門店だ。どこかの国の言葉で「紐」という意味らしい。
「『スパーザ』は古きギリシャの言葉で、『紐』という意味があります。お客様に支えられて25年。スパーザは地域の皆様とのご縁を大切にし、これからも感動を届けていきます」
店のメニューにはそう書いてある。確かに客には優しい。だが、従業員に対してはめっぽう厳しい。俺がここに入ったのは四年前だが、その頃はもっと酷かった。時間があれば店の裏で毎日反省会が行われ、殴る蹴るは当たり前だった。一度だけ、労働局の監査が入ったこともある。それからだいぶ大人しくはなったが、ここの根性主義、パワハラ体質は変わらない。
「お客さんからクレームも入ったしさあ、流石にあたしももうお手上げ。そんなこいつ庇うんならキッチンに入れてやんなよ」
またマネージャーのヒステリックが始まった。
「だからそれは無理だって言ってんだろ」
店長と言い合いになるのもいつも通りだ。
「じゃあどうすんのさ」
「じゃあ裏だな。裏で時間潰させろ」
「だってよ」
マネージャーは首だけで宮脇の方を見た。宮脇は俯くと、黙って店の裏手のドアを開けて出て行った。店長は宮脇に見向きもせず、こう言った。
「何手を止めてる?さあ、仕事しろ、仕事」
バイトはみな言い争いに耳を傾けていた。次は誰が標的になるか分からないからだ。新人で使えないのが来たらまずそいつが潰されるが、辞めてしまったら今度は内部分裂が始まる。一時期、ランチの営業ができなくなった時もあった。もめ事に巻き込まれるのは嫌なので、表では腫れ物のように扱っても裏ではみな新入りに優しい声をかけている。この組織を維持していくためには、犠牲者が必要不可欠なのだ。
「あ、これ、6番持ってって。帰りに空いたお皿全部下げちゃっていいから。その後はグラス全部洗っといて」
「それはいいからまず1番のオーダー取っちゃって。早くして。だからって店ん中走らないでよ。この前みたいに」
「だからお前こないだも言ったよな?なあ。言ったよな?お前、あの越村も『これ、マズいですよね』って言ってたぞ」
バックヤードではひっきりなしに指示が飛んでくる。きつい言葉も飛んでくる。
「おい、清水」
店長がキッチンの奥から俺を呼んだ。
「はい」
「外からトマト缶持ってくるついでにあいつが何やってるか見てこい」
「分かりました」
宮脇が出て行ってからかれこれ2時間が経った。そもそもあいつまだ裏にいるんだろうか。普段の扱われようからして、バックれていてもおかしくない。
俺は厨房を離れて、裏口へ出た。俺を感知してライトが点灯したが、そこに広がっていたのは事故現場だった。俺は慌てて店長を呼んだ。店長はめんどくさそうな顔をして後をついてきたが、裏の有り様を見て顔色が変わった。
「お前が第一発見者だ」
「はあ?」
宮脇が店の裏で自殺未遂を図ってから、3ヶ月が過ぎた。宮脇は不幸中の幸いながらもまだ意識はあったようで、何とか命は助かった。だが脳に後遺症が残る可能性が高いらしく、今もまだ入院している。俺は宮脇がああなった原因としてあの後尻尾切りを図られ、俺も頭がおかしくなりそうになって自主退職した。誰からも「お疲れ様」は言われなかった。
実家にもいられなくなった。
「お前、今後どうするつもりなんだ」
「どうって……」
「店長さんが間に入ってくれたから何とかなっただけで、お前がしたことはなくならないんだからな」
「だからあれは……!」
「受け取れ」
そう言って親父は、分厚い封筒を机に放り投げた。
「何だよこれ」
「お前も分かるだろ。うちから人殺しが出たなんて言われたら困るんだよ。来年は幸子の受験が控えてるんだ」
意味が分かった。縁を切ろうとしているのだ。この家を出ろということだ。
「……分かったよ」
「早く支度をしなさい」
「別にいいけど、一言だけ」
「何だ」
「てめえを殺してから出て行ってやるよ!」
弟のプラモの横にあったデザインナイフを、親父の胸元に向けて振り上げた。親父の首筋にはすっと赤い筋ができた。
「あんた、何やってんの!」
そう母親は叫んで親父に駆け寄った。
「あんた。あんた。大丈夫!? 大丈夫!?」
親父の腕はぬらぬらと血で染まり、それでも目はしっかりとこちらを見据えていた。
「お前らが悪いんだからな」
そう言って俺はデザインナイフを持ったまま封筒をぶんどった。靴も履かずに裸足で逃げた。家の前の道路に出ると、誰かが立ち止まった。
「慶ちゃん、何してるの?」
制服姿の幸子だった。
「慶ちゃん?」
「悪い」
もう後には引けなかった。俺は振り向かずにアスファルトを蹴ってその場を逃げ出した。
「慶ちゃん!?」
悪い、幸子。お前には何の罪もない。何の罪もないんだーー
幸子の叫びを無視して、俺は走った。ただ、走った。夕焼けが怖いくらい赤かった。
封筒から万札を取り出し、ネットカフェで一日を明かした。俺の様子を見るなりすぐに店員は「ご滞在でしたら24時間パックがお得です」と言った。シャワーを浴びて休むだけのつもりだったので最初は3時間で頼んだが、2時間経ったところで24時間に切り替えた。
「行くところ、ねえなあ」
親父は自営業で、母親は専業主婦。金に困ることはなく、実家から出たこともなかった。友達はみんな大学に行って、この町を出て行ってしまった。頼れる親戚も近くにはいなかった。裸足で家を出て初めて、今まで自分に居場所が用意されていたことに気づいた。
何ヶ月くらいいただろうか。日付の感覚もなくなって、ネカフェに住み着くようになったある日、あることに気づいた。封筒だ。封筒がない。ずっとポケットに入れていた、あの封筒がない。
「嘘だろ……」
血眼になって個室スペースを探した。段差もなければ引き出しもない、ただの真っ平らなマットと机の上をひたすらに探した。店員に訴えたが、まるでことの顛末を知っているかのように極めて慣れた口調で対応した。よくあるクレーム対応なのだろうが、店員は犯人とグルの可能性もある。怒りで店員の襟を掴むと、警察を呼ぶと脅された。そうなったら困るのはこちらだということを、この店員は知っている。俺は何も考えずに、最低限買い揃えていた服や日常品を置いてまた逃げた。
寒い。いくらネットカフェとはいえ、室内と室外では勝手が全く違う。手持ちも、ポケットの中の小銭しかない。頼れる人もいない。行く場所もない。頭に焼きが回った俺は目についた田舎臭いスーパーに入り、陰でモップがけをする店員の背にデザインナイフを突きつけた。
「何とかしろ。金がない」
すると店員は即座にモップの柄で俺の腹を突くと手首を捻り、俺を床へと打ち伏せた。乾いた血で汚れたデザインナイフが、モップかけたての床を滑っていった。
「け…警察…!」
レジの店員がこちらに気付き、固定電話に手をかけた。
「待って下さい!」
そいつは、床に押し付けた俺の横顔を見てその手を離した。
「いってえな……」
体に力が入らず、立つことすらできなかった。そして、店員は言った。
「もしかして、清水さん、ですか……?」
あっけに取られてしまったが、俺は小さな声でそうだと認めた。
「清水、慶さんですか?」
「ああ……」
店員は唇をきゅっと噛んだ。
「事務所まで、来てください」
名札に目をやると、「宮脇」と書かれていた。
「本当に、すみませんでした」
「いえ、むしろ、兄がご迷惑をおかけしまして申し訳ないです」
「あの、どうして俺の顔を……」
「求人情報誌を見まして」
「ああ……」
そういえばそんなことがあった。バイトが常に足りていなかったから情報誌のカメラマンが来て、ちょうどその時、確か、宮脇が横にいた。
「あなたのことも聞いていましたが、いい人だと。残された日記にもあなたを呪う言葉はありませんでした」
言葉が出てこなかった。
「あなたに一つ、お願いがあるんです」
そう言って話のすり合わせが始まった。
次の朝を、俺は宮脇の実家で迎えた。カレンダーを見たら、俺が家を出たあの日から一年と七ヶ月が経っていた。
「あと三十分で出るので、支度をしてください」
宮脇は弟と母親と三人暮らしのようだった。宮脇の母親は一度も部屋から出てくることはなかった。この家族の暮らしぶりは、決して豊かなものとは言えなかった。
「行きましょう」
宮脇の弟の運転で、俺は宮脇のいる病院へと向かった。しばらく不規則な生活をしていた俺には朝は早く、朝日が眩しかった。目を細めながら、昨日のことを思い出した。
「兄は、元気です」
「本当ですか!」
ほっとして口元から力が抜けた。自分に悪くないと言い聞かせてはいたが、当然無理があった。
「でも、脳に障害が残りました。短い言葉しか話せないんです。あなたにも責任がないとは、やはり弟としては言えません。」
「すみません……」
「それで、兄のこれからの生活を、職業生活をサポートしてほしいんです」
「はあ……でも、どうやって……」
「うちのスーパーで、働いていただけませんか」
「俺が、ですか……」
「ええ、もちろん兄と一緒にです」
「ああ……」
「給料が貯まるまで、でも構いません。兄は後遺症に戸惑いを感じています。作業所での社会復帰も提案があったのですが、僕としてもできるだけそばにいたいので」
「でもそれが、俺で、俺でいいんですか。俺は、あなたのお兄さんを殺したことになってるんですよ。親御さんだって、そんなこと、許すはずがないでしょう……」
宮脇の弟は流石に苦しそうな表情をしていた。
「母には、言っていません」
俺は息を飲んだ。
「じゃあ……」
「でも、あなた以外に弟と面識がある人がいないんです。厳しい言い方をすると、弟の面倒を見る責務を課せられている人が」
その言葉を聞いて、あとは首を縦に振るしかなくなった。
「着きましたよ」
「ありがとうございます」
大病院のリハビリ室に、宮脇はいた。スタッフが宮脇に声をかけた。
「宮脇さん、弟さん、来たわよ。それと、お友達」
宮脇はこちらを振り向いた。以前より様子が萎縮しているようだった。
「やっぱ俺、帰った方が……」
「私は……」
宮脇の弟は、宮脇の方を見てこう言った。
「本当は、あなたも含め兄に関わった人間全員を殺してやりたかった」
スタッフはその場を離れた。
「でも、それを兄は望んでいなかった」
俺の目を見た。
「兄は。兄は、あんなに酷い目にあったのに、誰のことも憎んではいなかったんです」
宮脇の弟は目を拭った。
「馬鹿みたいでしょう。でも、家族である以上、本人の意思に寄り添うことにしたんです」
宮脇の弟は鼻をすすり上げて言った。
「これは、あなたにとって私ができる、最大限の復讐なんです」
目の奥に真っ直ぐなものが通っていて、その声は冷たかった。
「兄さん、こちらがあの清水さん」
「ああ、あの……、ああ、分かるよ」
申し訳なかった。宮脇を支えてあげる立場の人間が、罪人だなんて。罪人に宮脇はこれから支えられなきゃいけないなんて。
「じゃあ、行こうか」
宮脇は少し不安そうな顔で宮脇の弟の肘を掴んで、ゆっくり車に向かった。宮脇は助手席に乗り、俺は後部座席に乗った。
「じゃあ清水さん、今から仕事なんでお願いしますね」
今からも何も、服は一週間替えていないし、昨晩は2時間も寝れていない。
「今からって……、制服とか」
「見た感じLかXLですよね。安全靴も男性のサイズでしょうし。どちらも在庫があります」
「あの、職場の人にはなんて言ってあるんですか」
話が進むのがあまりにも早すぎる。
「ただ普通にうちで一緒に働いてもらうだけでいいんです。業務のサポートはこちらでしますし、フォローとかいらないので」
「でも、それでいいんでしょうか」
「あの……」
宮脇が目を伏せながら言葉を絞り出した。
「安心、です…… 知ってる人、なので……」
「だそうですよ」
宮脇の弟は笑った。俺は黙って頭を下げた。
俺はまたあのスーパーに来た。警察と一緒にではなく、あの宮脇と一緒に。
「おはようございまーす」
宮脇の弟は店内に堂々と挨拶をして、青果コーナーに案内した。他の店員は、伏し目がちに会釈をした。俺も会釈をして、俯いて歩いた。
休憩室で制服に着替え、エプロンをつけて安全靴を履いた。格好はあまりレストランと変わらなかった。
「これ、よかったら」
そう言って宮脇の弟は一万円札を三枚差し出した。
「何ですか、これ」
「月末までまだ日がありますし、手持ちが全くないと困るでしょうから」
「いえ、困りますよ。こんなの頂けません」
慌てて突き返した。
「じゃあ……、給料から前借りって形でどうですか。それなら清水さんのお金でしょう」
「いや、それは……」
「いいんですよ。僕、店長に結構色々任されてるんで。清水さんはもう、うちの従業員ですから」
「はあ……」
背に腹はかえられず、縮こまってそのまま万札を受け取った。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい……」
首を垂れたまま、宮脇の弟の後ろをついて行った。
バックヤードはあまり綺麗ではなく、客の口に入るものを作っていた身としては衛生環境が気になった。まあ、個人の会社でやっているスーパーだと、こんなものなのだろうか。
「ここが、青果コーナーです」
青果コーナーの中は、イメージしていたのとはちょっと違った。真ん中に木製で枠付きの大きな台が一つあって、そこにブルーシートが引かれていた。表面には砂や野菜の皮が所々散らばっている。奥の方では、パートのおばちゃん達が働いていた。
「はーい、じゃあみんな集まって下さいね」
隅っこでスマートフォンを触っていた人たちが集まってきた。
「他にこのスペースで働いている方を紹介しますね。岡田さんと、青原さんと、木宮さんです」
三人とも、挨拶も何もしなかった。ずっと下を向いている。表情に色彩が感じられず、みんな同じ顔に見える。
「じゃあ、はい、みなさん芋出してください」
その声に反応して、3人は黙々と箱からじゃが芋を出し始めた。大きな台がどんどん埋められていく。それどころか平たいじゃが芋の群れはどんどん立体的になっていき、上の部分が崩れ落ちるほどの山になっていた。
「はい、じゃあもう終わりにしてください」
それを聞くと3人はぴたりと作業をやめ、止まった。
「じゃが芋って、こんなに積んで痛まないんですか」
「芋類は多少手荒く扱っても大丈夫なんですよ。あんまり打ちつけたりすると駄目ですけど。芽が出ちゃってても、取っちゃえば全然出せますからねえ」
思い切り引いたが、まだ入ったばかりなので何も口には出さなかった。
「そんなもんですか」
「他にも色んな野菜があるのでそれはまたその時教えますね」
「分かりました」
スパーザでも当然仕込みでじゃが芋を扱うことがあったが、こんな扱いはしなかった。まるでひよこの選別のようで、行儀の良い仕事には見えなかった。
「じゃあみなさん、あとはいつも通りやって下さい。今日は青原さんが量りでお願いします」
「はい」
先ほどの三人は横一列に並んだ。一人がじゃが芋をケースに入れて量る。もう一人はそれを袋詰めする。もう一人はその袋を機械でシール留めしてコンテナに入れる。三人は、それをひたすら繰り返している。
「大まかな流れはこれだけです。量って、詰めて、留める」
「はあ……」
「じゃあ、やってみましょうか。清水さん、量りって前のお仕事でされたことありますか」
「はい、仕込みの時に、まあ……」
量りをやっている人がこっちを見てきた。
「じゃあ話が早いですね」
そう言うと、宮脇の弟は砂まみれのケースと二人分の軍手、袋を棚から取り出して量りの横に置いた。
「兄さん、大体使う袋は10号ってやつね。分からなくなったらまた聞いて」
「うん、はい」
宮原にとって弟は弟でもあり上司でもある。どう接したらいいか、俺だったら分からずに困る。
「で、清水さんはケース乗せたら風体を0にして、480〜520の範囲内で測ってみてください。大体4〜5個ぐらいで行くと思います」
まず、大きいのを4個とって入れてみる。582。オーバーだ。
「ちょっと大きいの選びすぎかなあ」
それなら小さいのを4個にすればいい。目につく中で一番小さいものを四つ選んだ。463。
「今度は少なすぎですね。でも、だいぶ近づきましたよ」
小さいものを中くらいのものと替えると、数字は486になった。
「お、流石に筋がいいですね。それじゃあ今日はずっとこれなんで、お願いしますね。分からないことは皆さんに聞いてあげて下さい。じゃっ。」
そう言って、宮脇の弟はフロアへと出てしまい、黙々と作業をする三人と、俺たち二人だけが残された。
「じゃあ、やろっか」
「はい」
そうして、宮脇チームの作業が始まった。
一時間半ぐらい経っただろうか。急にさっきの三人組はぴたりと手を止め軍手を取って外へ行ってしまった。慌てて追いかけて量りの人に聞くと、「休憩なんで」とだけ言われた。
宮脇は、黙々とじゃが芋を袋に入れ続けている。
「宮脇、休憩だって」
「でも、僕みたいなのは……」
「それもマネージャーに言われた言葉だろ」
「はい……」
「ここはスパーザじゃないし、マネージャーももうここにはいないんだ。分かるだろ」
「でも、でも……」
その先の言葉が、どれだけ待っても出てこない。自殺まで考えたのだ。無理もない。
「じゃあ、俺をマネージャーだと思っていいよ。マネージャーは交代。あいつはもうここへ来ることはないし、お前を見張ってることもない。な?」
「はい……」
「じゃあ、休憩行こうぜ。何がいい。奢ってやるよ」
「水筒があります」
「水なんかいくらあってもいいだろ。水分補給も立派な仕事だからな」
「はい……」
「よろしい」
「じゃあ、外の自販機行こうぜ。俺は何にしよっかなあー」
口笛を吹きながら外に出ると、さっきの三人はまた固まって行動していた。
「どうか、したんですか」
宮脇が心配そうに聞いてきた。
「いやいや、何でもない。俺、コーラにしよ。宮脇は?」
「水」
「水? 水って、ただの水だよ」
「……」
「どうする? ファンタでもいいぜ」
「……」
「なんだ? エナドリがいいか? それなら先にそう言えよなー」
「……」
宮脇はずっと黙って下を向いている。下の方に目を向けると、手のひらにはびっしょり汗をかいて小刻みに震えている。
「分かった、水がいいんだな、水な」
俺は慌ててポケットから小銭を出して、水のボタンを連打した。
「水、水だよ」
「すみません……」
蚊の鳴くような声で宮脇は申し訳なさそうに言った。疲れから自販機の横に俺は座り込んだ。
「清水さんは」
「ああ、俺はいいよ」
「……」
宮脇は、またさっきと同じ感じになった。だが、別に必要以上にこいつに気を使うのは違う。
「……」
気まずい時間が流れる。
「……」
宮脇は、蓋も開けず自分の水に手をつけようとしない。
「あーもう、分かったよ! 買えばいいんだろ、買えば」
ポケットから小銭を全部出したが百円がなく、一万円札を通したが使えなかった。
「これ、飲みますか」
「飲むわけねえだろ、人のなんだから」
「……」
また宮脇が悲しそうな顔になった。
「はいはい、のーみまーすよ!」
宮脇のペットボトルをぶんどって蓋を開け、後ろを向いて飲むふりをした。
「はい、飲んだよ」
「……はい」
こういうごまかしは効くらしい。
「ちょっとあんた、チャレンジさんはもうとっくに仕事の時間だよ!」
知らないおばさんが出てきて叱り飛ばした。
「チャレンジさん?」
何のことだろうか。
「今は休憩の時間じゃないって言ってんの!」
「ああ、すみません……」
さっきの人は「休憩なんで」と言っていた。それに、ちょっと休憩時間が過ぎたからって何なんだ。
ふと周りに目を映すと、外には談笑や喫煙をしている人がちらほらいた。もしかして俺らにだけ冷たく当たっているのだろうか。
「もういいや。宮脇、戻ろうぜ」
「そうですね」
そう言って俺と宮脇が作業場に戻ると、あの三人組はちゃっかり仕事に戻っていた。俺はまた量りの人に聞いてみた。
「今って休憩じゃないんですか」
「『今』は違います」
「教えてくれればよかったのに……」
「……」
「いつ終わったんですか」
「10時44分59秒です」
何かがおかしい。会話に融通が効かない。表情も乏しい。
「宮脇、とりあえず芋4個集めてケースに入れとけ!」
「分かりました」
バックヤードを小走りで歩いて休憩室に戻ると、宮脇の弟は電卓を片手に何やら計算をしていた。
「宮脇さん」
「はい」
いけしゃあしゃあとしている。
「あの人たち、障害者の方ですか」
「はい、そうですが」
何か問題でも、と言わんばかりだった。
「さっき店の人にチャレンジさんって言われたんですよ! 何であんな人たちと俺ら一緒に働かなきゃいけないんすか」
宮脇の弟は笑って言った。
「ははっ。すみません。説明不足で」
「そういう問題じゃ……」
「普通のパートさんと同じような待遇にはしてもらえなかったんです。後遺症が残っているので」
「それ、いいんですか。障害の有無で待遇を変えるなんて」
「ええ。最低賃金ですが彼らには違う仕事をしてもらってるので。同一労働同一賃金の法則でうちはちゃんとやってます」
「そんな……」
チャレンジさん、という呼ばれ方も気持ちが悪かった。
「すみません、さっきのお金、返します」
「逃げれませんよ」
急に宮脇の弟の顔から笑顔が消えた。
「やろうと思えば刑事裁判で訴えることもできるんです。今からでも」
「裁判……?」
「そのところを、うちで弟の面倒を見るってことでちゃらにしてあげてるんです」
「……証拠なんてないくせに何言ってんだ」
「『足利事件』って、ご存知ですか?」
急な変わりように、言葉が出なかった。
「1990年に栃木県足利市で発生した殺人事件です。渡良瀬川の河川敷から女児の全裸死体が発見されたそうで。清水さんも、ご存じですよね」
もちろん存在は知っているが、なぜここでその話をしているかが分からない。
「1990年に起きた事件がね、冤罪だと社会に認識されるまでに17年半もかかったんですよ。何も罪を犯していない男性が逮捕されてから釈放されるまでに、17年半も」
「何が言いたい?」
「そんな顔しないでください。大丈夫です。ここにいてくれれば悪いようにはしませんから」
強い悪意と計画性に、吐き気がした。
「いいですよ。ここでちょっと休んでもらっても。ほら」
そう言って宮脇の弟は自分の隣の席を引いた。
「話しかけるな」
俺は奥にあるソファに座り、頭を抱えた。一生、この弟に弱みを握られたままで生きていくのは嫌だ。障害者の連中と、こんな食を大事にしていないスーパーで、最賃で。逃げてもいい。だが、宮脇はどうなる。あの中に一人で置いていくというのか。スパーザで見殺しのようなことをしておいた俺が。
「大丈夫ですか」
気づいたらドアを開けて宮脇が俺のそばで立っていた。
「顔色が……」
違う。こいつは悪くない。こいつを巻き込むのは違う。こいつに話をするのは違う。
「大丈夫。大丈夫だから。先、戻ってて」
目で強引に「あっちへ行け」と伝えた。
「……すぐ来てください」
「ああ、すぐ行くよ」
宮脇の表情は緩み、ドアをパタンと閉めて出て行った。
「どうですか」
宮脇の弟が口を開いた。
「どう、されますか。今後」
「ここにいます」
「そうですか。それは……」
「ただ、」
言葉を考えている暇がない。
「ただ?」
「ただ……、あいつが心配だからいるだけです」
「なるほど」
間を開けずに、俺は休憩室を後にした。
「もう宮脇を一人にはさせない……絶対に一人にはさせない……」
そう心の中で繰り返しながら、残りの人生を宮脇のために使おうと俺は腹を決めた。
またマネージャーが声を荒げた。客の入りはピークになっているというのに。
「死ねよ」
空気が凍りつく。
「死ねっつってんだよ、分かる?」
「すみません……」
この前新しく入ったバイト、宮脇がまた泣きそうになっている。
「まだこんなこともできないんじゃうち、もうお手上げだよ。頭悪いよね?ねえ?」
「はい」
「どうすんの、もう帰る?帰ろっか?」
「帰りません」
「宮脇、下ぁ向くなよ」
店長が厨房から顔を出し、にやりと笑って言った。
「涙が溢れるぞ」
「はい……」
ああいうおとなしいやつにはこの店は向かないと思う。あいつはいつ壊れてもおかしくない。
ここはスパーザ。よく「スパゲティはないのか」と聞かれるが、2種類しかない。うちはハンバーグ専門店だ。どこかの国の言葉で「紐」という意味らしい。
「『スパーザ』は古きギリシャの言葉で、『紐』という意味があります。お客様に支えられて25年。スパーザは地域の皆様とのご縁を大切にし、これからも感動を届けていきます」
店のメニューにはそう書いてある。確かに客には優しい。だが、従業員に対してはめっぽう厳しい。俺がここに入ったのは四年前だが、その頃はもっと酷かった。時間があれば店の裏で毎日反省会が行われ、殴る蹴るは当たり前だった。一度だけ、労働局の監査が入ったこともある。それからだいぶ大人しくはなったが、ここの根性主義、パワハラ体質は変わらない。
「お客さんからクレームも入ったしさあ、流石にあたしももうお手上げ。そんなこいつ庇うんならキッチンに入れてやんなよ」
またマネージャーのヒステリックが始まった。
「だからそれは無理だって言ってんだろ」
店長と言い合いになるのもいつも通りだ。
「じゃあどうすんのさ」
「じゃあ裏だな。裏で時間潰させろ」
「だってよ」
マネージャーは首だけで宮脇の方を見た。宮脇は俯くと、黙って店の裏手のドアを開けて出て行った。店長は宮脇に見向きもせず、こう言った。
「何手を止めてる?さあ、仕事しろ、仕事」
バイトはみな言い争いに耳を傾けていた。次は誰が標的になるか分からないからだ。新人で使えないのが来たらまずそいつが潰されるが、辞めてしまったら今度は内部分裂が始まる。一時期、ランチの営業ができなくなった時もあった。もめ事に巻き込まれるのは嫌なので、表では腫れ物のように扱っても裏ではみな新入りに優しい声をかけている。この組織を維持していくためには、犠牲者が必要不可欠なのだ。
「あ、これ、6番持ってって。帰りに空いたお皿全部下げちゃっていいから。その後はグラス全部洗っといて」
「それはいいからまず1番のオーダー取っちゃって。早くして。だからって店ん中走らないでよ。この前みたいに」
「だからお前こないだも言ったよな?なあ。言ったよな?お前、あの越村も『これ、マズいですよね』って言ってたぞ」
バックヤードではひっきりなしに指示が飛んでくる。きつい言葉も飛んでくる。
「おい、清水」
店長がキッチンの奥から俺を呼んだ。
「はい」
「外からトマト缶持ってくるついでにあいつが何やってるか見てこい」
「分かりました」
宮脇が出て行ってからかれこれ2時間が経った。そもそもあいつまだ裏にいるんだろうか。普段の扱われようからして、バックれていてもおかしくない。
俺は厨房を離れて、裏口へ出た。俺を感知してライトが点灯したが、そこに広がっていたのは事故現場だった。俺は慌てて店長を呼んだ。店長はめんどくさそうな顔をして後をついてきたが、裏の有り様を見て顔色が変わった。
「お前が第一発見者だ」
「はあ?」
宮脇が店の裏で自殺未遂を図ってから、3ヶ月が過ぎた。宮脇は不幸中の幸いながらもまだ意識はあったようで、何とか命は助かった。だが脳に後遺症が残る可能性が高いらしく、今もまだ入院している。俺は宮脇がああなった原因としてあの後尻尾切りを図られ、俺も頭がおかしくなりそうになって自主退職した。誰からも「お疲れ様」は言われなかった。
実家にもいられなくなった。
「お前、今後どうするつもりなんだ」
「どうって……」
「店長さんが間に入ってくれたから何とかなっただけで、お前がしたことはなくならないんだからな」
「だからあれは……!」
「受け取れ」
そう言って親父は、分厚い封筒を机に放り投げた。
「何だよこれ」
「お前も分かるだろ。うちから人殺しが出たなんて言われたら困るんだよ。来年は幸子の受験が控えてるんだ」
意味が分かった。縁を切ろうとしているのだ。この家を出ろということだ。
「……分かったよ」
「早く支度をしなさい」
「別にいいけど、一言だけ」
「何だ」
「てめえを殺してから出て行ってやるよ!」
弟のプラモの横にあったデザインナイフを、親父の胸元に向けて振り上げた。親父の首筋にはすっと赤い筋ができた。
「あんた、何やってんの!」
そう母親は叫んで親父に駆け寄った。
「あんた。あんた。大丈夫!? 大丈夫!?」
親父の腕はぬらぬらと血で染まり、それでも目はしっかりとこちらを見据えていた。
「お前らが悪いんだからな」
そう言って俺はデザインナイフを持ったまま封筒をぶんどった。靴も履かずに裸足で逃げた。家の前の道路に出ると、誰かが立ち止まった。
「慶ちゃん、何してるの?」
制服姿の幸子だった。
「慶ちゃん?」
「悪い」
もう後には引けなかった。俺は振り向かずにアスファルトを蹴ってその場を逃げ出した。
「慶ちゃん!?」
悪い、幸子。お前には何の罪もない。何の罪もないんだーー
幸子の叫びを無視して、俺は走った。ただ、走った。夕焼けが怖いくらい赤かった。
封筒から万札を取り出し、ネットカフェで一日を明かした。俺の様子を見るなりすぐに店員は「ご滞在でしたら24時間パックがお得です」と言った。シャワーを浴びて休むだけのつもりだったので最初は3時間で頼んだが、2時間経ったところで24時間に切り替えた。
「行くところ、ねえなあ」
親父は自営業で、母親は専業主婦。金に困ることはなく、実家から出たこともなかった。友達はみんな大学に行って、この町を出て行ってしまった。頼れる親戚も近くにはいなかった。裸足で家を出て初めて、今まで自分に居場所が用意されていたことに気づいた。
何ヶ月くらいいただろうか。日付の感覚もなくなって、ネカフェに住み着くようになったある日、あることに気づいた。封筒だ。封筒がない。ずっとポケットに入れていた、あの封筒がない。
「嘘だろ……」
血眼になって個室スペースを探した。段差もなければ引き出しもない、ただの真っ平らなマットと机の上をひたすらに探した。店員に訴えたが、まるでことの顛末を知っているかのように極めて慣れた口調で対応した。よくあるクレーム対応なのだろうが、店員は犯人とグルの可能性もある。怒りで店員の襟を掴むと、警察を呼ぶと脅された。そうなったら困るのはこちらだということを、この店員は知っている。俺は何も考えずに、最低限買い揃えていた服や日常品を置いてまた逃げた。
寒い。いくらネットカフェとはいえ、室内と室外では勝手が全く違う。手持ちも、ポケットの中の小銭しかない。頼れる人もいない。行く場所もない。頭に焼きが回った俺は目についた田舎臭いスーパーに入り、陰でモップがけをする店員の背にデザインナイフを突きつけた。
「何とかしろ。金がない」
すると店員は即座にモップの柄で俺の腹を突くと手首を捻り、俺を床へと打ち伏せた。乾いた血で汚れたデザインナイフが、モップかけたての床を滑っていった。
「け…警察…!」
レジの店員がこちらに気付き、固定電話に手をかけた。
「待って下さい!」
そいつは、床に押し付けた俺の横顔を見てその手を離した。
「いってえな……」
体に力が入らず、立つことすらできなかった。そして、店員は言った。
「もしかして、清水さん、ですか……?」
あっけに取られてしまったが、俺は小さな声でそうだと認めた。
「清水、慶さんですか?」
「ああ……」
店員は唇をきゅっと噛んだ。
「事務所まで、来てください」
名札に目をやると、「宮脇」と書かれていた。
「本当に、すみませんでした」
「いえ、むしろ、兄がご迷惑をおかけしまして申し訳ないです」
「あの、どうして俺の顔を……」
「求人情報誌を見まして」
「ああ……」
そういえばそんなことがあった。バイトが常に足りていなかったから情報誌のカメラマンが来て、ちょうどその時、確か、宮脇が横にいた。
「あなたのことも聞いていましたが、いい人だと。残された日記にもあなたを呪う言葉はありませんでした」
言葉が出てこなかった。
「あなたに一つ、お願いがあるんです」
そう言って話のすり合わせが始まった。
次の朝を、俺は宮脇の実家で迎えた。カレンダーを見たら、俺が家を出たあの日から一年と七ヶ月が経っていた。
「あと三十分で出るので、支度をしてください」
宮脇は弟と母親と三人暮らしのようだった。宮脇の母親は一度も部屋から出てくることはなかった。この家族の暮らしぶりは、決して豊かなものとは言えなかった。
「行きましょう」
宮脇の弟の運転で、俺は宮脇のいる病院へと向かった。しばらく不規則な生活をしていた俺には朝は早く、朝日が眩しかった。目を細めながら、昨日のことを思い出した。
「兄は、元気です」
「本当ですか!」
ほっとして口元から力が抜けた。自分に悪くないと言い聞かせてはいたが、当然無理があった。
「でも、脳に障害が残りました。短い言葉しか話せないんです。あなたにも責任がないとは、やはり弟としては言えません。」
「すみません……」
「それで、兄のこれからの生活を、職業生活をサポートしてほしいんです」
「はあ……でも、どうやって……」
「うちのスーパーで、働いていただけませんか」
「俺が、ですか……」
「ええ、もちろん兄と一緒にです」
「ああ……」
「給料が貯まるまで、でも構いません。兄は後遺症に戸惑いを感じています。作業所での社会復帰も提案があったのですが、僕としてもできるだけそばにいたいので」
「でもそれが、俺で、俺でいいんですか。俺は、あなたのお兄さんを殺したことになってるんですよ。親御さんだって、そんなこと、許すはずがないでしょう……」
宮脇の弟は流石に苦しそうな表情をしていた。
「母には、言っていません」
俺は息を飲んだ。
「じゃあ……」
「でも、あなた以外に弟と面識がある人がいないんです。厳しい言い方をすると、弟の面倒を見る責務を課せられている人が」
その言葉を聞いて、あとは首を縦に振るしかなくなった。
「着きましたよ」
「ありがとうございます」
大病院のリハビリ室に、宮脇はいた。スタッフが宮脇に声をかけた。
「宮脇さん、弟さん、来たわよ。それと、お友達」
宮脇はこちらを振り向いた。以前より様子が萎縮しているようだった。
「やっぱ俺、帰った方が……」
「私は……」
宮脇の弟は、宮脇の方を見てこう言った。
「本当は、あなたも含め兄に関わった人間全員を殺してやりたかった」
スタッフはその場を離れた。
「でも、それを兄は望んでいなかった」
俺の目を見た。
「兄は。兄は、あんなに酷い目にあったのに、誰のことも憎んではいなかったんです」
宮脇の弟は目を拭った。
「馬鹿みたいでしょう。でも、家族である以上、本人の意思に寄り添うことにしたんです」
宮脇の弟は鼻をすすり上げて言った。
「これは、あなたにとって私ができる、最大限の復讐なんです」
目の奥に真っ直ぐなものが通っていて、その声は冷たかった。
「兄さん、こちらがあの清水さん」
「ああ、あの……、ああ、分かるよ」
申し訳なかった。宮脇を支えてあげる立場の人間が、罪人だなんて。罪人に宮脇はこれから支えられなきゃいけないなんて。
「じゃあ、行こうか」
宮脇は少し不安そうな顔で宮脇の弟の肘を掴んで、ゆっくり車に向かった。宮脇は助手席に乗り、俺は後部座席に乗った。
「じゃあ清水さん、今から仕事なんでお願いしますね」
今からも何も、服は一週間替えていないし、昨晩は2時間も寝れていない。
「今からって……、制服とか」
「見た感じLかXLですよね。安全靴も男性のサイズでしょうし。どちらも在庫があります」
「あの、職場の人にはなんて言ってあるんですか」
話が進むのがあまりにも早すぎる。
「ただ普通にうちで一緒に働いてもらうだけでいいんです。業務のサポートはこちらでしますし、フォローとかいらないので」
「でも、それでいいんでしょうか」
「あの……」
宮脇が目を伏せながら言葉を絞り出した。
「安心、です…… 知ってる人、なので……」
「だそうですよ」
宮脇の弟は笑った。俺は黙って頭を下げた。
俺はまたあのスーパーに来た。警察と一緒にではなく、あの宮脇と一緒に。
「おはようございまーす」
宮脇の弟は店内に堂々と挨拶をして、青果コーナーに案内した。他の店員は、伏し目がちに会釈をした。俺も会釈をして、俯いて歩いた。
休憩室で制服に着替え、エプロンをつけて安全靴を履いた。格好はあまりレストランと変わらなかった。
「これ、よかったら」
そう言って宮脇の弟は一万円札を三枚差し出した。
「何ですか、これ」
「月末までまだ日がありますし、手持ちが全くないと困るでしょうから」
「いえ、困りますよ。こんなの頂けません」
慌てて突き返した。
「じゃあ……、給料から前借りって形でどうですか。それなら清水さんのお金でしょう」
「いや、それは……」
「いいんですよ。僕、店長に結構色々任されてるんで。清水さんはもう、うちの従業員ですから」
「はあ……」
背に腹はかえられず、縮こまってそのまま万札を受け取った。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい……」
首を垂れたまま、宮脇の弟の後ろをついて行った。
バックヤードはあまり綺麗ではなく、客の口に入るものを作っていた身としては衛生環境が気になった。まあ、個人の会社でやっているスーパーだと、こんなものなのだろうか。
「ここが、青果コーナーです」
青果コーナーの中は、イメージしていたのとはちょっと違った。真ん中に木製で枠付きの大きな台が一つあって、そこにブルーシートが引かれていた。表面には砂や野菜の皮が所々散らばっている。奥の方では、パートのおばちゃん達が働いていた。
「はーい、じゃあみんな集まって下さいね」
隅っこでスマートフォンを触っていた人たちが集まってきた。
「他にこのスペースで働いている方を紹介しますね。岡田さんと、青原さんと、木宮さんです」
三人とも、挨拶も何もしなかった。ずっと下を向いている。表情に色彩が感じられず、みんな同じ顔に見える。
「じゃあ、はい、みなさん芋出してください」
その声に反応して、3人は黙々と箱からじゃが芋を出し始めた。大きな台がどんどん埋められていく。それどころか平たいじゃが芋の群れはどんどん立体的になっていき、上の部分が崩れ落ちるほどの山になっていた。
「はい、じゃあもう終わりにしてください」
それを聞くと3人はぴたりと作業をやめ、止まった。
「じゃが芋って、こんなに積んで痛まないんですか」
「芋類は多少手荒く扱っても大丈夫なんですよ。あんまり打ちつけたりすると駄目ですけど。芽が出ちゃってても、取っちゃえば全然出せますからねえ」
思い切り引いたが、まだ入ったばかりなので何も口には出さなかった。
「そんなもんですか」
「他にも色んな野菜があるのでそれはまたその時教えますね」
「分かりました」
スパーザでも当然仕込みでじゃが芋を扱うことがあったが、こんな扱いはしなかった。まるでひよこの選別のようで、行儀の良い仕事には見えなかった。
「じゃあみなさん、あとはいつも通りやって下さい。今日は青原さんが量りでお願いします」
「はい」
先ほどの三人は横一列に並んだ。一人がじゃが芋をケースに入れて量る。もう一人はそれを袋詰めする。もう一人はその袋を機械でシール留めしてコンテナに入れる。三人は、それをひたすら繰り返している。
「大まかな流れはこれだけです。量って、詰めて、留める」
「はあ……」
「じゃあ、やってみましょうか。清水さん、量りって前のお仕事でされたことありますか」
「はい、仕込みの時に、まあ……」
量りをやっている人がこっちを見てきた。
「じゃあ話が早いですね」
そう言うと、宮脇の弟は砂まみれのケースと二人分の軍手、袋を棚から取り出して量りの横に置いた。
「兄さん、大体使う袋は10号ってやつね。分からなくなったらまた聞いて」
「うん、はい」
宮原にとって弟は弟でもあり上司でもある。どう接したらいいか、俺だったら分からずに困る。
「で、清水さんはケース乗せたら風体を0にして、480〜520の範囲内で測ってみてください。大体4〜5個ぐらいで行くと思います」
まず、大きいのを4個とって入れてみる。582。オーバーだ。
「ちょっと大きいの選びすぎかなあ」
それなら小さいのを4個にすればいい。目につく中で一番小さいものを四つ選んだ。463。
「今度は少なすぎですね。でも、だいぶ近づきましたよ」
小さいものを中くらいのものと替えると、数字は486になった。
「お、流石に筋がいいですね。それじゃあ今日はずっとこれなんで、お願いしますね。分からないことは皆さんに聞いてあげて下さい。じゃっ。」
そう言って、宮脇の弟はフロアへと出てしまい、黙々と作業をする三人と、俺たち二人だけが残された。
「じゃあ、やろっか」
「はい」
そうして、宮脇チームの作業が始まった。
一時間半ぐらい経っただろうか。急にさっきの三人組はぴたりと手を止め軍手を取って外へ行ってしまった。慌てて追いかけて量りの人に聞くと、「休憩なんで」とだけ言われた。
宮脇は、黙々とじゃが芋を袋に入れ続けている。
「宮脇、休憩だって」
「でも、僕みたいなのは……」
「それもマネージャーに言われた言葉だろ」
「はい……」
「ここはスパーザじゃないし、マネージャーももうここにはいないんだ。分かるだろ」
「でも、でも……」
その先の言葉が、どれだけ待っても出てこない。自殺まで考えたのだ。無理もない。
「じゃあ、俺をマネージャーだと思っていいよ。マネージャーは交代。あいつはもうここへ来ることはないし、お前を見張ってることもない。な?」
「はい……」
「じゃあ、休憩行こうぜ。何がいい。奢ってやるよ」
「水筒があります」
「水なんかいくらあってもいいだろ。水分補給も立派な仕事だからな」
「はい……」
「よろしい」
「じゃあ、外の自販機行こうぜ。俺は何にしよっかなあー」
口笛を吹きながら外に出ると、さっきの三人はまた固まって行動していた。
「どうか、したんですか」
宮脇が心配そうに聞いてきた。
「いやいや、何でもない。俺、コーラにしよ。宮脇は?」
「水」
「水? 水って、ただの水だよ」
「……」
「どうする? ファンタでもいいぜ」
「……」
「なんだ? エナドリがいいか? それなら先にそう言えよなー」
「……」
宮脇はずっと黙って下を向いている。下の方に目を向けると、手のひらにはびっしょり汗をかいて小刻みに震えている。
「分かった、水がいいんだな、水な」
俺は慌ててポケットから小銭を出して、水のボタンを連打した。
「水、水だよ」
「すみません……」
蚊の鳴くような声で宮脇は申し訳なさそうに言った。疲れから自販機の横に俺は座り込んだ。
「清水さんは」
「ああ、俺はいいよ」
「……」
宮脇は、またさっきと同じ感じになった。だが、別に必要以上にこいつに気を使うのは違う。
「……」
気まずい時間が流れる。
「……」
宮脇は、蓋も開けず自分の水に手をつけようとしない。
「あーもう、分かったよ! 買えばいいんだろ、買えば」
ポケットから小銭を全部出したが百円がなく、一万円札を通したが使えなかった。
「これ、飲みますか」
「飲むわけねえだろ、人のなんだから」
「……」
また宮脇が悲しそうな顔になった。
「はいはい、のーみまーすよ!」
宮脇のペットボトルをぶんどって蓋を開け、後ろを向いて飲むふりをした。
「はい、飲んだよ」
「……はい」
こういうごまかしは効くらしい。
「ちょっとあんた、チャレンジさんはもうとっくに仕事の時間だよ!」
知らないおばさんが出てきて叱り飛ばした。
「チャレンジさん?」
何のことだろうか。
「今は休憩の時間じゃないって言ってんの!」
「ああ、すみません……」
さっきの人は「休憩なんで」と言っていた。それに、ちょっと休憩時間が過ぎたからって何なんだ。
ふと周りに目を映すと、外には談笑や喫煙をしている人がちらほらいた。もしかして俺らにだけ冷たく当たっているのだろうか。
「もういいや。宮脇、戻ろうぜ」
「そうですね」
そう言って俺と宮脇が作業場に戻ると、あの三人組はちゃっかり仕事に戻っていた。俺はまた量りの人に聞いてみた。
「今って休憩じゃないんですか」
「『今』は違います」
「教えてくれればよかったのに……」
「……」
「いつ終わったんですか」
「10時44分59秒です」
何かがおかしい。会話に融通が効かない。表情も乏しい。
「宮脇、とりあえず芋4個集めてケースに入れとけ!」
「分かりました」
バックヤードを小走りで歩いて休憩室に戻ると、宮脇の弟は電卓を片手に何やら計算をしていた。
「宮脇さん」
「はい」
いけしゃあしゃあとしている。
「あの人たち、障害者の方ですか」
「はい、そうですが」
何か問題でも、と言わんばかりだった。
「さっき店の人にチャレンジさんって言われたんですよ! 何であんな人たちと俺ら一緒に働かなきゃいけないんすか」
宮脇の弟は笑って言った。
「ははっ。すみません。説明不足で」
「そういう問題じゃ……」
「普通のパートさんと同じような待遇にはしてもらえなかったんです。後遺症が残っているので」
「それ、いいんですか。障害の有無で待遇を変えるなんて」
「ええ。最低賃金ですが彼らには違う仕事をしてもらってるので。同一労働同一賃金の法則でうちはちゃんとやってます」
「そんな……」
チャレンジさん、という呼ばれ方も気持ちが悪かった。
「すみません、さっきのお金、返します」
「逃げれませんよ」
急に宮脇の弟の顔から笑顔が消えた。
「やろうと思えば刑事裁判で訴えることもできるんです。今からでも」
「裁判……?」
「そのところを、うちで弟の面倒を見るってことでちゃらにしてあげてるんです」
「……証拠なんてないくせに何言ってんだ」
「『足利事件』って、ご存知ですか?」
急な変わりように、言葉が出なかった。
「1990年に栃木県足利市で発生した殺人事件です。渡良瀬川の河川敷から女児の全裸死体が発見されたそうで。清水さんも、ご存じですよね」
もちろん存在は知っているが、なぜここでその話をしているかが分からない。
「1990年に起きた事件がね、冤罪だと社会に認識されるまでに17年半もかかったんですよ。何も罪を犯していない男性が逮捕されてから釈放されるまでに、17年半も」
「何が言いたい?」
「そんな顔しないでください。大丈夫です。ここにいてくれれば悪いようにはしませんから」
強い悪意と計画性に、吐き気がした。
「いいですよ。ここでちょっと休んでもらっても。ほら」
そう言って宮脇の弟は自分の隣の席を引いた。
「話しかけるな」
俺は奥にあるソファに座り、頭を抱えた。一生、この弟に弱みを握られたままで生きていくのは嫌だ。障害者の連中と、こんな食を大事にしていないスーパーで、最賃で。逃げてもいい。だが、宮脇はどうなる。あの中に一人で置いていくというのか。スパーザで見殺しのようなことをしておいた俺が。
「大丈夫ですか」
気づいたらドアを開けて宮脇が俺のそばで立っていた。
「顔色が……」
違う。こいつは悪くない。こいつを巻き込むのは違う。こいつに話をするのは違う。
「大丈夫。大丈夫だから。先、戻ってて」
目で強引に「あっちへ行け」と伝えた。
「……すぐ来てください」
「ああ、すぐ行くよ」
宮脇の表情は緩み、ドアをパタンと閉めて出て行った。
「どうですか」
宮脇の弟が口を開いた。
「どう、されますか。今後」
「ここにいます」
「そうですか。それは……」
「ただ、」
言葉を考えている暇がない。
「ただ?」
「ただ……、あいつが心配だからいるだけです」
「なるほど」
間を開けずに、俺は休憩室を後にした。
「もう宮脇を一人にはさせない……絶対に一人にはさせない……」
そう心の中で繰り返しながら、残りの人生を宮脇のために使おうと俺は腹を決めた。

