花が開く時、音が鳴ったらいいのにといつも思っていた。
例えば、小鳥の鳴き声とか、凛とした鈴の音とか、グラスの中の氷が傾く音とか、火が揺らぐ微かな音でもいい。何かしら音が鳴ったら、みんな忙しない足を止めて、花に目を向けてくれるはずだ。
「────これにて入学式を閉会いたします」
順々に流れていった入学式は、矢久保が意識を飛ばしている最中も順調に進んでいき、気づけば閉会の挨拶を終えた校長先生が壇上を下りていた。
「新入生退場」
司会の声が体育館に響き渡った。
各クラスの担任の号令で立ち上がり、前のクラスから順に退場していく。
今日は高校の入学式で、矢久保もこの新入生の一人である。
四月になっても寒さはしつこく残り、体育館の床の冷たさに靴下の意味もなさないほど足先は冷え切っていた。
やっと入学式が閉会し、退場を待つ後ろ番号のクラスはこれ見よがしに姿勢を崩しはじめる。背もたれに背中をつけたり、背筋を丸めたり、足を開いたり、髪の毛を触ったり、集中力が一気に堕落した新入生たちを矢久保は一番後ろのクラスから見ていた。
リン────。
その時、鈴のような澄んだ音が聞こえた気がした。たとえばその音は、花がひらく音のように美しい音色だった。
矢久保は反射的に顔を上げる。
「あっ」
思わず声を洩らすも、誰にも矢久保の声は届いていなかった。みんなただ一点を見つめ、氷漬けされたように固まっていた。
たくさんの視線の先には、花がいた。正確に言えば、花みたいに綺麗な人がいた。
新入生の道として敷かれた紺色のカーペットを堂々した顔つきで歩く一人の男子生徒に、みんなが釘付けになっていた。
「綺麗……」
隣の女子生徒がうっとりした声で呟く。独り言というよりかは、本人も気づかぬうちにこぼれたような本音に、思わず頷いてしまいそうになる。
それもそのはず、ここにいる人たち全員の視線を掻っ攫っていくほど、彼の容姿は優れていたのだ。
高い位置にある大きい窓からは日が差し込み、光芒がちょうどカーペットの位置に当たって光の道筋が出来上がっていた。その道は、あまりにも彼のための道のように先を導いていた。
くっきりした目は椿の映える赤のようで、よく見れば椿の葉のように目尻は鋭く伸びていた。存在感の薄い蕾のような小さい鼻は横顔で高さを見せつけてくるように花ひらく。唇は桜色をほんのり纏い血色がいい。日が沈んだ頃に存在感を放つ月見草のように、彼の黒い髪が白い肌を際立たせている。
彼を一つの花で例えるなら、儚い透明感のあるツユクサのようだ。
だが、矢久保の導き出した花より先に脳内に浮かんだのは、祖母の庭に咲くナデシコのピンクの花だった。
────“ナデシコ”
反芻すると、少し前の記憶の引き出しが開いた。
❀
去年の夏。ちょうど夏休みの時だった。
中学三年生の矢久保は七月下旬に行われる、高校見学会に参加していた。
まだ進学する高校を決めかねていた矢久保は、自分の希望に沿ったベストな高校を探している最中で、ナデシコの花を見たのは確か農業高校の見学会に参加した時だ。
矢久保は花好きの祖母の影響で幼い頃から花が好きだった。愛でることも、育てることも、生けることも好きな矢久保は、高校生活でも花に携わりたいと思っていた。
園芸部か華道部がある学校、その中でも花壇が多い学校を探していたところ、授業の一環として実際に花を育てている農業高校を見つけた。
色んな中学校から集まっていることもあり、高校見学会は矢久保が希望した日でも参加者はざっと百人ほどいた。
校舎内を回りやすいように十名グループに分けられ、数人は同じ学校の顔見知りだったが、残りは隣の市の中学校から来ている知らない人たちだった。他校の生徒は明らかに陽キャのような雰囲気を漂わせ、見学中も大して説明を聞く様子もなく、友達同士なのか移動中もじゃれ合って楽しそうにしていた。その中でもやたら目についたのはピンクの髪色をした男子だった。
ピンク頭の彼は比較的に大人しい方で、大声で笑ったり騒いだりすることもなく、髪色に似合わず一番常識があった。なのに、その奇抜な髪色のせいなのか、やたら視界の端にちらついていた。
それは矢久保だけではなく、同じ中学校の生徒も、校舎の案内をする在校生も、見学会の説明のため各科に在籍している在校生や教師も、彼をやたらと見ていた。じっと見る人もいれば、チラチラと盗み見る人もいて、また彼に声をかける人もいた。
でも、彼自身は気にも留めず、慣れたように視線や声をすべてフル無視していた。
無視するなら、そんな髪色に染めなきゃいいのに。
目立ちたくてその髪色にしているなら正解だが、その髪色にしておきながらその生意気な対応は矛盾していないだろうか。
矢久保は、彼の言動に疑問視しながら、校舎内を回っていた。
各科の説明も終盤に差し掛かった頃、矢久保の大本命である園芸科の敷地内に入った。園芸科に在籍する在校生は説明もそこそこにして、早速矢久保たちを校舎裏のビニールハウスに案内する。日当たり良好のその場所には大きいビニールハウスがいくつも並び、曇りガラスよりも濁ったビニールハウスからは鮮やかな黄色が薄らと見え隠れしている。
矢久保は当たり前に高揚していた。
ビニールハウスの中に入ると、夏の蒸し暑さが籠ったビニールハウス内はサウナ化状態にあり、見学者たちは声も憚らずに「暑すぎ」「しぬ」とだらしのない声を上げはじめる。
在校生は慣れているのか、ビニールハウス内で主な授業内容の説明をはじめる。だが、三分足らずで、さっきまで騒がしかった他校の彼らは暑さで黙り、シャツの袖で汗を拭ったり、手で扇いだりと、暑さ意外に考えられないといったフェーズに入ってしまう。
そんな見学者の中で、矢久保だけは目を光らせていた。
みんなが死んだ顔をして説明が早く終わるのを祈るように待っている中、矢久保は在校生の目をかいくぐって移動し、ビニールハウスで育てているものを見て回る。
夏のビニールハウス内は主に野菜中心で活用していくらしく、今このビニールハウスで咲いている花は切り花用の向日葵だけだった。咲いた花や収穫した野菜は年に一度高校実習の一環として手売り販売しているそうだ。
矢久保は少し小ぶりな向日葵を眺めるのに夢中になってしまい、ふと我に返った時にはビニールハウス内は誰一人としていなかった。
慌ててビニールハウスから出るが、当然同じグループのメンバーの姿はなかった。
見学者が一人いなくなったことに誰も気づかず、どうやらグループは先に進んでいってしまったらしい。
ついつい花を見ていると、時間も忘れ、意識もどこかへ飛ばしてしまう癖が矢久保にはあった。家族にも友達にも散々言われていることを、今日も気をつけることなくやらかしてしまった。
次に向かう教室もわからないし、グルグル回ったせいで体育館の場所もわからなくなった矢久保は、とりあえず校舎内に入ろうと迷いながら足を進める。
その時、曲がり角の先でピンクを見つけた。同じグループのピンク頭の彼だ。
慌てて追いかけると、角を曲がった先で彼が立ち止まっていた。他のメンバーはおらず、彼一人だけがそこに立ち尽くすようにいた。
「本当に別れるつもり?」
彼がそう誰かに話しかけた。
ただならぬ重い空気に、矢久保は反射的に身を隠す。
「ここに来て、迷惑だった?」
彼は矢久保の存在に気づくことなく、続けて問い質す。
さっきまでの生意気な態度とは裏腹に、盗み見る彼の半分の横顔からは哀愁を感じた。
「そんなことない」
彼の奥からまた一人、彼の質問に答える声が矢久保の耳にも届く。
その声に驚いた。
別れるという単語に咄嗟に連想したのは女子だったが、この声は紛れもなく男子だ。
悪いことだとは思いながらも盗み見ると、相手はどうやらこの高校の男子生徒のようで、指定の作業着と思われるポロシャツを着用し、右手には花が入ったバケツが見える。
「迷惑じゃないけど、今さら引き留めても俺の気持ちは変わらないから」
「勝手だろ」
「勝手でも、俺だってやりたい事はあるし、行きたい大学もある。今度こそ人のせいにせず自分の力で頑張ってみたいんだよ」
「そこに俺はいたらダメなのかよ」
「恋愛で自分の人生決めるなよ。お前も行きたい高校に行って、やりたいことをしろ」
「聡介がいない人生なんて無理」
「初めて付き合ったのが俺だからって、お前は俺に執着しすぎだ。もっと人に興味を持つんだ。絶対お前のこともっと理解してくれる奴がいるから」
切ない現場に居合わせてしまった。
おそらくピンク頭の彼の相手は三年生だ。受験、進路、遠距離は学生の恋愛の中で最大の敵だと、最近彼女と別れた幼馴染が言っていたのを矢久保は思い出していた。
「そんな顔すんな」
今では彼の元カレとなってしまった男子生徒は、バケツを地面に置くと、一番綺麗に咲いている花をバケツから一本手に取り、濡れた茎を服で軽くふき取った。そして、彼の正面に立ち、そのままキスできるくらいの至近距離まで寄ると、彼の胸ポケットにピンクの花を挿した。その花がナデシコだったのは、矢久保の位置からもなんとなく見えた。
「それ、ここまで会いに来てくれた餞別な」
「……花かよ」
「俺が一年の頃から毎年校門近くの花壇に咲く花だよ。今年は暑かったからダメになった。来週頃には切り戻しする。それが最後に咲いた花だ」
「勝手に摘んできたのか?」
「寂しいだろ、一人で咲くのは」
そう言う彼の顔も、花を貰ったピンク頭の彼も寂しそうな顔をしていた。
花を誰かに贈る行為は、必ず何かしらの意味が存在する。彼は、相手の想いを汲み取ることができるだろうか。
「お前、農業に興味ないだろ。もうここには来るなよ」
これ以上話すことはないと言うように背を向け、男子生徒は去っていく。
今度は彼も追いかけたりしなかった。だが、悄然した様子で立ち尽くしたまま動こうとはしない。
矢久保も彼のことが心配でその場から動けずにいた。
彼の表情を窺うと、唇を噛み必死で堪えている顔をしていた。かと思えば、項垂れるように俯いたり、不貞腐れたように地面を蹴ったり、顔を顰め怒ったりと表情をコロコロ変えた。でも、結局最後は泣きそうな顔で天を仰ぐのだ。
そうこうしているうちにどれくらいの時間が経っただろう。夏の日差しにジリジリと体力が削られるのを矢久保は感じていた。それでも動こうとしない彼のことを、もしかしたら自分が想像するよりも悲しみのどん底にいて、体が動けずにいるのかもしれないと危機感が脳内を走った。
気づくと、矢久保の体は先行して動いていた。勢いよく踏み込んだ足音に、彼が驚いた顔で振り返る。
「……誰だ、お前」
「ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだ」
めちゃくちゃ盗み聞きしていたが、あくまでもたまたま居合わせてしまったことを主張する。当然彼は訝しげに眉根を寄せ睨みつけてくる。
「盗み聞きするつもりなかったって、今までの会話ずっと聞いてたってことか?」
聞かれてもないことを最初に主張したことで、あっという間に墓穴を掘った矢久保は静かに彼から目を逸らす。
「偶然通りかかったならさっさと消えろよ」
矢久保の登場が、さらに彼の虫の居所を悪くさせてしまったようで、うんざりした顔で吐かれる。
悄然とする彼を慰めたいとか、寄り添ってあげたいとか、そういう感情に動かされて飛び出したのではなかった。ただ、その花を贈った彼の想いを考えて、良きものにしてほしいと思っただけだった。だが今は、第三者が口にできないほどに彼の心は荒んでいる。
放っておくほうが最善かもしれない。矢久保はそっと踵を返す。
「ちょっと待て」
一歩進んだところで、早々に引き留められた。
「この花の名前、知ってるか?」
胸ポケットに小さく収まったピンクの花を指さす。彼のピンク頭よりも少し濃い色をしたその花を、一語一語丁寧に口にした。
「ナデシコ」
その後につづいて彼が反芻する。そして「知らねえ花」と一瞬で興味をなくす。
ずっと力失くしたようにその場にしゃがみこんでいた彼がスッと立ち上がる。別れを必死で飲み込んだのか、表情は冷めていた。
彼が矢久保の横を通りすぎて立ち去ろうとするので「待って」と今度は矢久保が引き留めた。彼は首を傾げ、足を止めてくれる。
「ナデシコってたくさん種類があって、そのナデシコ属全部をまとめてダイアンサスって言うんだ」
「……へえ」
「だから、いろんなナデシコの苗売っている店とかは一括りにダイアンサスって表記したりする」
「……だからなんだよ」
要領を得ない矢久保の話に、さっきの苛立ちが彼の顔に戻ってくる。
「ダイアンサスは別名ピンクとも言われていて、ピンクの語源はダイアンサスのそのピンクからきている。彼はバケツの中に入っているいろんな花からその花を直感的に選んでいた。それほど、彼にとってピンクのイメージが君だったんだ。きっと彼は、この先ピンクを見つける度に君を思い出す。俺の憶測だけど、彼にとってのピンクの語源は君だってことをナデシコの花をとおして伝えたように思う」
言葉遊びをしているかのような矢久保の都合のいい言葉変換を聞いて、彼が自嘲するように笑みを吐き捨てた。
「都合よく考えすぎだろ。手元にあった適当な花を最後の別れとして贈っただけだ」
そうかもしれない。でも、都合のいい解釈は自分を守る盾にもなる。
「その場所で咲く意味や花の背景は、ほとんど人間の託け(かこつ)から生まれている」
「は?」
「ギリシャ神話に登場する人や神は、よく花となって弔われる。彼女は花になった、涙が落ちた場所に花が咲いた、死体に花が咲いた。花はただそこで何気なく咲いただけだろうに、自分のため大事な人のため人間のために咲いたような立ち位置に置かれ、今もなおその伝説は色褪せないまま花は生きている」
「お前、スピってんのか」
「スピリチュアル云々は、娯楽として楽しむだけで信じたりはしない」
言下に否定すれば、彼が面倒くさそうな顔で首を触りながら「だったら何が言いたいんだよ。結論から言えよ」と急かしてくる。
それでも矢久保は自分のペースを崩さない。雲が流れ、太陽が一瞬隠れた。そして、また何事もなかったかのように顔を出す。日差しがまたナデシコの花を暖かく包み込んだとき、矢久保は花びらが舞うように言葉を落とす。
「要するに、君は幸せだと思う」
このどこが幸せなんだ、と言うように彼が目を見張った。矢久保は気にせず続ける。
「別れや、終わりはみんな等しく寂しい。君も、あの先輩も。だからこそ、その花は特別なんだ。そこに咲いている花はただの花でしかないけど、大事な人の手から最後に贈られた花は、たった一つの君だけの花になる。君が想像しても足りないくらいの想いがその花には詰まっている。唯一無二の花を君は贈ってもらったんだ。だから、大事にしてほしい。彼と過ごした時間も、そのナデシコの花も、忘れないために自分の都合のいい解釈をしてでも、大事に枯らしてほしい」
言いたいことをなんとか言い切った矢久保が満足げな顔をしている中、彼はなんとも煮え切らない顔で沈思していた。
どうやら伝わらなかったらしい。伝えることの難しさにはいつも苦戦する。それを今日もまた痛感し、矢久保は肩を落とした。
「お前……もしかして、慰めてんのか?」
煮え切らない顔のまま、恐る恐るというように訊ねられる。
矢久保はその問いに当然のように答えた。
「ずっと慰めているつもりだったけど……」
瞬間、彼が吹き出す。
「お前の慰め方特殊だな!」
続けて、ケタケタと笑う。
歯を見せて屈託なく笑う新たな一面を見たとき、彼に惹かれて声をかける人たちの気持ちが一瞬にしてわかった。
「ありがとな」
そう言って、今度は大人っぽい表情で朗らかに微笑みかけられる。
彼は、胸ポケットに収まったナデシコの花を愛おしそうに一瞥して、今度こそ去って行った。
この日、矢久保は花よりも美しいものを見た。
その記憶は色褪せることなく、綺麗なまま矢久保の記憶の中にずっととどまった。
*
入学式を終えて、早くも三か月が経った。
なのに、矢久保はいまだ彼に声をかけられずにいた。
体育館で彼を見つけたときの矢久保は、当然名前を知らなかった。
彼の名前が八城薫だと知ったのは入学式の翌日だった。だが、すでに全校生徒に八城の存在は知れ渡り、恐ろしいくらいに綺麗な美貌を一目見たい生徒で、八城のクラスは常に人集りができていた。
同クラスの生徒よりも先に覚えた名前なのに、安易に呼ぶことすら叶わない状況が何日も続いた。ほとぼりが冷めるまで声をかけるのを待っている間に、気づけば春は終わった。
ほとぼりは冷めたものの時間を置きすぎた結果、今度は、“俺が憶えていても八城は憶えていない”の自信喪失ゾーンに迷い込んでしまい、声をかけることに躊躇が芽生えた。
八城を遠くから見つける度に、どうしようかと悩み、そうこうしているうちに誰かが八城を見つけ落胆して肩を落とす。それを繰り返せば、だんだんと辟易する自分が現れ“もういいか”と諦めゾーンに入り、結果何もアクションを起こすことなく“話しかけない”に落ち着いたのだった。
放課後、矢久保は校門前の花壇の水やり作業に没頭していた。
八城と初めて会った農業科の高校は結局受けなかった。
普通科の進学校に行ってほしいという両親の要望を無視することはできず、普通科の高校から園芸部がある学校に絞り、さらに花壇が多い学校を選んだのがこの高校だった。
無事受験に合格し、当然のように矢久保は園芸部に所属した。入部してみれば、園芸部は三年生の部長一人しかいなかった。矢久保含めた新入生が二人入ったことで三人となったが、学校の原則として部員は六人以上が必須だと生徒手帳には記されてある。学校の規則に乗っとるなら、六人に満たしていない園芸部は即廃部だ。だが、花壇が多いこの学校に園芸部は必要不可欠な部活動ということで、正式に『廃部になることはない部活動』として鎮座していた。
最近梅雨が明けたことで夏特有の蒸し暑さが顔を出す。夜はまだ冷気を含んでいるが、日が照っている昼時は半袖でいても「暑い」とこぼすくらいの初夏だ。おかげで土は乾いていて、放課後の水やりが欠かせなくなる。
「こんなもんかな」
ちょうどいいくらいに土が湿ると、矢久保は水を止めた。
葉や花弁に残った滴が日差しに反射し、ガラスのようにキラキラと光っている。生き返ったな、と勝手に花の気持ちを代弁しながら枯れた葉を毟り取っていく。
地味な作業中、ふと花壇に人影が落ちた。
人影はユラユラと矢久保の周りをうろついたあと、矢久保の影に並んだ。二つの人影が仲良く並んでいる。
リン────。
その時、入学式ぶりに鈴の音が聞こえた。聞き覚えのある音が鼓膜の奥で余韻を轟かす。
思わず息を呑んだ。
「なあ、ナデシコって花、咲く?」
隣人を目視する前に問いが飛んでくる。
「ナデシコは植えてない。今年は部長がポピー一色にした」
「だから、似たような花が並んでるのか」
矢久保の耳のすぐ側で残念そうに声を発する。
「じゃあ、来年はナデシコを植えるようにお願いしてよ」
「……考えとく」
「おっ、やったね」
その声が明るく跳ねる。
それだけの会話を交わすと、少し大きい人影は用が済んだのかゆっくり立ち上がり花壇から離れて行く。
矢久保はその影を目で追い、追えなくなるほど遠くへ離れたところでようやく振り返って人影の正体を視界に入れた。
「ナデシコ」
そう、一語一語丁寧に口にした。あの時と同じように。
「おはようございます、部長」
「おはよう、矢久保くん」
矢久保の最近の一日は、園芸部部長への挨拶から始まる。
初夏ということで、暑くなる昼のために朝は必ず水やりを行うことに決まったのだ。
「市川くんは裏庭の花壇の水やりをやってもらっているから、矢久保くんは校門前の花壇に水やりお願いできるかな」
「もちろんです」
花壇は意外にもあちらこちらにあって、日当たり良好の場所だけ水やりをしていく。これが結構大変で、蛇口が近くにない場所はいちいち水を汲んで水やりしないといけない。
校門前の花壇はホースを伸ばせばギリギリ花壇の端まで届くので比較的楽な花壇だ。強いて面倒くさいのを挙げるとするなら伸ばしたホースを畳むことだ。
矢久保は校門前の花壇に到着すると、すぐにホースを伸ばして水やりをはじめる。
朝のHRがはじまる三十分前は、一番生徒が登校してくる時間帯になる。手を滑らせ危うく誰かを濡らすことがないよう、注意しながら手首を動かしたりホースの角度を調整したりする。
「ねえ、見た?」
「見た!ヤバい!」
「もうすぐ登校してくるよね」
「だね!ここで待ってようよ!」
そんな女子生徒のはしゃいだ声が耳に入る。
そういえば、今日はやけに騒がしい気がする。
いつもと変わらない日常なはずなのに、周りを見渡せばいつもよりも人が溢れていた。校門をくぐっても校舎内には入らない生徒が多く、気づけば校門前には人集りができていた。そのほとんどが女子生徒で、近くの女子生徒の会話の断片を盗み聞きしたところ、どうやら彼女たちは誰かを待っているようだ。その“誰か”が誰なのかまではハッキリと聞きとれなかった。
矢久保は何事かと花そっちのけで校門に目を向けていると、いつの間にか自分の足下付近にホースが移動していたことに気づかないで踏んでしまう。瞬間、足首をグニャと捻らせバランスを崩してしまう。その反動でホースが手から離れ、自制を失ったホースが足元で蛇のようにクネクネと一時暴れ回り、矢久保の足元を濡らした。
誰にも気づかれることなく小さな事故にてんやわんやしていると、彼女たちの待ち人が現れたのか女子生徒の黄色い歓声が校内に轟く。
靴だけでなく靴下まで濡れていることに気づき、テンションがダダ下がりの矢久保を嘲笑うように、女子たちの歓声はどんどん大きくなる。
誰かが泣いている裏で誰かが笑っている、というのはこういうことなのか。
「あーもう、うるさいな」
今だけは黄色の歓声が癪に障った。
一人で小さな悪態を吐きながら顔を上げると、校門前にできていた人集りはそのままの状態を維持し矢久保に近づいて来ていた。
本当に何事なのかと人集りを窺う。
その時、ピンク色がチラついた。気のせいかと目を凝らした先、群れの中心部では確かにピンク色を確認する。
唖然と見つめている矢久保のところにまで、「どいて」と声が届く。その声に女子生徒の大群は一斉に動きを止める。だが、突出したピンクだけは動きを止めず、群れの中心部から少しずつ離れ、やがて矢久保の前でピンクが姿を出す。
彼の一挙手一投足の動きがターニングポイントであるかのように、矢久保はピンクだけを目で追った。そして、あの日ぶりに目が合った。
「お前が言ったように、大事に枯らした」
一瞬何を言っているのかわからなかった。
だけど、すぐに思い出した。
────『彼と過ごした時間も、そのナデシコの花も、忘れないために自分の都合のいい解釈をしてでも、大事に枯らしてほしい』
矢久保が託した願いの行く先を、彼が教えてくれていることに。
「なら、よかった」
安堵の声を洩らすと、あの時の微笑みが返ってくる。
「よかった。憶えてくれていて」
その髪のインパクトは大きかった。それに、この顔立ちはそうそう忘れないだろうと矢久保は思った。
最初に出会ったピンクの髪色で、八城はまた矢久保の前に現れた。
純粋に嬉しかった。八城が自分なんかのことを憶えていたことにも、伝えた想いが八城にちゃんと届いていたことにも。
また、鈴の音が聴こえた。誰も鈴の音には気づいていない。もしかしたら、この音は自分にだけ聴こえる音なのかもしれない。
「おい!なんだその頭は!」
突如、ギョッとするほどの濁声が飛んでくる。声の正体を辿れば、鬼の形相で駆け寄ってくる生徒指導担当の教師が見えた。
八城があからさまな嫌な顔で「げえ」と吐いた。
その後、生徒指導の教師に首根っこを捕まれた状態で八城は連行されて行った。
例えば、小鳥の鳴き声とか、凛とした鈴の音とか、グラスの中の氷が傾く音とか、火が揺らぐ微かな音でもいい。何かしら音が鳴ったら、みんな忙しない足を止めて、花に目を向けてくれるはずだ。
「────これにて入学式を閉会いたします」
順々に流れていった入学式は、矢久保が意識を飛ばしている最中も順調に進んでいき、気づけば閉会の挨拶を終えた校長先生が壇上を下りていた。
「新入生退場」
司会の声が体育館に響き渡った。
各クラスの担任の号令で立ち上がり、前のクラスから順に退場していく。
今日は高校の入学式で、矢久保もこの新入生の一人である。
四月になっても寒さはしつこく残り、体育館の床の冷たさに靴下の意味もなさないほど足先は冷え切っていた。
やっと入学式が閉会し、退場を待つ後ろ番号のクラスはこれ見よがしに姿勢を崩しはじめる。背もたれに背中をつけたり、背筋を丸めたり、足を開いたり、髪の毛を触ったり、集中力が一気に堕落した新入生たちを矢久保は一番後ろのクラスから見ていた。
リン────。
その時、鈴のような澄んだ音が聞こえた気がした。たとえばその音は、花がひらく音のように美しい音色だった。
矢久保は反射的に顔を上げる。
「あっ」
思わず声を洩らすも、誰にも矢久保の声は届いていなかった。みんなただ一点を見つめ、氷漬けされたように固まっていた。
たくさんの視線の先には、花がいた。正確に言えば、花みたいに綺麗な人がいた。
新入生の道として敷かれた紺色のカーペットを堂々した顔つきで歩く一人の男子生徒に、みんなが釘付けになっていた。
「綺麗……」
隣の女子生徒がうっとりした声で呟く。独り言というよりかは、本人も気づかぬうちにこぼれたような本音に、思わず頷いてしまいそうになる。
それもそのはず、ここにいる人たち全員の視線を掻っ攫っていくほど、彼の容姿は優れていたのだ。
高い位置にある大きい窓からは日が差し込み、光芒がちょうどカーペットの位置に当たって光の道筋が出来上がっていた。その道は、あまりにも彼のための道のように先を導いていた。
くっきりした目は椿の映える赤のようで、よく見れば椿の葉のように目尻は鋭く伸びていた。存在感の薄い蕾のような小さい鼻は横顔で高さを見せつけてくるように花ひらく。唇は桜色をほんのり纏い血色がいい。日が沈んだ頃に存在感を放つ月見草のように、彼の黒い髪が白い肌を際立たせている。
彼を一つの花で例えるなら、儚い透明感のあるツユクサのようだ。
だが、矢久保の導き出した花より先に脳内に浮かんだのは、祖母の庭に咲くナデシコのピンクの花だった。
────“ナデシコ”
反芻すると、少し前の記憶の引き出しが開いた。
❀
去年の夏。ちょうど夏休みの時だった。
中学三年生の矢久保は七月下旬に行われる、高校見学会に参加していた。
まだ進学する高校を決めかねていた矢久保は、自分の希望に沿ったベストな高校を探している最中で、ナデシコの花を見たのは確か農業高校の見学会に参加した時だ。
矢久保は花好きの祖母の影響で幼い頃から花が好きだった。愛でることも、育てることも、生けることも好きな矢久保は、高校生活でも花に携わりたいと思っていた。
園芸部か華道部がある学校、その中でも花壇が多い学校を探していたところ、授業の一環として実際に花を育てている農業高校を見つけた。
色んな中学校から集まっていることもあり、高校見学会は矢久保が希望した日でも参加者はざっと百人ほどいた。
校舎内を回りやすいように十名グループに分けられ、数人は同じ学校の顔見知りだったが、残りは隣の市の中学校から来ている知らない人たちだった。他校の生徒は明らかに陽キャのような雰囲気を漂わせ、見学中も大して説明を聞く様子もなく、友達同士なのか移動中もじゃれ合って楽しそうにしていた。その中でもやたら目についたのはピンクの髪色をした男子だった。
ピンク頭の彼は比較的に大人しい方で、大声で笑ったり騒いだりすることもなく、髪色に似合わず一番常識があった。なのに、その奇抜な髪色のせいなのか、やたら視界の端にちらついていた。
それは矢久保だけではなく、同じ中学校の生徒も、校舎の案内をする在校生も、見学会の説明のため各科に在籍している在校生や教師も、彼をやたらと見ていた。じっと見る人もいれば、チラチラと盗み見る人もいて、また彼に声をかける人もいた。
でも、彼自身は気にも留めず、慣れたように視線や声をすべてフル無視していた。
無視するなら、そんな髪色に染めなきゃいいのに。
目立ちたくてその髪色にしているなら正解だが、その髪色にしておきながらその生意気な対応は矛盾していないだろうか。
矢久保は、彼の言動に疑問視しながら、校舎内を回っていた。
各科の説明も終盤に差し掛かった頃、矢久保の大本命である園芸科の敷地内に入った。園芸科に在籍する在校生は説明もそこそこにして、早速矢久保たちを校舎裏のビニールハウスに案内する。日当たり良好のその場所には大きいビニールハウスがいくつも並び、曇りガラスよりも濁ったビニールハウスからは鮮やかな黄色が薄らと見え隠れしている。
矢久保は当たり前に高揚していた。
ビニールハウスの中に入ると、夏の蒸し暑さが籠ったビニールハウス内はサウナ化状態にあり、見学者たちは声も憚らずに「暑すぎ」「しぬ」とだらしのない声を上げはじめる。
在校生は慣れているのか、ビニールハウス内で主な授業内容の説明をはじめる。だが、三分足らずで、さっきまで騒がしかった他校の彼らは暑さで黙り、シャツの袖で汗を拭ったり、手で扇いだりと、暑さ意外に考えられないといったフェーズに入ってしまう。
そんな見学者の中で、矢久保だけは目を光らせていた。
みんなが死んだ顔をして説明が早く終わるのを祈るように待っている中、矢久保は在校生の目をかいくぐって移動し、ビニールハウスで育てているものを見て回る。
夏のビニールハウス内は主に野菜中心で活用していくらしく、今このビニールハウスで咲いている花は切り花用の向日葵だけだった。咲いた花や収穫した野菜は年に一度高校実習の一環として手売り販売しているそうだ。
矢久保は少し小ぶりな向日葵を眺めるのに夢中になってしまい、ふと我に返った時にはビニールハウス内は誰一人としていなかった。
慌ててビニールハウスから出るが、当然同じグループのメンバーの姿はなかった。
見学者が一人いなくなったことに誰も気づかず、どうやらグループは先に進んでいってしまったらしい。
ついつい花を見ていると、時間も忘れ、意識もどこかへ飛ばしてしまう癖が矢久保にはあった。家族にも友達にも散々言われていることを、今日も気をつけることなくやらかしてしまった。
次に向かう教室もわからないし、グルグル回ったせいで体育館の場所もわからなくなった矢久保は、とりあえず校舎内に入ろうと迷いながら足を進める。
その時、曲がり角の先でピンクを見つけた。同じグループのピンク頭の彼だ。
慌てて追いかけると、角を曲がった先で彼が立ち止まっていた。他のメンバーはおらず、彼一人だけがそこに立ち尽くすようにいた。
「本当に別れるつもり?」
彼がそう誰かに話しかけた。
ただならぬ重い空気に、矢久保は反射的に身を隠す。
「ここに来て、迷惑だった?」
彼は矢久保の存在に気づくことなく、続けて問い質す。
さっきまでの生意気な態度とは裏腹に、盗み見る彼の半分の横顔からは哀愁を感じた。
「そんなことない」
彼の奥からまた一人、彼の質問に答える声が矢久保の耳にも届く。
その声に驚いた。
別れるという単語に咄嗟に連想したのは女子だったが、この声は紛れもなく男子だ。
悪いことだとは思いながらも盗み見ると、相手はどうやらこの高校の男子生徒のようで、指定の作業着と思われるポロシャツを着用し、右手には花が入ったバケツが見える。
「迷惑じゃないけど、今さら引き留めても俺の気持ちは変わらないから」
「勝手だろ」
「勝手でも、俺だってやりたい事はあるし、行きたい大学もある。今度こそ人のせいにせず自分の力で頑張ってみたいんだよ」
「そこに俺はいたらダメなのかよ」
「恋愛で自分の人生決めるなよ。お前も行きたい高校に行って、やりたいことをしろ」
「聡介がいない人生なんて無理」
「初めて付き合ったのが俺だからって、お前は俺に執着しすぎだ。もっと人に興味を持つんだ。絶対お前のこともっと理解してくれる奴がいるから」
切ない現場に居合わせてしまった。
おそらくピンク頭の彼の相手は三年生だ。受験、進路、遠距離は学生の恋愛の中で最大の敵だと、最近彼女と別れた幼馴染が言っていたのを矢久保は思い出していた。
「そんな顔すんな」
今では彼の元カレとなってしまった男子生徒は、バケツを地面に置くと、一番綺麗に咲いている花をバケツから一本手に取り、濡れた茎を服で軽くふき取った。そして、彼の正面に立ち、そのままキスできるくらいの至近距離まで寄ると、彼の胸ポケットにピンクの花を挿した。その花がナデシコだったのは、矢久保の位置からもなんとなく見えた。
「それ、ここまで会いに来てくれた餞別な」
「……花かよ」
「俺が一年の頃から毎年校門近くの花壇に咲く花だよ。今年は暑かったからダメになった。来週頃には切り戻しする。それが最後に咲いた花だ」
「勝手に摘んできたのか?」
「寂しいだろ、一人で咲くのは」
そう言う彼の顔も、花を貰ったピンク頭の彼も寂しそうな顔をしていた。
花を誰かに贈る行為は、必ず何かしらの意味が存在する。彼は、相手の想いを汲み取ることができるだろうか。
「お前、農業に興味ないだろ。もうここには来るなよ」
これ以上話すことはないと言うように背を向け、男子生徒は去っていく。
今度は彼も追いかけたりしなかった。だが、悄然した様子で立ち尽くしたまま動こうとはしない。
矢久保も彼のことが心配でその場から動けずにいた。
彼の表情を窺うと、唇を噛み必死で堪えている顔をしていた。かと思えば、項垂れるように俯いたり、不貞腐れたように地面を蹴ったり、顔を顰め怒ったりと表情をコロコロ変えた。でも、結局最後は泣きそうな顔で天を仰ぐのだ。
そうこうしているうちにどれくらいの時間が経っただろう。夏の日差しにジリジリと体力が削られるのを矢久保は感じていた。それでも動こうとしない彼のことを、もしかしたら自分が想像するよりも悲しみのどん底にいて、体が動けずにいるのかもしれないと危機感が脳内を走った。
気づくと、矢久保の体は先行して動いていた。勢いよく踏み込んだ足音に、彼が驚いた顔で振り返る。
「……誰だ、お前」
「ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだ」
めちゃくちゃ盗み聞きしていたが、あくまでもたまたま居合わせてしまったことを主張する。当然彼は訝しげに眉根を寄せ睨みつけてくる。
「盗み聞きするつもりなかったって、今までの会話ずっと聞いてたってことか?」
聞かれてもないことを最初に主張したことで、あっという間に墓穴を掘った矢久保は静かに彼から目を逸らす。
「偶然通りかかったならさっさと消えろよ」
矢久保の登場が、さらに彼の虫の居所を悪くさせてしまったようで、うんざりした顔で吐かれる。
悄然とする彼を慰めたいとか、寄り添ってあげたいとか、そういう感情に動かされて飛び出したのではなかった。ただ、その花を贈った彼の想いを考えて、良きものにしてほしいと思っただけだった。だが今は、第三者が口にできないほどに彼の心は荒んでいる。
放っておくほうが最善かもしれない。矢久保はそっと踵を返す。
「ちょっと待て」
一歩進んだところで、早々に引き留められた。
「この花の名前、知ってるか?」
胸ポケットに小さく収まったピンクの花を指さす。彼のピンク頭よりも少し濃い色をしたその花を、一語一語丁寧に口にした。
「ナデシコ」
その後につづいて彼が反芻する。そして「知らねえ花」と一瞬で興味をなくす。
ずっと力失くしたようにその場にしゃがみこんでいた彼がスッと立ち上がる。別れを必死で飲み込んだのか、表情は冷めていた。
彼が矢久保の横を通りすぎて立ち去ろうとするので「待って」と今度は矢久保が引き留めた。彼は首を傾げ、足を止めてくれる。
「ナデシコってたくさん種類があって、そのナデシコ属全部をまとめてダイアンサスって言うんだ」
「……へえ」
「だから、いろんなナデシコの苗売っている店とかは一括りにダイアンサスって表記したりする」
「……だからなんだよ」
要領を得ない矢久保の話に、さっきの苛立ちが彼の顔に戻ってくる。
「ダイアンサスは別名ピンクとも言われていて、ピンクの語源はダイアンサスのそのピンクからきている。彼はバケツの中に入っているいろんな花からその花を直感的に選んでいた。それほど、彼にとってピンクのイメージが君だったんだ。きっと彼は、この先ピンクを見つける度に君を思い出す。俺の憶測だけど、彼にとってのピンクの語源は君だってことをナデシコの花をとおして伝えたように思う」
言葉遊びをしているかのような矢久保の都合のいい言葉変換を聞いて、彼が自嘲するように笑みを吐き捨てた。
「都合よく考えすぎだろ。手元にあった適当な花を最後の別れとして贈っただけだ」
そうかもしれない。でも、都合のいい解釈は自分を守る盾にもなる。
「その場所で咲く意味や花の背景は、ほとんど人間の託け(かこつ)から生まれている」
「は?」
「ギリシャ神話に登場する人や神は、よく花となって弔われる。彼女は花になった、涙が落ちた場所に花が咲いた、死体に花が咲いた。花はただそこで何気なく咲いただけだろうに、自分のため大事な人のため人間のために咲いたような立ち位置に置かれ、今もなおその伝説は色褪せないまま花は生きている」
「お前、スピってんのか」
「スピリチュアル云々は、娯楽として楽しむだけで信じたりはしない」
言下に否定すれば、彼が面倒くさそうな顔で首を触りながら「だったら何が言いたいんだよ。結論から言えよ」と急かしてくる。
それでも矢久保は自分のペースを崩さない。雲が流れ、太陽が一瞬隠れた。そして、また何事もなかったかのように顔を出す。日差しがまたナデシコの花を暖かく包み込んだとき、矢久保は花びらが舞うように言葉を落とす。
「要するに、君は幸せだと思う」
このどこが幸せなんだ、と言うように彼が目を見張った。矢久保は気にせず続ける。
「別れや、終わりはみんな等しく寂しい。君も、あの先輩も。だからこそ、その花は特別なんだ。そこに咲いている花はただの花でしかないけど、大事な人の手から最後に贈られた花は、たった一つの君だけの花になる。君が想像しても足りないくらいの想いがその花には詰まっている。唯一無二の花を君は贈ってもらったんだ。だから、大事にしてほしい。彼と過ごした時間も、そのナデシコの花も、忘れないために自分の都合のいい解釈をしてでも、大事に枯らしてほしい」
言いたいことをなんとか言い切った矢久保が満足げな顔をしている中、彼はなんとも煮え切らない顔で沈思していた。
どうやら伝わらなかったらしい。伝えることの難しさにはいつも苦戦する。それを今日もまた痛感し、矢久保は肩を落とした。
「お前……もしかして、慰めてんのか?」
煮え切らない顔のまま、恐る恐るというように訊ねられる。
矢久保はその問いに当然のように答えた。
「ずっと慰めているつもりだったけど……」
瞬間、彼が吹き出す。
「お前の慰め方特殊だな!」
続けて、ケタケタと笑う。
歯を見せて屈託なく笑う新たな一面を見たとき、彼に惹かれて声をかける人たちの気持ちが一瞬にしてわかった。
「ありがとな」
そう言って、今度は大人っぽい表情で朗らかに微笑みかけられる。
彼は、胸ポケットに収まったナデシコの花を愛おしそうに一瞥して、今度こそ去って行った。
この日、矢久保は花よりも美しいものを見た。
その記憶は色褪せることなく、綺麗なまま矢久保の記憶の中にずっととどまった。
*
入学式を終えて、早くも三か月が経った。
なのに、矢久保はいまだ彼に声をかけられずにいた。
体育館で彼を見つけたときの矢久保は、当然名前を知らなかった。
彼の名前が八城薫だと知ったのは入学式の翌日だった。だが、すでに全校生徒に八城の存在は知れ渡り、恐ろしいくらいに綺麗な美貌を一目見たい生徒で、八城のクラスは常に人集りができていた。
同クラスの生徒よりも先に覚えた名前なのに、安易に呼ぶことすら叶わない状況が何日も続いた。ほとぼりが冷めるまで声をかけるのを待っている間に、気づけば春は終わった。
ほとぼりは冷めたものの時間を置きすぎた結果、今度は、“俺が憶えていても八城は憶えていない”の自信喪失ゾーンに迷い込んでしまい、声をかけることに躊躇が芽生えた。
八城を遠くから見つける度に、どうしようかと悩み、そうこうしているうちに誰かが八城を見つけ落胆して肩を落とす。それを繰り返せば、だんだんと辟易する自分が現れ“もういいか”と諦めゾーンに入り、結果何もアクションを起こすことなく“話しかけない”に落ち着いたのだった。
放課後、矢久保は校門前の花壇の水やり作業に没頭していた。
八城と初めて会った農業科の高校は結局受けなかった。
普通科の進学校に行ってほしいという両親の要望を無視することはできず、普通科の高校から園芸部がある学校に絞り、さらに花壇が多い学校を選んだのがこの高校だった。
無事受験に合格し、当然のように矢久保は園芸部に所属した。入部してみれば、園芸部は三年生の部長一人しかいなかった。矢久保含めた新入生が二人入ったことで三人となったが、学校の原則として部員は六人以上が必須だと生徒手帳には記されてある。学校の規則に乗っとるなら、六人に満たしていない園芸部は即廃部だ。だが、花壇が多いこの学校に園芸部は必要不可欠な部活動ということで、正式に『廃部になることはない部活動』として鎮座していた。
最近梅雨が明けたことで夏特有の蒸し暑さが顔を出す。夜はまだ冷気を含んでいるが、日が照っている昼時は半袖でいても「暑い」とこぼすくらいの初夏だ。おかげで土は乾いていて、放課後の水やりが欠かせなくなる。
「こんなもんかな」
ちょうどいいくらいに土が湿ると、矢久保は水を止めた。
葉や花弁に残った滴が日差しに反射し、ガラスのようにキラキラと光っている。生き返ったな、と勝手に花の気持ちを代弁しながら枯れた葉を毟り取っていく。
地味な作業中、ふと花壇に人影が落ちた。
人影はユラユラと矢久保の周りをうろついたあと、矢久保の影に並んだ。二つの人影が仲良く並んでいる。
リン────。
その時、入学式ぶりに鈴の音が聞こえた。聞き覚えのある音が鼓膜の奥で余韻を轟かす。
思わず息を呑んだ。
「なあ、ナデシコって花、咲く?」
隣人を目視する前に問いが飛んでくる。
「ナデシコは植えてない。今年は部長がポピー一色にした」
「だから、似たような花が並んでるのか」
矢久保の耳のすぐ側で残念そうに声を発する。
「じゃあ、来年はナデシコを植えるようにお願いしてよ」
「……考えとく」
「おっ、やったね」
その声が明るく跳ねる。
それだけの会話を交わすと、少し大きい人影は用が済んだのかゆっくり立ち上がり花壇から離れて行く。
矢久保はその影を目で追い、追えなくなるほど遠くへ離れたところでようやく振り返って人影の正体を視界に入れた。
「ナデシコ」
そう、一語一語丁寧に口にした。あの時と同じように。
「おはようございます、部長」
「おはよう、矢久保くん」
矢久保の最近の一日は、園芸部部長への挨拶から始まる。
初夏ということで、暑くなる昼のために朝は必ず水やりを行うことに決まったのだ。
「市川くんは裏庭の花壇の水やりをやってもらっているから、矢久保くんは校門前の花壇に水やりお願いできるかな」
「もちろんです」
花壇は意外にもあちらこちらにあって、日当たり良好の場所だけ水やりをしていく。これが結構大変で、蛇口が近くにない場所はいちいち水を汲んで水やりしないといけない。
校門前の花壇はホースを伸ばせばギリギリ花壇の端まで届くので比較的楽な花壇だ。強いて面倒くさいのを挙げるとするなら伸ばしたホースを畳むことだ。
矢久保は校門前の花壇に到着すると、すぐにホースを伸ばして水やりをはじめる。
朝のHRがはじまる三十分前は、一番生徒が登校してくる時間帯になる。手を滑らせ危うく誰かを濡らすことがないよう、注意しながら手首を動かしたりホースの角度を調整したりする。
「ねえ、見た?」
「見た!ヤバい!」
「もうすぐ登校してくるよね」
「だね!ここで待ってようよ!」
そんな女子生徒のはしゃいだ声が耳に入る。
そういえば、今日はやけに騒がしい気がする。
いつもと変わらない日常なはずなのに、周りを見渡せばいつもよりも人が溢れていた。校門をくぐっても校舎内には入らない生徒が多く、気づけば校門前には人集りができていた。そのほとんどが女子生徒で、近くの女子生徒の会話の断片を盗み聞きしたところ、どうやら彼女たちは誰かを待っているようだ。その“誰か”が誰なのかまではハッキリと聞きとれなかった。
矢久保は何事かと花そっちのけで校門に目を向けていると、いつの間にか自分の足下付近にホースが移動していたことに気づかないで踏んでしまう。瞬間、足首をグニャと捻らせバランスを崩してしまう。その反動でホースが手から離れ、自制を失ったホースが足元で蛇のようにクネクネと一時暴れ回り、矢久保の足元を濡らした。
誰にも気づかれることなく小さな事故にてんやわんやしていると、彼女たちの待ち人が現れたのか女子生徒の黄色い歓声が校内に轟く。
靴だけでなく靴下まで濡れていることに気づき、テンションがダダ下がりの矢久保を嘲笑うように、女子たちの歓声はどんどん大きくなる。
誰かが泣いている裏で誰かが笑っている、というのはこういうことなのか。
「あーもう、うるさいな」
今だけは黄色の歓声が癪に障った。
一人で小さな悪態を吐きながら顔を上げると、校門前にできていた人集りはそのままの状態を維持し矢久保に近づいて来ていた。
本当に何事なのかと人集りを窺う。
その時、ピンク色がチラついた。気のせいかと目を凝らした先、群れの中心部では確かにピンク色を確認する。
唖然と見つめている矢久保のところにまで、「どいて」と声が届く。その声に女子生徒の大群は一斉に動きを止める。だが、突出したピンクだけは動きを止めず、群れの中心部から少しずつ離れ、やがて矢久保の前でピンクが姿を出す。
彼の一挙手一投足の動きがターニングポイントであるかのように、矢久保はピンクだけを目で追った。そして、あの日ぶりに目が合った。
「お前が言ったように、大事に枯らした」
一瞬何を言っているのかわからなかった。
だけど、すぐに思い出した。
────『彼と過ごした時間も、そのナデシコの花も、忘れないために自分の都合のいい解釈をしてでも、大事に枯らしてほしい』
矢久保が託した願いの行く先を、彼が教えてくれていることに。
「なら、よかった」
安堵の声を洩らすと、あの時の微笑みが返ってくる。
「よかった。憶えてくれていて」
その髪のインパクトは大きかった。それに、この顔立ちはそうそう忘れないだろうと矢久保は思った。
最初に出会ったピンクの髪色で、八城はまた矢久保の前に現れた。
純粋に嬉しかった。八城が自分なんかのことを憶えていたことにも、伝えた想いが八城にちゃんと届いていたことにも。
また、鈴の音が聴こえた。誰も鈴の音には気づいていない。もしかしたら、この音は自分にだけ聴こえる音なのかもしれない。
「おい!なんだその頭は!」
突如、ギョッとするほどの濁声が飛んでくる。声の正体を辿れば、鬼の形相で駆け寄ってくる生徒指導担当の教師が見えた。
八城があからさまな嫌な顔で「げえ」と吐いた。
その後、生徒指導の教師に首根っこを捕まれた状態で八城は連行されて行った。

