一緒に水族館行こうと約束した一か月前。
そこから当たり前のように進展はなく、俺と匠は一定の距離を正しく守ったまま、着かず離れずという平行線を歩んでいた。
俺達のミスマッチな組み合わせも、日常に溶け込み、千葉や瀬尾から「なんで仲いいの?」と問いかけられる事も、もうない。
俺達は完全に自分の立ち位置に収まり、そしてそこから抜け出すような動きすら失ってしまっていた。辛うじて、挨拶だけはするけれど、深い関りはない。時折匠から何気ないメッセージが飛んでくることもあるけれど、会話は特に長く続くわけでもなかった。
『明日、体育外だっけ?』
『たぶん、そうだったと思うけど、どうして?』
『何となく気になっただけ』
会話は多くて二往復程度の、こんな取るに足らないやり取りだけが、スマートフォンの画面に収まっている。
でも――それがなんだか、昔から知っている、匠のようで、俺は好きだった。
口下手で、話すことが得意じゃないのは知っている。だからこそ、懸命にどうでも良い話のネタを探してきて、こうしてメッセージをくれているような気がするのだ。
長く続くように、話を拡げても良いけれど、俺にも怯えと言うものがある。
今は外見も中身も変わってしまった匠に対して、彼の心の中に、何パーセントの俺が残っているのか不安だった。それが好きなのか、ただ回顧を楽しんでいるだけなのか、そこがどうしても分からない。
未練があるというなら、水族館に誘ってくれてもいいのに、それもない。――男なんだから自分から行けよ、と自らの尻を叩く気持ちがないわけではないけれど、一度誘ってくれたなら、そこは匠に通してもらいたい気持ちもあった。
――いや、俺がただ匠の気持ちを試したいというところが、本音かもしれない。
「窮屈だ……」
「昼飯食い過ぎたか?」
「腹の話しじゃない」
気持ちの話しだ、と心の中でぼやいて、俺は机に伏せていた上体を起こし、窓の外へと視線を投げた。
六月上旬。季節は予定通りに梅雨を迎え、今日も朝から霧雨のような細かい雨が続いている。
深く垂れこめた濃い灰色の厚い雲からは、太陽の光は一切洩れず、遠くまで暗く街を包んでいた。
しっとりと窓ガラスを濡らす雨は、暫く止みそうにない。
「すっげ、マジかよ。さすが匠じゃん」
そんな声が教室の中からカラーボールが飛び出したようにぽんっと高く上がる。思わずそちらへと視線を向けると、匠の横に居た安井が、スマートフォンを片手にそれを周りの人に見せて回っている。
「いや、さすが。匠イケメンだしな」
「これあたし一緒に居たんだけど、やっぱなーって感じだった」
スマートフォンを覗き込んでいるメンバーが口々に呟き頷く中、匠本人は興味ないと言わんばかりに窓の外を眺めている。けれど、本人の意思に代わって、安井やその周りの友人たちは話を進めて盛り上がっているようだ。
何の話だろうと思いつつ、席を立ってまで聞きに行く勇気もそんな権利も、自分にはないように思えた。
「匠って顔は良いけど服が地味だから、この前一緒に行って選んであげたんだ。派手過ぎるとイカつ過ぎるじゃん? この位の柄よくない?」
そう言いながら、一台のスマートフォンを覗き込む数名が深く頷く。俺はどこか面白くない気持ちで、それを眺めていると、不意に匠の視線がこちらに流れてくる。
俺は慌てて視線を下げると、千葉たちへと顔を向けた。
「何騒いでんだろ」
「知らね。それよりこの前のアニメの続き。お前アレ見てる?」
瀬尾の話を早々に、千葉が別の話題へと話を切り替えようとしていた。俺はそれに少しほっとしながら、千葉に視線を向けると、
「凜」
と、名前を呼ばれた。
まずい、と思いながらもゆっくり振り返れば、そこには匠が少し困ったように眉を下げながら立っていた。どうして、こういう時俺のところに来ちゃうかな――と、迷惑と言うよりも、どう対応して良いか分からなくて、ただただ見上げるだけに留めて置くと、
「ちょっとい?」
と、教室の外へと誘われた。
「千葉、瀬尾ごめん。借りる」
「どうぞ~」
匠は俺の二の腕を掴むと、殆ど力任せのように引き上げて、足早に教室を出ようとする。
「匠どこ行くの~」
「便所」
うそつき。
俺は俺よりも背の高くなった広い背中を少し睨みつけながら、無言で匠の後ろを歩いた。教室の外の廊下には、昼休みのまったりとした安穏とした空気が流れている。外の天気が良かろうが悪かろうが、室内では何の関係もない。
「匠、どしたの?」
できる限り声色に感情が籠らないように、背中に声を投げてみる。丁度階段手前の曲がり角で立ち止まると、匠はこちらに向き直った。男子トイレは数メートル先に見えた。
「デートじゃないから」
唐突に切り出されて、一瞬思考が固まる。
「マジで俺服のセンスねーから、そういうの得意な奴に見てもらっただけで、デートじゃないから」
表情は殆ど変わらないのに、声音だけが上ずっている匠に、俺は黙って彼を見上げた。彼は俺に日本語が通じているのだろうかと言うような、眉を下げた表情で、見つめてくると、何かもどかしそうに軽い舌打ちをした。喉元に詰まっている言葉が、どうしても出て来ないと苛立っているようなその仕草に、胸の奥が甘く苦しい。
俺なんかの為に焦ってる? ――なんて、聞けないけれど、そんな気がして。
「凜も知ってるだろ? 俺がすんげ―地味な服しか選ばないの! 俺マジで白か黒か灰色だし、てか、それ以外選ぶ勇気ないし……!」
少し早口に捲し立てながら、けれどうまく自分の伝えたい事を言葉にできていない不安を憎むように、匠は声を詰まらせた。その姿が、少し情けなくも、とてもいじらしく見えてしまう。
「とりあえず、デートじゃないから」
別に俺達今付き合ってないだろう?
なんて、意地悪い事すら言ってしまう事が、躊躇われる程、あまりにも必死で、俺は彼に続く言葉を見つけられずにいた。
気にしてない、も自分の気持ちに反している気がするし、分った、と頷くのも何となく恥ずかしい。
アンバランスな俺と匠の組み合わせを横目で見て過ぎて行く、人の流れの中、俺は「あー……」と言葉を濁してから、匠を見上げる。
あの頃よりもぐっと背が伸びて、差が開いてしまった身長。それでも眼差しの奥にいる、匠は何一つ変わっていない。
それがくすぐったくて、口元が緩みそうになってしまう。
「……匠、服選ぶの苦手だったよな。そう言えば」
「そう。それで、色々アドバイス貰った」
「そっか、……そうなんだ」
曖昧な愛想笑いがぎこちなく、俺と匠の間に降りて歪な空気をかき混ぜる。匠は誤解を解きたくて、俺は誤魔化したくて、素直になれない感情が二つ交じり合いたいのに、混じり合えないまま、ぐるぐるとただ渦を描いてここにある。
でも、その微妙な距離感が、恥ずかしくて情けなくて、不格好だけれど、愛おしい気がする。
不意に予鈴が鳴り、昼休みの終了を告げてくる。
「やば、戻ろう」
そう顔を上げると、少し頬を赤くしている匠がこくりと幼く頷いた。俺はホラ早く、と彼の背中を押して、教室へと戻った。
「凜、マジで信じてる?」
「信じてるってば!」
教室へと流れ込む人波に紛れながら、俺は匠の背中で少し笑った。



