ポストスクリプト・ラブ



 駅前に着くと、殆どのグループが水族館を選択しているようだった。人の流れに従い進みながら、三人で配られたチケットを眺める。水族館なんて、久し振りで懐かしささえ感じてしまう。
駅を抜けて海岸沿いとなる大通りに出ると、広大な海のなだらかな湾曲が見えた。道幅の広い歩道を歩いていると、海の表面を滑ってきた潮風が優しく頬を抜けていく。顔を上げると視界は広く眩しい。何となしに真っ直ぐと前を見れば、数メートル先に匠のいるグループが目に留まった。
 相変わらず騒がしいけれど、その中でも匠の周りだけが何故かひっそりとしているように感じられる。別に仲間外れにされて、孤立しているわけではない。ただ、彼を覆う薄いベールのようなものが、彼の周囲を取り囲んでいるように見えて、彼だけがどこか涼し気で存在が静かに際立っているのだ。匠だけが、目に映る世界のなかで、一番色濃く浮き上がっているような、そんな気配がある。なんて、――これが、恋愛フィルダーだろうか。
 自分で自分が恥ずかしいと叱咤しながら、彼から視線を外した。
「なあなあ、なんかフードも充実してるっぽい!」
「千葉、まだ食うのかよ」
 昼食の中華が食べ放題とは言え、点心を一人で五人前は平らげていた千葉に、瀬尾は半ば呆れ気味な顔を見せた。一方の千葉はけろりとした表情で、何か変か? と首を傾げている。
「痩せの大食い?」
 俺がそう言うと、千葉は首を捻ってから、
「かも、普通にラーメンとか三杯じゃないと気が済まねえし」
 と呟いた。基本がラーメン三人前で、それ以下はおやつにならないと言う千葉に、瀬尾は目を丸くした。
「マジかよ」
「俺ん家、大体みんなそう」
「すげえ……」
 瀬尾と一緒に感心していると、駅から近場にある背の高い水族館の建物前まで着ていた。海がより近くなったせいか、一層風が強く身体をすり抜けていく。五月とは思えない強い日差しに目を細めて、大きな屋根の下に逃げ込めば、上がった体温が幾分か和らいだ。
同じ学生服を着た高校生の集団で入口は混雑していてはいるものの、流れ自体は早く、すんなりと館内へと逃げ込む事ができた。
 丁度いい冷たさの空調が顔に当たり、瞬きをすると、不意に目の前に、大きなガラス張りが広がった。その向こう側には、清々しいほどの広大な海が、地球の形に添うような円を描きながら息を潜めている。上波の滑らかな曲線の上を、太陽の光が滑り煌めている。打ち寄せる波は穏やかで、海岸沿いを歩いているカップルや家族連れ、子どものはしゃぐ様な姿が見えた。
 思わずガラス窓前に立ち止まり、久し振りに見る海に思考を奪われていると、
「行くぞー」
 と、瀬尾に呼ばれて、館内へと急ぐ。海なんて久し振りだと思いながら、二人の背中に追いつくと、不意に動物の鳴くような声が聞こえて、犬か? 耳を澄ませる。
「え、犬?」
「アシカ?」
 そうか、犬じゃない、アシカ。確かにこの水族館にはアシカがいると書いてあったと思い出した。
 薄暗い館内へと足を踏み入れると、ぐっと空気が濃密になったような重さと、水の匂いが鼻腔を通り、肺の中に入ってきた。別に潜っているわけではないけれど、水族館にはそういう独特な雰囲気がある。
「お、すっげえ」
 大きな水槽には種類豊かな魚たちが、自由に泳ぎ回っている姿があった。天井の低い、多少圧迫された空間の中、幼い子どもがはしゃぎ、母親の手を離れて走り出しているのが見える。俺は二人の隣に並んで、水槽に近づくと、名前も知らない魚の群れを眺めた。
 一つ一つ形がまるで違う。
 尾びれを優雅にひらめかせるものもいれば、慌ただしくばたつかせているもの、岩場に隠れてじっとしているものもいる。
 ひんやりとした館内に身体を癒されながら、ゆっくりと混雑した館内を歩いて行く。壁にはいくつもの小さな水槽がはめ込まれ、種類ごとに展示されており、それぞれを覗き込めば、様々な特徴を持った魚が、水槽の中を自由に泳ぎ回っている。
「な、あっちも行こうぜ。餌やりしてるっぽい」
 少し距離を置いた、大水槽前からのアナウンスを耳にして、千葉が子どものように急ぎ足で歩いて行く。俺と瀬尾はそれを追いかけるような形で付ていくと、彼の言う通り、大きな高さの大水槽の中には、ウォータースーツを着込んだダイバーが、ゆったりと水槽の中で魚たちと戯れており、それを説明する男性のアナウンスが響いていた。水槽最前列には小さな子どもが並び、同じ制服の人達は遠めから水槽の中を眺めていた。
「でっけぇ~」
 子どものように目を輝かせながら、千葉が感嘆を漏らす。俺は水槽の奥の方に見える小魚の大群や、手前でじっとしているサメの姿を眺めながら、子どもの頃を思い出していた。
 小さい頃、何かの拍子であの巨大が水槽が割れて、水が溢れ出して、サメが自分を飲み込んでしまうんじゃないかと、純粋に恐れていた頃があった。だから水槽には近づけなかった幼さが、小さな羞恥心と一緒に浮いては、滲み消えていく。
「餌やりしてる! 前の方行こうよ!」
 不意に騒がしい声が聞こえると同時に、甘い香りが肩越しにふわりと抜けていく。同じ制服を着た見覚えのある女子二人組が、急ぎ足で子どもたちに混ざって行くのが見えた。
「小魚がああいうふうに群れてるとさ、なんか別の生き物に見えない?」
 少し高い位置から声がして顔を上げると、隣にはいつの間にか匠が立っていた。最前列へと向かった女の子達を見れば、やはりいつも匠とつるんでいる女子二人組だ。
「凜、クラゲのブース見てきた?」
「まだ、もう見たの?」
「そこが目当てだったみたいだからソッコー行ったよ。何枚も写真撮られた」
 少しうんざりしながら匠がぼやく。
「思い出で来たからいいじゃん」
「まあ、思い出な。……うん、そうなんかも」
 納得しているような、自身を納得させているような曖昧な頷きに、俺は少しだけ笑った。あの頃の匠なら絶対に写真なんかには映らないと断固拒否を貫いていただろう。けれど、離れている間に、いくらか柔らかくなった気がする。人との距離感にいつも緊張感を抱いているような節があったけれど、それもないし、他人を必要以上に寄せつけないような棘も抜けた。俺よりも周りの冗談の空気も読めるようになって、……まるで、違う人みたいだ。
 けれど、不意に見せる昔から変わる事のない仕草や眼差し、声が、どうしても俺の心を掴んで離さない。
 ――匠は、今俺の事、どう思っているだろう。
 あの頃、離れた時のことをどう思っているのだろう。どうして、手を離したんだろう。
 外見も中身も成長した今、過去の気持ちはどのくらい残っているのだろうか。
 そんな事を考えながら、大水槽を眺める。
「凜、この水族館も今度一緒に来よ」
 何の前触れもなくそう誘われて、匠へと顔を向けると、心臓をぎゅうっと締め付けるみたいな、真剣な眼差しがこちらを見ていた。
 けれど、その瞳の奥がほんのわずかに揺れてる。臆病な彼が、まだその眼差しの奥にいる。中学二年の冬に見た、あの時の弱さが俺の胸の内を揺さぶった。
「うん、いいね。江の島も一緒に回ろうか」
 そう答えると、彼の身体から力が抜けていくのが分かった。匠は「ん」と頷くと、俺の傍からまた自分のグループへと合流していく。
 俺はそれを眺めながら、もしかして、匠の中にもあの頃のままの俺が、まだ住んでいるのかもしれないなんて、思ってしまう。向けられた眼差しが、あまりにも真剣だったから……。
「なあ、本当にお前等なんなの?」
 声がする方へと振り返ると、全く意味が分からないという顔で、千葉と瀬尾が俺を凝視していた。俺はそれに曖昧な苦笑いを浮かべると、
「まあ、いろいろなんだよ」
 と笑って誤魔化した。