黒猫魔王の食卓

 小料理屋の大将を乗せたあと、コンビニに寄り、タッチパネルの「離れ」を押した。これは配車室への意思表示で、トイレに行っているから配車は受けれないという意味だ。私にとってそれは建前にすぎない。いつも煙草休憩のために押している。明朝まで悠久の時間がある。今日も平日だが、昨日と違って小雨が降っている。店舗外に設置されている喫煙所で三本ほど煙草を吸った。その間にタクシーや代行サービスの車が何台か目の前を通って行った。こんな日でも酒を飲みに行くのはゴミがすることだ。まだ駅に戻る時じゃないと思い、もう一本煙草に火を付けた。
 空にゆらゆら昇っていく紫煙を眺めていたら、我が社のタクシーが私の車の横に停車した。まずいと感じて身を隠そうとしたが、車番でヒナタの車だとわかった。
「よう、ケンサク。サボり中か?」
「まあな。僕らの仕事は三時からが本番だからな」
「五時ごろベロンベロンに酔ったゴミが乗ってきそうな気がするわ」
「ありそうだわー。それは乗車拒否だ。僕らゴミ清掃車じゃねえからな」
 ヒナタは煙草を取り出すと、にやにやと私の顔を見て「俺は六本走った」と、さも働いているかのような口ぶりで話した。私は鼻から煙を出し、「僕は三本だ」と答えた。ヒナタは二本目に乗せた若い女性が美人だったらしく、「いいねえちゃんだったなあ」と何度も口にした。そのうち、「俺としたことが名刺渡すのを忘れた。くっそ!」と口走ると、半分以上も煙草を残して車に乗った。そして、窓から顔を出し、「明後日、市役所に朝七時集合だぞ!」と手を振って走り去った。私はヒナタの残した吸い殻に火を付けて、またプカリプカリとやりだした。吸い口に唾液がべっとり付いていて気持ち悪かったが、根元まで吸い切った。
 そうこうしているうちに四〇分が過ぎていた。私は無駄に時間を浪費しているわけではなかった。平日で唯一の固定客であるカナタさんからの連絡を待っていた。彼は亜細亜市から宇和島市の家に帰る。売り上げ一発逆転の切り札だ。今日は十一時に店を出ると事前に連絡があった。しかし、あと三〇分も怠けているわけにはいかない。車に戻り、「離れ」を解除した。その直後、個別無線の呼び出し音が鳴った。嫌な予感がした。恐る恐るマイクに手をかけた。
『一〇七、一〇七、よろしいでしょうか?』
 今日の配車係は誰だったか。丁寧な口調に戦慄しつつ、「一〇七、大丈夫です。何でしょうか?」と応じた。
『亜細亜二丁目の「ビエンベニード」さんに向かってください。地図は出しておきます』
 そんな店はないはずだと思ったが、仕事をしないわけにもいかず、「一〇七、了解」と返した。まもなく、配車指示がタッチパネルに表示された。続けて表示された地図を見るかぎり、店は実在するようだった。
 同店は最近できたスナックらしかった。しばらく待っていると店の従業員に抱えられた金髪の男が千鳥足で歩いてきた。粗野な感じで、どう見てもゴミだった。年齢は三〇歳ぐらいだろうか。彼は泥酔していたので、従業員が「西予市宇和まで」と代弁した。カナタさんとの約束もあり、男は泥酔状態だったため、断ろうかと思ったが、配車室が了としてしまった以上は従うほかなかった。
 男は乗車すると、すぐに横になった。眠られるとまずいので、念のため、「お客様、西予市宇和でよろしいでしょうか?」と訊ねた。「うーん」とつぶやいたので、意識はあるようだった。これは急がないといけないと判断し、深夜でも信号が通常に点灯する幹線道路を避け、黄色点滅で最短距離の道を走った。
西予市宇和は広い。私は、「どのあたりでしょうか?」と訊いた。すると、かすかな声で「まっすぐ上がってロータリーを左」と聞こえた。次の指示を仰ぐと「突き当り右」と答えた。今にも寝てしまいそうな声だった。再度、「どのあたりでしょうか?」と訊いた。返事はなかった。男は眠ってしまっていた。「お客様、西予市宇和で間違いないですね?」と大声で呼びかけた。彼は一瞬だけ気を取り戻したが、「わからん」と言ってまた眠ってしまった。この時点で料金メーターを止めた。目を覚まして運賃の高さに激昂した彼が何をするかわからないからだ。
 十一時になった。カナタさんは時間通りに架電してきた。私は現状を伝え、何度も何度も詫びた。カナタさんは、優しい口調で「そりゃ仕方ないよ。また次に頼むからね」と言ってくれた。が、もう次はないと思って、しばらく何も考えることができなかった。
 男が乗車してから一時間が過ぎた。いちど配車室に連絡を入れることにした。
「一〇七、客が家わからなくなってます。メーターは止めました。何とか起こしてみます」
『一〇七、了解しました』
 このまま男が起きなければ、泥酔者を保護するため、彼を交番に連れて行かないといけない。それは彼のためでもあるが、いささか気の毒に思えた。私は道の広い場所に車を停め、彼を起こそうと必死に呼びかけた。
「お客さん、このままだと交番行かないといけませんよ!」「すみません、起きてください! 交番行かないといけない!」「おまえはゴミだから料金いらん! 起きろ!」
 私はあきらめてはなるまいと、およそ一時間半にわたって体も揺すって繰り返し呼びかけたが、ついぞ男は目覚めなかった。憔悴した私は配車室に報告した。交番に行くよう指示が出た。
 最寄りの交番に行くと、すぐに警察官が現れた。私はこれまでの経緯を説明した。警察官が男を車から降ろそうとすると、さっきまで眠り込んでいた彼が急に目を覚まして暴れだした。彼は何か大声を発しながら、隣に駐車してあったパトカーにタクシーのドアをガンガンとぶつけた。警察官は応援要請した。ものの数分でパトカーが二台到着した。彼は警察官らにしっかりと体を抑えられながら、引きずられるように連行された。その際、彼に手錠がかけられたかは覚えていない。だが、まぎれもなく現行犯逮捕だった。
 詳しいことはよくわからないが、その後、私は現行犯逮捕の証人か何かで交番に残ることになった。警察官から「刑事が来るので待っていてください」と言われた。刑事の到着まで随分と待たされた。刑事は到着すると、さもありなんと書類の山から一枚を引き抜いた。何の証言がほしいのか定かではなかったが、様々なことを訊いてきた。調書か何かわからないが、刑事は手書きだった。それも何か定型文があるようで、その型通りに書くために私の回答を誘導している節があった。
 そのうち、会社の所長がやって来た。所長が来てからも刑事の文書作成は続いた。私はなぜパソコンを使わないのかと、若干イライラしていた。この刑事もゴミだと念じて心を落ち着かせた。
 何時間が経過したかわからないが、ようやく刑事の質問攻めから解放された。交番の外に出ると夜が明けていた。所長はタクシーのドアとパトカーを確認しながら、「実は後ろの左ドア交換しようと思ってたけど、金かからなくて済みそうだね」と微笑んだ。私は疲弊していて作り笑いすらできなかった。所長は、「明日は公休でしょ? 明後日も公休にしたから、しっかり休んでね」と言って去った。
 車庫に戻ると、同僚たちから労いの言葉をたくさんかけられた。疲れ果てていた私は返事もそこそこに、昨晩から今朝にかけて苦楽をともにした一〇七号車をぼんやりと見つめていた。そのうち、車内から個別無線呼び出し音が鳴っているのに気づいた。くたびれているとはいえ、エンジンを切っていなかったのかと自分でも呆れた。
「一〇七、すみません。閉局します」
『一〇七、了解。……がんばったな』
 エンジンを切った。涙が出そうになった。感情が収まるのを待ってから車外に出た。込み上げる気持ちが溢れるのを同僚に見られるのが嫌だったので、足早に会社の駐車場に向かった。
帰宅後、「帰ったよ。疲れた」とミオリに声をかけた。彼女はスマホの画面から顔を上げると、「え?」と言った。私は部屋の壁を叩いた。予想以上にこぶしが痛み、小指の周辺がじわじわと熱を帯びてきた。
「今までで一番腹が立ったわ」
「ごめーん。だって音楽聴いてたんだもん」
「今日はゴミを一匹かたづけたよ。僕は英雄だ」
 ミオリは怒鳴られるのを恐れているのか、何も言わなかった。疲労もあるだろうが、やたらと感情の起伏が激しかった。思い返せば、昨日は抗不安薬を飲んでいなかった。
「ノンアルコールビールを買ってきてくれ」
「それってコーラでしょ?」
「ちげえよ! 何で知らねえんだよ! もうコーラでも何でもいいから炭酸飲料を買ってくれ」
 わかったあと言ってミオリはメモを始めた。たったこれだけのことが覚えられないのかと怒りが湧出してきた。ミオリが出ていくと布団に横になった。ミオリの抗不安薬を飲もうと思った。自分の薬の節約になるし、ミオリは譲渡したわけではなく、盗まれたのだから問題ない。ミオリの私物が固まっている場所に腰を下ろして薬を探した。スーパーのビニール袋から漢方薬が透けて見えたので中を覗いた。ガサゴソ探したが、なかなか見つからない。私は、さながらゴミ漁りをしているゴミだった。